4月 入学式
――side: 深川シズカ
その春、わたしは都会の高校に進学した。親族を含めてわたしの家族は全員その学校の卒業生で、わたしもそこへ通うことを当然のように期待されていた。何につけても不便な田舎の家から出たい、そういう若者らしい気持ちもあった。学校は家から1時間くらいの距離ではあったけれど、幸いなことに知人の紹介でわたしひとりには大きすぎるほどのアパートを市中に借りることができたので、週末の買い物くらいでしか訪れないこの街の風物に囲まれてしばらく過ごすのもいいだろうと、新しい暮らしを頭に描いては楽しんでいた。
必死の受験勉強を乗り越えてやっと手にした合格通知。私立園生学園。良家の子女が多く通う幼稚園から大学までの一貫校で、いわゆるお金持ちの子どもたちの学校として全国的な知名度があった。卒業生たちはそのままエスカレータに乗って大学へ進学する場合も多いけれど、学業もとても盛んで、もっと偏差値の高い大学に進学する比率も高くて進学校の雰囲気も強かった。わたしはそういうところも気に入って家族の期待に添うようにしたのだった。
幼いころから、あなたも通うのよ、と何度も聞かされてきたし、憧れを持ってきた。とても有名だったし、よく話題に上った。だから、その学校のことを、わたしが別のところで違うように知っていたことも、入学式のその日まで思いだせなかった。
(この校舎……)
正門から入学式が行われる講堂へと続く道の途中。年月を経ていっそう美しく見える時計台が特徴的な、大きな煉瓦造りの建物に気づいて、わたしは目をぱちくりさせた。
(覚えがあるような)
急に立ち止まったわたしに、母が数歩先で振り返ってふんわりと微笑んだ。
「ここが今日からあなたの学び舎になるのよ、シズカ。素敵なところでしょう」
「ええ、そうね……」
嬉しそうな母には申し訳なかったけれど、わたしはとてもそんな気分ではなかった。不思議な予感、胸騒ぎがして、急に冷たくなったような体を持て余しながら、目を見開いているだけで精一杯の心地だった。何かが頭をかすめて、わたしは予感に導かれるように手提げかばんを開いて園生学園のパンフレットを取り出した。
ページを開くまでもなかった。表紙には麗しい方々がこの時計台前の芝生でくつろいでいる写真が使われていて、それを見た瞬間にすべての疑問や既視感の謎が解けた。
「あら、まあ、そんなことが……」
今までろくすっぽ見ることもしなかったパンフレットを今このタイミングで凝視している娘に母は怪訝そうな顔をしたけれど、とくに何かを訊くこともなく、入学式に遅れてしまうわ、とそっとわたしの肩に手をあてて促した。
満開を過ぎた桜の咲く道を、わたしはパンフレットに顔を突っこむようにして読みながら歩いた。そして生徒会からのメッセージの欄に書かれてあるそれぞれの名前を確認して、ようやくわたしは自分の身に起きたことを悟ったのだった。
わたしは物心ついたときから自分にもうひとつ記憶があることに気づいていた。引っ込み思案な子どもだったのでそれを誰かに言うこともなかったし、もうひとつの記憶のお陰でそうすべきでないこともわかっていた。
もうひとつの記憶のわたしは、容姿も心もびっくりするほどわたしそっくりだった。だから深く考えることもなく、そのわたしも今のわたしも同じ存在として自然に受け入れていた。
(でも、まさか、ここが乙女ゲームの世界だなんて)
わたしは真っ白な頭で入学式を夢うつつに過ごした。
(どうしてわたし、こんなところにいるんだろう?)
