4:灰の静寂、夜の記憶
_φ(・_・アギス)
階段を上がるたびに、地下の冷気が背中から剥がれていく。
重たい空気、あの異形と対面した空間から遠ざかるほどに、現実へと引き戻される感覚があった。
――けれど、心はまだ揺れていた。
目を逸らせば、霧のように掻き消えてしまいそうな何かが、胸の奥でざわついている。
あれは夢ではない。呼んでしまったのだ。名を、異界の名を。
そして、その名に応じる存在が、本当に現れてしまった。
人間のようでいて、そうではなかった。
現界に現れたそれは、輪郭が定かでなく、影の中に滲むような異形の姿をしていた。
四肢の数すら安定せず、節くれだった肢体は、まるで忌避すべき“何か”を模しているかのようだった。
それでも、確かに“存在”していた。
あんなものが、本当に精霊なのか。
アギスは歩くロマーノの背中を追いながら、もう何度目かも分からない問いを胸の中で繰り返した。
扉が開き、灯りのともる部屋に足を踏み入れる。
整然と並んだ本棚、清潔な机と椅子、閉じられたカーテンの向こうに見えるのは、星の見えない曇り空だった。
「座りなさい」
ロマーノの声は短く、静かだった。
アギスは黙って椅子に腰を下ろす。
ロマーノは本棚から一冊を選び、机の上に開いた。
紙の擦れる音が、無言の空間に小さく響く。
「召喚儀式には、いくつかの分類がある」
そう言って、ロマーノはページを指でなぞる。
そこには、円環構文と各種霊体に関する注釈が書き込まれていた。
「“封印型”――呼び出した精霊を武具や装飾品に封じて力を貸し与える形式だ。
一見便利に見えるが、封印が不完全なら、その力は術者をも脅かす」
ページをめくる動作が妙に重く感じられた。
「“使役型”――術式を通じて精霊と契約を結び、顕現させて命令に従わせる。
これが、いわゆる“召喚”の基本だな。
……だが、構文の崩れや血媒の不備があれば、顕現した精霊に術者ごと呑まれる」
アギスは静かにうなずいた。
自分が試した儀式は、おそらくこの「使役型」に分類される。
だが、どこから見ても“まとも”な構文ではなかった。血媒も、不十分だった。
それでも、来た。――あの異形は、確かに現れた。
「最後に、“憑依型”」
ロマーノの声がわずかに低くなる。
「術者自身、または別の人間の肉体を“器”として、精霊を現世に留める術式だ。
これは今も多くの国で禁じられている」
短い沈黙が、部屋に落ちた。
「……理由は言わない。だが、知っている者は語らない。
それほど、恐ろしい“結果”を生む術式だ」
アギスは喉を鳴らし、小さく息を吐いた。
――もし、少しでも違っていたら。
もし失敗していたら、あの精霊は現界に現れることなく、すべては虚無に帰していたはずだ。
けれど現れた。そして――死んだ。
今でも、まぶたの裏に残っている。
灰になって消えた、あの姿が。
あれが“精霊の最期”だと、誰かが言わなくても分かる。
後悔が、胸の奥で膨らんでいた。
こんなことになるなんて、思ってもいなかった。
好奇心だった。ほんの出来心だった。
だが、そのせいで――一つの命を終わらせてしまった。
ロマーノが、静かに本を閉じた。
「何も言わなくていい」
彼の声は、怒ってはいなかった。
ただ、静かに、どこまでも冷静だった。
アギスはただ、俯くことしかできなかった。
アギスは視線を伏せたまま、口を開けなかった。
自分が行った儀式は、“使役型”に最も近い。
けれど、それは分類上の話でしかない。あの詠唱は崩れていたし、構文の線は途中でかすれていた。血媒もほんの僅かしか使えなかった。
――まともな術じゃなかった。
なのに、あれは……“来てしまった”。
「……どうなるかなんて、本当は、何も考えてなかったんです」
かろうじて出た声は、喉の奥に引っかかっていた。
「ただ……呼びたくなって。やってみたら、あんな風に――」
思い返すたび、胸の奥に苦いものが広がる。
あの異形。
目の前に現れた“存在”の気配を、アギスは確かに感じたのだ。
そして、ロマーノの詠唱。精密で、鋭くて――最後には、燃え尽きるように、すべてが消えた。
灰になって、散っていった。
「……僕のせいで、あんなことになったんだと思います。だから……責任なんて、言えません」
ロマーノはその言葉に、ひとつだけ頷いた。
