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6月 読書週間

――side: 春風ミユウ


 5月が過ぎ6月となって、学園は読書週間に入った。この間1限の前に20分間の読書タイムが設けられたせいで生徒たちは始業30分前に登校しなければならず、わたしも億劫がりながら渋々早めに家を出ていた。ユウコは不満を隠しもせず、読書くらい生徒の自主性に任せるべき、この時間があったら英単語20は覚えられるのに、と文句を言いたてた。シズカは不平を鳴らすことはなかったけど、かといって協力的でもなかった。朝の部活動時間が削られるのがおもしろくないらしく、初日は未練がましく薔薇の苗のカタログを眺めていて、カタログは書ではないと図書委員に指摘されるや、彼女には珍しく目をとがらせていた。

 教室移動のない休み時間にわたしたちは読んでいる本の見せあいっこをした。

「読書が楽しくないなんてことはないの。ただ、庭にいるほうがわたしはもっと楽しいの」

 シズカはカレル・チャペックの『園芸家12か月』に丁寧にしおりをはさみ直しながら、しみじみと言った。

「この本、わたし大好き」

 ユウコは世界史Bの用語集を表紙だけエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に変えているのをわたしたちにこっそり見せた。

「本を読むことの大切さを否定はしないけどね……。でも、今やらなきゃいけないこと? 言われてやるようなこと? 馬鹿らしい。――まあ、文句を言うのはやめにするわ。これで解決でしょ?」

「ユウコ、それって……」

 シズカのおっとりした声には、感心しない、という色があった。

「シズカ、あんたも思わない? どうして自主性自主性と言いながら読書に関しては例外扱いにするの? 勉強をしようというわたしの自主性はもっと尊重されてしかるべきものでしょ? もちろん、わたしは読書もやるつもりよ、自主的に、勉強のあとで」

 シズカは困ったように眉を下げて、賢明にもそれ以上何も言わなかった。ユウコの反骨精神と天邪鬼は今に始まったことではないのだ。

(まったく、ユウコも変なところでエネルギー使ってるよね)

 基本的にユウコは徹底した合理主義者で、何事をするにも手加減したり悪戯心を出したりすることがなく、わがままを言わないかわりに妥協や我慢を知らなかった。あまり人間的な弱みのないタイプで、インテリ女としては珍しくはないけどお助けキャラの学級委員の性格設定としては変わっているほうかもしれない。意固地になられると辟易してしまうけど、わたしはユウコの辛辣なユーモアをわりと気に入っていた。

「ミユウ、あんたは何読んでるの?」

 問われて、わたしは本の表紙を見せた。

「『自由はどこまで可能か』……ミユウ、あんた、本気?」

「うん。もちろん」

「何その本。それで、結局どこまで可能なわけ?」

 ユウコの皮肉っぽい言いようを、わたしは肩をすくめていなした。

「リバタリアニズムについての本かな。案外おもしろいよ」

「そんなしんどそうなの、よく読むよね」

「そうはいっても新書だよ。そうでもないよ」

 涼しい顔で謙遜したけれど、正直なところ、これが今月の『図書館便り』に載っていた茶堂先生の推薦本でなければ手に取っていたかどうかも怪しかった。

(うん……ほんと、おもしろいにはおもしろいんだけどね)

 茶堂先生の推薦本ということは、この本が執行部の誰かとの話題に上るのかもしれないと予想して借りに行ったのだ。確実に借りられるように執行部室の電話を使って内線で図書館にかけて取り置きまで頼んでおいたものだ。その様子を執行部長の藍葉アカリに見られてしまって、私用に使うなと怒られるかと思ったけど、双子(弟)はだいぶここになれたみたいだねと言ってにこっと笑っただけだった。


 放課後になって、わたしは半ば必死になって校内をうろうろしていた。

(いるはずなんだよ、絶対)

 まずは図書館へ行った。2階建ての独立した建物で、フロアの半分を占める机が並べられた自習スペースにはノートや参考書を広げている生徒たちが何人も残っていた。彼らの顔をひとつ一つ確かめたけど、目当ての人物らしき人はいなかった。レファレンスで許可をもらって書庫まで行きもしたけど、やはり結果は同じだった。

(どこにいるの?)

