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6月 部室(2)

――side: 深川シズカ


 鍵を開けて初めて足を踏み入れた部室は危惧していたほど汚くはなく、整理整頓が必要なようすではあったけれど、悲惨という言葉がぴったりくるにはあと10歩ほど足りない程度には片付いていた。

(よかった)

 黒くつや光りする例の害虫が飛び交っていないというだけでもほっとしてため息をついた。

 赤葉先輩が室内のむっとする空気に眉をしかめて換気のために窓を開け始めたので、わたしもあわてて手近なところから窓を開けていった。

「思っていたよりはましだな。物がない」

 赤葉先輩は部屋を見回して、わたしが抱いたのと同じような感想を口にした。

「そりゃそうよ。大して活動してなかったんだから、物も増えようがないわ。8割が幽霊部員だしね」

 部長は隅に積まれていた椅子を3脚がたがたと引っぱりだして、テーブルを囲むように向かい合わせに並べた。そしてわたしたちに座るように勧めると、自分も足をくんで座った。

「……園芸部は部員数5人じゃなかったか? ひとりしか真面目なやつはいないのか?」

「その言い方だとわたしたちが不真面目みたいじゃない」

「違うのか?」

「違うわよ。リソースの割り当ての問題よ、これは。時間と労力を別のことに投入してるってだけ」

「それでトラブルに巻き込まれているんだから世話はないな」

 部長は赤葉先輩を睨んでくちびるをかんだ。

「……余計なお世話とも言えないわね、わたしの今の立場だと」

 わたしはそんなに面識がない先輩方の会話に割って入ることもできず、なぜ自分はここにいるんだろうとばかり考えて居心地の悪い思いをしていた。事情がわからないために何か言うこともできなくて、蚊帳の外で困り顔をしているよりほかはなかった。

 赤葉先輩はわたしのそんなようすに気づいた。

「そろそろ本題に入るか」

 部長もうなずいた。しかし言いあぐねるようにうつむいて爪をいじり、黙って待っているわたしたちに弱り切った笑顔を見せてまたうつむいた。

「おい」

「わかってるわよ」

 しびれを切らせた赤葉先輩のせっつきにため息をついて部長はようよう顔を上げた。

「……実はね、わたし、婚約したの。この春にね。大学を卒業したら結婚するのよ」

「それは、おめでとうございます」

「うん、ありがと」

 幸せいっぱいという感じでもなかったのでおそるおそる祝福の言葉をかけたら、部長は苦笑いでその言葉を受けとった。

 赤葉先輩はずばずば切りこんでいく。

「その婚約相手に問題があるのか?」

「ううん、そうじゃないの。あの人はいい人よ、たぶん」

「たぶんって何だよ」

「結婚して一緒に暮らすまではわからないことってあるでしょ。とにかく、婚約者じゃないの」

 ここまで言って部長はまたうつむいて黙ってしまった。赤葉先輩が、加賀見、と名前を呼んで続きを促すと、部長は用心深そうに小声で言った。

「わたし、婚約者とは別につき合ってる相手がいるの」

「いいんですか?」

 わたしが驚いて身を乗り出すと、部長はふてくされたようにくちびるをとがらせた。

「よかないわよ、やっぱり。でも、だって、仕方ないでしょ」

 赤葉先輩は呆れを含んだ吐息を漏らした。

「で? どういうやつなんだ?」

「……あんまり、すてきっていう感じじゃないわ。でもかっこいいし、わたしには優しいし、何て言うかほっとけないの。彼にはわたしが必要なのよ」

(うわぁ)

 わたしはコメントを差し控えた。だめ男を好きになる女の典型を見ている気がした。

「お前が必要?」

 赤葉先輩は容赦なく鼻で笑った。

「加賀見、お前、橙花と付き合っていたときも同じようなことを言ってなかったか? もう忘れたのか? お前と別れてあいつはどうだよ? あいつはお前を必要としていたか?」

