2:忘れられた少年と精霊の契約
_φ(・_・アギス)
夕暮れが、鉛のような空の下でゆっくりと沈んでいく。
瓦礫にまみれた倉庫街のあちこちに、猫の鳴き声と腐った野菜の臭気が漂っていた。
アギスは誰にも見つからぬよう、そっと錆びた鉄扉を押し開けた。軋む音が背中に貼りついたまま、崩れかけた廃倉庫の中へと身を滑り込ませる。
冷たい空気が床を這い、古い鉄骨の柱に染み込んでいる。光はほとんど届かず、埃の層が足音をかき消すように積もっていた。
彼はそのまま、ひとりしゃがみ込んだ。
ぶかぶかのシャツ。骨のように細い手足。ぼさぼさの黒髪に、目の下の青い影。
その表情は乏しく、何かを見つけるような感情もない。――だが、その瞳の奥だけが、冷たく光っていた。拒むように、問いかけるように。
彼の膝の上には、一冊の本。
背表紙は擦り切れ、表紙の皮はめくれ、角は折れ、紙面には見慣れない古語と呪文がびっしりと刻まれている。魔術学院の生徒ですら解読に苦労するような密度のそれを――アギスは、静かに指でなぞっていた。
ページをめくった瞬間、意味が流れ込んできた。
(……わかる)
読み方ではない。文法でもない。
構造が、文意が、流れそのものが、まるで体に染み込んでいたように“馴染んで”くる。
怖いくらいに、自然に。
「……呼び出しに必要な意志の定着は、術者の精神構造に由来する」
口をついて出た古語の響きが、空っぽの空間にぽつりと落ちた。
誰に教わったわけでもない。ただ、そこにある言葉が、彼の口から“出てしまった”。
(どうして、僕はこの本が読めるんだ……?)
この世界には、魔術を読み解ける人間がいる。学院で訓練を受けた魔術師なら、読めるかもしれない。
でも――自分は違う。そんな場所にいた覚えは、ない。いや、そもそも。
(……僕は、どこにいたんだ?)
記憶はない。
事故のあとのことも、孤児院に来た理由も、すべてが“後から貼り付けられた”ように曖昧だった。
わかっているのはただひとつ――
(僕には、何かが欠けている)
誰に教えられたわけでもない確信だった。
忘れている。思い出せない。けれど、それでも確かに「何かを持っていた」ことだけはわかる。
それが何なのか。なぜ失われたのか。どこへ行ったのか。
答えは、まだない。
でも――この本の奥に、それが繋がっている気がしてならなかった。
静かに、最後のページをめくる。
そこに、滲んだインクで記されていた名前があった。
《召喚契約式──バ=リーアス》
(……バ=リーアス?)
その名を見た瞬間、アギスの胸の奥がひりついた。
疼きにも似た何かが心臓を圧迫し、視界の端が一瞬、色を失う。
思い出したわけじゃない。知らないはずなのに。
ただ、その名が、“何か”を突き動かした。
古びた振り子時計が、小さく時を刻んでいた。
夕食を終えた孤児院の居間には、薪の燃える音と、窓の外を吹き抜ける風の音しか聞こえない。ロマーノ・ヴァルエルは、暖炉の前の椅子にゆっくりと腰を下ろし、膝の上で組んだ手をほどかぬまま、対面の少年を見つめていた。
「また、その本か」
声は柔らかく、けれど深く響いた。
アギスは、手の中の魔導書に視線を落としたまま、軽く頷く。
「……うん」
ロマーノの目が細くなる。
「本気で、読めるのか?」
「……読める。と思う」
言葉は曖昧だったが、そこに迷いはなかった。
ロマーノは数秒の沈黙のあと、椅子の背にもたれかかり、低く息を吐いた。
「お前は、魔術の勉強を受けちゃいない。式の一つも教えてない。……なのに、それが読めるって?」
アギスは、本のページをそっと指でなぞりながら呟くように言った。
「わかるんだ。言葉が、意味が。……読めるんじゃなくて、たぶん“知ってる”って感覚に近い」
その言葉に、ロマーノの表情がわずかに揺れた。
「……思い出したのか? 事故の前のことを」
アギスは口を閉ざした。
言葉を探すように、何度か唇が動く。だが結局、吐き出されたのは短い言葉だった。
「……なにも」
その声音には、悔しさも、悲しさも、混ざっていなかった。ただ、空白だけがあった。
「そうか」
ロマーノはそう言って、しばらく黙った。
暖炉の火が、ぱちり、と音を立てる。
「でも……最近、夢を見るんだ」
「夢?」
「誰かを探してる夢。名前も、顔も、何も思い出せないのに……必死に何かを、呼んでるような感覚があるんだ」
ロマーノは深く目を閉じ、静かに問いかける。
「それで、その本が……“呼び声”に思えたのか?」
「……うん。なんでかわからないけど、この本を読んでると、何か近づいてる気がする」
「何が近づいてるんだ?」
アギスは答えられなかった。目を伏せたまま、小さく肩をすくめる。
ロマーノはそんな少年を、しばらくのあいだ黙って見つめていた。
