笑ってもいいですか。
この物語はフィクションです。
前作があります。よろしければそちらもよろしくお願いいたします。
狭くも広くもない、こぢんまりとした家に、自分たちのことをすぐに忘れてしまう生きものが生息している。平屋の一軒家で、そっと静かに、密かに生きている。
あれで逃げている、いや、隠れているつもりなのだろうか。
「ぼくにはそう見えませんねえ」
この閑静な住宅街は、区画整備が入ったとかで、このところは大型の重機が道を幾度も往復している。だから騒がしい。新しく家を建てているところもあるのか、木を叩いているような独特の音が木霊していた。晴れた空が見えなければ、少々不快な音である。
あの生きものはうるさいものが嫌いだから、きっと、自分と同じようなことを考えているだろう。
「さて、迎えに行きましょうか」
本当はこのまま、あの不思議生物をもうしばらく放置していてもいいのだが、今回は少々問題がある。いやがろうが逃げたがろうが、強制的に連れて行かなければならない。
なにか美味しいものでも目の前に置いて、それを餌に引っ張り出そう。
「女王陛下の危機ですよ、堅氷の魔導師」
さあ、その塒から出てきてもらおうか。
もう逃げも隠れもできない、そんな現実に帰ってきてもおうか。
* *
今から二十年ほど前のことになる。
ある国の王女が、ある魔導師に惚れた。王女のそれは誰の目から見てもはっきりとわかるほど明確な恋慕であったが、惚れられた魔導師のほうは誰の目から見てもはっきりとわかるほど明確に、非常識なほど鈍感であった。王女に惚れられているというのに、その自覚もなく、気づくことすらなく、魔導師は宮廷に仕えていたのである。
そんなある日、王女は決意した。そして決行した。両親の諾もなく勝手に、焦がれる恋心のままに、魔導師に夜這いをかけたのである。王女は豪胆で、そして楽観的であった。しかし、賢かった。本来なら淑女が夜這いなど、不埒とされて処罰を受けてもおかしくはないが、魔導師に恋慕する熱烈さを披露していたので、逆に周りを納得させたのである。
むろん、非常識なほど鈍感であった魔導師は、王女に夜這いをかけられたのだと気づきもしなかった。深夜に侵入してきた者が女であり、また悪意というものが感じられず、命を奪おうというのでもない事態になにがどうしたのだと戸惑っている間に、すべてが終わっていたのである。つまりなし崩しに押し倒されて、美味しくいただかれてしまったわけだ。
ゆえに、魔導師は王女が手にした恋の自由を知らなかった。そして、己れにふりかかったものがなんであるかも、魔導師は知らないままだった。
王女が魔導師に夜這いをしかけて半年後のことである。
王女の懐妊が、国中を騒がせた。
相手はもちろん、夜這いをしかけた魔導師である。
第一子王子が産まれたあと、王女はまた勝手に、今度は両親にきちんと話を通し宰相以下臣民に了承を得たのち、魔導師と書類上の婚姻を交わした。しかし、魔導師にその知らせが行くことはなかった。そのとき魔導師は自然災害の被害地へ行っており、そのまま行方不明になっていたからだ。この魔導師に限ってはよくあることだったので、いないときを狙って王女は魔導師を自分のものにしたわけである。
もちろん魔導師は自分が王女と結婚したと知らないまま、半年後に山奥の村で発見され宮廷に戻ってきたが、周りの雰囲気がなにかおかしい気がしても、相変わらずの鈍感さを発揮して気づかずにいた。
相も変わらない魔導師に、王女がまたしても夜這いをしかけたのは、言うまでもない。また魔導師も、同じことを繰り返した。
第二王子の誕生は、その年の暮れのことである。
この頃になると、王城にいる者たちの中で、魔導師がいったいいつ王女の行動に気づくのかという賭けごとがなされるようになっていた。その賭けごとには、王女も王女の両親も加わっていた。国家ぐるみの大規模な遊びである。
しかしながら、魔導師もばかではない。非常識なほど鈍感ではあったが、国随一の力を有する魔導師である。いくら鈍感でも、気づかされるものがあったらしい。
