6月 部室(1)
――side: 深川シズカ
放課後になっても作業着に着替えることもしないで、わたしは制服のまま庭に出てきていた。次第に強まってきた日差しが白く肌を照らす、いいお天気。咲き誇る薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ぶらぶらと気ままに小路を歩く。
「いい気持ち」
そうしているとだんだんとわたしの顔や心まで綻んでいく。授業で凝り固まった体がふんわりと軽くなるのを感じていた。
「ここなら……」
テラスまで歩き、椅子を引いて座ると、テーブルの上に教科書やルーズリーフ、参考書をかばんから出して広げて置いた。今日は勉強をする日と決めてはいたけれど、それを見れば、清々しい気持ちもどこかへ消え失せそうだった。
(あーあ、やだな……。でもやらないと……)
気分が乗らず憂鬱になりながらも教科書の解法を読みこんでいると、せっかくなんとか集中してきたわたしの気を散らせてしまう人が現れた。
「今日は何してんの?」
「橙花先輩……」
天使。わたしは即座に教科書を放った。
断りなくもうひとつの椅子に座ると、長めのオレンジ色の髪を耳にかけつつ天使は前からわたしの手元をのぞきこんだ。
「あ、勉強? 真面目だな。今日は珍しく制服着たままだし、優雅に紅茶でも飲んでいるのかと思ったら」
「いえ……模試が近いので」
「再来週の週末だろ? まだ余裕じゃないか?」
ちょっと卑屈な苦笑いでしか答えられなかった。
「数学があまり得意ではなくて。今週は青チャートと仲良くすることに決めたんです」
次の模試では、わたしは申し分のない成績を残さなくてはいけないのだ。そのことは園芸部顧問の茶堂先生とかわした庭を残すための条件に入っている。ミユウがわたしのためにまとめてくれた話をわたしのせいで台無しにしてしまうことなどあってはならない。
天使はテーブルに置いてあった、進学校に通う生徒にはお馴染みの青いカバーの参考書を手に取った。形の良いくちびるから、懐かしいな、という呟きが漏れた。
「オレも去年の今ごろまで使ってたよ。バイブルみたいなもんだよな」
「聖なるものなんて感じませんよ……。邪気の塊と言われたら信じます」
天使は笑った。
「ま、頑張れよ。それしか言えないけど」
これこそが聖なるものではないだろうか? だって、天使の言葉だ。
「十分です。ありがとうございます」
「ところでさ、勉強の邪魔になってて悪いんだがもう少し付き合ってくれないか? 今日は用があって来たんだ」
わたしは戸惑いながらうなずいた。
「ありがとう。――夏が近いだろ? ていうか立夏はもう一月も前なんだから夏だよな。でさ、そうなってくると、ほら、あれが出るだろ」
「あれ、ですか?」
「そう、あれ。わかるよな。あの黒いの」
「ああ……」
「うん。だから、今週末、事務管理課の施設維持の人がバルサンしてくれることになってんだけどさ、おたくの部室がちょっと問題なんだよな」
「部室?」
「そう。はっきり言えば、掃除してもらいたいんだよ」
わたしは目をぱちくりさせた。園芸部に部室があるという話は今初めて聞いた。
(あるんだ)
今まで誰もその存在を教えてくれなかったし、弱小部なのでそんなものがあるとも思わなかった。そこがわざわざ副会長が注意をしに来る程度に掃除が必要な状態だったとしても。
「普通教室棟の西館以外は、うちは基本的に清掃業者を入れてるんだが、クラブ会館の部室は例外なんだよ。部員が掃除することになってる。入学して3カ月経ってないし、知らなかったかもしれないけどさ。
この際だから、きれいにしたほうがいいと思わないか? バルサンの効き目も違うだろうしさ」
「はい、すみません。そうします」
怒られたわけではない。やんわりと諭されただけ。それでもわたしの顔は火を噴きそうに熱くなった。
(恥ずかしい)
掃除もやらないと思われるのは女として恥ずかしいし、やるべきことができないと思われるのは人間として恥ずかしい。だから言い訳したかったけれど、必死に言い訳しているなと思われるのも恥ずかしいので、わたしはただ殊勝に頭を下げた。
「悪いな」
「いえ。あ、この話、部長は?」
「知ってるだろ。各部の部長には通達してあるから」
橙花先輩は同情的な目でわたしを見た。
「ごめんな。そっちに言えばよかったんだろうけど、なかなかつかまらないんだよな。あんまり学校にも来てないみたいだし」
「え、そうなんですか?」
「いや、オレもよく知らないんだ。クラス違うし」
天使は席を立った。
「そういうことだから、頼むな。じゃ、勉強頑張って」
園芸部に部室があるらしいことはわかった。そしておそらくわたしが掃除をしなければならないだろうこともわかった。何といっても園芸部員として活動しているのはわたしひとりなのだから。しかし、どきどきわくわくしながら初めて足を踏み入れたクラブ会館で部室を見つけたものの、そこは鍵がかかっていた。
(まあ、そうなんだろうな)
普通の教室の半分くらいの大きさの部屋で、曇りガラスにクリーム色のカーテンがかかっていて中はのぞけなかった。
(ものすごく汚かったらどうしよう)
怯む気持ちもあったけれど、何にせよ掃除はやらなくてはならない。
(でも鍵って誰が持ってるの?)
