5月 失せ物(1)
――side: 春風ミユウ
教室に戻ってみれば、あるはずのバッグがなかった。
ところで、人生において、あると思っていたものが実はなかったということは往々にしてある。身近なところではトイレに入って用を足した後でトイレットペーパーがないことに気づいたり、買い物に行った先のレジの前でお金が足らないことに気づいたり、というような事態。そんな間抜けなことを神様に愛されたわたしがするはずもないけど、一応例として。そのほかには、あると思っていた友情がビデオゲームを親に取り上げられた途端なかったと悟ることになったり、あると思っていた愛情が会社がうまくいかなくなった途端なかったとわからされたりする場合もあると思う。これも大美少女のわたしには縁のないことだ。
大切なことだから繰り返すけど、世の中にはありふれたそんな現象も、超超天才美少女であるわたしの身にはそうそう起こりうることではないのだ。だからバッグがなくなっていると気づいたときのわたしの驚きようも容易に察せられると思う。
「え? どういうこと?」
念のために言っておけば、わたしは普段、馬鹿みたいに独り言をもらしたりはしない。驚きはそれほど大きかったということだ。
どこかへやったまま忘れているのではないかと自分の行動を思い返してみたけど、まったくそんな記憶はなかった。
「あら、どうしたの、ミユウ?」
教室にユウコが入ってきたので、わたしの身に起きていることとそれに対する困惑を伝えた。これは何かイケメンとの親密度を上げるイベントだろうか、という期待は伝えなかった。
教室を一通り探してみよう、とユウコが言うので同意して探しまわった。わたしが前方の教壇や掃除用具入れを開けて調べているあいだにユウコは後方のロッカーを調べた。でも結局見つからずに骨折り損に終わった。
そうしているとシズカも教室に現れた。
「ふたりともどうしたの?」
「実はね、わたしのバッグがなくなったの」
「ほら、キャメル色の。ミユウがいつも持って来てるやつよ」
「たしかなの?」
「うん、ないのよ。一体どうしたのかなあ」
ここで誰かイケメンが、もしかしてこのバッグ君のかい?なんて言って出てくることを想像したけど、そうはならなかった。
「いつ気がついたの? もう探した?」
「気がついたのはさっきだよ。この教室は一応ユウコと一緒に探したけど、でも今日は机の横にかけたまま動かしてないの」
わたしが持ち去ったのではないならわたし以外の誰かが持ち去ったのだ。
(これってもしかして、わたしに嫉妬した誰かが? それともわたしをひそかに恋い慕う誰かがわたしの持ち物を求めたとか?)
ユウコはため息をついた。
「こうして突っ立っててもしょうがないから、とりあえずひとつひとつ確認していきましょう。
まず朝、たしかにミユウはあのかばんを持ってたでしょ? 昼休みまではあったよね、あの中にミユウはお弁当入れてるもの」
「うん……食べ終わってちゃんとしまった覚えがある」
「そうよね。それからは?」
「うーん、わかんないなあ。気にしてなかったし……」
「午後からは英語、古文、生物だったでしょう。ミユウは7限まで教室を出てなかったような気がする。なくなったのは生物実験室に移動した後じゃない?」
シズカが、どうかな、とうかがってくるのにうなずきを返した。
「そのあとすぐに掃除、終礼があって、解散だよね。ずっとチャンスが……ってチャンスなんて言い方したら他人を疑ってる感じになっちゃうか」
(イベントなの? ただの嫌がらせなの?)
それがわからないうちは何とも言いようがない。イベントならば探すまでもなくそのうち出てくるだろう。
「でもそれしか考えられないでしょ。こんなこと言いたくないけど、誰かがわざとやったとしか考えられない」
ユウコは嫌がらせと決めつけてそう言った。
(は?)
わざとやったとしか考えられない? どういうことだろうか? ユウコはわたしが嫌われて物を隠されても当然だ、とでも考えているのだろうか?
(――いや、ありえない。そうよ、ユウコはわたしとは違うもの)
生まれながらのヒロイン、つまりわたしのようなウルトラハイスペック美少女にとっては記憶を持ったまま転生するなどということもありがちだけど、ユウコのような凡庸な人間にとってはそうではない。ここが乙女ゲームの世界だということも知らずに生きているのだ、凡庸な想像に行きつくのも当然といえば当然だろう。
「……誰か教室には残ってなかったの? 心当たりがないか訊いてみた?」
「ううん、わたしが来たときには誰もいなかったよ。……そういえば、なんでユウコもシズカもまだ残ってるの?」
お助けキャラだからだろうか?
