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冷たい玻璃  作者: 和奏
緋鯉
8/13

幻影の夜


 水路に飛び降りた孝史の足は、脛の下まで泥に埋まる。

 水嵩は深くとも足の付け根辺りまで。腿に押し寄せる水流を重く感じるが、緩い流れは身体を持っていくほどではない。

 濡れた衣服がぴたりと脚に張り付き、水の冷たさを感じる。足を持ち上げようとすると、靴の中に泥が入り込んだ。

 

「おい、樹!」

 街燈の明かりの届かない水路は、孝史が音を立てなければ何もない暗闇。

 足で水を蹴ることで、重い水音が立った。孝史は、樹が落ちたあたりから少し下流へと動く。

 この短時間で、樹ほどの年齢の少年が水音一つ立てずに流されてしまうはずがない。そう考えるも、音のない時間が刻々と過ぎていく事に、孝史は言いようのない焦燥感を募らせる。

「樹! 返事をしろ!」

 声は幅広い水路に虚しく響き、ほどけて消えた。


 答えがないということは――。

 口を引き結び、孝史は水の中へと手を差し込み彷徨わせた。

 指に水草が絡む。腕を動かすたびに水草が千切れ、或いはずるりと泥から抜けた。水よりもわずかに温かさを感じる微細な泥が、肌を舐めてゆく。

 孝史に引き抜かれた水草と共に。ごそ……と浮かび上がる『何か』が、ゆるりと水中を転がり指先に触れる。水の流れに押されて、吸い寄せられるように、孝史の掌にぴたりと収まる。

 両の手で捕まえたそれに、緩やかな水の振動が伝わる。持ち上げられたことにより角度が変わり、積もっていた泥土(でいど)が、それから離れてゆく。

 それに絡みついていた水草が、するりと抜けて、孝史を置き去りに川下へと流れてゆく。

 落とすまいと力の込められた指先に触れる、砂泥(さでい)。その向こうにあるのは、丸く滑らかでありながら、ざらりとした表面の『何か』。

 手の内に残った軽くて薄いものに、孝史は丁寧に指先を這わせる。

 完全な球体ではなく、歪な……、形。

 ぽっかりと。指を吸い込む空洞は、まるで――。


「な……に?」

 夜の暗闇のせいか。はたまた、樹の奇妙な行動のせいか。

 指先から手の内に在る物の形状を拾う孝史の脳が、ありえないものを描き出す。

 否定しようにも、脳裏にこびり付いたそれは、孝史の思考を捉えて離さない。

 瞬時にして、水の冷たさが身体を這いあがり、骨の髄まで浸透する。ぞくりとして、孝史の全身が総毛だつ。


 ――眼窩。

 両の手で抱えるそれは、水底に沈み隠れて眠る、さながら頭蓋のような。 


 一陣の風が吹いた。

 ざぁ……、と。打ち寄せる波を思わせる大きな葉擦れの音に、孝史は腰を伸ばして柳を振り仰ぐ。

 薄雲が途切れ、降り注ぐほのかな月光に浮かび上がるのは、柳。だが、柳が纏うのは細葉ではなく、薄鈍色(うすにびいろ)の小魚の群れ。

 もの静かに宙を舞う小魚の群れは、蕭蕭(しょうしょう)とした小夜風を受けて、柳の細葉の如くひらひらと靡く。

 

「え……?」

 孝史の漏らした声に、小魚の群れが、一斉に翻った。

 銀の鱗が閃いて、蒼い月からまっすぐに伸びる透明な光芒を、刹那、映して弾く。


 頭上を悠々と泳ぐ小魚に、孝史は大きく見開いた目を一度瞬かせて、凝らす。

 間違いなく呼吸することのできる地上にいるのに、しっとりと夜に濡れた蒼月の浮かぶ、深い濃藍の水底にいるような錯覚に陥る。

 呆然として空を仰ぐ孝史が、小魚の群れを透かして見る柳。横に伸びた細枝に腰掛けるのは、薄白(うすじろ)いおぼろげな人影。

「……樹?」

 小魚の群れが人影の顔の辺りをするすると横切る、ほんの刹那。

 孝史のいる水路を覗き込むように俯く人影の、夜の薄墨に染まる桜色の唇がかすかに綻び、微笑する。

 す……と、蒼白い手が差し出された。

 

 ぴと……ん――。

 水面に落ちて反響する雫の音、一粒。


 孝史の手の中にあったものが、乾いた灰の如くさらさらと崩れて、指の間から零れ落ちる。

 落ちた灰が孝史の足許で凝り、何かが蠢いた。

 白くあって、透明でもあり、かといって向こうを透かすものでもない、影。

 霧のように霞む影は、小魚の舞う柳の梢へと伸びあがりながら、真白の着物を纏う幼い少女の後姿を浮かび上がらせる。

 肩下で切りそろえられた細い絹糸を思わせる黒髪が、さらりと風に泳ぎ、胴を締める淡い桃色の兵児帯が、空気を含んで柔らかに小さく弾む。着物の裾から覗くのは、艶やかな緋彩の鱗を張り付かせた長い魚の下半身。


 樹の言っていた、水路に迷い込んだ緋鯉というのは――。

「人、魚……?」

 

 惑いながらも宙を滑る孝史の声に、柳にいる白い影のもとへと泳いでいた少女の尾が、ぴたりと止まった。

 少女は尾部をうねらせ、美しい光沢のある透明な緋い尾鰭を、しなやかな絹布の如く翻らせる。

 反動で少女の上半身が翻り、髪が大きく広がった。孝史を振り返る雪花石膏のように白い顔を、目許を黒髪がはらりと覆い、頬を撫でて。

 少女と、目が――。


「その人は、だめだよ」

 割って入ったのは、優しく諭す樹の声。


 ――直後。

 突風が巻き起こり、吹き上げられた水飛沫が、孝史の目許や頬に掛かった。

「……っ!」

 反射的に目を瞑り、咄嗟に片腕で顔を覆う。水を含む風をやり過ごす。

 腕に風を感じなくなって、そろそろと腕を下ろす孝史は、視線を戻してはっとなる。


「樹!?」 

 眼前には、何も無い。

 魚の半身を持つ着物の少女の姿は忽然と消えて。

 空に舞う小魚の群れも、柳の枝に在った人影もない。


 ただ――。

 夜空には月が懸かり、街燈の無機質な明かりが、暗い道を白々と照らしていた。


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