5月 混植
――side: 深川シズカ
(すてき)
テラス席に座って、昨日天使が生けてくれた花束をうっとりと見ながら、何度目になるかもわからない感嘆のため息をついた。
(こんなにきれいに生けていただけるなんて、園芸家冥利に尽きるの)
テーブルの上でブリキの水差しを回して、飽きもせずいろんな角度から眺めた。そしてふと思いついて携帯電話を取り出し、写真を撮って待ち受け画像として設定した。
花を楽しむのに切り花にして花器に生けるなんて邪道だとずっと思っていたけれど、もう意見を変えなくてはいけないだろう。これはこれですてきなもので、場合によってはより一層花が美しく映えて見える。
わたしは名残惜しくも花をそこに置いて立ちあがった。そろそろ作業に戻らなくてはならない。美しい庭をつくるためにやるべきことはたくさんあるのだ。
「ふう」
軍手をはめた手の甲で額ににじんだ汗をぬぐい、手に持ったままだったミントをぽいっと投げた。
「もう、いくら抜いてもあるんだから……」
思わず愚痴が口を衝いて出た。
風通しを良くするために雑草を抜いていたのだけれど、その雑草を駆逐する勢いで繁殖しているのがミントなのだった。このハーブの生命力の強さときたら、凶悪なほどだった。たとえるならピラフの中のグリーンピース、戦隊ヒーローの敵の手下の黒タイツ。いくら取り除いても、というたぐいの厄介さなのだ。
うんざりしながら緑の葉っぱをまとめてぐっと引っぱると、抜くつもりのなかったローンデイジーまで一緒に抜けてしまった。
「ああもう」
抜けてしまったものはしょうがないので、ミントと一緒にくっきりとした白い小花のローンデイジーもまとめて放り投げた。せっかく花が咲いて可愛かったのにもったいない。
旧校舎裏の庭は、わたしの手が入ったことにより、ほぼ薔薇のみが咲く薔薇園から薔薇が中心ではあるけれど混植の庭へと変わっていた。とはいっても正直なところ、薔薇以外のほかの植物にはほとんど興味がなかった。できたら薔薇のみを育てたいくらい。自分でもときどき呆れてしまうくらい、わたしは純粋混じりっ気なしのロザリアンなのだ。だからなぜ混植の庭にしたのかというと、それもすべて薔薇のためなのだった。
好きだからといって同じ種類の植物ばかりを植えた庭は、虫や病気に弱くなってしまう。その植物を好む虫ばかりが異常発生してしまうし、病気が流行りやすい。また、周囲が同程度の生命力を持つ植物ばかりなので、甘やかされてしまって、結果弱い個体となってしまう危険性がある。だからわたしは混植することで薔薇好きの虫の異常発生を抑制し、生存競争をさせて強い個体へと育てているのだ。
それから、単に花や葉の色、形、質感が多様になって庭の見た目が美しくなるという理由もある。とくに薔薇は青色系統の花色がほとんどなく、単植だとどうにも単調になってしまいがちだ。そこで忘れな草やデルフィニウムなどを取り入れると、庭の色彩をぐっと引き締めてくれる。
昨日、橙花先輩が生けたスノーフレークやプリムラといった花も、こういった目的で植えていた花だった。
そして、その混植の庭に欠かせないのがハーブだった。セージ、タイム、ボリジ、カモミールなど香りのよいハーブは、庭仕事をしている最中も一種の清涼剤として楽しませてくれる。それに加えて、そういったハーブの香りを嫌う虫も多く、薔薇などの花に虫が近づくのを防いでくれるので、春先に庭中に種をまいたり苗を植えたりしておいたのだ。わたしはとくにサントリナがお気に入りで、香りもスマートな葉の形も銀色がかった葉の色も花壇に変化を与えてくれるので好んで植えている。この良さを解しない兄は、海ぶどうみたいなハーブだな、などと阿呆っぽいことを言ってわたしをイラッとさせた。ミントもほどほどなら歓迎するのだけれど、増えすぎたらやはり間引かねばならない。
