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6月 愛の形(1)

――side: 深川シズカ


 暖かい日射しが降ってきて、庭はふっくらと豊かに満たされていた。土のにおいと花の澄んだ香りを胸いっぱいに吸い込むと、まるでわたしも庭の一部になったような気がした。そう感じられるときが一番幸せだった。

 わたしは刃先がゆるく曲がった剪定ばさみを手に持ち、薔薇の枝をちょんちょんと切って回っていた。多くの薔薇は返り咲きをする。だから咲き終わった花を切り落としておけば、実に養分を奪われることなく次の花がきれいに咲いてくれるのだ。一季咲きの品種は秋に赤い実をつけてくれるのを楽しみに花がらを残しておくこともある。しかしそういうのは例外だった。

「あ、それも切っちゃうのか」

 惜しそうに橙花先輩が呟いた。わたしはうなずいてジャック・カルティエにはさみを入れた。

「この花は枝の中間で切ると次の花がつきやすいんです」

「でもまだきれいなのに」

「早めに切るべきなんです。実をつけさせてからでは遅いので。それに雨が降ると花がらが腐って病気の原因になったり葉を傷めたりするので、咲き終わりで切るくらいがちょうどいいんですよ」

 ちょきん、とはさみを動かすと、白まじりのペールピンクの花が落ちて転がった。

「……思い切りがいいよな。そんなに大事に育てて、そんなに簡単に切っちゃえるんだからな」

 そう言われて少し困った。

「花は花です、先輩。花だけが薔薇じゃありません。たとえばきれいな長い髪の女性が恋人だとして、その女性が傷んできた髪を切ったらどうですか?」

「残念だなあと思うけど」

「髪はまた伸びますし、美しい姿を保つのに必要なことだったとは思いませんか?」

「それでもだよ」

「じゃあ、愛情は変わりますか?」

 わたしは手元から橙花先輩に視線を移した。先輩はたじろいだように息を詰め、それから首を左右に振った。

「……いや」

 橙花先輩は地面に落ちたジャック・カルティエの枝を拾い上げて小さく苦笑した。

「それを訊かれたらもう何も言えないだろ。いや別に何か意見したかったわけでもないけどさ。シズカちゃんの言う通りだよ。髪くらいじゃ何も変わらない」

「よい花はよい木につきます。花ばかりを見ていたらいろいろなものを見落とします」

 橙花先輩の顔にわたしの心をとらえて離さない天使の微笑みが浮かんだ。

「シズカちゃんは本当に薔薇が好きなんだな」

「はい」


 先輩はわたしの後ろをついて歩くのをやめ、ちょっと話があるんだけど、と言って定位置となっているいつものベンチに腰をかけ、わたしを横に座らせた。

「あのさあ、キョウスケが機嫌を損ねてたんだけど、どうしてかわかる? 修学旅行から帰って来た途端だぜ?」

「え? ああはい。でもあれは……」

 赤葉先輩のあの怒りようを考えれば、機嫌を損ねていた、とはとても控え目な表現だった。

「先輩は山本マサキという男をご存知でしょうか?」

「青いマ○ラッティ男だろ? で、キョウスケを殴って逮捕された男のひとり」

 わたしはうなずいて言った。

「再逮捕されたんです」

 先輩はわずかに目を見開いて、不可解そうに首をかしげた。

「……なんでそいつが逮捕されてキョウスケが怒るんだ? 喜ぶんじゃないのか?」

 とても喜べやしない。

「新たに被害届が出されたんです。それが今回の逮捕につながりました」

「どういうこと?」

 わたしは答えようとして、そのたびにためらいが口をふさいだ。言いたくなかった。これが公にされる事実でなければ絶対に口など開かないのに、と考えて、自嘲した。

(もう遅いのに)

 事が起こったあとでは名誉などどうして守られるだろうか?