「チトセは関係ないでしょ! 彼はチトセとは違うのよ! チトセは周りにいくらでも女の子いるけど、彼はそういうことはしないもの」

 わたしは急いで口をはさんだ。

「あの! それで、どれくらい前から付き合っているんですか?」

「え? うーん、1年くらい前からかな」

「彼氏さんのお名前は何ておっしゃるんですか? お歳は?」

 急に部長の口が鈍くなった。

「言ったほうがいいの?」

 ガタッと音がして、反対側の横を振り向くと赤葉先輩が立ちあがっていた。うんざり感のにじむ声で先輩は言った。

「お前いい加減にしろよ。それくらいも言えないなら助けてほしいとか言うなよ。相手もわからずどうやって助けろって言うんだよ。帰るぞ」

「言うから。座ってよ」

 部長も怒ったように返した。わたしはひたすら心の中で、仲良くやってください、と念じた。

「山本マサキよ、山本マサキ。歳は25。携帯の番号はわかるけど住所とかは知らない。――待って。今紙に書くから」

 部長はかばんからルーズリーフと大きなペンケースを取り出し、ペンケースの中をじゃらじゃらとあさってピンク色のインクペンを選んだ。

「黒でいいだろ」

「うるさいわね」

 先輩方の言いあいはどんなわずかな機会も逃さず行われる。

「25歳なんですね。ご職業は?」

「俳優になるんだって彼は言ってるわ」

 俳優志望だということは職業ではない。しかしここで正確な答えを追求することがよいことだとは思えず、重ねて尋ねることは避けた。

 赤葉先輩がまた何か余計なきつい一言を言いはしないかと心配してちらりと横目で見ると、彼はルーズリーフの上のピンク色の文字を真剣な表情でじっと見ていた。部長が彼との出会いやどうやって愛をはぐくんでいったかということをわたしたちを説得するような口調で懸命に話しているあいだも、聞いているのかいないのか視線はピンクの文字に吸い寄せられていた。何度か目を瞬かせ、まさか、と呟いた。

「青のマ○ラッティ男……?」

「え、なんでマサキの乗ってる車を知ってるの? ねえ、マサキのこと知ってるの?」

 部長が興奮気味に詰めよるのを鬱陶しげに振り払い、赤葉先輩は頬骨の上のあざや口の端の切り傷をそっとなでた。

「山本マサキは青のマセラッティに乗っているんだな?」

「ええ、そうよ」

「ならたぶん、オレも知っているやつだな」

「ご友人ですか?」

 わたしの問いかけには極度に冷たい返しがあった。

「オレはそこまでの博愛精神は持ち合わせていない」

「そ、そうですか……」

「ちょっと。どういう意味よ」

 案の定部長が噛みついた。

「意味くらいわかるだろ。まったく、お前の男の趣味の悪さはどうなんだ、加賀見? 橙花といい、マセ○ッティ男といい……わざとやっているのか?」

「あんた、わたしを馬鹿にしなければ一言もしゃべれないわけ?」

(やめてー)

 赤葉先輩に歯に着せる衣がないのは初めからだったけれど、徐々にそれが部長にも移ってきているようだった。二人称があんたになっている。

 わたしはなんとか話の軌道修正を試みた。

「あの! えっと、好きな人がいるのに別の人と結婚しなければならないことでお困りなんですよね?」

「違うわ、そうじゃないの」

 部長は首を振った。

「彼、お金がなくて……。わたしも自由にできるお金なんてほとんどないの。だってそうでしょ、わたしまだ未成年だし……」

 彼女がいちいち言い淀むせいでまったく要領を得ない。それでもわたしたちはできるだけ辛抱強くあろうと努力した。

 部長はだしぬけに言った。

「こんなことが親に知れたら殺されるわ。学園にも知られたくない。お願い、ほかには話さないって誓って」

 わたしは赤葉先輩が了承するのを見てから了承を返した。それでも部長は躊躇していたけれど、やがて口ごもりながら弁解がましく話しはじめた。

「両親からお金を借りたの。……その、無断で。でも、借りただけよ。今は返せないけど、返すつもりはあるわ」

「そうなんですか……」

「それだけじゃないの! 母が変に思いはじめてるってマサキに言ったら、じゃあ代わりに何か換金できるような物をって……」

 そこで言葉を詰まらせ、何度も嗚咽をこらえるように鼻をすすった。しかし堰が決壊してしまったらしく、部長の褐色の目から涙が滂沱として流れ始めた。

「いけないことしてるの、わかってたわ。でも彼を助けたかったのよ。嫌われたくなかった。わたし、マサキが好きなの」

「そうですよね」

「わたし、このままじゃわたしたちふたりともだめになるから別れようって言ったわ。本当よ。でも彼、受け入れてくれなかった。それだけじゃなくて、結婚しようとまで言ってくれたの。結婚……したいけど、絶対家族は許してくれないわ。そんなのわかりきってる。