 旧校舎の資料室や講堂の倉庫まで探したけれど捗捗しくなく、仕方ないのでわたしはローラー作戦を実行することにした。見当をつけず、ただひたすら端から端へとしらみつぶしに探していくという、多人数でやるならともかくひとりでやるには頭が悪いとしか言いようがない作戦ではあった。しかし盲滅法なやり方でもたまにはうまくいくことがある。わたしが読書中のイケメンを発見したのは、北館2階の視聴覚室だった。

「あ、こんなところにいたんだ!」

「……」

「探しちゃった。なんだ、紫葉くんだったんだね」

 『六葉一花』のイケメンのひとり、紫葉マサタカは、ようやくのろのろと顔を上げた。

 電気はつけられておらず、それでも窓からの日射しで十分明るい室内。折りたたみの椅子やテーブルが後方に片付けられているせいか、がらんとして見える白い床の上に、彼は腰をおろして手元に本を広げていた。カーテンと窓が半端に開けられていて心地よい風が入ってくる。彼はかすかに首をかしげた。

 紫葉マサタカの顔は相変わらず端正で、そのくせぼんやりとした表情とあいまって、白痴美の雰囲気を醸し出している。あの何考えてるかわからないところが苦手なのよ、とはユウコの弁だけど、わたしもやりづらさを感じていた。

(読書家キャラはこいつかぁ)

 わたしが校内をかけずり回っていたのも、読書家イケメンと運命的出会いを果たすためだった。読書週間ということはすなわち読書家イケメンとのイベントがあるということを指している。実は入学してから何度も図書館へは足を向けていた。しかし読書家イケメンとの対面の機会はまったくなかった。図書館の住人たるイケメンがいるのがセオリーだろうに、と腑に落ちなかったけど、おそらく実は読書週間という期間設定があったのだろうと思う。

 わたしはゆっくり近づいて、白痴美の手元をのぞきこんだ。

「『美しい町』? 佐藤春夫だよね。また渋いの読んでるんだね」

「……知ってるのか」

「うん。わたしはけっこう好きだよ、その本」

 当然知っている。学園物の乙女ゲームなら読書好きのキャラがいることくらい容易に予想できる。だからわたしはまだ年齢が一桁のうちから一月に20冊は本を読んできた。エリートイケメンたちとの会話で教養をアピールするため、そして読書家イケメンの歓心を買うためだ。

 姿かたちは綺麗でも頭が空っぽな人間のいかに多いことか。でもわたしはそうではない。完璧な外見にふさわしいように知性も備えることが、完璧美少女たるわたしに求められている天命なのだ。

「美しい町――ユートピアだね。佐藤春夫はウィリアム・モリスの『何処にもない処からの便り』を読んでたもんね」

「そう。現実社会を批判するために作られた、鏡としての理想社会」

「わたしにとっては、ここはユートピアなんだけどな」

 わたしがそう言うと、それまで宙を見ていた白痴美は興味を引かれたようにわたしを見た。奇妙に透明な目だった。

「理想社会?」

「うん」

「じゃあ現実社会はどこ?」

(なかなか鋭いじゃないの)

 わたしはにっこりして、何も答えなかった。

 白痴美はしばらく言葉を待っていたけど、わたしが言う気がないのを察してかまた目を手元に落として違う質問をした。

「あんた、この本を好きって言った」

「そうだね」

「どこが好き?」

 わたしはしばらく考えて、同じ質問を返した。

「紫葉くんも好きなんだよね? どこが好きなのか、先に教えてよ。そうしたらわたしも教えるから」

 わたしは勝つためには手段を選ばない。わたしはわたしの信条に従って、後出しジャンケンをすることにした。つまり、白痴美が好きだと言った箇所を好きだと言うのだ。そうすれば勝手に相手は気が合うと思いこみ、わたしに運命的な何かを感じてくれることだろう。

 白痴美は戸惑ったように視線を揺らし、ぽつりと言った。

「……グロテスクな現代社会を批判しながら、その改善を訴える人もまた別のグロテスクな人々だっていう視点」

 無理して共感を示す必要はなさそうでほっとした。

「ああ、おもしろいよね。著者の、社会主義者や無政府主義者と交流したけど美的な側面だけにしか関心を向けなかったってところが。思想を理解して、美しいと思いながら共鳴はしない――」

 白痴美のどこか神秘的なアメジストの双眸が瞬いた。

「佐藤春夫は、ユートピアは実現不可能だと知っていたんだ。なのにあんたは、ここをユートピアだと言う」

 思わず噴き出しそうになった。

(そりゃ、佐藤春夫は乙女ゲーの世界に行ったことがなかったんでしょうよ。男の場合はギャルゲーかな。ていうか、当時テレビゲームなんてなかったよね)