やがて、膝に置いた手をそっと組み直し、重たい声を発した。
「アギス。思い出そうとするのは、悪いことじゃない。過去を知りたいと思うのも、当然だ」
「……うん」
「けれどな――」
そこで、言葉がわずかに詰まった。だが次の瞬間、彼はきっぱりと言った。
「命を使うようなことだけは、絶対にするな」
アギスは目を見開いた。
まるでロマーノが“何か”を知っているような、その言い回しに。
「……してないよ。そんなこと、まだ」
“まだ”。その言葉に、自分でも気づいたのだろうか。
ロマーノはふっと眉を上げたが、追及はしなかった。ただ、微笑を浮かべて頭を撫でる。
「お前が誰であれ、うちの子には変わりない。……心配なんだよ、親として」
「院長……」
アギスの声が、かすかに揺れた。
「……ありがとう」
「礼なんかいらん。明日は薪運び、頼んだぞ」
「……ええっ、また?」
ロマーノは小さく笑い、立ち上がった。
そして暖炉の火に、もう一度薪をくべると、静かにこう付け加えた。
「生きててくれ。それだけで、充分だからな」
その背中を、アギスは黙って見送った。
孤児院の灯りが落ち、すべてが眠りに沈んだ頃。
少年は、そっとベッドを抜け出した。
軋む音を立てる階段を、ゆっくりと下りていく。足音がやけに大きく響いた。まるで、この空間そのものが呼吸を潜めているような錯覚。蝋燭の炎が小さく揺れ、壁に映る影が、別の生き物のように蠢いていた。
辿り着いたのは、使われなくなった地下の物置だった。
湿った石壁と崩れかけた棚。箱の破片、蜘蛛の巣、冷たい空気。
現実と夢の境が曖昧になるような、静かな場所だった。
アギスは息を整え、床にしゃがみ込む。
蝋燭を四方に並べ、チョークで魔法陣を描き始める。
円、三角、重なり合う記号群――不格好な線だったが、なぜか“意味”を成していく。
読み間違いばかりの構文。けれど、手は迷わなかった。
彼の内側で何かが、そう導いていた。
「……証明したいんだ」
呟いた声は、小さくもはっきりとしていた。
アギスはナイフを取り出し、刃を指先にあてる。
ちくり、とした痛み。にじむ血が、そっと陣の中心に落ちた。
「僕が……ここにいていいってことを」
蝋燭の光が、わずかに歪む。
空気が、妙に濃くなる。呼吸がしづらくなるほどに、周囲が押し黙った。
アギスは震える声で、詠唱を始めた。
「〈我が声を辿りし異界の精霊よ。応えよ――その姿を、現せ〉」
その瞬間だった。
床の構文が、逆向きに発光しはじめた。光は炎のようではなく、冷たい銀色――まるで“記述された意味”が、書き換わっていくようだった。
読み上げた呪文の順番さえ、ずれて聞こえる。
まるで、何か別の存在が、彼の詠唱に割り込んできたかのように。
ぞわりと、空気が裂ける。
音ではない。触感でもない。
ただ、“存在そのもの”が空間の隙間をこじ開けて、そこに入り込んでくる。
アギスの視界が、ひとつ歪んだ。
そして。
闇が、そこに現れた。
人の姿ではなかった。
骨のようで、影のようで、煙のようで――
そのどれでもない、“恐怖そのもの”が形を持って立っていた。
視線が合った。そう思っただけで、心臓が跳ね、喉が凍りついた。
アギスは立ち尽くす。
膝が震え、声も出ない。
五感が、まるですべて反転していく。
理解できない。けれど確かに、これは――異界だ。
空気が、ひび割れた。
音ではない。けれど耳の奥に、雷のような衝撃が走った。
空間そのものが、ガラスのように軋み、見えない裂け目が現れた気がした。
蝋燭の火が一斉に揺れた。
炎が逆巻き、光がねじれる。
重力の軸が狂ったような違和感が、アギスの足元を掴む。
そして――
深く、重い“声”が、どこからともなく響いてきた。
地下の石壁が低く鳴る。空気が震える。
それはまるで、言葉ではなく存在そのものが発する波動だった。
腹の底から、魂の奥まで響いてくるような、異質な律動。
「ああ、この感じ……久しぶりだな」
「せっかく夢見心地だったってのに……どこのどいつだ、俺の名を呼びやがったのは!」
声に、威圧でも怒りでもない、“疲れ切った苛立ち”のような色が混じっていた。
アギスは呆然と、その存在を見つめた。
――これは、世界が見逃した異常だった。
そして、物語は今、その幕を開けた。
(バ=リーアス:……おい、作者。またお前か。どうして毎回、俺ばっかりこんな目に遭うんだ?)
作者「仕方ないでしょ?これも“契約”だからね」
(バ=リーアス:契約って便利な言い訳だな……まったく)
作者「というわけで、次回もトラブル続きの二人(+α)を、どうぞゆる~く見守ってください!」
(バ=リーアス:次こそ平穏な日常を頼むぞ。……無理だろうけど)
作者「……それは契約外です」
それではまた暇な時にでわでわ!