6月 事情聴取
――side: 黄葉コウタロウ
本館3階の小会議室に現れた春風ミユウは、なぜか薔薇の花束を手にしていた。
「春風さん、それは?」
もうすでに部屋にいて、彼女を迎えるために立ちあがったふたりの男たちの内ひとりが怪訝そうに尋ねた。
春風ミユウはちらっと彼らを見遣り、
「花です」
といささか冷淡にわかりきったことを返した。戸惑ったように顔を見合わせる男たちを無視して彼女は戸棚の下から花瓶を引っ張りだし、それを持って何も言わず廊下に消えて行った。あとに残されたオレたちに気まずい沈黙が訪れた。
ごほん、と咳ばらいが聞こえた。
「あー、黄葉くん。その、彼女は……?」
「少し緊張しているようですね」
この言い訳で押し通すことを決心した。
「……緊張ですか? その、失礼ですが、彼女はいつもああいう感じなのですか?」
「ああいう感じとは?」
「少し、ぶっきらぼうな印象を受けましたが……」
「ですから、緊張しているんです。無理もないと思いますが」
ふたりをじっと見つめると、彼らは居心地悪そうに椅子に座りなおした。
(勘弁してくれよ)
オレは気が気でなかった。いきなり彼らの心証を悪くするようなことをして、春風ミユウはいったいどういうつもりなのだろうか? かばわねばならないオレの身にもなってほしかった。
小会議室に戻ってきた春風ミユウは花束を生けた花瓶をテーブルに置き、さもこれで準備が整ったと言わんばかりの顔をした。オレは警察の事情聴取にまるでこれが懇親会であるがごとき花の飾りが必要だと思ったことはついぞなかった。それは刑事たちも同様のようで、ふたりそろって何とも言えない表情を浮かべていた。
「きれいな薔薇ですね」
年配の方の刑事がようよう言った。
「ええ、そうですね。この学園で育てられている薔薇なんですよ」
春風ミユウは落ち着いて返した。
(おい、何のプレゼンテーションが始まるんだ?)
学園のPRでもしているかのような言い方だった。
部屋に赤葉キョウスケがそっと入ってきてドアそばの椅子に座るのが見えた。オレはテーブルの上に出していたレコーダーのスイッチを入れ、録音状態にした。
「春風ミユウさんですね?」
「はい」
「私は園生署刑事課の大森です」
ずんぐりした体格の刑事が警察手帳を提示しながら名乗った。この体格の良さは柔道か何かをやってきた者のようだった。
「同じく刑事課の西村です」
幾分若いほうが続いた。
「もしできるようなら、あなたにいくつか質問をしたいのですが」
「どうぞ、何なりと」
「ご協力に感謝します」
春風ミユウはにっこりと魅力的な笑みで受け入れた。
(唐突で理由のわからない態度の変化――やっぱりサイコか……いや)
春風ミユウの微笑みは、刑事たちと対面して座る、彼女の横のオレに多めに向けられていた。オレはその意味するところを正確に察した。
(愛敬をふりまかれなくてもかばってやるよ、くそ)
挨拶を終えた刑事たちは申し訳なさそうなそぶりを駆使してオレと会長を退場させようとした。大森と名乗った刑事の眉は八の字に下がっていた。
「これから話すことは重要なことなんです。あなたたちは部外者だし、もしできるなら席をはずしていただけませんか」
首を横に振って突っぱねようとした矢先、春風ミユウが割って入った。
「その必要はありません」
はっきりした声だった。彼女は背筋を伸ばし、毅然としてまっすぐ前を向いていた。室内の何もかもが静かになった。
「わたし、まだ未成年なんです、おわかりの通り。まだ保護が必要な年齢であることは同意していただけると思います。大人の男性、しかも警察の方と2対1ではきちんとお話しできるか心許ないです。同じ部の先輩でもいてくださると心強いんです」
これほどしっかりした自己主張が、はたして保護を必要な心許ない人間のものだろうか? 全員の顔を見るに、この疑問はオレひとりのものではなさそうだった。
「わかります、春風さん。しかし――」
「どうしてもだめだとおっしゃるなら、そのようにします」
春風ミユウは一見聞き分けよく言った。
「それなら両親と署の方へまいります、弁護士も一緒に。ただ、わたしの両親は今ニューヨークにいるので、あちらの仕事が片付いて日本に帰国してから、ということになりますが、かまいませんよね?」
刑事たちは穏やかな表情を保っていたが、首筋に浮き出る血管は隠せていなかった。生理的機能までは如何ともしがたいものだ。
「……ではどなたか教師の方のほうがいいのでは」