魔導師があるとき、王に謁見した。
周りの者たちは、王女と王女の小さな王子のことに漸く気づいたのかと、少しだけ期待した。
だが、そこはやはり非常識なほど鈍感な魔導師である。
「今の王子殿下にあの力は負担にしかなりません。どなたかに制御の呪いを施していただいたほうがよいでしょう」
王女の小さな王子は、大きな力を持っていた。それには気づいたのにそう進言した魔導師に、王は瞬間的に目をまん丸にし、次には腹を抱えて大きく笑い、魔導師を混乱させた。
「決めた、われは決めたぞ! 宰相よ、国に触れを出すがいい。われは来年にでも王位を王女に譲る。われは余生をゆっくり楽しむこととするぞ。賭けはわれの勝ちだな!」
王の突然な退位は、もちろん臣民を驚かせはしたが、魔導師の望んだ疑問の答えではなかった。
魔導師は答えを得られないままそれから半年後、またも自然災害の被害地へ赴き、またも行方不明になった。いや、気紛れを起こして行方不明になる魔導師なので、それまでにも幾度か行方を暗ましていたことはある。これが二度めというわけでも、まして初めてなわけではない。
このとき、王女の小さな王子は、五歳を迎えようとしていた。ふたりめの王子は、四歳になろうとしていた。
そして、第一王子である最初の小さな王子は、魔導師の力を強く受け継いでいた。それを自覚していた。
小さな王子は、小さいながらも、考えていた。
「これが、あのひとの、ちからですか」
小さな王子は、自分の父親が誰であるかを知っている。魔導師から受け継いだ力が、小さな王子にそれを教えてくれていたからだ。それを理由にして魔導師に自らの存在を告げなかったのは、母である王女や祖父母の王夫妻がなにやら楽しそうであったので、邪魔をしてはいけないと思ったからである。
それに、小さな王子自身も、魔導師がいったいいつ自分の存在に気づくのか、それが楽しみでならなかった。
「これは、どうやってつかうのでしょう」
「王子? いかがなされました?」
「……うん、わかりました。ちょっとつかってみます」
「はい? 王子?」
小さな王子は、ひとりで力の使い方を完結させた。
「さあ、いきましょうか」
母である王女の戴冠まで残すところ二月を切ったとき、小さな王子は初めて、魔導師から受け継いだ力を使ってみた。
この国の王族は、強い異能の力を持っている。それは国を護るための力で、この国を想わなければ備わらない絶対的な力だ。王族以外に力を持った者が産まれるのは、たとえ高位の貴族であっても、稀なことである。
平民であったが強大な力を有していたことで宮廷に召し上げられていた魔導師の、その力まで受け継いだ小さな王子にとって、王族の力よりも魔導師の力のほうが、随分と馴染みの深い力になっていた。
よって、小さな王子は、隣国との境界付近にある小さな村の宿屋で、あっさりと魔導師を見つけた。
「さがしましたよ。ずいぶんととおくにいてくれましたね」
小さな王子を見た魔導師は、明らかに小さな王子のことを「忘れていた」顔をしていたが、記憶力はそう悪くないようで、すぐに小さな王子のことを思い出していた。
「……よく、わかったな」
「はい。だってぼくは、あなたのことがよくわかるんです」
魔導師の力を受け継ぎ、王族の力よりも馴染み深く感じているのだから、原型とも言える魔導師の居場所などすぐに知れる。
「かえりますよ」
手を差し伸べれば、魔導師が戸惑ったのはほんの僅かな時間だけで、小さな王子の小さな手のひらを、魔導師は温かく包んだ。そこから流れ込んでくる力もまた、小さな王子にとって、とても温かかった。
「ひとり、か?」
「はい。つかおうかな、とおもったら、もうつかっていたので、まわりをかんがえているひまがありませんでした」
「使った、とは……その力を?」
「はい」
魔導師から受け継いだ力は、なぜか王族の力よりも使い易い。思うだけで使えてしまうものらしいと、小さな王子はこのとき気づいた。