「ああ、わたしは部活中だったんだけど、図書委員会から本を返却しろって督促のメールが来て――」
ユウコは携帯電話の画面を指し示した。
「ね? 本を取りに来たところでミユウと会ったのよ」
「わたしは今日日直だったから、日誌を書いて教員室に持って行って、先生と少しおしゃべりをしてきたの。帰ってきたらふたりがいたから、どうしたんだろうと思って……」
お助けキャラだからです、と言うはずもなく、ふたりは無難な回答をした。
「日誌書いてるとき誰がいたかわかる?」
「それはちょっと……。ごめんね、覚えてたらよかったんだけど。違うクラスの人もいたし……」
「こんなことが起きるとは思いもしてないからね、仕方ないよ。ミユウは?」
ユウコはわたしにも話を振ってきた。ぎくりとした。
「あ、わたし? わたしはね、えーと、散歩というか……」
「散歩?」
「うー……ん。まあ」
「何よ、言いたくないことだった?」
何と言えというのだろうか? 攻略対象キャラと会えることを期待して今の今まで校内をぶらついていました? にもかかわらずそれらしき人に誰にも会えずに落胆して戻ってきたところです?
(違う、違う。散歩っていったら散歩よ。あれは散歩)
そう、散歩していたわけだけど、ふたりは何を勘ぐっているのか信じてくれそうな気配がなかった。
「そうじゃなくて。えーと、今家に帰りづらくて……」
ユウコが眉をしかめた。
「どうして、とか訊いたら答える?」
散歩だと言っているのになんだかすごく邪推されている感じだった。風薫る5月のこの麗らかな日に、ほかに何をすることがあるというのだろうか? わたしの他意のないそぞろ歩きを変な風に勘違いしてもらっては困る。
(仕方ない)
「あは、ごめん。家庭の事情なんだ。でもそんなたいしたことじゃないよ」
こういうときにこそ便利な『家庭の事情』。これを持ちだされたらそれ以上深くは追究できなくなり、ははあ、そうでございましたか、と言うほかなくなるという魔法の言葉。水戸○門の印籠のごとき言葉だ。
手間をかけさせられたけど思った通りユウコは話を変えた。
「わかった。じゃあ違うこと訊くよ。バッグの中には何を入れてた?」
「ありがと。うーんと、バッグの中ね……お財布とカード入れとリップクリームとかが入ったポーチ、あとはお弁当箱……くらいかな」
「えー! お財布やカードも入ってたの?」
「大変じゃないの!」
ふたりは大げさに騒いだけど、ポイントカードくらいどうでもいいしキャッシュカードも暗証番号がわからなければ使えないのだから別に構わなかった。それに帰りに銀行に寄ろうと思っていたところだったので財布の中には千円程度しか入っていなかった。わたしには不幸の中にあってすら幸運の星が輝いていた。
「うん。でも携帯や学生証カードはポケットに入れてるし」
「ああもう! 何か見られて困るようなものは?」
「見られて困るっていうわけじゃないけど……保険証カードがお財布の中に入ってて、それは困るかな」
再発行とかすごく面倒くさそうだったからそれだけが心配だった。
見るからに繊細そうなシズカがショックを受けたように呟いた。
「どうしてこんな……」
「お金のためじゃないよね、うちの学校の生徒に限って。もしそうなら財布だけ抜き出せばよかったはずだし。バッグをぶらさげて歩いてたら目立つもの」
動機なんてどうでもいい。
「どこかに隠されてると思う? もうこの学校にないと思う?」
問題は、わたしが探し回らねばならないのかどうかだ。
「わかんない。探してみる?」
もうないと思う、と言ってほしかったけど、逆にユウコがいらない提案をしてきたのでわたしはいそいで首を振った。
「えっ、いいよ。広すぎてたぶん見つからないよ。事務管理課に頼んで探しておいてもらうから」
(余計なことしないでいいんだよ)
べつに家宝を盗まれたわけではない。なくなったのは学生が持つ程度のバッグとその中身にすぎないのだ。それくらいのためにわざわざ方々を探したくなんかなかった。でもふたりが探すと言いだせば、じゃあ頑張ってね、わたしは帰るから、というわけにもいかないだろう。それになくされたとなれば新品を買ってもらえるのだから、わたしとしては別にそれでもよかった。利害得失を比較考量してほしいものだ。
しかしユウコは納得しなかった。
「事務管理課なんて当てになるの? ゴミ回収したり校門にぼけっとした警備員を立たせといたりするくらいがあいつらにできるせいぜいのことでしょ。生徒の持ち物がなくなったことを屁とも思わないんじゃないの? わたしが前に校内で落とし物をしたときなんか、返ってきたの2週間後だったのよ。落とし物として持ち込まれたのは落としたその日だったのに、それまで何してたのって話よ」
「そうだね。でも大丈夫」
「大丈夫じゃない。とりあえず風紀委員会に連絡しましょう。これは窃盗よ、大義名分が立っているから絶対に動いてくれる。人手が多ければ、まだ持ち出されてないなら、きっと早く見つかると思う」
「わたしも手伝う」
(なるほど、そういうことか)
「ありがとう、ユウコ、シズカも。そうするよ」
思わず言葉に力がこもってしまった。
(これで風紀委員会のイケメンとお近づきになるということね)
ユウコはさすが情報提供担当であるだけあった。わたしは感心しつつ胸を弾ませた。
(あれ、でも風紀に名前に色を持ってるイケメンっていたっけ?)
