5月 薔薇の季節
――side: 深川シズカ
花が咲いていた。
わたしは心が浮き立ち、踊りだすのを感じていた。
(とうとう来たのね)
薔薇の季節が。
一年には四季があり、わたしたちがそれに気を留めないでいてもたしかに季節は巡っている。陽光の強さ、気温だけではなく、そこかしこに季節のしるしがある。心のアンテナをぴんと張っていないと見逃してしまうようなしるしたち。飛んでいる鳥、雑草、出没する虫の様子、開く花の種類――自分から『発見』しないと、どんどん季節は流れ去っていってしまう。
わたしの庭でも、季節のよすがたちをいくつも発見することができた。それらは全身で示している――薔薇の季節が来たよ、と。
試験期間を過ぎて、庭に足を踏み入れるのはずいぶん久しぶりのような気がした。実際には期間3日目の土曜日にこっそり来て手入れをしていたけれど、試験最終日から5月には珍しい長雨に見舞われ、何日か部活動のできない日が続いた。今日やっと空は晴れ渡り、日の光を浴びて一気に成長した薔薇たちが、そのもっとも優雅で絢爛たる姿を見せていた。
それまでも葉を少しずつ茂らせ、若枝を伸ばし、堅い蕾をゆっくりふくらませていたものの、その過程はじわりじわりとしたもので、ちょっと足踏みをしているような歯がゆさがあった。それでも冬の白骨のような幹を知っているわたしは、淡い緑のやわらかな葉が出、蕾がふくらむのを見ては、もう薔薇の季節のようだと思ってうれしく感じていた。けれど、何の何の、やはり今が本当の薔薇の季節なのだった。
わたしは感嘆のため息をひとつついた。
(何の知らせで気づくというの?)
待ちわびていたかのように、花々がいっせいにわたしも、わたしも……といっせいに開いていた。ゆっくりと庭に足を進めていくと、雑木林のほうから鳥の心地よい鳴き声が聞こえ、目の前を蝶が横切って飛んでいった。花壇に寄せ植えていたラヴェンダーの香りがふんわりと立ち上り、アーチに絡んだ早咲きのうすい藤色のクレマチスが大輪のピンクのピエール・ド・ロンサールとお互いの美しさを引き立てあっている。
咲きの早い黄もっこう薔薇などはまだ少し肌寒いうちから花をつけていたけれど、今はどの草花にも生気がみなぎっていて、わたしの胸にも喜びと元気がわき立ってくるのだった。
「あ、フランシス・ブレーズも咲いてる」
花壇にはもとからそこに植わっていた薔薇が花弁を広げていた。このフランシス・ブレーズはもう数少なくなってしまった、この庭でなんとか生き残った薔薇だった。とはいっても春は剪定に向いた季節ではないために枝にはあまり手をいれておらず、枝が不格好に伸びて樹形も乱れている。花の数もすごく少ない。
「でも、きれい」
わたしはベビーピンクのやわらかな花びらにそっと触れてみた。数をざっと数えてみると、40枚と少し。今はまだ浅いカップ咲きの花形で、やがて開ききるとロゼット咲きに変わる。鼻を近づけると、この薔薇らしい甘く爽やかな、強い香りがした。
わたしが実家で丹精込めて育てていた薔薇がこの学園でもきれいに咲いてくれるのはもちろんうれしいけれど、誰からも見捨てられていたこの庭でもう一度命を輝かせている薔薇を見るのはひとりの園芸家としてこの上ない喜びだった。
せっかくなのでフランシス・ブレーズを摘んで花瓶に挿して楽しむことにした。切られた花には興味がないので普段はあまりそういうことをしないけれど、今はこの花を手元で眺めていたい気分だった。
道具入れから小ぶりのバケツを持ってきて水を張り、枝をぱちんと切ってその中へ入れていくと、水に可愛らしい花がゆらゆら浮いた。そのバケツを持ってテラスへ向かう道で、天使のベンチにさしかかったときだった。わたしは意外な人影を見つけて、驚いて息を飲んだ。
(天使!)