「まだ空も飛べないだろうに……」
ぼそりと呟く魔導師に、そういえば自分には翼があるのだと思い出した。
王族や貴族の半数は翼種族、空を飛ぶ翼を持っている。
けれども、小さな王子はその翼ではあまり空を飛べなかった。弟の第二王子よりも、それは下手くそだった。
「たぶん、ぼくはきっと、あまりそれをつかえません」
魔導師から受け継いだ力のほうが使い易いということは、つまりそういうことだろう。空を上手く飛べた試しがないのだ。
だが、痛手にはならない。
「ぼくにはこのちからがあるので、かまいません」
「……そうか」
「はい」
空を上手に飛べなくても、同じように働く魔導師の力がある。小さな王子にはそれで充分だ。
それから小さな王子は、魔導師に連れられて、王都に帰還した。魔導師にとっては三月ぶりの帰還である。
「まあアリヤ! よく見つけたわね、でかしたわ!」
帰還した小さな王子と魔導師を出迎えたのは、嬉々とした王女である。
「しかもなにその姿! あんもう最高! カヤがアリヤを抱っこしてるなんて!」
歩くのはつらかろうと、魔導師は途中から小さな王子を腕に抱き上げていた。冷たい印象の強い魔導師のそれは、小さな王子も少し驚くことであったが、母である王女にとっては目の保養であったらしい。
母を喜ばせることができた、と小さな王子は満面の笑みを浮かべる。
「かあさま、ぼく、いったでしょう? かやがどこにいるか、ぼくにはわかるんです」
「そうね、そうね。さすがわたくしの子、さすがカヤの子よ!」
王女がそう言った瞬間、小さな王子を抱きあげていた魔導師は、唐突に硬直した。
「おれの、子?」
茫然とした魔導師の腕から小さな王子は落ちそうになって、慌ててしがみつく。ぎゅっとしがみついたので、その衝撃で魔導師がわれに返り、じっと見つめてくる。
「まさか……」
記憶に引っかかるものを見つけたらしく、幾分か蒼褪め顔を引き攣らせた魔導師に、王女は艶然と微笑んだ。小さな王子も、ふふふ、と微笑む。
まさか、と言葉を反芻させた魔導師は視線を彷徨わせ、王女の脚にぺったりとくっついてこちらを見上げている子ども、第二王子を見つけた。にっこりと、愛らしく、微笑みかけられている。
「おとうさま」
と第二王子が声をかけたとたん、魔導師はふらりとよろめき、今度こそ小さな王子を腕から落とした。落とされた小さな王子は、予想していたので上手に地面に着地し、駆け寄ってきた弟の第二王子と手を繋ぐと、魔導師を見上げた。
「おかえりなさい、かや、とうさま」
魔導師は気絶して倒れた。
* *
ユシュベル王国第一王子、アリヤ・ガディアン・ユシュベルには、非常識なほど鈍感な魔導師である父がいる。
名を、カヤ・ガディアン・ユシュベル。
ユシュベル王国随一の力を誇る魔導師でありながら非常識なほど鈍感で、さらには放浪癖と行方不明癖があり、数か月置きに城からいなくなってしまう人、それがアリヤの父カヤだ。
そんなカヤには逸話が多い。
「ぼくが産まれた経緯はお笑い草ですからねえ」
「え、おれたち兄妹、みんなそうじゃないか?」
弟の第二王子サキヤが、肩を竦めて苦笑する。
「いや、サキヤのときはほら、もうカヤと母上は結婚していましたから」
「でも、知らなかった」
乾いた笑いを浮かべたサキヤは、食事を終わらせると食後のお茶を頼み、アリヤも同じように食事を終わらせてお茶を頼んだ。
夕方、いつものように雲隠れしていた父カヤを見つけて、静かで立派な家を用意してあげる、という言葉の餌で城に連行した。しかし、カヤに夕食は要らないと突っ撥ねられて、アリヤは仕方なくいつものようにサキヤとふたりで食事を摂っていたところである。
「あの調子だと、母上にかけられた呪いには気づいたのかな?」
「カヤはうるさいのが嫌いですから、母上に逢ったときにはもう気づいていたでしょうよ」
「どうするかな?」
わくわくとした楽しそうな顔をした弟に、アリヤもにんまりと笑う。
