6月 親衛隊
――side: 春風ミユウ
昼休み、わたしとユウコとシズカのいつもの3人は、午後一番の授業が始まる前にいつものように化粧室に入り、とくに実のない会話をして過ごしていた。いかにも良家のお嬢さんらしく、昼食のあとは歯みがきをして身だしなみを整える時間がわたしたちには必要なのだ。
わたしは鏡に映る自分と向き合って、チューブに入ったくちびる用美容液を丁寧に塗りながらふたりに話しかけた。
「ねえ、今日さ、放課後に何か甘いもの食べに行かない?」
となりで髪を梳いていたユウコは乗り気でうなずいた。
「いいじゃない。今日は天気も悪くないことだし」
「シズカはどう?」
手持無沙汰そうに文庫本のページを繰っていたシズカは顔を上げ、少し考えて言った。
「抹茶クリームあんみつが食べたい。『みつばち』の」
「そうだね、たまには和もいいね」
くちびるを合わせて美容液をなじませると、つやつやふっくらの魅力的なくちびるになった。一部の女の虫とり吸着テープのような、グロスでてかてかの下品な感じとはまったく違う。わたしのくちびるは何もしなくてもきれいなピンク色ではあるけど、それをより引き立たせるものを探して何度もデパートに足を運んで見つけた美容液だった。仕上がりに満足して鏡越しにシズカに笑いかけると、控え目な微笑みが返ってきた。
(シズカも薬用リップクリームだけじゃなくてかわいいグロスでもつければいいのに。まあいいか)
若いから素材だけでも勝負できる。今はまだ。
ユウコはスカートのポケットからキラキラするビーズつきのゴムを取り出してハーフアップに髪をまとめながら、らしくもなくはずんだ声で言った。
「『みつばち』ならわたし、水ようかんをお土産に買って帰ろう。家族みんな好きなのよね」
いくつかのメニューは持ち帰ることもできるのだ。
「あ、じゃあわたしはわらびもち買って帰ろうかな。夜食にぴったりなのよね、カロリー低くて」
ユウコに便乗してわたしの心も浮き立った。
シズカは首をかしげた。
「ミユウが夜食なんて珍しい。何かあったの?」
「何もないの。それが問題なんだよ」
ため息をつきながら言うと、シズカはますます不思議そうに目を瞬かせた。
「まあ、たまにはいいでしょ」
女の子が目を輝かせるもの。かわいい洋服、甘いもの、イケメン。わたしも例にもれずこれらが大好き。だから目の前に置かれた抹茶クリームあんみつを見つめるわたしの目はダイヤモンドみたいにキラキラしていたと思う。しかしシズカからよくわからない男の名前を出された瞬間、ビー玉になった。
「は? 山本マサキ? 誰それ?」
反射的に返して、それから思い出した。
(ああ、あの校内で暴れた馬鹿たれね……)
たしかそうだった。警察から事情を聞かれたとき、それから翌日のローカルテレビのニュースで、その名前を聞いたような気がした。
(そいつが何だっていうの?)