「そうだな。“責任”という言葉は、お前にはまだ早い」
その口調は冷たいというより、沈んでいた。怒っているのではない。ただ、言葉の重みだけが、静かに胸に刺さった。
「だが、“後悔”だけは刻んでおけ。二度と繰り返さぬように」
アギスは唇を噛み、小さくうなずいた。
そしてロマーノは、書の頁をめくりながら続けた。
「召喚された存在は、必ず“帰還”させねばならない。それも、術者自身の手で」
「……はい」
「だがそのためには、正しく契約が結ばれていなければならない」
その言葉に、アギスの指がぴくりと震えた。
「お前が行った召喚は、不完全なままだ。契約も、構文も、血媒も。あれは“成立”などしていなかった」
だから――
「“帰還”も、できなかったはずだ」
アギスは、ほんの一瞬だけ顔を上げた。
「……でも」
「“でも”はない」
ロマーノの声が重なって、切り伏せた。
「お前の目に見えたものが何であれ、結果として“あれ”は消えた。灰となり、術式も沈静化した」
それは――死んだということだ。
アギスは俯き、両手を膝の上で強く握った。
あの瞬間、確かに見たのだ。空に溶けるように舞い上がった黒い灰を。
あれは、まるで魂が散るようだった。誰にも知られず、燃やされて消えてしまった何か――
「……はい」
かすれた返事のあと、部屋の空気がゆっくりと冷えていくのがわかった。
ロマーノは椅子に背を預け、もうそれ以上は何も言わなかった。
アギスもまた、黙って夜の静けさに身を委ねていた。
けれど胸の奥では、まだ、何かがざわめいていた。
火の気のない部屋で、アギスは手のひらをじっと見つめていた。
机の上には、乾きかけた血の染みが残っている。儀式に使った紙片、破れた構文の残骸。それらを、ロマーノは一言も責めなかった。
けれど、何も言われないことが、一番苦しかった。
風がカーテンを揺らす。雲は切れず、星のない夜が続いていた。
「……ほんとうに、死んだんでしょうか」
ぽつりと、アギスは呟いた。
ロマーノは沈黙のまま、眼鏡の位置を指で直す。
否定も肯定もしない。ただ、視線の先にある“現実”を受け止めているようだった。
あの“何か”が現れた瞬間。
姿は定かでなかった。影が染みのように滲み、節くれだった肢体が蠢いていた。
まるで、どこかで見たことがあるようでいて、まったく理解の及ばない存在だった。
それが、「名前を読んだだけ」で現れてしまった。
――間違いなく、アギス自身が引き寄せたものだった。
ロマーノが言った。
「もう戻らんよ。……あれは、術者が制御できるような存在ではなかった」
その声音に、確信があった。
ロマーノは“あの何か”を一瞬で見極め、躊躇なく対処した。魔術を使い、討ち果たしたのだ。
それが当然であるかのように。
「お前が生きていること。それが一番大事な結果だ」
低く、しかし断ち切るような言葉だった。
アギスは反論できなかった。
何をどう言っても、あの存在はこの世界にいない。もう、問い直す術もない。
ただ――
「……ちゃんと、言葉も通じてたんです」
不意に漏れた言葉に、自分でも驚いた。
「たった一瞬でしたけど。意思があるって、わかりました。……話してたんです。ちゃんと」
ロマーノは、珍しく目を細めた。何かを吟味するような顔だった。
「それは……“錯覚”だったかもしれん。だが、そう思えたのなら――余計に、お前は後悔するだろうな」
アギスは頷いた。
心の奥が、ひどく軋んでいた。
責任なんて、大それた言葉はとても言えない。
ただ、自分が呼んで、そして失った。そのことが、痛みとして残っていた。
「……すみません」
誰に向けたのかもわからない言葉を、吐き出すように漏らす。
ロマーノはそれを聞いても、何も言わなかった。
ただ夜が、深まっていく。
呼ばれ、そして消えた“何か”の記憶だけを残して。
(バ=リーアス:……おい、作者。またお前か。どうして毎回、俺ばっかりこんな目に遭うんだ?)
作者「仕方ないでしょ?これも“契約”だからね」
(バ=リーアス:契約って便利な言い訳だな……まったく)
作者「というわけで、次回もトラブル続きの二人(+α)を、どうぞゆる~く見守ってください!」
(バ=リーアス:次こそ平穏な日常を頼むぞ。……無理だろうけど)
作者「……それは契約外です」
それではまた暇な時にでわでわ!