6月 花々
――side: 深川シズカ
『何処にこの内部に対する外部があるのだろう?
どんな痛みのうえにこのような麻布があてられるのか?
この憂いなくひらいた薔薇の内湖に映っているのはどの空なのだろう?
見よ どんなに薔薇が咲きこぼれほぐれているかを
ふるえる手さえそれを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が支えきれないのだ
その多くの花はみちあふれ
内部の世界から外部へとあふれでている
そして外部はますますみちみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかのひとつの部屋になるのだ』(1)
赤葉先輩に謝罪をしようと思う、とミユウが庭に来て言ったのは放課後だった。
ピンク色の髪がさらさらと風になびき、アイボリーホワイトの制服が細くしなやかな肢体を清楚に包んでいる。色とりどりの花が競うように咲き誇っている中で、ミユウはもっとも美しい花だった。
わたしの頭の中に、リルケの薔薇をたたえた詩が光のように差しこんだ。『その多くの花はみちあふれ 内部の世界から外部へとあふれでている』。生の輝き、美しさ、強さ、儚さ――彼女から何があふれでているからこんなにわたしの胸を打つのだろうか? 親友の姿がこれほど美しく見えたのは初めてだった。わたしは花園にたたずむ美少女というおとぎ話のような光景に心を奪われてうっとりと見入った。
「……シズカ? 聞いてる?」
はっと我に返った。
「え、あ、ああうん。ごめんね、ちょっとぼうっとしちゃって……」
「いいけど、大丈夫?」
「うん、ごめんね」
ミユウは、仕方ないなあ、というようにちょっと笑った。
わたしは頬を赤くしながら尋ねた。
「……赤葉先輩に謝罪って、どういうこと? 何かあったの?」
「うん、このあいだのこと。ほら、殴られて怪我なさったじゃない? わたしが悪いんじゃないって思ってたけど、でもやっぱりわたしも関係してるみたいだし……わたしの彼氏と勘違いされて殴られたらしいものね。なのにまだ謝りも見舞いもしてなかったんだ、なんだか気まずくて」
「ミユウが悪いわけじゃないよ」
「ありがと。でもこういうのって礼儀みたいなものでもあるし、それにあんな変な噂流されちゃったのって、もしかしてわたしがまだ先輩に頭を下げてないからなんじゃないかって思って。そのせいでシズカもユウコも心配させちゃってるなら、早く謝りに行ったほうがいいよね」
「ミユウ……」
(なんて思いやりのある人なんだろう)
頭の良さや外見の美しさだけではない、こういうところが、春風ミユウという女の子を特別な存在にしていた。
(ミユウと友だちになれてよかった)
わたしはこれまでにも何度となくそう思ってきた。彼女の素晴らしさに触れるたび、そばにいることができるのがほとんど奇跡みたいな気がしたし、言葉では表せないような幸せな気持ちになった。
「だからね、シズカ、赤葉先輩に――」
「うん、わかってる。花束でしょ?」
「――え?」
「手ぶらで行くわけにはいかないものね。だからここに来たのよね? 大丈夫、ミユウにならいくらでもお花をわけてあげるから」
「う、うん、そうそう。ありがとうシズカ。それでさ――」
「包み紙もあるからきれいにラッピングしてあげるね」
「あ、ありがとう。ところで赤葉先輩なんだけど――」
「ああ、今日は私用をすませてから執行部に顔を見せるらしいの。18時半くらいになるってスケジュール表に書きこんであったと思う。会えるの、ちょっと遅くなっちゃうね」
「そうじゃなくて――」
「あ、そっか! ごめん。ミユウも部員だからそんなのわかってるよね。わたしってほんと察しが悪いみたい。――大丈夫よ。赤葉先輩、ミユウのこと何も言っていらっしゃらなかったもの。きっともう許してるんだと思う。だから心配しないで大丈夫。気を軽くして、ミユウ」