もうその馬鹿たれ関係のイベントはすべて終わったと思っていたのだけど。
「このあいだ生徒会長を殴って捕まった人」
シズカはわたしの記憶を裏付けた。
「その人、ミユウの知り合いなんじゃないかって、けっこう噂になってるらしいの」
湯呑からほうじ茶を飲んでいたユウコは眉をつり上げた。
「シズカ、まさかそれを真に受けてるわけじゃないでしょうね。ていうかシズカがそんな噂を気にしてるとは思わなかった。いつもそんなの興味ないじゃない」
「そんなんじゃないの」
シズカがあわてて腕を振るのをユウコは懐疑的に見た。彼女は口さがない人間が大嫌いで、無責任なゴシップの類を倦厭している。ゴシップが耳に入ろうものなら、何も言いはしないけど非難のこもったまなざしでそちらを睨むのだ。そういうときシズカは気まずげにうつむき、わたしは面倒だから何も気づかないふりをする。今も会話から外れたふりをして焼き物の器の中に黒蜜を垂らしていた。
「ミユウ……」
助けを求めるようなシズカの眼差し。
(まったく)
仕方がない友人たちだ。
「シズカは心配してくれてるんだよね、わたしが変なことに巻き込まれてるんじゃないかって。ユウコもだよね、わたしってあることないこと噂されやすいから。ふたりともありがとう。この際だからはっきり言っておくけど、わたし、本当に山本マサキなんていう男は知らないの。本人が言うようにナンパはされたかもしれないけど、こう言ったら感じ悪いかもしれないけど、そんなのいちいち覚えてないし……。
だから、ね、噂されてるようなこと――わたしが山本マサキに生徒会長を襲わせたなんてことは信じないでね」
シズカの顔に同情と信頼の色が浮かんだ。
「そんなの当たり前なの。ミユウがテニスラケットで男の人をボコボコにしたなんて、聞いてるだけで馬鹿らしいもの」
ユウコは気だるげに木さじでアイスクリームをすくって口に運びながら首をかしげた。
「大体意味分かんないよね、犯人の供述も。ミユウをナンパしようとしてボコボコにされて、怨みを晴らそうと学校まで来てそこでなぜか生徒会長を殴ったって――はあ?って感じ。何がしたいのっていう……ねえ?」
口に含んだ白玉をもぎゅもぎゅと噛んで飲み込んでから、シズカは思案顔で言った。
「うん。その男がわけわかんないことをするからミユウが変な疑いをかけられて困らせられちゃうのよ。
でも、たぶん、ミユウをナンパしてふられちゃって怨みに思ってたところまでは本当なんじゃないかな。暴行されたのは別件なんだけど、ミユウの家がお金を持ってることを知って賠償金か示談金目当てにミユウにやられたって言ってるのかもしれない。実際にお金を取れたら言うことはないし、できなくったってそんな話が広まるだけでもミユウの評判は悪くさせることができるから、何も損はないもの」
「え、ちょっと、何それ。ひどい」
知らないところで悪意を向けられていたかもしれないことにびっくりした。
「ただの推測。だけど山本マサキならこういうことを考えてもおかしくないの」
シズカの表情は常のように穏やかだけど、冴え冴えとした冷たさがあった。彼女がふいに見せる顔だった。普段は内気さや人当たりの良さに隠れてしまって見えづらいけど、園生学園で上位の成績を誇るだけあって高い知能を持っている。シズカはこれで、合理的な計算の得意な女なのだった。
「その男のこと、よく知ってそうな口ぶりね」
「まあ、うん……」
ユウコの疑念にシズカは歯切れ悪くうなずいた。
「実は、生徒会長の赤葉先輩から山本マサキを調べるように言われてるの。どうやら余罪があるみたいで」
「ああ、そういうわけで。ふうん? そういやシズカ、執行部に入ったんだっけ? いきなりそんな仕事任されたの? 大変ね」
「わたし手伝おうか?」
オレ様王子様との親密度を上げるチャンスだと思って申し出たけど、あっさり断られた。
「ありがとう。でもいいよ。大丈夫。ミユウが手伝ってくれるなら心強いけど、頼ってばっかりになりそうだから。わたし、できるところまでは頑張ってみたいの」
見上げた心意気だけど、そういうのは別の機会に発揮してほしかった。下心あって申し出ているのだから遠慮なく頼ってほしい。
(まあいいか。勝手に手伝えばいいや)
黒蜜のかかったつぶあんと寒天を木さじで口まで運ぶと、ひんやりとした甘さが上品に広がった。
(友だちを陰ながら手伝うだけだよ。何か悪いことある?)
