5:名を応じし者、影より立つ
_φ(・_・バ=リーアス)
夜の空気が湿っている。
冷えた瓦屋根の上に、黒光りする小さな影が張りついていた。
その姿を見れば、誰もが反射的に顔をしかめ、あるいは靴底で叩き潰そうとするだろう。
だがその“虫”は、ただの虫ではなかった。
――ゴキブリ。今の見た目は、そう形容するのが一番近い。
けれど中身は違う。そいつは、異界の名を持つ存在──人の世で言えば、精霊と呼ばれる類のものだった。
曰く、姿は自由に変えられる。曰く、人の目にどう映るかは選べる。
つまり、意図してこの姿だった。
「ま、どうせ“精霊”といえば神々しいとか荘厳とか、そういうのを期待するんだろ?」
「だったら逆張りでいってみようか、ってな」
屋根の縁で触角を揺らしながら、バ=リーアスは小さく笑った。
そもそも、最初から人間に受け入れられる気なんてさらさらなかった。
むしろ──嫌われた方が、都合がいい。舐められずに済む。
「問題は……その直後だよ」
思い出せば、腹の奥がひりつくような気がした。
あのジジイ。殺気の飛ばし方も、詠唱も、構文の組み方も──全部が本気だった。
演出で異形に化けたのは、確かに悪ふざけだった。
だが、あの魔術は笑えなかった。冗談抜きで、削られるかと思った。
「……いやー、マジで殺られるかと思ったな。あれは本物だった」
だから、逃げた。とっさに、最小構成・最速移動・最も忌避される姿──“虫”を選んで。
軋む魔力の波を背に、屋根伝いに飛んで、ここまで来た。
「プライド? そんなもん、床下の隙間にでも捨ててきたさ」
バ=リーアスは、そっと脚を折り畳む。
魔力の痛みは、まだ残っていた。
現界に留まるだけで、魔素はじわじわと削られていく。
その消耗は、じんわりと体の芯を炙るように襲ってくる。
……長くはいられない。
だからこそ、考える必要があった。
「あのジジイは、まあ、わかる。経験の差ってやつだ。だが……」
思い出すのは、もう一人の少年。
名も知らない。言葉もろくに交わしていない。
けれど、あのとき――“何か”が引っかかった。
血媒は少なかった。構文もボロボロ。
本来なら、召喚は成立しなかったはずだった。
それでも、“来てしまった”。
「……お前、いったい何を背負ってやがる」
屋根の上。街灯の届かぬ夜の闇の中で、バ=リーアスはじっと目を細めた。
異界の精霊が、虫の姿で息を潜める。
その目は、名も知らぬガキの、曇天の向こうを見据えていた。
夜の風が、瓦の隙間をすり抜けていく。
バ=リーアスは、ふと脚を止めた。
屋根の端、月も星もない夜空を仰ぎ見る。
そして――その身が、静かに揺らいだ。
影のようにうごめいていた小さな体が、するすると溶けるように変化していく。
甲殻が崩れ、羽音が止み、節のある脚が形を失っていく。
闇に沈んでいた輪郭が、少しずつ“人の形”に近づいていった。
まるで水面に映る像が収束していくように。
現れたのは、しなやかで、どこか無機質な肢体。
その肌は黒鉄めいて光を吸い、白い仮面のような顔面は、まるで肉と一体化していた。
目元だけが深く彫られ、そこに宿る光が、かすかに揺れていた。
──これが、バ=リーアスの“本来の姿”。
神でもなく、悪魔でもなく。
ただ、人が「精霊」と呼ぶ存在。
「ま……こっちが本命ってやつだ」
肩を回しながら、バ=リーアスは首を鳴らす。
虫の姿でいたせいか、関節の感覚が微妙にずれている。
だが、問題はそこじゃない。
あの“ガキ”のことだ。
術式はひどかった。文字は滲み、詠唱も崩れていた。
血媒は足りておらず、構文の接続にも致命的な欠陥があった。
あれで呼ばれたのが、自分とは到底思えない。
……それでも、応じたのは事実だった。
「普通なら来るはずがねぇ。ってか、来ないはずだった。なのに、俺は来た」