「……うん」
ミユウは緊張しているのか引きつった笑顔でうなずいた。そして胸元のワインレッドの細いリボンをいじって、ため息をついた。
「ミユウ?」
「……いや、うん、もういいや」
「うん?」
「気にしないで」
そしてまたため息。
わたしは常より冴えのないミユウを励まし、花束をもたせて送りだした。
(がんばってね、ミユウ)
2輪目は赤葉先輩だった。ミユウがはっきりとしたピンクで華麗そのものの大輪のジュビリー・セレブレーションだとしたら、赤葉先輩はザ・プリンスだった。別に彼のあだ名にちなんでいるわけではないけれど、咲き始めの深紅の花色、大輪のドラマティックなロゼット咲き、強い香りはまさに彼のような強い印象を与える。
(好みじゃないけど……植えようかな)
週末にガーデンショップに行って苗木を見る計画を立てながら、赤葉先輩の訪れを意外に思っていた。
「どうなさったんですか?」
「いや、直接進捗状況を聞こうと思ってな」
わたしはまだほとんど進んでいないことをばつの悪い思いで白状しなければならなかった。
「すみません。まだ報告できるほどには……」
「忙しかったか?」
わたしはくちびるをかんだ。
「ええと、そうじゃないんです、すみません。やろうとはしたんですが、なんだか――わたしには難しくて。加賀見先輩もあまり乗り気という感じではないですし、そういう方を質問攻めにするのはどうしても……」
両親に、人様のことに関心を持ちすぎてはいけない、と躾けられて育ってきた。いまさら躾を捨て去ることなどできるだろうか? でも赤葉先輩の目に失望の色が浮かんで、それをはっきり見てとってしまうと、わたしが何もしなかったことは間違いだったのではないだろうかという気になった。
「できないなら最初から断ってくれよ」
いらついた口調だった。最初から断るだなんて、そんなことができたらどんなにいいだろう。
「オレも悪かったよ。深川が流されてうなずいていたのはわかってたんだ。それでもいいかと思っていた」
「いえ、わたしが悪いんです……」
「いや。深川はお行儀のいい箱入りのお嬢様だってだけだ。お前は悪くない。でも今回の件はもういい」
わたしは自分に向けられた失望と諦めに耐えられず、もう一度やらせてほしい、とあと少しで言いそうになった。しかし赤葉先輩を、それならなぜ初めからやらなかったんだ?と怒らせるだけになりそうだったのでこらえた。代わりに成果と呼べるほどもない成果を渡すことにした。
「あの……一応、県内のリサイクルショップや質屋には加賀見家にあった貴金属やアンティークが売られていないか、写真や特徴を記した紙をファックスして問い合わせています。深川家でその品を探していると。そうしたら、そのようなものを買い取ったと2件の回答がありました。……引き継がれますか?」
身をひるがえしかけていた赤葉先輩は、わたしの顔をまじまじと見て何度か瞬きをした。
「そうか、深川家はこのあたりの名望家だったな」
そして小さく微笑みかけてくれた。
「本当に何もやっていないのかと思った。なんだ、ちゃんとやってるじゃないか。ならお前を外す必要はどこにもないな」
「それは――でも、わたし、加賀見先輩のためになるようなことをできるわけじゃ――」
赤葉先輩は皮肉っぽく口元をつり上げた。
「深川、加賀見のためなんて考えなくていいだろ? やれることだし、オレたちが役に立つかもしれない。だがよく知らない他人のためにやろうなんて、そんなモチベーションじゃ大したことは何もできない。誰かのためだとしたら、それは自分のためだ。暇つぶしでも穿鑿好きでも何でも構わない。お前もうまく理由を見つけることだな」
(わたしの理由……わたしのためになる理由……何だろう?)