淮南子にも書かれているではないか。陰徳あれば必ず陽報あり、と。
――side: 深川シズカ
「深川さん、ちょっといい?」
ユウコ、ミユウと一緒に移動教室のために歩いているとき、だしぬけに名指しで呼びとめられた。わたしは2、3歩進んでようやく自分のことかと思い至り、足を止めた。
「あの、わたしが深川ですけど……わたしでいいんですよね?」
おそるおそる振り向いて確認すると、わたしを呼びとめたらしい上級生たちは小さく苦笑した。
「そうよ、もちろん。どうして?」
「いえ、あの……」
ミユウと間違えたのかと思ったのだ。ミユウならしょっちゅうだけれど、わたしがこんな風に廊下で声をかけられたことなど今までに一度もなかったから。
知り合いだっただろうか、と彼女たち3人の顔をそっとうかがったものの、誰ひとりとして覚えがなかった。
口ごもってうつむいていると、上級生たちが近づいてきて促すようにわたしの肩に手を添えた。
「深川さんと少しお話がしたいの。だめ?」
「もうお昼ごはんはすんでるでしょ?」
「少しのあいだだけ付き合ってくれない? 嫌になったらいつでも帰っていいから」
(……わたしが嫌になるようなお話をするってこと?)
彼女たちの声色は丁寧で荒っぽい調子などどこにもなかった。しかしわたしは気後れして尻込みしていた。断れそうにない雰囲気をひしひしと感じていた。ユウコかミユウが代わりに断ってくれないかな、とずるい考えでふたりをちらっとうかがったら、わたしたちは気にしなくていいから行ってきなよ、と気を遣われて送りだされてしまった。
先輩方に連れられて階段を上り、3階の美術室に入った。先輩のひとりが、美術部員なの、と言って指先で鍵を振った。
ほっとしたことに、壁を背に先輩方に囲まれる、というようなことにはならなかった。中に入るとすぐに椅子を勧められ、チョコレートやアメを差し出されさえした。
「あまり硬くならないでいいよ。ほら、肩の力抜いて」
「ごめんね、いきなり連れて来られてびっくりしてるよね」
「……どういうご用件ですか?」
渡されたアメを手の中でいじりながら警戒しいしい尋ねた。
先輩方は懇意な間柄を示すように目配せを交わし合い、代表して茶色の髪をすんなりとワンレングスに伸ばした美人が自己紹介した。
「わたしたち、赤葉くんの親衛隊なの。わたしが隊長の宮井で、あとのふたりは副隊長よ。よろしくね」
「はあ」
(シンエイタイ……親衛隊? え? 親衛隊?)
脳内変換にいまいち自信が持てなかった。
「あなたが最近赤葉くんと親しくしてるって聞いて、どんな子だろうと思ったのよ」
「はあ。ええと……?」
(赤葉先輩?)
わたしの困惑をよそに先輩方はきゃっきゃと楽しそうにおしゃべりを始めた。その華やかな雰囲気に圧倒されてわたしは鼻白んだ。
「深川さんって落ち着いた感じなのね」
「可愛い系かな。京人形みたいじゃない?」
「あーわかる! 色白だし、黒髪のおかっぱなところとかほんと京人形!」
「すみません、もういいですか?」
用はすんだだろうかと遠慮気味に声をかけると、
「待って待って! もう少し教えてよ」
と引きとめられた。
「赤葉くんとどんな風に知り合ったの?」
これはたしかに『赤葉くんの親衛隊』で間違いはないのだろう。
(うわ、まずそうなのに目をつけられちゃったのかな)
ここからなんとか赤葉先輩との関係をあいまいかつ控え目に申告する奮闘が始まった。
「ええと、その……部長の加賀見先輩を通して……」
「ああ、加賀見さんね。知ってるわ。でも、加賀見さんと赤葉くんってそんなに仲良かった?」
「すみません、よく知りません」
「そうよね、聞く人が違うわよね。それで?」
「はい?」
「どういう流れで執行部に推薦してもらったの?」
わたしは絶句した。いよいよドン引きしていた。呆れるばかりだったし、なんだか赤葉先輩が気の毒にもなってきた。
(放っといてあげたら)
これで赤葉先輩はまともな人間関係が築けるのだろうか?