 近い答えを探し、わたしは白痴美を見つめた。わたしは自分の容姿が最高に恵まれていてひどく魅力的なことをよく知っている。何度も鏡の前で練習した愛らしさと清らかさが極まった笑みを浮かべると、言うまでもないことだけど白痴美は目を奪われてわたしを陶然と見つめた。

 わたしは白痴美の耳元に顔を寄せ、秘密めかして小声でささやいた。

「恋をすればいいんだよ。誰かを好きになるの。それから、その人と両想いになるんだよ」

 もちろん、その誰かとはわたしのことだった。これは、わたしのハーレムに加わりませんか、というオブラートに何重にも包んだ婉曲な言い方であり、将来白痴美がわたしを愛するようになる前フリだった。

 白痴美の石膏細工のような頬に朱が差し、わたしはフラグを立てたことを確信した。

(押した後は引かなくちゃ)

 そうすることで物足りない気持ちにさせることが重要だといつか読んだ恋愛指南書に書いてあったのを思い出して別れを告げようとした。そのわたしの腕を白痴美がつかんだ。

「じゃあ、また――」

「あんたの答えをまだ聞いてない」

 今まで聞いたことがないような強い語調だった。

 わたしは少し鼻白みながら、当初の予定通り、後出しジャンケンで得た答えを口にした。

「あ、そうだっけ? 紫葉くんの答えとほとんど同じだよ。結局、『美しい町』は実現しないってところ」

 一瞬、白痴美の顔に失望の陰がよぎったのを見た。

「……そう」

 そして彼はわたしの腕を離した。




――side: 紫葉マサタカ


 本が好きだった。それも、幼いころから好きだった。オレは昔から積極的に人のあいだに入っていくことを好まず、本の世界に浸ってばかりいる子どもだった。こうしたオレの内向きの性質を、親は嘆きもしなかったが褒めもしなかった。しかしオレは子どもながらに彼らが、もし自分たちの子どもが青葉ミズキのようだったら、と考えていたことは知っていた。あるいはそこに別の名前が入ることもあった。同年代のほかの『六葉一花』たち――この学園に燦然と輝くスターたちだ。彼らのいずれのようでも親は喜んだだろう。

(……いや、双子たちみたいだったら、どうだろう)

 オレとは対極にあるような彼らだったら――。考えてみたが、よくわからなかった。紫葉家の家系から彼らのような明るくにぎやかな人物が出るなんてことは、うまく想像できないことだった。

(まあ、どうあれ、別に……)

 構いはしなかった。だって、他人が望むように生きる人生に、一体どれほどの意味があるだろう?


 オレはお気に入りの本を片手に緊張のほどけた放課後の校内を歩いた。グラウンドからは運動部が活動している音がしている。掛け声や応援、笛の音、ボールが跳ねる音、ときどきわく歓声。そして校舎ではどこにいても管弦楽部の部員たちがめいめいに練習している音が聞こえていた。

 人のいるところを避けながら進み、北館2階の視聴覚室へたどり着いた。使用頻度が少なく防音になっているこの部屋は、オレのお気に入りの場所のひとつだった。

 空気を入れ替えるために窓を開け、部屋の中央に座りこんで、持ってきた本を開いた。名作選の佐藤春夫集。何度も読んだせいですっかり開き癖がついてしまったところの話――『美しい町』。オレは本に没入した。


 読み終わって再びページを冒頭に戻し、いつもするように話の内容を反芻していたときだった。突然ガラリとドアが開き、覚えのある声が聞こえた。

「あ、こんなところにいたんだ!」

 明るく軽やかな響き。

「探しちゃった。なんだ、紫葉くんだったんだね」

(どういう……?)

 こんなところにいたんだ、探しちゃった、までは理解できる。しかし、紫葉くんだったんだね、と続くと途端に混乱させられる。

(オレを探していたんじゃないのか……。じゃあ誰を探しているのかもわからずその誰かを探していたのか?)

 そんな馬鹿な話があるだろうか、と顔を上げると、クラスメイトで学年首席の春風ミユウの立ち姿があった。わずかに息を切らせた春風は、オレと視線が合うと華やかな笑みを浮かべた。彼女の中に、オレは『六葉一花』に通じる点をいくつも見ていた。それは優れた容姿、出来の良い頭、そして磁力のように人をひきつけてやまない、ほとばしるような魅力だった。

 春風はゆっくり歩み寄り、オレのそばまで来るとしゃがみこんで本をのぞきこんだ。

「『美しい町』? 佐藤春夫だよね。また渋いの読んでるんだね」

(何の用なんだ?)