赤葉先輩のアドバイスを素直に受け取って、わたしは自分を動かす理由を考えてみた。わたしがいろいろ思いめぐらしているのを、赤葉先輩はどこか優しさの感じられる真面目な顔で眺めていた。
庭の出口のアーチまで先輩を送り、別れ際に遠回しに要望を伝えてみることにした。
「あの……部室で会うことになってたんじゃありませんでした?」
「どうかしたのか?」
訊かれて言い淀んだけれど、赤葉先輩はあいまいな物言いには納得しない方だともうわかっていたので、懸念となっていることを口にした。できるだけ客観的な事実のみを伝えて、あとは察してもらおうともした。
「……赤葉先輩の親衛隊だとおっしゃる方々がこの前お見えになって」
「ああ、あいつらか」
「人目につきかねない場所でふたりで会うのは避けたほうがいいんじゃないですか?」
提案の形ではあったものの、わたしの心持としては懇願だった。
「あいつらは気にしなくていい。オレから言っておく」
赤葉先輩は軽く頭を振った。
(やめてー!)
わたしは必死で先輩に取りすがった。
「いいえ! そこまでしていただかなくても大丈夫です!」
脳裏を恐ろしい想像がかけめぐっていた。体育館裏に呼び出され、なに告げ口してんだよ、赤葉先輩を煩わしてんじゃねーぞ、被害者ぶってぶりっこかよ、とさんざんになじられ、容易に泣かされる自分の姿だ。ここまであからさまなことはされなくても間違いなく陰口くらいは叩かれるだろう。
赤葉先輩はわたしを不可解そうに見つめた。しかし先輩に読みとれたのはわたしの恐れまでだった。そこからは彼なりに想像力を働かせたらしい。
「そうか? ……親衛隊とはいってもナチスとは関係ないからな?」
「はい、わかっています」
別にそんな心配はしていない。
(て、天然?)
わたしは諦めた。
「……そういえば、先輩、春風さんが先輩にお話があるとかで探していました」
「ああ、わかってる。それが今日のオレの私用だ」
赤葉先輩は表情を引き締めて去っていった。
庭を訪れた3輪目の薔薇は橙花先輩だった。わたしは橙花先輩を見るたびにブラス・バンドを思い出した。ブラス・バンドはひらひらと波打つオレンジ色の花弁がまるでフリルのようで、独特の雰囲気がある。大輪でとても目立つ、日照を好む薔薇。
(ジュビリー・セレブレーションもザ・プリンスもブラス・バンドも、いずれ劣らぬ大輪ね)
それぞれが庭の主役となりうる花々で、とても強い存在感がある。
(一方で……)
自分に引き比べるとため息が出そうだった。引き立て役はよく霞草にたとえられるけれど、薔薇はその引き立て役すら必要としないのだ。それにわたしは自分のことを霞草だと思うほど厚かましくもなれなかった。
(嫌になっちゃう)
最近、執行部に入ってキラキラしい集団の中で過ごすことが多くなっているから、なんとなく劣等感を刺激されていた。ユウコは、あんなリア充集団の中にいたんじゃ無理ない、と言って慰めてくれた。リアジュウが何なのかはよくわからなかったけれど、わたしとはタイプの違う人たちを指すのだとは察した。その執行部のなかでもミユウはいつも通り輝いていた。
橙花先輩はベンチに寝転んでいて、わたしを見つけると破顔した。
「また来た。迷惑?」
「いいえ、まさか」
先輩は身を起こしてわたしのためにとなりを空けてくれた。一度は遠慮をして立ち去ろうとしたものの、先輩に拗ねたように引きとめられて、仕方なく恐縮を体全体で表わしながら緊張しつつそこに座った。
自分から話を振ることなんてできなくて、そっと橙花先輩の美々しい横顔をみつめていた。なんだか不機嫌そうだった。
「なんか、キョウスケの姿が見えたんだけど」
橙花先輩が話しはじめて、ほっとして聞く態勢に入った。
「なあ、聞いてる?」
「はい、もちろん」
先輩は焦れたように眉根にしわを寄せた。
「だからさ、さっきここで赤葉キョウスケを見たんだって。シズカちゃん、あいつと話してただろ。あいつ、ここによく来るのか?」
「いいえ?」
(キョウスケって、赤葉先輩のことか)