副隊長のひとりはわたしを懐柔するように感じよく言った。
「赤葉くんが推薦なんてしたの、初めてのことなんだ。どうして、どういう人が?ってみんな気になってるの、わかってくれるよね?」
わからないと答えるのが大人げない態度だということはわかっていた。
「……執行部内で動かせる人がほしかったからだっておっしゃってましたけど」
「そうなのね。ね、じゃあなんで深川さんが選ばれたんだと思う?」
「ど、どういうことですか?」
「ごめんなさい、深川さんを悪く言ってるわけじゃないの。わたしたちよりもずっと優秀なのは知ってるわ。学年5位でしょ? 赤葉くんから推薦されるにふさわしい成績よ。でもわたしたち親衛隊の中から選んだってよかったわけだし……誰でも構わないなら普通は手ごろなところから選ぶでしょ? そうしなかったということは、深川さんだから選んだのよね。きっと明確な理由があるんだと思うんだけど」
宮井先輩はさすが親衛隊長だけあって護衛対象のことをよく理解していた。その通り、赤葉先輩は誰でも構わなかったから手ごろなところでたまたまその場に居合わせただけのわたしを協力者に選んだのだ。まさかわたしもあれで能力や人間性まで評価してもらったとは思っていない。
「……見当もつきません。そんなに確かな理由があるんでしょうか? たまたま部下がほしいと思っているちょうどそのときに加賀見先輩からわたしを紹介された、というだけのような気がしているんですが」
「そうかもね。でもそうじゃないかもしれない。当事者じゃないとわからないわよね」
隊長はわかったようなわからないような言いようでわたしをいたずらにドキドキさせた。彼女は口元をゆるめて椅子の背もたれから身を起こした。
「それから、あなたのお友だちの春風ミユウさんのことだけど――」
「ミユウは何もしていません!」
思わず叫んでいた。
「赤葉先輩が怪我されたことについてミユウに変な噂が立っていますけど、そんなことをするような子じゃありません。ミユウは真面目で明るくて優しくて……今回のことですごく戸惑っているんです。ミユウの名誉を傷つけるようなこと、やめてください……」
たまらなかった。友人を目の前で疑われるのも非難されるのも。
先輩方は目を見開いてお互いの顔を見合わせ、わたしをなだめにかかった。
「ちょ、泣かないでよ。わかったから。何も訊かないから」
「泣いてません」
「別にわたしたちが噂を流してるわけじゃないのよ。確かめたかっただけよ。ごめんなさい、そんなにあなたが敏感になってるとは思わなかったのよ」
困惑もあらわに眉を下げてわたしの顔をのぞきこみ、大丈夫そうだとわかると安堵したように息をついた。
「まあ、友だちにここまで庇ってもらえるような人なら大丈夫でしょう」
隊長はきまり悪そうに身じろぎしながら言った。そしてほっそりした手が長い茶髪をさっと梳き、咳払いのあと、わたしに笑顔を見せた。
「さて、じゃあ予鈴も鳴りそうなことだし、質問攻めにしてあなたを煩わせるのも終わりにしないとね。だから最後の質問。深川さん、あなた、赤葉くんのことをどう思ってる?」
(赤葉先輩を……)
わたしは少し考えて、正直に答えた。
「……厳しい方だなという印象は持ちました」
「そういうところを好ましく思ってる?」
「……わかりません」
先輩方は微笑んでうなずいた。
「終わりよ。ごめんなさいね、せっかくお友だちと休んでいたところを」
「いえ……」
お辞儀をして立ち去ろうとするわたしを、深川さん、という隊長の声が追ってきた。
「親衛隊に入らない?」
「すみません」
「そう? 残念」