「堅氷の魔導師を怒らせたら、もちろん大変なことになりますよ。ぞくぞくしますね」
「おれも混ざりたいなぁ」
「だめですよ、サキヤ。巻き込まれたら怪我だけでは済みません」
「アリヤはいいな。カヤの力、強く受け継いで」
「その分、ぼくは王族の力が使えません。サキヤのほうが、王族の力は強いですよ」
「カヤの力を使えるほうが楽しそうだ」
やんちゃな弟サキヤが言うように、確かに王族の力よりもカヤの魔導師の力のほうが、使うものとしては便利な力だ。しかしアリヤとしては、弟や妹にこの力があまり受け継がれなくてよかったと思う。
カヤの魔導師の力は国随一であるが、同時に、諸刃の剣でもある。使い方を間違えれば、わが身が滅ぶ恐ろしい力だ。
幼い頃は魔導師の力をどう使えばいいのかよくわからず、適当に発動させていたアリヤだが、一度だけ失敗して大怪我をしたことがある。そのとき、カヤが自分にしてくれたことを、アリヤは忘れていない。
あのときカヤは、大怪我をしたアリヤのその傷を、わが身に移して死にかけた。アリヤの代わりに血だらけとなったカヤは、泣いていた。泣きながら、「アリヤ、だいじょうぶか」と、アリヤのことばかりを心配し、一緒に泣くアリヤの手を握って意識を保ち続けた。騒ぎに気づいて駆けつけた医師や母、祖父母に引き剥がされるまで、カヤはアリヤのことばかり気にかけて己れを顧みなかった。
あのとき、アリヤは魔導師の力が恐ろしいものなのだと、知った。軽んじていい力ではないのだと、思い知った。
同時に、周りの者たちがカヤを少なからず忌避する理由も知った。そのうち自分も疎まれるようになるだろうと、アリヤは自覚している。
「この力は、そんなにいいものではないですよ」
「え、なに?」
「なんでもありません。さて……」
「行くのか? おれも」
「サキヤはだめです」
「えー……アリヤばっかりずるいぃ」
ここは母ユゥリアのためにも、下の弟妹のためにも、サキヤには留守番をしていてもらわなければならない。魔導師の力が欲しかった、と言うサキヤは、アリヤよりも王族の異能が強く、また剣の才もある。危険があるとは思えないが、近衛騎士よりかは強いサキヤにしか、自分の留守は任せられないのだ。
「母上と弟妹たちを頼みましたよ」
「おれより母上のほうが強いよー」
「……確かにそうですね」
言われてみれば、国随一の魔導師をわがものとした女王陛下のほうが、強いには強い。いや、国で最強だろうか。
とにかく、サキヤにここを任せることにして、文句を背中に聞きながらもアリヤは部屋を出た。
この王宮は、いや、王宮の中でもっとも奥まった場所に建てられたこの邸は、女王である母ユゥリアが魔導師である父カヤのためだけに作った邸で、アリヤや弟妹たち以外に住まう者がない。入れる者すら限られている。
「……さっそく直しましたね、カヤ」
アリヤはふと立ち止まり、廊下の窓から夜空を見上げる。
入れる者を限定するこの邸にはカヤの結界があり、またそれを維持させているのはアリヤだ。しかし結界が壊れたら、維持しているだけのアリヤには、直せない。カヤに結界の作り方を教わっていないからだ。まずは維持できるだけの力を安定させろ、ということらしい。
「どうも、難しいですし、歯痒いですねえ」
視線を手のひらに落とし、ため息をつく。そろそろ結界は作れそうだが、アリヤはまだ、力が不安定だ。
邸を覆う結界に綻びを見つけたのは数日前、ユゥリアが常時いる部屋、王宮の執務室に呪いの欠片を見つけたのはその翌日、行方を暗ませていたカヤを捜しに行こうと思っていた矢先のことだった。カヤの結界に綻びができることはままあるが、その事情を知る者は少なく、また広まるほどのものでもないので、利用されたことに驚いて動揺してしまった。
ユゥリアに呪い、なんて、カヤに戦争を吹っかけているのと同義であるのに、なんて無謀をしてくれたのか。
「きみたちはどう思います?」