草刈りに奮闘していたから、背後から近寄ってくる足音にしばらく気づけないでいた。
「ねえ、ちょっと」
突然声をかけられて飛び上がるほどびっくりしたわたしは地面に尻もちをついてしまった。
「うわ! 大丈夫? ごめん、そんなに驚かせるつもりはなかったんだけど……」
「あ、青葉くん」
見上げると、同じクラスの男子生徒が目を瞬かせていた。彼は手に持っていた折り畳み椅子やステンレスの棒のようなものや皮のトランクを一旦地面に置いてわたしに手を差し出した。
「深川さんだよね? ごめんね、突然声かけて」
「わたしこそ……」
手を借りようとして土で汚れた軍手をつけたままだったことを思い出し、支えを断って自分で起き上がった。
(なんで青葉くんがこんなところに……)
相対したけれど、今までろくに話したこともない男の人を前にどういう風に振舞えばいいかわからず、戸惑ってしまって、そういうときいつもするように黙り込んだ。そして気まずさをごまかすためにお尻や手の土やほこりをぽんぽんと叩いて払い落していた。ちらっと青葉くんをうかがうと、彼もどこか戸惑っているような表情をしていた。
「訊きたいことがあってさ、ちょっといい?」
うなずくと、
「ここを管理してるのってどこ? 環境委員会? 事務管理課?」
と尋ねてきた。
どうしてそんなことを訊くのかわからず眉を寄せると、青葉くんは可愛らしい笑みを浮かべた。
「ここすごくきれいだから、絵を描きたいだけなんだ。どこで承諾もらえばいいかなって」
「どこの管轄かは知らないけど……べつにいいと思うの、承諾なんて」
「うん、でも絵を描いてたら邪魔になるかなと思って。大丈夫な曜日とか時間帯とか、あれば訊いといたほうがトラブルを避けられるよね」
けっこう場所とるし、と青葉くんは腕を広げて足元に置かれたキャンバスやパイプ椅子を示した。
「僕はしばらくの間、そうだな、1日に1、2時間いさせてもらえれば十分なんだけど」
風が吹いて、青葉くんの柔らかそうなふわふわの髪がもてあそばれた。その下の目はくりくりと丸い。甘く少女じみた彼の容姿のなかで、それらの色彩だけが冴え冴えと鮮やかだった。人跡未踏の南の海のような、くっきりとしたブルー。
(きれい)
薔薇の庭は青が少ない。それなら庭にこの青があっても、悪いはずがあるだろうか?
「……ここ、普段はわたししかいないの。わたしは気にしないから、好きに描いてたら?」
「深川さんだけ?」
わたしはうなずいた。
「わたしもすることあるから話しかけたりして邪魔しないし、薬剤を撒くときには前もって伝えるから。あ、でも、剪定をするときはいちいち断れないと思う。毎日することだし、毎度毎度構わないか訊かれたって青葉くんだって困ると思うの。だから、それだけはごめんなさい」
描いている途中に風景を変えてしまう恐れがあることを伝えると、青葉くんはわずかに首をかしげ、それから了承した。
「うん、大丈夫。カメラ持って来てるから」
「よかった。それじゃ」
背を向けて作業に戻ると、
「え? あ、うん……」
という青葉くんの呆けたような声が追ってきて、わたしの背中にぶつかって落ちた。
――side: 赤葉キョウスケ
「はい? 何とおっしゃいました?」
オレは今耳に入ったことを確認するために訊き返した。
生徒会顧問の茶堂先生は常に微笑みを浮かべているような、いつもの穏やかな表情のまま繰り返した。
「ですから、これは保留としましょう」
そして顧問の受取印を捺さないまま、オレが先ほど提出した書類をつき返してきた。
「薔薇園の管理について急激な改善がみられ、この案のそもそもの部分がもう怪しくなっていますから。本当に薔薇園を更地にする必要があるのか、再評価が必要ですね」
(は?)