 どうしたらいいのかわからないの。マサキは、将来ふたりのものになるものを前借りしてるだけだって言うのよ……」

 ハンカチを目に押し当ててうつむく部長の首にポニーテールに結った山吹色の髪がさらさらとかかった。

「マサキ、わたしの両親に会いたいって言ってるの。うれしいけど……でも、親は彼に会ってもきっと喜ばないわ。そう言うと、彼、怒るのよ……。わたしがそんなに親がどう思うかを気にするなら、わたしがしてたこと――家の中のものをとっているってことをばらすって……。わたし、どうしたらいいの?」

 彼女がすべきことは、彼女以外の人間にはわかりきっている。まずはその彼氏と別れることだ。どんなリスクがあろうともそうすべきだ。けれどそれを言ったところで彼女が聞きいれるかという点には疑問が残るから、何と言ってさしあげればいいのか、どうしたら彼女を助けられるのか、何も思いつかなかった。

 赤葉先輩は苦り切った表情で部長の告白を聞いていた。


 号泣してしゃくりあげる部長をなぐさめて、落ち着いたところで昇降口まで送っていった。それから赤葉先輩が待つ部室まで取って返した。赤葉先輩は椅子に寄り掛かるように足をくんで座っていて、不機嫌そうに眉にしわを寄せていた。

「先輩」

 呼びかけると、彼は顔を上げ、長いため息をついて首を振った。

「馬鹿女だよな。何だあれ? 理解不能だ」

 同意を求めるように視線がこちらを向いた。わたしはそうですねとも言えず、あいまいに笑うにとどめた。

「先輩は部長と親しかったんですか?」

「加賀見と? いや。付き合いは長いけどな。こういうところに幼稚舎とか初等部とかくらいのころからいると、みんな幼馴染みたいなもので、お互いのことはよくわかっているんだ。親しいというよりは気安いんだな」

「はあ、そういうものですか」

「ああ。現にオレは今まであいつの病状があそこまでひどいとは知らなかった。一昨年くらいに橙花とのことで相談されたときにはもう少しましだった気がするんだが」

「病状?」

「だめな男ばかり好きになるんだ、加賀見は。罰ゲームでもやっているのかと思ったが、そうじゃないらしい。となるともうあれは病気だろ」

 赤葉先輩は、座れよ、と椅子を指した。わたしは着席して、帰ってくる途中にクラブ会館1階の自動販売機で買ったお茶を差し出した。先輩は礼を言って受け取った。

「馬鹿馬鹿しいが、相談に乗った以上は何らかの解決策を示さないといけないだろう。まずはその方針を決めようか」

 その言いようにひっかかりを感じて、つい非難がましく言ってしまった。

「……馬鹿馬鹿しいですか?」

「そうじゃないか?」

「窃盗は犯罪です。犯罪は馬鹿馬鹿しいことではないと思いますが……」

 赤葉先輩は小揺るぎもしない。

「そうだな。だがこの程度の家庭内の窃盗では警察は動かない。家族は届け出さえしないだろう。犯罪になりようがない」

 わたしはなけなしの勇気を振り絞ってなおも言いつのった。

「でもそれを教唆して盗品を売っていた男がいるとなれば話は違ってくるんじゃないですか?」

「さて、それを証明できるかが問題だな」

「そもそも人が真剣に悩んでいることを馬鹿馬鹿しいなんて……」

 赤葉先輩はテーブルをこぶしの関節でコツコツと叩いた。

「真剣に悩んでいる? オレはそうは思わなかったな。加賀見は都合のいい決着を望んでいるだけだろう。学園にも親にも知られないで、婚約は維持したまま、山本マサキとは要求を取り下げてもらって付き合いつづけたいんだ。そういうことしか言っていなかったじゃないか。でもどうやればそうできるのかがわからなくてオレの手を借りようとしたんだ。オレなら無理も通せると期待しているんだろう。まったく、気安いのも考えものだよな」