アリヤは、部屋を出てから、そうでなくても常についてきている近衛騎士たちに振り向く。いつもそばにいるふたりの近衛騎士は、この邸に入ることを許された騎士で、アリヤにとっては幼馴染である。
「どう、と申されますと?」
「できればぼくは、信じたくないんですよ。聡明なあの人が、こんなばかな真似をするなんてね」
「それは……王陛下にかけられた呪いのことですか?」
「そうです。カヤが見当をつけたみたいですね、やっと犯人がわかりました。ものすごく怒っていますよ、カヤは」
幼馴染の近衛騎士たちには、事情を話している。それこそ、アリヤが大怪我をした日もふたりは近くにいたので、誰よりも近くにいる友人だ。
身に伝わってくるカヤの感情を吐露すると、ふたりの近衛騎士は少々だが顔を引き攣らせる。
「む、無理をなさらないでくださいね、殿下」
「しませんよ。ぼくだってわが身は可愛いです。ですが、カヤは怒っているんですよ。カヤに暴れられたら対処の仕様がありません。ぼくが暴れたほうが賢明ではありませんか?」
「……無茶しないでください、殿下」
心配してくれる幼馴染に、アリヤは微笑む。
「昔のような無謀はしませんよ。さてさて、カヤのところに急ぎますか」
くるりと身体の向きを変えると、アリヤは両親がいるだろう部屋を目指す。最下層、一階にふたりの部屋はあるので、身に伝わってくるカヤの力をぞくぞく感じながら、階段を下りた。
階段を下りきって角を曲がったところで、カヤの姿を見つけた。
「ちょっと、カヤ! なんてことするの!」
扉の内側から、ユゥリアの非難する声が聞こえた。どうやら外から鍵をつけたらしい。魔導師の力は便利だ。
カヤの背後に立つと、気がついたカヤが振り向いた。その顔に、アリヤは笑いをこらえる。
「言えばいいのに」
「なにを言えと?」
そんなことは決まっている。
「カヤって、本当は鈍感じゃないですよね。臆病で、天の邪鬼なんですよ。国のために力は使うし、城に異変があれば必ず駆けつけるし、母上になにかあれば、このとおり盲目的ですからねえ」
カヤは眉間に皺を寄せ、アリヤから視線を逸らすと歩き始めた。
「……おれは怒っている」
「ええ、わかりますよ。ぼくはあなたの力を受け継いだ息子ですからね。あなたの考えていることは手に取るようにわかります。さあ、行きましょうか。母上に悪いことをした者には、天罰を与えなければ」
黙々と歩くカヤの後ろを、アリヤはついていく。
「ついてこなくていい。ひとりで充分だ」
「いやですよ。ぼくは……いえ、ぼくらは、危うくカヤ以外の人間を父親にされるところだったんですから」
望まぬことを、いや、考えつきもしなかった事態が起きそうになっていたのに、黙っていられるわけがない。
ふと、カヤが立ち止まる。
「おれが父親でいいのか?」
父の自覚はそれなりにあるカヤが急に言いだしたことに、思わず目が丸くなる。
「え? なにを言っているんですか? ぼくらにとって父はあなただけですよ。ほかの誰でもありません」
こんな面白い父親、ほかにはいない。当時王女であったユゥリアと結婚し、アリヤとサキヤが産まれてもしばらく気づきもしなかった、非常識なほど鈍感な魔導師だ。こんな人を父に持ったのは、正直自分たちだけだろうとアリヤは思っている。手放せるものか。
それに、アリヤは大怪我を負ったときの、カヤの姿を忘れていない。
泣いて、アリヤのことばかりを心配し、血だらけになったカヤの姿を、父の姿を、アリヤは忘れることなどできやしない。
「……そうか、おれでいいのか」
珍しくほっとしたように、カヤは息をついた。
「カヤ?」
「なんでもない。とにかく、行くのはおれひとりで充分だ。おまえは残れ、アリヤ」
「いやです。行きます」
なんとしてでも一緒に行ってやる。国のため、ユゥリアのため、わが子のためなら、どこまでも無謀を働く父だ。暴れられては困る。
「……好きにしろ」
少し乱暴な言い方だったが、そこに愛情を感じる。これが父だと、アリヤは思う。
「よし。じゃあ行きますか。カヤ、ぼくは思い切り力を使ってみたいのですが、かまいませんか?」