橙花先輩だった。ずっと姿を見かけることがなく、また来てほしいと願いながらももうここに現れることはないのかもしれないと半ばあきらめかけていた、まさにその人だった。
(やっぱり先輩は天使だったんだ)
薔薇がいっせいに花開いた気配を察していらしたのか、はたまた先輩が現れたから薔薇が喜んでほころんだのか――おかしいけれどわたしはそんな風に考えた。盛りを迎えた薔薇の庭の中でも橙花先輩は少しも霞むところがなく、むしろその美しさが映えて見えた。
わたしの中で勝手にロザリアンの守護天使にされていることなど知る由もない橙花先輩は、前のときと同じように長い足を投げ出してベンチに横になっていた。その場所を囲むように植えたパット・オースチンはまだ咲きかけの蕾で、先輩と同様にまだまどろんでいるようだった。
「ん……?」
「あっ」
視線を感じたのか、寝返りを打ってゆるゆるとまぶたを持ち上げた先輩と目があって、ようやくわたしはひどく不躾なことをしていたことに気がついた。他人様の寝顔をじろじろ見るだなんて。消え入りたい気持ちであわてて会釈をして、逃げるように通り過ぎようとしたわたしの背中に、先輩の声がかかった。
「シズカちゃん?」
名前を呼ばれては知らんぷりで逃げることなどできない。わたしは先輩が名前を覚えてくださっていたことを意外に思いながら、足を止めて振り返った。
「あの、違うんです。ここ、あまり人が来ないから、少し驚いてつい見てしまっただけで……。すみませんでした」
頭を下げて、今度こそ去ろうとしたけれど、体を起こした橙花先輩は苦笑してわたしを留めた。
「いや、そうじゃなくて。いいんだよ、こんなところで寝てたオレも悪いし、別に不快にも思ってない。そうじゃなくてさ、他人同士ってわけでもないんだから、声かけてくれてもよかったのにって思って」
そうは言われても、寝ている先輩を起こせるほど仲が良いわけではない。わたしの困り顔で察してくださったのか、橙花先輩はちょっと微笑んだ。
「寝てたから気を遣ってくれた? いいよ、次からは。声かけて。そのほうがうれしい」
「……はい。では次からは、そうします」
(次があるんだ)
何の確かさもないけれど、その言葉がうれしかった。
先輩は目を細めてわたしを眺めた。
「なんか、そういう格好も新鮮だな。この薔薇園の手入れしてるのか?」
わたしは首から下を見下ろした。腕まくりした長袖シャツ、ジーパン、ガーデニングブーツ、皮手袋――わたしにとってはいつもの作業用の格好だ。でもこの学園でわたしのような姿の生徒は他にはいない。天使の前にいるということを意識すると、急にこの格好が恥ずかしくなってきた。
「そうですか? すみません、作業着姿で……。まあ、はい、園芸部なので」
「手に持ってるのは何?」
先輩はバケツの中をのぞきこむようにしたので、近寄ってバケツを眼前にさし出した。
「薔薇ですよ。フランシス・ブレーズです」
「生けるのか?」
「はい。きれいに咲いてくれたので」
先輩はにっこり微笑んだ。
「いいな、そういうの。花が好きなんだな」
そして彼は、オレが運ぶよ、と言うと、バケツを取り上げて立ち上がり、わたしの横に並んだ。恐縮しきりで頭を下げると、女の子に重いものを運ばせるのはオレが落ち着かないだけだから気にしないで、と笑いかけてくださった。
先輩が手に持ったバケツの中を興味深そうにのぞくのをドキドキして見ていた。ミユウもユウコもいないのに、先輩は変わらず気さくで優しい。きっと誰に対してもそうなのだろうと思う。本当に素敵な方なのだ。
「生けるところ、見ていてもいいか?」
「えっと、自信がないので……だめとは言いませんが……」
「遠慮してくれると助かる?」
省略した部分を冗談っぽくずばりと言われて焦ったわたしに、先輩は目をキラキラさせて言った。
「ならオレにやらせてくれないか? けっこう好きなんだよな」
わたしは我知らずうなずいていた。
ちょっとほかの花も足していいかと問われ、言われるままに庭の花を切ってバケツに入れた。
「これくらいでいいですか?」
「そうだな。あとは花器なんだが……」
「環境委員会の備品室に花瓶がいくつかあったと思います。借りてきましょうか?」
「いや」
橙花先輩は首を振って、ぐるりと辺りを見回した。
「お、これなんかいいんじゃないか?」
そう言ってテラスの隅に放置していたブリキの水差しを手に戻ってくると、手を尺にして深さや口径を測り、満足げにうなずいた。
「え、それに生けるんですか?」
「そうだよ」
その水差しに水を入れてきた先輩は、上着を脱ぎ、シャツにネクタイをはさむと、腕まくりをした。そしてバケツの中に手を入れると次々と花を取り出し、手早くまとめていく。澄んだ水色のパンジー、花びらに筆で濃い紫の色をつけたようなアンティークなプリムラのゴールドレース、うつむき加減の可憐なスノーフレーク。薔薇は2種類で、ピンク色のフランシス・ブレーズとオレンジ色のレディ・エマ・ハミルトン。
「外側から内側へまとめていくのがコツかな。さっさとやらないといけない。手の熱でしおれるから」
言いながら小さな花をバランスを見ながら挿しこんでいき、形を整えたら束ねた茎をバケツの中でカットし、ちょいちょいと揃え、ブリキの水差しに挿しこんで手を離した。
「こんな感じ?」
どう?と見せられて、わたしは何度もうなずいた。
「すごいです。きれいです」
感動を伝えるのにこんな言葉しか出てこなかったけれど、先輩は喜んでくださった。
できあがったアレンジは、さすが、『好き』で『やらせてほしい』と言うだけあった。主役がピンクとオレンジという鮮やかで少々可愛すぎる色の取り合わせではあったけれど、濃い色のプリムラが全体をよくまとめ、レディ・エマ・ハミルトンのブロンズ色の芽出しの葉がシックな色合いを添えていた。水色のパンジーや白いスノーフレークは風になびくような優しいラインをつくっている。ブリキの水差しも花の色を引き立てている。こんなアレンジは、自分では絶対にできそうになかった。
わたしは感謝の念で先輩を見つめた。
「育てた花でこんな素敵なアレンジをしてくださって、何というか、言葉もないです。本当にありがとうございます」
「オレも、ありがとう。任せてくれて。大切に育ててきたの、見たらわかるよ」
穏やかで優しい笑みが天使のまなじりに浮かんだ。
――side: 金武トモヒコ
5位、深川シズカ、926点。4位、金武トモヒコ、928点。
(よっしゃ!)