「ちょっと待ってください、茶堂先生。去年の決定では――」
茶堂先生は首を振ってオレの抗弁を遮った。
「去年とはもう状況が違うということです」
「しかし茶堂先生――」
状況が違うというなら、それはあらゆることについてそうだといえる。有為転変は世の習いともいうし、生徒は1年で3分の1もが入れ替わり、生徒会役員は半年に一度改選される。学校とは新陳代謝の激しい組織であり、状況が変化することが理由になるなら何もできなくなるだろう。
オレの言葉はまたもややんわりと遮られた。
「いやあしかし、赤葉くんは仕事が早いですね。頼む前にこうやって終わらせてくるんですから」
とりなすような褒め言葉ではあったが、皮肉のようにも聞こえた。
「――恐れ入ります」
「ではその調子で、薔薇園の再評価のほうもよろしくお願いします」
「え?」
「お願いします」
重ねられた言葉、莞爾とした笑み。オレはうなずくしかないことを悟った。
茶堂先生はオレに無駄骨を折らせたあげく新たな仕事まで押し付け、話はおしまいだと身振りで示すと、廊下まで送ろうと立ちあがった。この人が見た目よりずっと押し出しの強い人物だということを失念しているとこういうことになる。オレも仕方なく立ちあがり、見送られて日本史準備室を出た。幸いにも、茶堂先生と同様にオレも仕事を押し付ける相手には事欠かなかった。
環境委員会室へ寄ったあとに生徒会役員室へ戻ったオレを、たいそう気障りな笑顔が迎えた。
「ははは、やっぱり無駄足になったか」
橙花チトセは完全におもしろがっていた。
「やっぱりって何だよ」
オレはつき返された旧校舎裏敷地整備についての書類を腹立たしさに任せて机にバサリと放り投げ、席に幾分乱暴に座った。
「受け取ってもらえなかったんだろ?」
「そうだよ、くそ。何がどうなっているんだ?」
そこで橙花の前であることをようやく意識して、苛々と髪をかきあげた手をさりげないそぶりで降ろした。そして眉間のしわを解いて努めて冷静さを装った。しかしどうやら遅すぎたようで、橙花はくくく、と喉の奥で笑った。
「そりゃ受け取るはずないだろうよ。薔薇園は存続させるつもりでいるんだから」
「ふん、去年とは状況が違うってやつか」
「ああ、茶堂先生にそう言われたわけか。ま、たしかに状況は違うさ。去年までは管理者もいなければ、かばうやつもいなかったからな」
橙花はにやにやしながらマグカップのカフェ・オ・レを口に運んだ。
(うざい)
このもったいぶった態度は一体何なのだろうか? 橙花はどうなのか知らないが、オレはこいつと会話を楽しみたい気分ではなかった。
「……何か知っていることがあるならさっさと言えよ」
「教えてください、だろ? お願いします、があるとなおいいな」
「報告しろって言ってるんだよ。眠いならもう帰れよ、邪魔だから」
橙花は苦笑いした。
「冗談だよ。寝言じゃない」
マグカップを置き、椅子の背もたれに寄り掛かって、橙花は楽しげではあるが真面目な表情を浮かべた。長い指が洒落たオレンジの髪をいじっている。オレからすれば、女かよ、いじるくらいなら切れよ、と言いたいところだが、学園新聞によると世間ではこの仕草がセクシーだと支持されているらしい。世間の見識というものもまったく当てにならない。
「オレの知り合いが見たっていうんだよ。教員室で、茶堂先生と薔薇園のことを話す生徒を」
「知り合い?」
ゴシップの類を聞かせるつもりかと眉を寄せたら、橙花はちらっとからかうような色を口の端にのせた。
「元カノ」
「そうかよ。それで? 詳しい内容は?」
声がとげとげしくならないように注意する必要があった。
「だから、薔薇園を残してほしいって」
「なんでそれで茶堂先生がうなずくんだ?」
本気でわからなかった。
オレは茶堂先生が嫌いではなかった。ある程度尊敬さえしていた。優しいと評判でいつもふやけたような笑顔でいるが、しかし誤解してはならない。茶堂先生は決して緩くない。オレは茶堂先生に好かれているものと思っているが、とはいえ一度も教師と生徒という枠を外れたくだけたおしゃべりをしたことさえなかった。簡単に情に流されるような人ではないのだ。
橙花は肩をすくめた。
「となりには風紀委員会顧問の紺野先生もいたらしいが……。薔薇園をつぶす提案書を出したのは風紀だってことはわかってるよな? その際の根拠が半分でっちあげだってことも? ――その生徒はこう言ったらしい。役員会の決定では不十分、薔薇園は薔薇園として復活させる、つぶす原因となったものを取り除く、それから存廃を論じてほしいって。
たしか、薔薇園でさぼる生徒がいる、タバコの吸い殻が見つかった、虫害がすごい、くらいが理由だったと思うが、最初のふたつは捏造だから先生方も強くは言えなかったんだろう。虫害は薬を撒けば抑えられるしな」
「それは理由になっているのか? すでに決定したことだからと押し切ればいいんじゃないのか。それができない人でもないだろう」