風紀委員会の名簿なんか持っていないからわからないけど、たぶんいるのだろう。
わたしとユウコは教員室や電子計算機室に行くことにして、周りを探してみると言うシズカと別れて教室を出た。
今年知命を迎えるようなおじさんと会話するのは息の無駄遣い以外の何物でもないので、担任教師への説明はユウコに任せてわたしは電気計算機室に向かった。
部屋に入ると、コンピューター研究会所属の冴えない面々が同好会活動にいそしんでいて、彼らはやけにわたしの力になりたがった。わたしは無視してPCの前に座った。園生学園のホームページにアクセスして風紀委員会のページを開き、連絡フォームに用件を打ち込んで送信すると、部屋を出て中庭をぶらついた。
べつに中庭に用があったわけではなかった。早く戻ればわたしのバッグを探してくれているシズカを手伝わなければならないので、連絡があるまでなんとか時間をつぶしていようと思ったのだ。
中庭は環境委員会が管理するビオトープになっていて、中央に大きなため池がつくられていた。そこに杭を打って造られた小さな橋の上にしゃがみこみ、やることがないあまりにアメンボやアメリカザリガニを見ていたときだった。
「何やってんだ、こんなところで?」
いきなり声をかけられてわたしはびくっと肩を揺らした。
「赤葉先輩……!」
話しかけてきたのは学園の有名人、生徒会長の赤葉キョウスケだった。真っ白のシャツにワインレッドのネクタイをきりりと締め、シックな紺色のブレザーを完璧に着こなしている。整ったかっこいい顔は王子様顔。
(やった! やっぱりイベントだった!)
「あ、わたし――」
「そこ、邪魔」
オレ様誰様赤葉様。尊大な態度への皮肉もこめられて『王子様』と呼ばれる男だった。
わたしが固まっていると、オレ様王子様はしびれを切らしたようにまた言った。
「お前にそこにいられると通れないんだが、わからないか?」
わたしは深呼吸をして気分を落ち着かせた。
(なるほど……ツンデレキャラというわけね)
おそらく彼は独占欲が強く、主導権を握りたがるタイプだ。ストーリーが進めばそのうちデレも見せてくれるようになるのだろう。キャラクターの個性としてはありがちだけど、現実に会ってみるとなかなか腹が立つものだ。
(こういうタイプには――)
「――ほかにも道はあると思いますけど」
無愛想に言ってやった。
彼のような専横な男には強気な態度で接するべきだと古今東西のあらゆる恋愛物の創作物が証明している。こんなどうしようもないほど膨れ上がったエゴを抱える男に付き合えるタイプは決まっている――口答えしたり喧嘩をふっかけたりすることのない――シズカのような――大人しくて都合のいい女だけだ。そう、彼は、女ときたらそういうものだと思って下に見ているに違いない。だからガツンと顔面を殴って鼻っ柱を折ってやるのがここでのもっとも有効な手なのだ。むかつく女だと思っていたけど、いつの間にか気になる存在に変わり、何か事件を経て対等と認めるようになり、ついにはわたしを愛するようになる――この手の男の攻略には大体こういう典型的な筋書きがあるものだ。
傲慢でそっけない言葉が返ってきた。
「お前が渡り切ってくれるか池に落ちてくれるかすればいいだろう。ほかにどこに道があろうとオレの知ったことじゃない」
「わたし、アメンボ見るのに忙しいんです。どんな失礼な方がこの橋を通りたかろうと、わたしの知ったことではないです」
オレ様王子様の眉が跳ね上がった。彼がわたしに対して腹を立てていることは間違いなさそうだった。
「この橋は学園の公共財だ。生徒のオレにも当然渡る権利がある」
「わたしにもここを利用する権利があります」
「公共財だって言っただろ、排他的な権利はないんだよ。いいからどけよ」
正直なところ、わたしだってそうしたかった。そこまでアメンボを見たいわけではないのだ。というかどうでもいい。ただここで、わかりました、と言うのはキャラ攻略の対応としては間違っているだろう。しかしだからといってうまい反論があるわけではない。オレ様王子様の言っていることは――言い方はともかくとして――誤っているわけではないのだ。
そこで、にっこり微笑んで、
「まあ、一理ありますね」
とだけ言った。
わたしは動かなかった。オレ様王子様はそんなわたしを蔑んだ様子で頭をそらして見下していた。そのまま時間が経った。
(え、この状況、どうしたらいいの?)
引くという選択肢があったとしても完全に引き際を逃していたし、かといって押し切れそうな感じでもなかった。
仕方なしに妥協案を出してみた。
「ここで夜中まで睨みあっているわけにもいきません――こうしましょう。わたしはここをどきます。赤葉先輩も違う道を通ってください」
「なんでオレが」
「それを言ったらわたしも同じ気持ちです。いいんですか? わたし、最終下校時間までここを動きませんよ?」
オレ様王子様はまたわたしを睨んだけど、ふん、と鼻を鳴らすと身をひるがえした。引き際を見失っていたのはお互いさまだったようだ。それでわたしはようやく橋の上から移動することができた。
(よーし! 接触できた! 対応もたぶんこれで完璧!)
うきうき気分で教室に戻ると、シズカがなくなっていたバッグを見つけてくれていた。そんなものすっかり忘れていた。