「学園に詳細まで知られたいとは思っていません」
春風ミユウはそれでこの話題を終わらせた。
オレは手のひらにかいた汗をズボンにこすりつけた。
(もっとうまくやってくれよ……)
そう思わずにはいられなかった。
表面上は自分の主張を通した春風ミユウの勝ちに見える。しかし賢いやり方ではなかった。春風ミユウは自分の意思を押し通せる人間――それも、そのためなら警察にも取引を迫れる人間――ではなくて、可憐で弱々しい被害者にしかなりえなさそうな女の子として振舞うべきだったのだ。彼女ならそうしても失笑を誘わないだけの容姿を持っているのだから有効活用してほしかった。
内心で自分に鳥肌を立てつつ、親しげに春風ミユウの肩を軽くたたいてフォローの言葉を吐きだした。
「なに肩肘張っているんだ? 誰も君を責めてるわけじゃない。な? 春風さんがここにいてほしいって言うならどこにも行かないから、もう少しリラックスしよう」
あくまで、春風ミユウは緊張している、という設定だ。
「先輩……」
春風ミユウもようやくオレの意を汲んでくれたらしく、うなずいた。
大森刑事は背広のポケットからレコーダーを取り出した。
「私も録音してもかまいませんか? 重要なことを聞き逃したくないですし、この歳になると記憶力も衰えてしまって」
「どうぞ」
そう言った春風ミユウの声は一転してしとやかだった。
「よし、じゃあ春風さん。あなたは普段何で通学していますか?」
「地下鉄と学園のバスです。学園最寄りの常盤木駅まで地下鉄、そこから学園専用バスに乗り換えます。帰りは逆です」
「いつもそうですか?」
「いつも……いえ、下校のときは違うことが多いです。友だちと寄り道して遊んだり、バスを乗り逃がして駅まで歩いたりすることもよくありますから」
「なるほど」
もうひとりの、西村と名乗った刑事は何かをメモ帳に書きつけていた。大森刑事のほうは柔らかな眼差しでじっと春風ミユウを観察していた。
大森刑事は新たな問いを発した。
「山本マサキと緒方ノブヒロ、このふたりを知っていますか?」
「知っていますかとは? この学園の生徒ならみんな知っています。校内に侵入して赤葉先輩を殴った人たちですよね?」
「ええ、そのふたりです。彼らはあの日、春風さんに報復するために待ち伏せをしていたと言っています。個人的な面識はありましたか?」
「わかりません」
「わからない?」
「はい。わたしは彼らを知りませんけど、会って話をしたことが絶対にないかといわれるとちょっと自信がないです。それに、わたし、自分が少し目立つタイプだってわかっています。誰かに一方的にわたしのことを知られていることなんて、本当によくあることなんです」
大森刑事はのんきそうに首をかしげ、うなずいた。
「そういうこともあるでしょうね。
では春風さん、彼らはあなたを遊びに誘って車に乗せ、おしゃべりを楽しみ、車を止めたとき、あなたに襲われたと供述しています。春風さんが持っていたテニスラケットで殴打されたと。仮にですよ――もし仮に、本当にこのようなことがあった場合、あなたが彼らを覚えていないなどということがあるでしょうか?」
緊張の糸がピンと張られたのが見えるようだった。春風ミユウは明らかに答えることを躊躇して言葉を詰まらせた。
(まずいな)
この問いは、いいえ、しか答えが用意されていないようなものだった。しかし、いいえ、と答えるともっと質問があるだろう。間違いなく答えられないような質問が。だからといって、はい、とは答えられない。この質問に、はい、と答えるような回答者の、一体何を信じることができるだろうか。
沈黙の時間が長すぎて致命傷になる前に、と焦る気持ちを押し隠してオレは憤然と指摘した。
「待ってください。それはフェアな訊き方ではありませんね。青い○セラッティに乗った男たちが本校の女子生徒に性的な声かけをし、車に連れ込もうとするという事案は、生徒会のほうでも把握しています。警察からも注意喚起があったので当然そちらも把握しているはずです。その上でその問いかけをなさるとは、事件に対する理解が正しくないか、春風さんをいたずらに不快な思いにさせようとしているように聞こえます。
正しくはこうではないですか――下校途中の春風さんを男たちがふたりがかりで車に連れ込み、おびえさせ、車を止めて欲望のままに暴行に及ぼうとしたとき、テニスラケットによって思わぬ反撃を受けた。もし仮に、あくまでも仮にこのようなことがあったとした場合、春風さんが彼らにもうできるだけ関わらないでいたいと思うことがあるでしょうか、と。