「己れを律することができるのならば」
その答えに、アリヤは近衛騎士を振り向く。
「カヤの許可がでました。きみたちはここに残ってください。巻き込まれて怪我をしても、ぼくは責任を持てません。ここに残って、母上と弟妹を護ってください」
「御意。お気をつけて、アリヤ殿下」
近衛騎士はアリヤを止めず、また自分たちはその場に膝をついて敬礼する。アリヤの力が、国随一であるカヤのそれを受け継いでいると、身を以って経験しているのだ。賢明な判断である。
有能な騎士たちには、カヤも頼んだ。
「ユゥリアと、子どもたちを頼む」
「御意。アリヤ殿下と無事お帰りくださいませ、王公閣下」
騎士の返答に頷き、カヤは歩を再開させる。アリヤはその背に続いた。
王宮の奥にひっそりと聳える邸を出ると、広がる闇に、身を溶け込ませた。
* *
貴族や平民から力のある者が産まれた際、その全員が城に召し上げられ、魔導師団に所属する。稀な力を持った者の集まりであるので、それほど多くはない人で構成されている師団は、いつでも人手不足だ。
アリヤはその魔導師団に所属している。そこで幼い頃から、力の使い方を教わった。半分は自分で理解して使っていたが、半分は魔導師団で学んだ結果だ。
「この前、どうだった?」
王城近くの王立学院に通うサキヤが、帰ってくるなり、魔導書を引っ張り出していたアリヤの机にひっついて、そう訊いてきた。
「ぼくが暴れましたよ。カヤが思い切り力を使っていいと許可してくれましたからね」
「潰した?」
「もちろん。最終的にはカヤに止められてしまいましたけど。彼らの処罰は公に下すべきですからね」
「そっちの理性を働かせたのがカヤ? アリヤにしては珍しいなぁ」
「手加減って、難しいんですよ」
やはりまだ力は不安定で、アリヤは今回も結界の作り方をカヤに教えてもらえなかった。残念である。しかし、あの邸の結界はカヤが作らなければ意味がない。むしろ、カヤだけが作れる特殊なものだ。
「楽しかった?」
「カヤの切れっぷりは見ていて面白かったですよ。彼らは思い知ったことでしょうね。国随一の力を持つ魔導師が、堅氷の魔導師が、どれほど女王陛下に傾倒しているか……ばかな真似をしたものですよ」
くすくすと笑えば、サキヤは不服そうに頬を膨らませた。
「おれも見たかったなぁあ」
「そうですね。あれは見ものでした。サキヤにも見せたかったですよ。けど……ちょっと怖かったですね」
「怖い? カヤのどこが?」
きょとん、と首を傾げたサキヤに、アリヤは説明に困って少し唸る。
「どこ、と指摘されると、難しいですねえ……まあ、全体的に、ですかね」
「見ためは無表情鉄面皮だから怖いのはわかるけど……カヤが怖いなんて、思ったことないなぁ」
わからないなぁ、としきりに首を捻る弟に、兄は笑う。
「カヤに恐怖を抱かないのは、母上とぼくらくらいですよ」
「え」
「カヤが非常識なほど鈍感なのは、自分がどういう人間か理解しているからです。だからカヤは、城に居つかないんですよ」
「……カヤは嫌われてんの?」
「残念なことに、一部には」
「それって、魔導師の力のせい?」
「それ以外にありますか?」
苦笑しながら問い返せば、サキヤは渋面を浮かべて俯く。しばらくそうしていると、急に立ち上がった。
「おれはアリヤが好きだぞ。カヤも好きだ。嫌いになんかならない」
弟らしい発言に、笑いが込み上げる。
「タトゥヤも、ナディヤも、家族みんな好きだ」
「ふふ……それ、カヤに言ってあげてください。母上が言ってましたけど、カヤって家族に縁がない人だったらしいんです。母親の顔も、父親の顔も知らず、魔術師団に拾われてからも力のせいでずっとひとりで、育ったようですから」
「あ、カヤのそれは聞いたことあるな。よっしゃ、今から言ってくるぜ」
「はい、いってらっしゃい」
純粋な弟は、目を輝かせて拳を握ると、アリヤに背を向けてあっというまに部屋を出て行く。
「制服から早く着替えなさいよー」