 わたしは辛抱強く待っていてくださっている先輩のために、否定したい事実を無理やり言葉にした。

「春風ミユウさんが被害にあっていたんです。監禁および強姦未遂で……」

 そこから先は、喉がひきつってどうしても声にならなかった。

「嘘だろ……本当に?」

 涙がじわじわと溢れ出してきて、うなずくだけで精いっぱいだった。視界がぼやけて膝に水滴がぱたぱたと落ちた。あわてて手で顔を隠し、ポケットにハンカチを探したけれど、制服ではなく作業着だったのでみつからなかった。察した橙花先輩がご自分のハンカチを差し出してくださった。

「ありがとうございます……」

 先輩は黙って、背中をなだめるように何度か撫でてくださった。

(つらいのはわたしじゃないのに)

 そう思うのに涙は止まらず、一層胸は苦しかった。

 もしここにミユウがいたなら絶対に泣いたりしなかった。ミユウが明るくふるまっている横で泣くなんてできるわけがない。実際にわたしたちがやったように、加害者への怒りをあらわにし、一緒に帰ろうと提案し、寄り添っているだけだ。

 ユウコとふたりだけになっても泣かなかった。ユウコはくちびるを噛みしめて、こう言った。

「何もできない自分が嫌になる。山本にもすごい腹が立ってる。でもこんなときにピーピー泣くなんて自己陶酔の極みよね。自分がそんな馬鹿女じゃないってわかってほっとした。最低の気分よ」

 だから大丈夫だと思っていた。

(どうして)

 涙を抑えようとしてもだめだった。ミユウが被害にあっていたことを知って自分がどれだけ傷ついたのかを、今やっと気づいていた。普段通りに過ごそうとユウコと決めたはずなのに、ちょっとでも話題に触れるとこんな風にショックをさらしてしまう。

「シズカちゃんもつらいよな」

 優しい慰めも受け取ることができない。優しさが必要なのはわたしではない。

(わたしに資格なんてない)

 事件が解決しなければしないでもいいと思っていた。どこかに山本に利用されていた女性たちを軽んじる気持ちがあった。山本は教養があるといえる人間ではないし、もちろん善なる人間性を備えてもいない。なぜそんな男が近づくことを許したのか? なぜあっさり騙されてしまったのか? なぜ相手が欲しているのが女との性行為や金銭でしかないとわからないほど愚かになれたのか? 加賀見先輩から話を引き出しているとき、事件についての資料を読みこんでいるとき、これらのことを訊きたくてたまらなくなることがあった。そんな冷酷なことはとても訊けはしなかったけれど。

 赤葉先輩もわたしと同じように思っていた。赤葉先輩は率直な方だからはっきりと彼女たちを馬鹿だと言った。同意しなかったわたしを、けれど赤葉先輩はちゃんと見透かしていた。だから自分のための理由を見つけて行動しろと言ったのだ。

(恥ずかしい)

 わたしは知らなかった。加害者が何の咎めも受けず自由でいる一分一秒が、被害者にとって苦痛の一分一秒であることを。ミユウがつらい告白をしてくれるまで、想像しようとしたこともなかった。被害者の中にはミユウのように強引に関係を迫られた人もいたかもしれなかったのに。ミユウがどんな気持ちで山本たちとは無関係だとわたしとユウコに言ったのかを考えると、たまらなかった。ミユウも赤葉先輩と同じように、わたしの外面だけよくて実際は思いやりが少ないのを見透かしていたのかもしれない。

 わたしが落ち着いてきたのを見計らって、橙花先輩はなだめるように言った。

「未遂だった。そうだろ?」

「……既遂よりましだったというだけじゃないですか」

 嗚咽をこらえて言った。

 ミユウは6月の下旬に、もう新しい制服を注文して受け取っていた。本人は前のものはクリーニングに失敗したのだと言っていた。今から思えば、あれは男たちに破られたか汚されたかするような目にあっていたからだ。それなのにわたしはミユウの言い訳を鵜呑みにしていた。