部長か顧問の先生か。少し悩んで、部長を頼ってみることに決めた。先月ミユウとふたりで先生方を脅して以来、なんとなく茶堂先生には会いにくくなっている。
とりあえずシューズロッカーで部長の靴を見て学園にいるかどうかを確かめようと、昇降口に向かった。
ちょうど帰宅する生徒の少なくなる時間帯に当たるらしく、昇降口だというのに人影がなかった。とはいえ校内はまだ活気に満ちている。オーボエの音が聞こえてきて、わたしは少し管弦楽部を羨んだ。部員60名を超える大所帯だから、校内のどこにいても彼らが練習する音が聞こえるのだ。存在を認識すらされていない園芸部とは大違い。
弱小部の悲哀を噛みしめながら3年のロッカー付近にまで来たところで、幸運にも部長の姿があった。帰るところのようで、手にかばんを持っていて、ロッカーの扉を開けたところだった。
「あの、部長――」
「何やってんだよ」
呼びかけた声は、もっと力強い声に遮られた。
「お前か、加賀見、オレのシューズロッカーに手紙を入れていたやつは」
部長はポニーテールに結った山吹色の髪をひるがえしてぱっと振り向いた。わたしと部長だけだと思っていた昇降口にもうひとり立っていた。
(え? この人……)
きちんと整えられた赤い髪、隙なく着こなされた制服、端正な顔立ち――生徒会長の赤葉キョウスケだった。どこかでぶつけたのか口元に痣があったけれど、その颯爽とした格好よさはほとんどくもっていなかった。
部長は彼を驚きと狼狽が混ざった目でしばらく見つめていたけれど、何やら観念したような気まずそうな微笑みを浮かべた。
「ばれちゃったか……ごめんなさい。迷惑だったよね」
「お互い、知らない相手でもないだろ。初等部から一緒なんだから。なんで直接言わないんだよ」
「ごめんなさい」
燃えるように赤いのに不思議と冷ややかな目と寄せられた眉を見るに、赤葉先輩は不機嫌そうだった。いつもそんな表情をしているような気はしているけれど。
「お前の間違いは他にもいろいろある。まず、オレのシューズロッカーは私書箱じゃない。個人的な手紙を渡すなら渡すで、オレの机の上に置いておけ。個人的じゃないやつは役員会室の机の上だ。
次に、手紙を出すときには自分の名前を書くものだ。差出人を伏せて送るなんて失礼だとは思わないのか? 助けを求める手紙を匿名で出す意味はあるのか? いいか、次からは忘れるなよ。
第三に、相談する時期が遅すぎるということだ。ここまで事態を悪化させる前に決断できなかったのか?
最後に、一番重要な点だが、好きになる男だ。お前は相変わらず男を見る目がない」
怒られているのに部長はくすくすと笑い出し、まったく気を悪くした風でも申し訳なさそうでもなかった。
「……何がおかしいんだよ」
「いや、ごめん。ほんと、赤葉くんは変わらないなあと思ったの、そういうところ」
「はあ?」
「真面目でまっすぐよね。いつもそう。覚えてる? 初等部のころ、わたしが泣いてたら叱咤してきたよね、泣く以外にもうやれることはないのかって。思いやりのないやつだと思ったわよ、あの当時は。ほんと、簡単には甘やかしてくれないんだから」
「加賀見……」
赤葉先輩は嫌そうな顔をした。わたしはさもありなんと思う。古馴染みの嫌なところはこういうところ。親しみで言ってくれているのはわかるけれど、他人の前でも子どものころの話をいつまでも持ちだされてしまう。
「でも、こうやって待ち伏せしてくれてたってことは、わたしを助けてくれるつもりなのね」
部長は明るくさばさばと言った。
「ありがとう。でも、いいよ。そうしてもらう義理もないし、だから手紙も匿名で出したんだし」
しかし赤葉先輩は、ふん、と鼻を鳴らして、まったく取り合わなかった。
「いいならなんでオレに手紙出したりしたんだ」
「ごめんってば。甘えてた。つらくって、ちょっと弱音吐き出すくらいならいいよねって」
「お前がよかろうとオレはよくない。ちょっと弱音を吐きだすだけ? そういうのはペット相手にやってろよ。聞かされて、あっそうって流すやつがいるか? いたとしても人としてどうだよ? なあ、そういうやり方はずるいだろ。お前がどういうつもりかは知らないが、お前がやっていることはそういうことだ。オレへの手紙は自分だけの日記帳とは違うんだからな。
相手の好意に甘えるならちゃんと頼めよ。もっと自分で責任を持てよ。それが筋ってもんだろ」
彼の言い方はわたしにユウコを思い出させた。手加減や妥協というものがなく、すでに不動の生き方というものが確立されているような印象。もっともユウコならこういう場面ではもっと辛辣な皮肉を口にするのだろう。
部長はうつむいて片手で顔を覆った。
「もう、ほんと、赤葉くんって厳しいよね。頭にくるくらい」
声は明るい響きのままだったけれど、震えていた。
「そうかよ」
そのまま言葉がなかったから、部長は泣いているのではないかと心配していた。しかしほっとすることに、顔を上げた彼女の目は若干潤んでいるように見えたものの、頬は乾き、気の持ち方はしっかりしているようだった。
「……お願い、赤葉くん。助けて。困ったことになってるの」
「ああ」
(えっ、どうしよう。わたし……どうしたらいいの?)