とアリヤが声をかけたときには、もう廊下を走っていた。
「まったく……可愛いですねえ」
元気な弟にしばし笑わせてもらうと、アリヤはそれまでみていた魔導書に再び視線を落とす。
結界の作り方が記されている書物は、しかし父カヤが書いたものなので、残念ながら詳細ではない。そういうものが作れる、という言葉だけが並んでいる。ほかにも、空間を捻じ曲げて渡れるということや、空間を切り離せるというような、カヤしかできないような力のことが記されていた。
「教えてくれるのはここまで、ですか」
もっと詳しく記してくれてもいいのに、意地悪だ。いや、裏を返せば賢明なものかもしれない。ここに記されているものは、カヤほどの力がなければ使えないものである。これがもし流用し、悪用されたらどうなるか。この書物はあってはならないものであり、カヤが多く言葉を記さないのは当然だ。
厚みのないその書物を、どれくらい読み耽っていたのか。
気づくと部屋に明りが灯され、外は暗くなっていた。
「そろそろ夕食です、殿下。お茶はいかがですか」
侍従に声をかけられて、そうですねえ、と書物を閉じた。
そのとき。
「アリヤ」
部屋の扉が、なんの予告もなく開き、カヤが入ってきた。
「ようこそ、カヤ」
にこ、と笑って、どこか疲れたような、けれどもなにかに満たされているような顔を見せる父を、アリヤは迎え入れる。
「夕食前のお茶をするところでした。カヤもいかがですか? あと、今夜の夕食はぼくらといかがです?」
「……アリヤ」
「ご一緒してくださいますよね。母上とばかりでは、ぼくらも寂しいです。ああ、母上も一緒だともっと嬉しいかもしれません。今夜は家族で卓を囲みませんか」
「アリヤ」
「なんですか、父上?」
にこにこと笑って父の様子を見ていたら、父上、と呼んだ瞬間にカヤは硬直した。息を詰めて、そうしてふいと視線を逸らす。
「さ……サキヤ、に……なにを、言ったんだ」
「んん? べつになにも……ああ、家族が好きだと言うので、カヤに言ってきなさいとは言いましたね。それがどうかしましたか?」
「……あまり、そういうことは……言わせるな」
「おや、なぜです?」
嬉しいくせに、とアリヤは笑いながら肩は竦める。
カヤが満ちた顔をしているのは、サキヤに真っ直ぐそう言われて嬉しかったからに違いない。
不器用な父は、その愛情表現も不器用で、言葉も足りないのだ。それで母が四苦八苦しているのを、アリヤは知っている。結婚して十数年、どうやら未だ「愛している」の一言も父は母に囁いていないようなのだ。
「アリヤ、わかるだろう」
「? わかりません。なんのことですか?」
「おれの力は、あまりよいものではない。おれの力を受け継いだおまえなら、よくわかるはずだ」
「恐ろしいものだという自覚はありますよ。ですが、それとサキヤの発言に、なんの関係があるんですか?」
「ユゥリアにほんの僅かな悪意を向けていいのは、おれだけだ」
アリヤに視線を戻したカヤの、森のように深い緑の双眸が、少しだけ揺れていた。
泣きそうだ、と思った。
だから思わず、噴き出して笑ってしまった。
「相変わらず母上を溺愛していますねえ、カヤ」
「アリヤ、茶化すな」
「茶化していませんよ。つまり、あれでしょう? 嫌われ者は自分ひとりで充分だ、ぼくらまでその被害を受ける必要はない、と。そういうことでしょう?」
あはは、とアリヤは思い切り笑ってしまう。
この非常識なほど鈍感な父は、ただの臆病者である。そして天の邪鬼だ。愛されることに、憶病になっている。片意地を張りながら、愛したものを護ろうとしている。
面白い人だ。
「ばかですねえ、カヤ」
「誤魔化すな」
「だから、ばかだと言うんですよ。カヤ、あなたはぼくらの父上です。あなた以外を父と呼ぶ気はありません。サキヤは、そう言っただけのことですよ」
「……おれは」
「カヤは母上を愛しているだけで、いいんですよ。あの晩もそう言ったでしょう? ほんと、ばかですねえ」