「それに、赤葉先輩は、強姦未遂にはならないだろうって……強制わいせつ程度の罪になるだろうっておっしゃっていました」

「それは悔しいだろうな。でもさ、シズカちゃん。気にするなとは言えないけど、あんまり自分を責めるなよ。悪いのは山本であってシズカちゃんじゃない。何ができたわけでもないだろ。今はミユウちゃんのために何をしてあげられるのかを考えるときだ」

「わたし……」

『強くなりたい』

 それが嘘偽りない、心底からの望みだった。大切な人や物を守れるくらい強くなりたい。二度とこんな風に傷つけられたくない。近くで、すごいなあ、と見上げているだけではいけなかった。前までは一緒にいられるだけで幸せだったけれど、今やそれだけでは全然十分ではなかった。

(ミユウはわたしと一緒にいてどうなんだろう?)

 初めてそんな問いが心に生まれていた。訊いてみたいけれど、訊くのが怖かった。ミユウはわたしにもユウコにもどんな弱いところも見せてくれない。それが彼女のやり方ならそれでもいいけれど、言っても無駄だと思われているのならこんなに情けないことはない。

 わたしはミユウから彼女が事件をどう決着させたかを聞かされたときから続いている胸の痛みをぎゅっと抱きしめた。

「強くなりたい」

 吐息にまぎれるような呟きが口から滑り落ちたとき、ミユウは首を横に振り、わたしを押しとどめるようにして言った。

「いいんだよ、シズカはそのままで。内気で、優しくて、薔薇が大好きで。わたしのためにシズカが変わる必要なんてないよ。だからいきなりムエタイとかレスリングとか始めたりしないでね。わたし、唐突なキャラぶれって許せないたちなんだよね」

 わたしはこの言葉をどう受け止めればいいのかわからないままでいる。


「何か、ここで楽しいことでもする? お茶会とかさ。気分を変えよう。シズカちゃんたちに必要なのはそういうことじゃないか?」

 橙花先輩は指先でジャック・カルティエの開花枝をくるくると回しながら、明るく言った。こういう提案はいかにも先輩らしかった。わたしはハンカチを目に押し当てたまま、なんとか微笑んでうなずいた。

「いいですね、お茶会。楽しそうです」

「だろ。ミユウちゃんとユウコちゃんを招待してさ、おいしい紅茶を飲んで、甘いものを食べて、きれいな花を見ながらおしゃべりして、今日は楽しかったねって言いながら帰るんだ。勉強のこととか事件のこととか、つまんないことは何でもそのへんにぽーんと放っといてさ」

「はい」

「オレが準備やるよ。おいしい紅茶もお菓子も当てがあるんだ。シズカちゃんは楽しむ側に回るといい」

「そんな、悪いです! わたしがやります」

「こういうのは言いだしっぺがやるもんなんだよ。それに、オレ、こういう準備って好きなんだよな」

 任せといて、と胸を張って先輩が言うので、わたしもとうとう、お願いします、と頭を下げることになった。

 それから、橙花先輩はお茶会のわくわくするような計画を話すことでわたしを元気づけようとしてくださった。お茶の好みを訊かれて答えたり最近話題の洋菓子店についておしゃべりしたりしているあいだに気がついたら涙が引っ込んでいて、代わりに自然と笑みがこぼれるようになっていた。

(橙花先輩ってすごい。やっぱり天使なのかも)

 寒々としていた心の中にやわらかい光が灯ったような気がした。

(ミユウの彼氏にはこういう方がいいな)

 彼氏が甘えさせ上手な橙花先輩ならばミユウも楽になるのでは、と考えて、そこでふと自分に戸惑いを覚えた。

(気が早いし、わたしがあれこれ思いめぐらすことでもないのに)

 それでも先輩と一緒にいたらミユウも明るい気分でいられるだろうと思えた。


 日が暮れかけ、足元の影が長くなって、ようようわたしはベンチから立ちあがった。暗くなってしまえば庭いじりはできない。時間はいくらあっても足りないのだから、これからできるだけの分でもやってしまおうと思っていた。でも手はいつものように動かず、時折ぼうっとしてしまった。そんなわたしのようすは橙花先輩にもばれてしまっていた。