普段名字やあだ名以外で呼ばれるのを聞いたことがないものだからうまく結び付かなかった。
(それにしても――)
わたしはかすかに記憶に残っているwikiのページを思い出していた。たしか、会長と副会長――赤葉キョウスケと橙花チトセは幼なじみでライバル関係ということだった。お互いに相手のことが気になって仕方がないのだろう。
事情を説明しようとして、うまくできそうにないことに気がついた。加賀見先輩の件は口外厳禁だ。わたしは苦心して理由らしきものをひねり出そうとした。
「その、わたし、赤葉先輩に成績を評価されて執行部員に推挙していただいたんですけど、その後の調子をお聞きになりに――」
「あいつはいちいちアフターフォローしてやりに来るほど親切じゃない」
「――えーと、実は、わたしのほうからちょっと相談があって」
「どんな?」
「あー、あの、先輩の親衛隊の方がいらっしゃるのをどう接したらいいかと……」
なぜわたしが個人的な会話について明かさなければならないのかよくわからなかった。しかしここで回答を渋れば不本意な邪推を受けることになりそうだということは薄々感づいていた。
「ふーん、なんだ、親衛隊か」
先輩は肩の力を抜いた。赤葉先輩にはどういうわけか理解できなかった彼らに対する懸念もすぐに理解してくれた。
「放っとけばいい――って言っても、難しいんだろ?」
「まあ、はい。親衛隊に入らないかとも誘われて、断ったんですけど、また誘われそうな雰囲気でした」
「誘われるだろうな」
即座の同感だった。
「親衛隊には護衛対象との恋愛禁止条項がある。シズカちゃんを自分たちの内に取り込むことで逆にキョウスケから引き離せる。枠をはめてしまえばそういう風にある程度制限をかけられるし、監視もしやすくなるし、圧力もかけやすくなる。それにもし恋愛禁止条項を破るようなことがあってもシズカちゃんを大っぴらに非難できる。――はは、ドン引きしてるな。隊長は宮井だったよな? あいつはちょっとおかしいが馬鹿じゃない。思いつきで誘ったわけじゃないだろうよ」
ふと嫌な可能性に気がついた。
「ひょっとして、橙花先輩にもそういう方々がいらっしゃるんですか?」
訊きながらわたしはすでに逃げ腰だった。
橙花先輩は苦笑いで肯定し、わたしをなだめるような声で言った。
「オレのはファンクラブ、あいつのは親衛隊。わかる?」
「いえ、ちょっと、あんまり……」
「だよな。つまり、何というか、ファンクラブのほうは裾野が広くて緩いノリでやってるんだ。オレとよくつるんでるやつらも冗談で入ってるくらいでさ。出会い系サークルと勘違いしてるんじゃないかってやつもいるな。
親衛隊はそうじゃない。規律も厳しいしみんなけっこう本気。本人たちの弁を借りれば少数精鋭」
先輩は、本人たちが聞けば馬鹿にしているのかとムッとしそうなほどおもしろがっていた。
「どっちも例外はあるよ。周りとコネ作るために加入してるやつらもそれなりにいるだろうし、オレらと家同士の付き合いがあるから入っておいたほうが無難だと思って入ったやつらもいるだろう。オレやキョウスケに顔を覚えてさせて将来の足がかりにでもなればって考えてるやつらもいるだろうな」
「え、そんな人が?」
先輩は優雅に微笑んだ。
「悪いことじゃないさ。むしろそれくらい打算できるやつらのほうが有望だよ」
そんなものなのだろうか、とわたしが考える横で橙花先輩は背もたれに寄り掛かり、ぐっと伸びをした。
「さて、今日はキョウスケも口うるさい黄葉もしばらくは出てこないことだし、ゆっくりのんびりするか」
しどけなく身を投げ出したままで腕を伸ばし、ベンチを覆うようにアーチに誘引されている上品なオレンジ色のパット・オースチンの花弁に触れた先輩は、わたしに色気と茶目っ気たっぷりの流し眼を寄こした。
「ここにはきれいな花もシズカちゃんもいることだしな」
(1)ライナー・マリア・リルケ、富士川英郎訳「薔薇の内部」『リルケ詩集』(新潮社、1963年、改版)。