話は落着したようだった。だからといってここで部室の鍵の話を持ち出してもいいものかどうか、判断がつきかねていた。
声をかけたところを割って入られて、しかたなく先を譲ってはみたものの、予想していたより話は長く深刻そうだった。自分は遠慮してその場を立ち去るべきだとはわかっていたのに、話が終わったら声をかけてください、と口をはさめそうな場面が見当たらなくてタイミングを逃してしまった。ふたりのどちらかがわたしの存在を気にするかと期待したけれど、終始空気扱いだった。
(話、ぜんぶ聞いちゃった……)
まとめれば、部長には何か困りごとがあって、悩むあまり生徒会長に匿名の手紙で打ち明け話をしていたらしい。そして手紙の主を捕まえようと会長が張り込みをしていたところに部長が現れ、そこに間の悪いわたしが話しかけようとしてしまったというのが今の図らしかった。
意を決してわたしは口を開いた。
「あの、部長、少々いいですか?」
部長の顔に広がった困惑の色に、わたしはすぐに話しかけたことを後悔した。
「えっと、深川さん。どうしたの?」
「すみません、部室の件なんですが……」
「部室?」
反応したのは赤葉先輩だった。
「なんだ? 加賀見、お前の友だちじゃないのか?」
「友だち? 違うわ。部活の後輩」
「後輩? 後輩を連れてきたのか?」
「なんでよ。もちろんひとりで来たわよ。わたし、赤葉くんの張り込み仲間かと思ってたわよ。違うのね? ああ、じゃあたぶん、わたしに用があったんだわ。よね、深川さん? ごめんなさいね、変な話を聞かせて」
「はい……いえ……」
悪いのはまぬけなわたしだ。
「それで、あの、部室のことなんですけど。鍵ってお持ちじゃないですか? 部室の掃除をしないといけないらしくて」
わたしは早くこの状況から脱したい一心で急きこむように言った。
「部室の鍵? 顧問の先生に借りに行くのよ。部屋を出るときに返しに行けばいいの。教えてなかった? ああもうほんと、わたしったら……ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ今まで尋ねもせずに……」
「何も気にせず好きに使っていいからね。もともとほとんど使ってなかった部屋だから」
「使ってないのか?」
また赤葉先輩が反応した。
「そうだけど、取り上げたりしないでよね。今度からは深川さんが使うんだから」
部長は警戒のこもった目つきで言い返した。
「しねえよ。そうじゃなくて、だったらそこが使えないかと思ったんだよ」
「何に?」
「お前との話し合いに。他人のいるところでオレが喋っていると聞き耳を立てられる」
「……そうね……」
一理あると思ったのか、部長は慎重にうなずいた。
「彼女も巻き込めば秘密は保てる。お前の後輩なんだろ?」
ふたりの視線がわたしを捉えた。そして何かを待つような沈黙。わたしはくちびるを引き結んで、全力でその何かに気づかないふりをした。
「……」
「……やっぱり悪いわよ」
赤葉先輩は退かない。
「お前の人望を見せろよ、加賀見」
「あるもんなら見せたいわよ」
「もっと努力しろよ」
「強引なのは好きじゃないの」
「希望を伝えることの何が強引なんだよ。やってみる前からぐだぐだと……言い訳ばっかりだな、お前」
「何よその言い方」
「なんだよ。何か文句が――」
「……わかりました! 部長が何にお悩みかは存じませんが、わたしでよかったら協力させてください」
言い争いになりそうな雰囲気を感じて、わたしはたまらず口を開いてしまった。
(ああ馬鹿)
わたしは自己嫌悪で歪みそうになる顔を緊張させ、無理やり口角を持ち上げて笑顔らしきものをつくった。
いつもこうなのだ。わたしをうなずかせるなんて、実に簡単なことなのだ。しつこく頼みこんでもいいし、泣き落しでもいいだろう。今回のように目の前で諍いを始めようものなら一発だ。わたしは不穏な空気に耐えきれなくなって、わたしの意思に反する頼みにさえ、ひとたまりもなく陥落してしまう。それに、知らんぷりを貫き通して、後輩が助力を惜しむくらいの人望しか部長にはないと証明してしまうのも、わたしには難しかった。
「微力ですが、できることならやります」
抵抗は諦めて言った。
「ごめんね、ありがとう」
部長は申し訳なさそうに微笑んだ。