それはいくら思いだそうとしても、眠りに落ちる瞬間のように、さっぱり記憶にはなかった。
入学式が終わり、混乱のまま、流れに任せて1年1組の教室にたどり着いた。前の黒板に貼ってある座席表を見て、指定された窓際一番後ろの席に座った。そのまま今後の身の振り方をぼーっと考えていると、突然、前の席の女の子が振り返ってわたしの名字を呼んだ。
「深川さん」
知らない人からいきなり声を掛けられてびくっとしてしまったけれど、取り繕ってあいまいに微笑んだ。
「……はい。あの、どうかしたの?」
「わたし、福田ユウコっていうんだけど、深川さんって外部受験組よね?」
知らない人に話しかける恐れなどどこにも見当たらない彼女に感心しつつうなずくと、福田さんはにっこり笑った。
「わたしは内部進学なんだ。女子が増えてうれしいわ。このクラスって、見てもらったらわかると思うけど、男子ばっかりなのよね」
そう言われて初めて周りを気にして見てみると、確かに男女比率は大きく偏っていた。
「数理で差が出たのかなあと思うんだけど、ちょっと寂しいのよね」
「どうして数理で差が出たら男女比が偏るの?」
「えっそれは成績順にクラス編成してるからよ。席だってそうよ。じゃなかったらハ行のわたしたちがこんな位置に座るわけないでしょう」
気がつかなかった?と言われると、自分の注意力散漫ぶりを恥じつつ小さくうなずくしかない。
「ここ、1組でしょ。成績上位30人のクラスなのよ。わたしが4番で深川さんが5番」
「え、ここ、そんなに露骨なことやるの?」
わたしがぎょっとしつつ尋ねると、福田さんは笑って肩をすくめた。
「クラスはそうだけど、席なんて最初だけよ。そのうち席替えするし。ま、この学校、実力主義だから。早く慣れなよ」
良家の子女らしくない思いがけない競争意識の高さに、わたしはついていけるかどうかに早くも不安を感じた。乙女ゲームの学校なんだから、みんなそのへんは適当にやっているものとばかり思っていたのに。
ホームルームが終わると帰宅してもよいとのことだったので、わたしは早々と帰った。とりあえず状況を整理しなくては、何がどうなっているやら、どうすればいいのやら、さっぱりわからなかった。
――side: 福田ユウコ
都心を外れた、万葉集の時代から続く地名を残す閑静な学園、園生学園。世間や俗っぽさというものから忘れ去られたような良家の子女ばかりが通う退屈な学校。未来の権力者たちが、大人しくゲームセンターにでも行っていればいいのに、権力争いをして政治家ごっこで遊んでいるようなくだらない場所。それがわたしにとってのこの学校だった。
入学式の日も、朝、両親と住んでいるマンションを出て学校へと歩きながら、うんざりしてため息をついた。
(排気ガスが煙いのよ。若いんだから自分の足で歩けよ、横着者どもめ)
南門へと続く道路は朝からちょっとしたモーターショーの様相を呈していた。なんのことはない、ずっと連なる高級車は、生徒たちの送迎車なのだった。
(ここは住宅街でもあるのよ? 近隣住民は毎朝の渋滞に迷惑してるんだから)
学校の南門には大きな駐車場があって、生徒の乗り降りはそこですることになっていた。住宅街の中は通り抜け禁止で、指定されたこの道を通るしかない。それがわたしのような徒歩通学者にも適用されるのだから嫌になる。自宅マンションが南門側にあるのではなかったら朝から排気ガスを肺いっぱい吸い込んで寿命を縮めずにすむのに、とついつい腹も立つ。
高校生になって何か変わるかなという期待と、どうせ似たようなものだという諦念と、朝の不機嫌さとが胸の中でぐるぐる回って、どうでもいいやという投げやりな気分で入学式の式場となる講堂へと入った。
入り口で風紀委員のご丁寧な身だしなみ検査があって、スカート丈や校章の有無を調べられたが、ただの時間の無駄だった。制服は理不尽なくらい高価なだけあってデザイナーズブランドのもので、そのデザインは普通に着たときがもっとも上品で洗練されて見えるし、誰もいちいち反抗心なんかを制服で表現したりしない。それにこの学校には制服をクリーニングにも出せないような生徒はいない。つまり風紀委員は仕事をしているふりをしているようなものなのだ。予算の何割かは返納するべきだと思う。
式が始まるころになってひとりの女の子が駆け込んできた。長い綺麗なピンク色の髪の、びっくりするような美少女だった。
「ごめんなさい! まだ始まってないよね?」
知らない子だった。あんなに可愛ければ一度見たら忘れるはずないので外部受験組なのだろうとすぐにわかった。
「ぎりぎりね」
「あーよかった!」
美少女は注目を一身に集めながら列の最後尾に並んだ。
わたしは入口の風紀委員を睨んだ。
(何やってんの!?)