 陰鬱な口調だった。

「……そう思われるなら、なんでお引受けになったんですか?」

 硬い、皮肉な笑みが向けられた。

「山本マサキがこの学園の女を食い物にしたのは加賀見が最初でもなければ最後でもないからだ」

「それはどういう……」

「執行部が管理運営する情報サイトを見たことはないか? 女子生徒が青い○セラッティに乗った男に声かけされる事例が相次いでいる。車に連れ込まれそうになった生徒もいる。それも氷山の一角だろう。

 山本マサキは先日別件で逮捕されたが、どうせ何も懲りてはいないだろう。また繰り返すはずだ。だからここらでしっかり過去を清算して社会人として正しい生活態度を身につけてもらうのも悪くはないんじゃないか。それに、個人的な恨みもあるしな」

「何かされたんですか?」

 先輩は虚をつかれた顔をした。

「なんだ、知らないのか。このあいだ、校内で傷害事件を起こしたのが山本マサキとその仲間だ。被害者はオレ」

「だ、大丈夫なんですか?」

 びっくりして目を見開いて尋ねると、赤葉先輩は、問題ない、と言って肩をすくめた。

(うそー……そんなことがあったなんて……)

「あの、じゃあ部長の件は……」

 赤葉先輩は首を振って、ばっさり切って捨てた。

「依存だろ、あれは。DVのハネムーン期みたいなもので、相手との人間関係に依存しているんだ。言って聞くとは思えないな。山本マサキを刑務所にぶちこむかして物理的に引き離すのが得策だろう」

 そう言うと胸ポケットから挿してあったボールペンを抜き取り、部長が山本マサキの情報をピンクのインクペンで書きちらしたルーズリーフを取り上げてひっくり返し、お互いの分担を書き始めた。

「オレは山本マサキについて調べる。余罪はいくらでもあるだろ。追及できるかは怪しいが。

 お前は――あー、悪い、名前は何だったか……」

「……深川です。深川シズカ」

「じゃあ深川、お前は加賀見からできるだけ話を聞きだしてくれないか? 山本がどうやって近づいてくるのかとか、どうやって窃盗させるのかとか。窃盗でも立件できるかもしれない。

 オレはあいつのああいう話を聞いているのはどうもな……。腹が立ってだめだ。お前のほうが適任だろう。じゃあ、そういうことでいいか?」

「はい。……あ、すみません、いいですか?」

「何だ?」

 わたしは図々しく聞こえないだろうかと恐れながら言った。

「メアドを教えていただけませんか? 連絡が取れるようにしたいんですけど……」

 これを言うのはすごく勇気が要った。赤葉先輩は生徒会長らしいストイックさとカリスマでとくに下級生から人気が高い。そしてみだりに電話番号やメールアドレスを教えてくれないことでも知られている。誰が一番早く赤葉先輩とのホットラインを敷けるかを競争している同級生がいるらしいことも、ユウコから聞いたことがあった。

「ああ、そうだな……」

 沈思黙考する短い間があり、わたしは断られるのではないかとドキドキしながら待った。

(そうですよね……いえ、大丈夫です、気にしていません……はい、ではご都合のいいときにお声をかけてください……)

 断られたときに何と言うか頭の中でシミュレーションまでしていた。

 しかし、赤葉先輩はわたしの目を見つめ、思ってもみなかった言葉を口にした。

「深川、お前、執行部に入らないか?」

「えっ」

 先輩の指の上でボールペンがくるりと回った。

「執行部はグループウェアを使っているんだ。いちいちスケジュール帳をつき合わせながら会う日時を決めるのもかったるいだろ。オレの空き時間を検索して自分の都合のいい日時に合わせて予約を入れておいてくれたらいいから。文書やデータも共有できるし、そのほうが便利だろ」

「でも、わたし、執行部のお仕事なんて……」

「忙しいときの手伝い要員という扱いにするから。いいよな?」

 正直なところ、気が進まなかった。なのに、もちろん例によってわたしはうなずいてしまっていた。

「え、えーと、はい……」

「じゃあオレから推薦しておく。明日か明後日には執行部長が入部届けを持ってお前に会いに行くと思う。そのつもりでいてくれ」

 そう言って赤葉先輩が立ちあがり、辞去の言葉を口にして部室を出ていくのを、わたしは座ったままで呆然と見送った。


定期更新を維持するのが難しいので不定期更新にさせてください。

こちらの勝手な都合で申し訳ありません。

拙作を読んでいただいてありがとうございます。がんばります。

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