オレは自分の名前を見つけてこっそりガッツポーズをした。
ここ園生学園は、入試だけでなく定期試験も泣きたくなるほど難しい。世間では学期を2二期制にする学校も増える中、園生学園ではテスト数を減らさないために三期制を貫いている。その最初、1年の1学期の中間考査は11科目の試験が行われた。満点は1100点ということだ。つまり総合928点のオレの平均点は約84点。中学まで90点より下をとったことがなかったオレからすれば愕然とするような点数だ。しかしそれでも4位。
3位、紫葉マサタカ、934点。
(こいつには負けたか)
総合880点、つまり平均80点をとれればおよそ180人在籍している学年で十本の指には悠々入る。そんな中生徒会役員はコンスタントに900点以上をとってくるような優秀な人間から選ばれるというのが通例だそうだ。だからオレは猛勉強して上位陣に食らいついていくしかない。
この厳しい試験において960点を上回れば一位は確定だといわれている。そして今回もいたのだ、そんな綺羅星のごとき存在が。
2位、青葉ミズキ、964点。
1位、春風ミユウ、968点。
ふたりも。
3位以下に30点もの大差をつけ、もはや圧勝と言っていいくらいの歴然たる違いを見せつけているふたり。
「おい、まじかよ」
「あれ、どうしてだろう。まばゆすぎるのかな、よく数字が見えない……」
放課後、上位30位までが記載された紙が貼られた掲示板の前で口々に感想を述べる生徒たち。自分の名前がないとわかっていても話のネタにと見て行く者も多い。あちこちで携帯電話のカメラのシャッター音が聞こえる。彼らの話題を占めているのは無論例のふたりのことだ。
「やっぱ高校入試組は頭いいよな。上位5人のうち4人もかよ」
「オレら内進組の星青葉まで春風の前に散っていったか」
他人事といった感じ。でもオレはそうじゃない。あのふたりに近づき、越えたいと本気で思っている。
一番前で掲示板を見上げているオレの背後でいきなり群衆がどよめいた。何だ?と振り返ると、話題の人物たちが現れたところだった。
(春風……!)
オレの心臓は飛び跳ねた。
桃色のさらさらの髪、人形みたいに整った顔の女の子がそこにいた。でも表情は人形のものとは全然違う。いきいきとして明朗で、なんというか輝いている。よく一緒にいる福田と深川もいた。好みもあるかもしれないが、やっぱり春風ミユウが一番可愛い。
オレは春風ミユウが好きだった。それも幼稚園にいたころから。春風ミユウはオレの幼なじみにして初恋の君なのだった。
小学生のころ、オレは勢い余って春風に告白したことがあった。
『あなたに興味ないの』
これが彼女の返事だった。ショックすぎていまだに忘れることができない。
オレは春風に認められる人間になろうとそれはもう努力した。吐くほど牛乳を飲んで背を伸ばそうとしたし、彼女にアピールするためにスポーツも頑張った。小学校でも神童と評判だった彼女に追いすがるために必死で勉強もした。中学3年生のとき春風が地元から遠く離れた園生学園に行くつもりらしいということを聞いたために、1日12時間勉強し、親を拝み倒してひとり暮らしをさせてもらって、とうとう園生学園に入学まで果たした。すべては彼女の視界に入っていたいがためのことだ。
オレは近づいてくる春風を前に固まっていた。顔がどんどん熱くなる。
(よ、避けようか、いやでもここにいたら春風がとなりに……でもでも邪魔だと思われるかもしれないし……)
ぐるぐる考えて動けずにいたところで、またどよめきが起こった。見ると、青葉ミズキの姿があった。
群衆はモーゼが割り開いた海のようにさっと分かれて2本の道をつくった。そこを春風と青葉は颯爽と進んだ。そして彼らは掲示板の真ん前でぐずぐずしていたオレをはさんで並んだ。空気は不穏だったがオレは至近距離で見る春風の横顔に見惚れていた。
「すごい。ミユウ、おめでとう」
「やるじゃない」
友人ふたりの祝福の言葉に春風はうれしそうに笑った。
「ありがとう」