この愛を信じないなんて、愚かだ。こんなにも満ちている心を邪推するのと同じだ。
ほかの弟妹たちはともかく、アリヤは、父をどうこう思い始める前に、力の使い方を間違えて大怪我をし、そのときの父を見ている。あのときに、カヤの位置は決まったのだ。
父親らしいことはしなくても、その自覚が薄くとも、この人は己れの父で、母が選んだ母の恋しい魔導師。
誇りにすら思う。
「胸を張ってくださいよ、カヤ。ぼくらは、みんな、母上の性格に似ています。あなたなんか、ちっとも怖くないんですよ」
国随一の力を持つ魔導師、妻とわが子のためなら命も惜しまず無謀を働き、そのくせ愛されることに臆する、心優しい父。
この世界では、わが子を捨て、虐待し、殺す親もいるというのに。
「……おれは、おまえたちが、怖い」
「でしょうねえ」
数か月おきに行方不明になる人だ。臆病者なのだから、その気持ちはわかる。
「おまえたちを……ユゥリアを失うことが、怖い」
「ぼくらも母上も、それなりに強いですよ?」
「おれのせいでユゥリアを危険に曝した」
「いつものことでしょうに」
「ユゥリアがおれを……忘れるところだった」
「あなた、家出しているときはぼくらのこと、忘れているじゃないですか」
「おれが離れていれば、危険は減る……だが」
「離れていたらその分だけ危険は増すのだと、漸く理解してくれましたか?」
カヤはぐっと押し黙った。わが父ながら、情けない姿である。
アリヤは笑みを深めた。
「諦めて、この地に留まってはいかがですか」
「……おれは」
「歓迎しますよ、父上」
笑ってもいいだろうか。
こんな人でも自分の父で、誇りなのだと、笑ってもいいだろうか。
* *
母ユゥリアが父カヤのためだけに建てた邸に、息子として昼食を摂りに帰ったときだった。
「……なにをしているんですか、おふたり共」
居間の扉を開けるとすぐ、仰向けに倒れたカヤがいた。その上にはもちろん、ユゥリアが馬乗りしている。
お邪魔だっただろうか。
「放っておいてくれ……」
カヤはこの世の終わりでも見てきたかのような顔で、そっぽを向いた。
「お聞きなさい、アリヤ!」
ユゥリアは、実に楽しそうに嬉しそうに、アリヤをきらきらした眼で見つめてくる。
「楽しそうですね、母上」
アリヤは微笑み、ユゥリアの視線に合わせて屈む。
「そうなのよ、楽しくて嬉しいのよ、わたくし!」
「どうしたんですか?」
「五人めができたのよ!」
「おや……それはおめでとうございます、母上」
「ええ!」
ユゥリアは、それはもう幸せそうな顔をした。勢いでカヤの襟首を掴んで揺さぶり、ぐったりしていようがかまわず、その喜びをアリヤにぶつけてくる。
「ユゥリア、たのむ、はなしてくれ……もう、わかった、わかったから……めが、まわる」
「ああん、だって嬉しいのだものぉ! カヤが、カヤがわたくしの子どもに、名前をつけてくれるなんて!」
「いや、それは……だから、わかったから」
がんがん揺さぶられ続けたカヤは、もはや顔色が真っ蒼だ。アリヤが来る前から、長いこと揺さぶられていたのだろう。
「母上、そろそろカヤを離して差し上げてはいかがでしょう。気絶寸前……いえ、気絶しましたよ、ほら」
「まあ大変! カヤっ?」
ぱったりと意識を失ったカヤは、どうやら本格的に目を回したようである。ユゥリアは乗り上げていたカヤの上から退くと、慌てた様子でカヤを膝に抱いた。
アリヤはふと、そんなふたりに笑みを深める。
ユゥリアが母で、カヤが父で、よかったなぁと思うこの瞬間、なにげないこの一時が、たまらなく、好きだ。
いつまでも、こんな時間が続けばいい。
いつまでも、こんな時間に包まれていたい。
この時間が、とてもいとしい。
そんなことを思う自分は、きっと狂人に近いだろう。
それでも。
「羨ましいですねえ、カヤ」
笑っていて、いいだろうか。
この優しい時間に。
読んでくださりありがとうございました。
誤字脱字、その他なにかありましたら、こっそりひっそり教えてください。