私は春風さんを信じます、彼らには関わらなかったと。しかしもし春風さんがこのたとえ話のような目にあって追い詰められてそのような行動に出るしかなかったとしても、彼女が味わわされた恐怖や苦痛を思うと、彼女を責めることができるものでしょうか」
大森刑事はこれ見よがしに当惑した。オレが何か空気の読めないことでもやらかしたかのように。大森刑事はそのまましばらく口を開かなかった。西村刑事はその横で何事かを書きつけてメモ帳を埋めていた。まだほとんど何も話されていないのに、一体何を書けるのだろう? しかしオレはこのプレッシャーを与えるための沈黙も容易く過ごせた。オレは刑事に反駁したかったのではなく、春風ミユウにこの後の受け答えの方向性を示したかったのだ。これだけ時間をかけてもらえれば、春風ミユウも自分の答えを整理できるだろう。
大森刑事は沈黙などなかったかのように話し始めた。
「山本マサキの車からあなたの指紋が検出されました、春風さん。あなたは彼の車に乗ったことがありますね?」
オレはまたしても口をはさんだ。
「いいですか、山本マサキと緒方ノブヒロはうちの生徒に対して頻繁に性的な声かけをし、車で連れまわそうとしていた男たちなんですよ。もし春風さんの指紋が車の内部から検出されたというなら、それは単に春風さんも被害に遭っていたということを示しているにすぎません」
「すみませんが、春風ミユウさんに事情を話させてくださるとありがたいのですが」
刑事に叱られてオレが黙ったところで、春風ミユウは警戒を前面に出して言った。
「……わたしが何を白状することを期待していらっしゃるんですか?」
「真実を話してください」
「たしかに、わたしは下校途中に声をかけられて車に乗りました。彼らは――そう、街を案内してやると言っていました。いい遊び場を知っているのだと。断りましたけど」
「なぜあなたは車に乗ったのですか?」
「正直言って、気が進みませんでした。でも彼らはあまりにも強引でしたので……」
「強引に誘われたから男ふたりと密室になってしまう車に乗った? 危険性は認識できていましたか?」
「春風さんに間違ったことをしたと思わせないでください。春風さんは被害者です」
刑事はオレを無視して、どうですか、と重ねて尋ねた。
「断れなかったんです。あんまりびっくりして、怖かったものですから」
「そのときテニスラケットは持っていましたか?」
ピクッとオレの指が跳ねた。ぎゅっと握りこんで平常心を装う。
「さあ、覚えていません」
「5月19日の時間割を見ると、体育がありますね。授業内容を確認しましたが、あなたはテニスを選択していて、その日もテニスラケットを家から持ってきていたようですね」
「そうでしたか? 覚えてはいませんが、そう確認なさったのであればそうなんでしょう」
「では、このあと私たちがお宅にうかがってテニスラケットをお預かりしてもかまいませんね? 令状もあります。問題はないでしょう?」
(令状!)
オレは手汗をまたズボンにこすりつけた。もし血痕つきのテニスラケットでも見つかろうものなら、どう擁護していいかまったくわからなかった。打撲痕がラケットと一致してもアウトだ。
意外なことに春風ミユウはびくともしなかった。
「どうぞ、なさりたいようになさってください」
「話を少し戻しますが、春風さん、男たちの車は彼らが暴行を受けた場所から離れたところで発見されています。あなたが車を運転したのですか?」
動悸がして、治まる暇もなかった。春風ミユウの面の皮の厚さをありがたく思う日が来ようとは思っていなかった。
「まさか! わたし、まだ15歳ですよ。免許証もとれない年齢です。それとも、わたしが無免許で運転したとおっしゃりたいんですか?」
「これは単なる確認です、春風さん。わたしたちはこの件を全部正確に知っていなければいけませんから。
ハンドルやバックミラー、シフトレバーなどにあなたの指紋が多数残っています。このことについても、わたしはすっかり理解したいと思います。春風さん、本当に運転はしていないのですね?」
「当然です。運転席にわたしの指紋が残っているのは彼らが座らせてくれたからです。車を褒めたんです、わたし。自分の車を女に自慢する男なんていくらでもいるでしょう。止まっている車の運転席に座っていろいろ触ってみることは、別に無免許でも禁止されていなかったと思いますけど」