一方で笑顔のないやつもいた。青葉だ。いつも朗らかそうにしているのに、今は掲示板を無表情で見つめたまま、無言だ。そこから内面はうかがいにくいが、普段と違うその様子こそがまさに穏やかならざる胸中を物語っているのではないだろうか。なんとなくプライドの高そうな男だから、2位に甘んじて切歯扼腕としていてもおかしくない。実際、青葉にとってこれは青天の霹靂的出来事なのではないだろうか。青葉は初等部のころからこれまで常に一位だったと聞いている。今回も一位確定だと言われる点を確実にとってきている。まさか、といった感じなのだろう。
青葉が長い、長い息を吐き出すのを、オレは見ないふりをした。
ここで春風は見ている者を驚きあわてさせるような行動に出た。青葉に向かってにっこりと微笑んだのだ。それは勝利宣言であり、挑発だった。オレはまさか春風がそんなことをするとは思わず目を疑ったが、青葉はカッと頬に血を上らせ、うつむくとパッと身をひるがえして去っていった。
(うわー)
あれは相当プライドを傷つけられただろうと思った。しかしああいったことをするのもオレがまだ到達できない次元にいるライバルふたりの関係なのだろうと思ったら、胸の中でめらめらと青葉に対する嫉妬の炎が燃え上がった。少なくとも春風は青葉に対して『あなたに興味ないの』とは言わないだろうから。
翌日登校すると、クラス中が中間考査の順位の話で持ち切りだった。それも当然のことで、このクラスは入学時の上位30人で構成されているのだから、多くが今度の試験でも掲示板に名前が載せられていた。
「よう! おはよ、金武。お前4位だってな、すげーじゃん」
肩をばしんと叩かれて見上げた先には、最近よく話す原口がいた。
(それでも全然足りねーんだよ)
悔しさは胸中に留めて、オレは原口に苦笑いを向けた。
「おはよう。……まあ、まじで勉強したし」
黄緑色の短髪をワックスで立たせたこいつの髪型は相変わらず芝生に見える。原口はにやにやしながらさらにオレの肩をばしんばしん叩いて言った。
「いやーさすが、色持ちは違うな!」
オレの笑んだ口元は思わずひきつった。
「……いや、だから、違うんだって」
「またまた」
「ほんとに。まじで」
「隠さなくてもいいだろ」
「お前は誤解している」
いくら言っても原口のにやにやは引っ込まない。
「まあお坊ちゃまがそう言うならそういうことにしてやってもいいけど」
この手のイジリは4月に入学してから毎日のことで、オレはいい加減うんざりしていた。
「なんでそうなるんだよ……。だから、まじでオレは『六葉一花』とは何の関係もないんだって! 名字に金の字が入ってるのはただの偶然なんだって言ってるだろ! 親戚とかじゃないんだって」
これは何度も繰り返してきた主張で、完璧な事実だった。
「お前それを信じろっての?」
しかし、たいていがこの反応だ。
原口は口をとがらせ、疑りの目をしてオレを上から下までじろじろと見た。そして失礼にもオレの顔を指差した。
「イケメン」
オレは指差してくる手を払ったが、原口は構わず続けた。
「スポーツ万能。金持ち。そしてこの頭の良さだ。お前が『六葉一花』の親戚なのは確定的に明らか。否定されればますます怪しい」
「判断基準! おかしいだろ! 論理が飛躍どころかワープしてる!」
原口は、はいはい、みたいなだるい感じでため息をついた。
「わかったよ金武」
オレの疲労感はマックスに達した。
(だめだ……! まったく信じてもらえない)
いくら言っても無駄、という人生で初めての経験をさせられていた。否定しても信じてもらえないなら黙っていようとも何度も思ったが、それはそれで面倒くさいことになりそうだとそのたびに思い直してきた。それほどこの学園で、日本で、『六葉一花』の影響力は大きい。
周囲からの視線を感じて、オレは苛立ちのこもったため息を隠しもせずついた。こういう話をしていたらまた誤解されてしまう。
「原口、オレを困らせるな」
原口は、頭はいいが馬鹿だ。低い声でゆっくりと言って聞かせる必要がある。
「オレは『六葉一花』とは関係ない。それでこの話は終わりだ。もう触れてくれるなよ」
肯定も否定もできないなら話題に上らせなければいい。
わかったな、と念押しすると、原口はなぜか顔を青くして何度もうなずいた。