「何か考えてる?」

 心配そうな声に大丈夫だと微笑みを返し、なかなか集中できなくて持て余した剪定ばさみを意味なく開閉させながら答えた。

「……今回の事件の被害者のことです。これからどうなるんだろうと思って。何かしてさしあげられることがないかと考えていました」

 部長の加賀見先輩は今日も学校に来なかったと聞いた。彼女が山本の逮捕の報を知ってどんな思いでいるのか、橙花先輩のおかげでようやく気にかける余裕ができてきていた。

 目についた弱小枝を刃先ではさみ、ぱちんと切り落とした。

「わたし、好きな人のためにできることなら何でもしてあげたいっていう気持ち、たぶんわかります。他人から理解されなくたってかまわないっていう気持ちも」

「何でも?」

「はい、何でもです。いくら時間を割いても、いくらお金を使っても惜しくないんです。これが好きという気持ちなら、山本に騙されて利用された彼女たちと違うところなんかないんじゃないかと今ふと思ったんです。彼女たちはただ好きになった相手が間違いだったというだけで」

「シズカちゃんにもそういう対象がいるんだ?」

「はい。ずっと昔から」

 手元に落としていた視線を上げると、ピンク、紫、白、黄と様々な色や形の、わたしが毎日のようにお世話をしてきた薔薇たちの姿が見えた。風が吹いて、華やかな香りが鼻先をくすぐった。

 このゲームの世界に生まれる前のことはほとんど覚えていない。けれど、わたしはきっと薔薇が好きだっただろうと思う。次の生があるとしたら、そこでもきっと薔薇を好きになる。だって、わたしはこんなにわたしの心を動かす存在をほかに知らない。

「……そうか。もう長いことそいつを好きなんだな」

「はい。――生涯をささげたいと思っています」

 橙花先輩は目を丸くしたあと、大げさな言い方ではないかと疑うように眉を上げた。

「生涯をささげたいって……」

「晴れの日も雨の日も、見守り、成長を助け、いつの日か、立派な花を咲かすのを見届けたいんです。わたし、そばでそのようすを見ていられたら、すごく幸せです」

 心のまま、情熱がまっすぐ言葉になって出てきた。

 しばらく沈黙があった。

「それで死ぬまでずっとお世話しますってか」

「ええ。でもわたしにできるのは、そばにいて、元気でいられるようにちょっとお手伝いをすることだけです。報われないことも多々あります。もどかしくて仕方ないときも……。でも、それでも好きなんです」

 わたしの言葉や態度に嘘を探すような、疑り深い眼差しで見られていることを感じた。わたしはその目を見つめ返した。橙花先輩はやがて困惑したように視線を外して言った。

「相手に望むことはないのか?」

「ただ、そこに、美しくあってくれたら」

 橙花先輩は苦笑した。

「それは容易じゃないだろうな」

(なぜ?)

 わたしは橙花先輩を初めてこの庭で見たときのことを思い出していた。あのころの庭は今とはまるで違っていた。薔薇たちは虫や病気に侵されていて、泣く泣く処分したばかりのころだった。残った薔薇が白骨のような枝を不格好に伸ばしていた。かつて愛されていた庭の残骸があるだけだった。わたしはそこに現れた橙花先輩に、薔薇に抱くのと同じ感動を覚えたのだ。先輩はただ寝ていただけだったというのに。美しさとはそういうものだと思う。快さ、生の輝き、自然体。

 わたしはお茶会に加賀見先輩も招待しようかと思いついて、言葉にする前に取り消した。そういえば橙花先輩と加賀見先輩はかつてつき合っていたらしかった。別の機会にした方がいいだろう。

(早く元気になってくださったらいいな)

 今はそう願うだけだった。


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