「できなかった理由があるんだよ。その生徒はこうも言った。――願いが聞き届けられなかった場合、全国模試で力を出し切れないかもしれない、とな」
これには驚いたし、感心もした。呆れもした。
「ずいぶん強気だな」
「だろ? たいそうな自信家、そしてくそ度胸だ」
まったくその通りだった。自分の成績が学園に対する取引の材料になるとは、普通の生徒なら考えない。考えたとしてもそれで教師相手に大真面目に取引を迫ったりはしない。そして取引が成立したりもしない。普通の生徒なら。
「で、誰なんだよ、その生徒は?」
もはや好奇心を隠すことなどできそうになかった。嫌な予感もしていたが、オレは無視して促した。
橙花はそうしたオレの心の動きを承知しているみたいな顔をして笑った。
「お前も知ってるやつだよ。春風ミユウ。新しい執行部員さ」
飄々とした言いぶりだった。自分の言葉の与える衝撃の大きさをよく知っていながら大したことでもないように告げる、気取った言い方でもあった。
その名前にオレが衝撃を受けなかったといえば嘘になるだろう。
名前を聞けば姿も連想できた。ピンク色のつややかな髪とキャラメル色の大きな目の持ち主。代わり映えのしない学園生活の中に突然現れた女子生徒。男子生徒ならば、彼女にするならこういう女の子だと一度は想像したような美少女だった。
(あの女)
しかしそのこととオレが彼女を気に入っているかどうかということはまったく話が別で、さらに言えば外見の可愛さと内面の可愛さも別なのだった。
春風ミユウとは前に一度中庭で遭遇したことがあった。気の強い女だった。オレはあそこまで挑戦的な物言いをされたことがなかった。そのせいか、ついむきになって中庭ビオトープの一般生徒立ち入り制限案を策定してしまったが、春風ミユウは自分が執行部の部員になることでオレの企みをかわしてきた。意図したことではなかっただろうが、頭に来るような立ち回りだった。
オレは春風ミユウが再びオレの行く手を遮ったことを知った。
「薔薇園を管理してる子にも昨日会ってきた。そっちはまあ、普通の子かな。物静かで控えめで、人をぎょっとさせるようなことなんか人生で一度もしたことありませんって感じだ」
「中間明けで最初にやったことがそれかよ」
「仕事熱心だろ?」
「そういうことだけは早いな。お前、他人の視線がないと息も吸えないんじゃないのか?」
橙花はいわれのない非難を受けたと言わんばかりに肩をすくめ、オレの言葉を無視した。
「その子、深川シズカと春風ミユウは友人同士だ。もうひとり、福田ユウコって子とよくつるんでるってさ。友人思いじゃないか、なあ?」
何をコメントしろというのだろう? オレが春風ミユウと友人同士というわけではない。
「べつにどうでもいい一面だな」
それが橙花の反撃だということはよくわかっていた。オレの友人関係の希薄さを当てこすられたのだと。
(くそ野郎)
オレと橙花とのあいだでよく交わされるジャブの打ち合いだったが、だからといって寛大になれるというわけではない。人が気にしていることをわざわざ指摘するやつは未来永劫血の池地獄に浮いていていいと思う。
PC上で起動していたグループ・ウェアに新着情報がポップアップされた。開いてみると、件の生徒の情報が載せられていた。橙花による付け足しの情報がふきだしの中に表示されている。深川シズカ。
(知らないな)
名前はなんとか覚えがあったが、顔とは結びつかなかった。生徒情報には写真もあったが、やはりピンとはこなかった。
「深川シズカは園芸部だ。そして、我らが顧問、茶堂先生は園芸部の顧問も掛け持ちしている、実はな。一番大変な顧問をしているから、一番楽な部活の顧問を割り当てられたんだろう。
先生も園芸部の顧問として唯一の真面目な部員がそれなりに可愛いんだろうさ。それが、花が大好きで控え目な可愛い女の子なら尚更な」
そんなことは知ったことではない。
「何考えてる?」
「それをお前に言う必要があるのか?」
もちろん、なぜオレがこれらのことをこいつの口から聞かなければならないのか、ということだ。
「どうあれ、オレは頭越しに話をされるのが好きじゃない」
月に一度の生徒会の資金繰り表の確認を終えて、帰宅してからの予定を頭の中で組み立てつつ昇降口のシューズ・ロッカーを開けたときだった。
「あっ……?」
ひらりと一通の手紙が滑り落ちた。
チッと舌打ちをして、かがんで拾った。
(誰だ? シューズ・ロッカーには勝手に物を入れるなとあれほど……)
ゴミ箱へ捨てようかと一瞬迷ったがそれも躊躇われて、もう一度舌打ちをして手紙を開いた。くだらないことが書かれていたら即座に捨てるつもりだった。しかし、開けてみてそうはできそうにないことがすぐにわかった。
「これは……」
結局オレは手紙を封筒に入れ直してスクール・バッグに突っ込むしかなかった。