式の初めの校歌斉唱が何のためにあるのかわかっていないのだろうか? あれはもちろん、遅れてきた生徒が注目を浴びずに入って来れるようにあるのだ。その場合の誘導も風紀委員の仕事ということになっている。
風紀委員はわたしの睨みにも気づかず、美少女のほうを呆けたように見ていた。
(馬鹿め)
呆けていたのは風紀委員の男だけではなかった。むしろ女子がひどかった。式を進行している生徒会の先輩方や近くに並んで座っている、いわゆる『六葉一花』の男子生徒に暑苦しいほどの関心や秋波を向けている。向けられているほうはなぜあの視線を浴びて涼しい顔をしていられるのか、わたしは真剣に疑問に思った。心頭滅却すれば火もまた涼し、のような高僧の心境に至っているのだろうか。
(どうでもいいけど)
生徒会執行部で3年の首席である赤葉キョウスケが生徒会会長からの挨拶ということで壇上に上がったときの彼女らの落ち着きのなさといったらなかった。まるで赤葉キョウスケが教祖かアイドルかのように頬を染めて見つめ、彼が言葉を区切るごとに大きくうなずいていた。憧れの赤葉会長にもったいないお言葉をいただいて感激しています、みたいな感じだった。大したことは言ってなかったのに。ありきたりの、君たちを歓迎する、大いに学び、遊び、学園生活を豊かなものにしよう、的な内容だった。別に赤葉キョウスケにケチをつける気はない。わたしの気に障るのは、彼女たちの媚びた目つきなのだ。
答礼として1年の主席である青葉ミズキが舞台に上がったときも同じくわたしは閉口した。加えて、青葉の利発そうな美少女然とした童顔を見ていると、なんとなく劣等感が刺激された。青葉とは初等部からの付き合いだが、彼は一度も学年首席を誰かに譲り渡したことがない。わたしが勝手にライバル視しているだけだが、相手が女であるわたしよりも可愛い分、余計つらい。
残りの、来賓からの挨拶だの祝電の読み上げだの三文の値打ちもない話を右から左に聞き流しつつ新たなクラスの顔ぶれを確かめていると、もうひとり見知らぬ女の子がいることに気がついた。クラス編成は大体いつも似たような顔ぶれになるから、見覚えがないということはこの子も外部受験組なんだろうなと見当をつけた。
色白で清潔そうな黒髪を肩口で切りそろえている。少しうつむき加減だから表情はちゃんとはうかがえないが、まったく落ち着いているように見えた。大体外部からの子は『六葉一花』を見ると多少なりとも興味深そうにするものだが、この女の子は関心のかけらも見せていない。隣に青葉が座っているというのに。
(この子とは仲良くなれるかも)
そういう気がした。
式が終わり、中等部からの友だちと会って雑談をしてから教室に入ると、先ほどの黒髪の女の子が誰とも話そうとせず窓際の一番後ろの席でぼうっとしているのを見つけた。わたしの席は彼女の前だったので、席についてさっそく話しかけた。
「深川さん」
周りに関心を払っていなかったようで反応は鈍かった。
「……はい。あの、どうかしたの?」
「わたし、福田ユウコっていうんだけど、深川さんって外部受験組?」
黒髪がさらさら動いて縦に首が振られた。
「わたしは内部進学なんだ。女子が増えてうれしいよ。このクラスって、見てもらったらわかると思うけど、男子ばっかりなのよね」
わたしの列の一番前には青葉が当然のように座っていて、周りに何人も彼の仲間がいた。いつもそう。青葉はいつも輪の中心にいて、いつもそこから明るい笑い声が聞こえてくる。人の劣等感をぐりぐり刺激するやつなのだ。青葉は『六葉一花』の一葉だし優秀でもあるから、生徒会執行部に入ることはほぼ確実視されている。将来の生徒会長候補というわけだ。
「数理で差が出たのかなあと思うんだけど、ちょっと寂しいのよね」
「どうして数理で差が出たら男女比が偏るの?」
今さらのような疑問だった。
「えっそれは成績順にクラス編成してるからよ。席だってそうよ。じゃなかったらハ行のわたしたちがこんな位置に座るわけないでしょう」
知らなかったとしても、入学式の前から、そしてこの教室でもみんな級友の話ばかりしているから、大体察するだろうに。
(深川さんって、他人に興味ないのね)
それでも不自由しないように一応教えといてあげようと思うのは、もう学級委員としての職業病のようなものだろう。
「ここ、1組でしょ。成績上位30人のクラスなのよ。わたしが4番で深川さんが5番」
「え、ここ、そんなに露骨なことやるの?」
「クラスはそうだけど、席なんて最初だけよ。そのうち席替えするし。ま、この学校、実力主義だから。早く慣れなよ」
この学校は一見『六葉一花』が支配しているように見える。見えるだけでなく、実態でもそうだ。今のところは。それは『六葉一花』が名ばかりではなく実力も兼ね備えているからだ。しかし彼らだろうと気を抜けば追い落とされる。当然だ。この世の中は美貌と家柄だけで渡っていけるほど甘っちょろいものではない。もしそんなことでなんとかなるのならわたしだってすぐに整形手術する。それに、毎年『六葉一花』が在籍しているわけではないのだ。16、7年前に『六葉一花』で謎のベビーブームがあったらしく今年は7家がそろったが、これはただのどうでもいい奇跡なのだ。
(ま、深川さんなら大過なく過ごせるでしょ。問題は――)
ざわめきが聞こえてわたしはそちらへ体をよじった。ピンク色の髪の美少女が教室に入ってくるのが見えた。
(このお姫様なのよね)