「あなたは車に連れこまれ、恐怖を覚えていたと言いましたね? それなのにその恐怖を早々に忘れて運転席に座らせてもらって遊んだと言うのですか?」
「そう言ったように聞こえました?」
「違うのですか?」
「はい、違います。わたし、どうやって車から降りるかということをずっと考えていました。わたしが運転席に座らせてもらったのは逃げるためでした。後部座席のドアロックは運転席からかけられていましたし、走っている車からは飛び下りられませんから。実際、わたしはそれでうまく逃げることができました。
思うんですけど、彼らはわたしに騙されて逃げられたから、わたしに怒っているのかもしれません。だからわたしを陥れようと、あるいは賠償金目当てで、別件で暴行されたのをわたしのせいにしているのではないですか?」
大森刑事は用心深く答えた。
「そうですね……」
「可能性として考えられませんか?」
「今の時点では何ともお答えできませんね」
「では疑いなくはっきり事実がわかるように捜査なさってください」
春風ミユウは澄まして言った。オレはほっと一息ついた。春風ミユウはなんとかもっともらしい説明をし、自白を得られなかった警察は春風ミユウの暴行を立証することが一段困難になった。オレにはそれだけで十分だった。
その後も刑事たちは春風ミユウに何度も何度も何度も尋ね、春風ミユウは何度も何度も何度も事情を話した。ほぼ同じ言葉でまったく同じ内容が繰り返されただけだった。刑事たちが苛々した様子を見せなかったのはさすがだったが、春風ミユウも忍耐強かった。
「わかった」
大森刑事はとうとう言った。
「これまでにしよう。今のところは」
春風ミユウは決して気を抜いてほっとした態度を見せたりしなかった。ただしずしずと頭を下げた。
大森刑事はだしぬけに言った。
「春風さんと黄葉さんは恋人同士なのですか?」
オレはその問いかけのショックから一瞬硬直し、全力で首を横に振った。
「違います違います! え、何てことをおっしゃるんですか? 違います」
「そんな……そういう風に見えます?」
頬を薔薇色に染めた春風ミユウは恥ずかしそうにうつむいた。
(おい、やめてくれ)
「ええ、黄葉さんが春風さんを守っているように見受けられました」
春風ミユウの『可憐な女の子』の演技は完璧だった。キャラメル色の大きな目に甘ったるく見つめられて、腕にぶわっと鳥肌が立った。変なしゃっくりが出そうだった。
「黄葉先輩、ありがとうございました」
「いや、生徒の権利を守ることは役員の責任でもある、とか何とか、とにかくそのへんの理由によるものだから気にしないでくれ、絶対に」
「ふふ、やだ先輩ったら」
彼女本来の華やかな笑顔がぱっとはじけた。
これから春風ミユウの自宅へ行ってテニスラケットを預かるという刑事ふたりと春風ミユウを見送りに行って小会議室に帰ってくると、とっくにいなくなっているだろうと思っていた赤葉キョウスケが腕組みをしてオレを待っていた。
「会長、これ」
机の上に残された花を花瓶ごと渡す。
「は?」
「春風さんから。お見舞いの品だそうです。あらためてうかがいます、とのことです」
赤葉キョウスケは嫌そうに受け取って、花瓶の中の花をじっと見ていた。薔薇か、という呟きが聞こえた。彼は白い薔薇を一輪だけ抜き取って、あとはオレに押し付けた。
真っ赤な鋭い眼差しがオレをしっかり捉えていた。
「黄葉、お前やけに春風をかばっていたな。どういうつもりだ?」
オレはつばを飲み込んで視線を受け止めた。
どういうつもりも何もない。オレは事件現場を目撃していながら放置した。あのときは男たちが警察沙汰にしてくるとは思わなかったからそうしたのだ。放置などなかった、そもそも事件さえなかった、そう言い張ることはオレにとっても都合の悪い話ではない。
(それに、もし春風ミユウにオレが見ていたことが知られたら? あるいは知られていたら?)
間違いなく責任の一端を押し付けられるだろう。藍葉家の双子とは長い付きあいだ。アカリはオレを慮ってしゃべらないだろうと確信できない程度には親しい。事件などなかったことにするのが一番なのだ。
「何をおっしゃりたいのかわかりませんね。本校の生徒を生徒会役員のオレが信じてかばうことに、何か問題でもあるんですか?」
「ないな。ただ火中の栗を拾うなら当然火傷くらいは覚悟しておけよ」
「ご用件はそれだけですか?」
「ああ。もう行っていい」
「では失礼します」
オレは花瓶を抱えてドアを開けた。火なら揉み消せばいいのだ。