 執行部の用事かと思えばそうでもなさそうで春風の意図が読めず困惑したが、それよりもオレは軽い驚きと感心を覚えていた。

「……知ってるのか」

「うん。わたしはけっこう好きだよ、その本」

 オレは今まで『美しい町』を読んだことがある人はおろか、佐藤春夫を知っている人にすら会ったことがなかった。今どきの若者が読む類の本ではないことはわかっていたから仕方ないと思っていたが、それにしても意外だった。

(まさか、春風が)

 こう言っては悪いが、彼女はあまり本など読まなさそうに思える。

 春風は長い髪を片耳にかけ、紙面に目を落とした。薔薇色の頬に長いまつげの影がかかった。

「美しい町――ユートピアだね。佐藤春夫はウィリアム・モリスの『何処にもない処からの便り』を読んでたもんね」

「そう。現実社会を批判するために作られた、鏡としての理想社会」

 ふかしではないかと疑う気持ちは消えてなくなった。春風が、この作品がモリスのユートピア思想と社会改革運動を踏まえていることをわかっているのは明白だった。

 空気に溶けるようなさりげなさで彼女は言った。

「わたしにとっては、ここはユートピアなんだけどな」

 ユートピア。

「理想社会?」

「うん」

「じゃあ現実社会はどこ?」

 春風は意味深長に口元をほころばせ、答えようとはしなかった。オレは、どういう意味だろう、と考えた。現状に満足しているという意味だろうか? それとも家庭に問題を抱えていて学園を逃避の場にしているということだろうか?

(いや)

 現状に不満のない人間がこの本を好きだと言うだろうか? 満ち足りている人間がユートピアなどというものを観念できるだろうか? オレは、しばしばオレを襲う、どこかへふらっといなくなってしまいたいような衝動を思い出した。

「あんた、この本を好きって言った」

「そうだね」

「どこが好き?」

 春風は小首を傾げ、同じ質問を返した。

「紫葉くんも好きなんだよね? どこが好きなのか、先に教えてよ。そうしたらわたしも教えるから」

 自分の考えを口にすることにあまり慣れていなかったし、賛否を尋ねられることはあっても意見を求められることは少なかった。それに、本はいつもひとりで楽しむものであって、内容について誰かと意見を交わしたりすることなど今までなかった。戸惑いつつもオレはなんとか考えを言葉にした。

「……グロテスクな現代社会を批判しながら、その改善を訴える人もまた別のグロテスクな人々だっていう視点」

 春風はうなずいた。

「ああ、おもしろいよね。社会主義者や無政府主義者と交流したけど、美的な側面だけにしか関心を向けなかったってところが。思想を理解して、美しいと思いながら共鳴はしない――」

「佐藤春夫は、ユートピアは実現不可能だと知っていたんだ。なのにあんたは、ここをユートピアだと言う」

 見かけよりも賢い彼女の思想に興味があった。彼女なら、オレや佐藤春夫とは違う視点を示してくれるかもしれないと期待した。

 春風は嫣然と微笑み、オレにさらに近寄ると、耳元でこう言った。

「恋をすればいいんだよ。誰かを好きになるの。それから、その人と両想いになるんだよ」

 甘くとけるような声だった。彼女は今自分が思わせぶりな態度をとったことに気づいているのだろうか? オレの頬は隠しようもなく熱くなった。あまり美人の異性と接したことがない年頃の男がみんなそうなるように。

「じゃあ、また――」

 気がついたら、去ろうとしていた春風の腕をつかんでいた。

「あんたの答えをまだ聞いてない」

 オレに半身だけ向けた春風は一瞬面食らったようにオレを見たが、けろっとして言った。

「あ、そうだっけ? 紫葉くんの答えとほとんど同じだよ。結局、『美しい町』は実現しないってところ」

 オレに芽生えかけていた何がしかの淡い思いは砕かれた。

「……そう」

(……オレはふられたのか)

 どうやらそうらしかった。

 恋はこの世をユートピアにすると彼女は言った。そしてそのあと、オレにはっきり言ったのだ。ユートピアは実現しないと。

(お前なんか好きになったりしねーよ、ってことか)

 彼女は頭のいい女だし、会話の延長線上でとらえると、つまりはそういうことになる。結局オレは春風にからかわれ、もてあそばれたということなのだろう。異性に人気のある者にありがちな傲慢さで。あるいは人に影響力を及ぼすことを楽しむ尊大さで。

(何がユートピアだ。春風ミユウも現実社会の人間じゃないか)

 オレはつかんだ腕を離した。


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