精霊は、ただ術式に従って現れるものではない。
呼び声に“芯”がなければ、契約は成立しない。
だがあのガキの詠唱には、一本だけ確かな“線”が通っていた。
言葉ではない。構文でもない。
──魂だ。
芯のように、ねじれた痛みのように。
ただの興味でも、好奇心でも、無垢でもない。
「……お前、どんだけ歪なもん抱えてんだよ」
バ=リーアスは白い仮面のような顔を歪めて笑った。
姿は若い。体も小さい。
だが、内側が妙に深い。
重たく、澱んで、引きずられるような重み。
“引っかかった”のは、間違いなくそこだ。
「俺は、あんな儀式に引きずられるほど安くねぇんだけどな」
言いながら、バ=リーアスは空を仰いだ。
この世界の空気は重い。肌がひりつく。
長くいれば、魔素は削れていく一方だ。
身体の奥で、じくじくと痛みが燻っていた。
現界にいるというのは、そういうことだ。
契約者と正式に繋がっていなければ、精霊の身はもたない。
「……ま、だからって、すぐ帰れるってわけでもねぇがな」
ひとつ、長いため息をついた。
バ=リーアスは、屋根の縁に腰を下ろした。
脚をぶらぶらとさせながら、うっすらと笑みを浮かべる。
「さて……これからどうしたもんかね」
この世界の空気は重たい。
まるで霧のようにまとわりつき、内側から少しずつ削ってくる。
魔素が減っているのが、はっきりわかる。
肌の下をじわじわと焼くような、ひりつく痛み。
長くこの場所に留まれば、それだけ命を削られる。
現界とは、そういう場所だった。
「ま、今さら文句言っても始まらねぇ。来ちまったもんは仕方ない」
問題は、どう帰るか――だ。
契約は中途半端、構文もガタガタ。
正規の帰還儀式なんて、期待するだけ無駄だ。
「選択肢はいくつか、ってとこか」
ひとつ、指を立てる。
「まず、“術者を殺す”。
強引に契約を切る手段だが……ま、あのガキをぶっ殺したところで、帰れる保証はねぇな」
苦笑とともに、もう一本。
「次、“術者の元へ戻って、手がかりを探す”。
……これは悪くない。少なくとも、契約の残滓くらいは調べられるだろう」
三本目の指が、空を差した。
「最後、“自力で異界に帰る手段を探す”。
時間はかかるが……あの頃の勘が鈍ってなけりゃ、何とかなるかもな」
ふう、と小さく息を吐いて、バ=リーアスは仮面の下で目を細めた。
どれも簡単な道じゃない。
それに、この世界にいればいるほど、魔素の消耗は加速する。
――補給手段もない。
本来なら、契約者からの供給で維持されるはずの魔素。
今の彼にはそれがない。
つまり、精霊としての“寿命”が、刻一刻と削られている。
「……ったく。遊びで来たつもりが、命賭けの滞在になっちまったか」
そう呟きながら、ふと目を細める。
遠く、あの孤児院の方向を眺めていた。
ガキはまだそこにいるだろうか。
何も知らず、ただ後悔だけを抱いて。
「ま、いいさ。名前も知らねぇガキだが――興味は湧いた」
あの魂の重さ、ただ者じゃない。
「……しばらくは、様子を見てやるか」
風が屋根の上を吹き抜ける。
夜の静寂が戻り、街の灯は遠く瞬いていた。
バ=リーアスはひとつ大きく伸びをして、雲ひとつない空を仰ぐ。
「呼ばれちまったからには、適当に暴れるってのも……悪くねぇか」
そして――彼は静かに笑った。
(バ=リーアス:……おい、作者。またお前か。どうして毎回、俺ばっかりこんな目に遭うんだ?)
作者「仕方ないでしょ?これも“契約”だからね」
(バ=リーアス:契約って便利な言い訳だな……まったく)
作者「というわけで、次回もトラブル続きの二人(+α)を、どうぞゆる~く見守ってください!」
(バ=リーアス:次こそ平穏な日常を頼むぞ。……無理だろうけど)
作者「……それは契約外です」
それではまた暇な時にでわでわ!