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冷たい玻璃  作者: 和奏
緋鯉
7/13

横たわる闇


 昇りきった月が、夜空の遠く高い位置に懸かっていた。

 薄雲の中にこもる月のおぼろげな光は、夜の(とも)し火となり、暗い空にまるくあわい紫を滲ませる。

 しっとりと夜気を帯びた空気は地表におとなしく沈殿し、草陰に潜む虫たちの声もない。

 道を踏みしめる微かな靴音だけが際立つ、そんな静謐な夜だった。


 水路のある道を通りながら、孝史は、つい昼間の癖で柳並木の間を見遣る。

 道の端に少年がいるはずがないと、口許に小さな自嘲の笑みを浮かべた孝史の目が大きく見開かれ、表情は凍りついた。

 枝垂れる柳の下に佇む、白い人影が……。

 茂る細葉の間に、よく知る少年がいた。

「……樹?」 

 まさかという思いから、咽を通る声は細く掠れてこもり、夜の闇に霧散する。


 夜道を照らす街燈の明かりすら途切れてしまう、もの寂しい道の際。

 薄暗い柳並木の間に立ち俯く少年は、蒼白い月よりも白く、闇にぼんやりと浮かび上がる。

 夏なのに。

 まるで、冷たい月明りを受ける白銀の雪の如く、――透けるように白い、儚げな少年。


懐中電灯(あかり)も持たずに、こんな遅い時間に何をしているんだ」

 そばに寄る孝史に、昼間と変わらない様子の樹は、ほのかな笑みを浮かべて平然と答えた。

「水の底にいる、緋鯉を探しているんです」

「緋鯉、を……?」

 確認の意を以て、孝史は水路を一瞥する。

 道よりも低い位置にある水面には、街燈はおろか、頭上にある月のわずかな光すら柳に遮られて届かない。底のない闇が、水路という(みち)に、果てしなく横たわっている。

 何も、見えない。……見えるわけがなかった。

 冗談にしては、あまりに質が悪い。孝史は樹に不信の眼差しをぶつける。

「……」

 馬鹿なことを……といいかけて、樹を否定する言葉は(のど)で詰まり、口から零れることはなかった。

 いつだって、ここで見かける樹は、緋鯉を探していたのだから。

 目の前にいる少年は、昼間に言葉を交わす時と同様に穏やかな表情を浮かべ、それでいて、まっすぐに真摯な眼差しをしていた。

 悪戯に揶揄ったり、嘘を吐いているようには、見えない。


「……緋鯉を見つけて、どうするつもりなんだ」

 代わりに絞り出された疑問が、低く地を這った。

 

 ――ええ、と樹は静かな相槌を打った。

「身勝手にも、寂しいと思ってしまったから……」

 ほの哀しげに、繊細な微笑を浮かべる樹は、「だから」と言葉を継いだ。

「ここで、一人ぼっちでいる緋鯉を、連れて行きたいと思ったんです」


「……連れて行く?」

 理解が及ばずに、孝史は怪訝に顔をしかめる。

 樹は、道の端から水路を見下ろすばかりで、釣り竿も網も持っていない。水路は深く、手を伸ばしても水面には到底届かない。


 硬い声音で尋ねる孝史に対し、樹は優しく表情を緩めた。濃褐色の瞳が柔い月光を浮かべ、夢現の境を彷徨いとろりとする。

「はい」

 軽く頷くことで濃褐色の瞳は伏せられ、長い睫毛が白い頬に薄い陰を這わせる。

「そこは、何処までも透明で一点の曇りのない、とても美しいところ……。刳り抜いた空を溶かして流し込んだような、綺麗な水を湛えたところなんです」 

 熱っぽさをも帯びる樹の声の内に、狂気じみたものを感じて、孝史はぞくりとする。


「……水?」

「ええ」


 ……はたして。

 目の前の少年は、自分の知っている樹なのだろうか。そんな有り得ない疑念が湧いて、孝史は軽く浮遊感を覚える。

 じっとりと湿り気を含む、生暖かい風の吐息が孝史の身体を包み込む。全身からふつふつと吹き出した嫌な汗が幾筋も肌を這い、滑り落ちていく。

「ここに、緋鯉がいなかったら……?」


「いいえ、僕にはわかるんです。……()()だって」

 道の際に立つ樹は、すっぽりと闇に包まれる水路を、感情の凪いだ瞳で覗き込む。


「この土地は水路が多いでしょう? まるで、複雑な迷路のように。水を土地に行き渡らせるために至る所で水門が閉じられて、水の流れは細く滞り……。水路に迷い込んだ小さな緋鯉は、可哀そうに路を見失いどこにも行けなくなってしまったんです。悲しみに暮れて、やるせなくすすり泣く声が聞こえたから……、つい探してしまうんです」

 一筋の糸を思わせる樹の細い声は、夜風に紛れて、さらりとほどけて消える。


「……」

 こくり、と喉が鳴り、孝史は顔が引き攣るのがわかった。

 闇が満ち満ちて、黒の一色に塗りつぶされた水路の。

 音もなく、ゆるりと流れているだろう水底の一点を、じっと見据える樹の姿は、その奥に繋がる遠い別の世界を覗き込んでいるかのようで……。

「家は、この近くなんだろう? ……何処だ。送っていくから」

 訳の分からない焦燥が、孝史の口調をきつくし、棘を含むものにした。

 わずかに首を傾け困った顔をする樹は、叱られて言い訳を探す子供と同様に、「家は――」と口ごもる。

 寂しいというのだから、家族が働きに出ているなどして、樹の家には誰もいないのかもしれない。

 もしかしたら、樹には何か、家に居づらい事情があるのかもしれない。

 それでも、この場に樹を残して立ち去ることはできなかった。

 家へと送り届けて、安心してしまいたかった。


「帰るんだ」

 手を伸ばして掴んだ樹の細い手首は、しっとりと水を含み濡れていた。

 掌に触れた肌は、温もりのない滑らかな白磁を思わせ、ひやりとして冷たかった。

 樹に触れた指先から伝わりくる違和感に、はっとなる。すぐさま樹の手首を離して、孝史はその場に硬直する――。


「孝史さん……? どうか、しました?」

 孝史に一歩近寄り、下から覗き込む樹は、遠慮がちに尋ねる。

 けれども、控えめな口調とは裏腹に、澄んだ濃褐色の瞳はほんのわずかにも揺らぐことなく、ぴたりと孝史に向けられていた。

 樹という存在そのものに疑念を抱き、恐怖したことを見透かされた気がして、孝史は、ぎくりとして身を竦ませる。


「もしかして。……僕が、怖いんですか?」

 力ない声で、薄く微笑みながらも傷ついた表情をする樹に、孝史はひどく悪いことをした気になった。 

 居心地の悪い気まずさを覚えて、孝史は慌てて否定する。

「こ、……怖くないっ。年下の子供が怖いだなんて、あるわけがないだろう!」

 孝史は膨らみかけた疑念を、馬鹿馬鹿しいと一蹴した。

 

「そう、ですか」

 心底ほっとしたように表情を緩めた樹が、踵を返し、ついと離れた。

 再び、道の際へとつま先を揃えて立つ樹の足許。一寸先は、深淵を思わせる闇。

 身体を前に屈め、水路の暗い水を覗き込み、何かと目を()()()()()()()()()()樹の姿に、孝史は言いようのない危うさを感じる。

「樹、少し下がらないと……!」


 水路からは離れずに、樹は孝史の方へ首を巡らせる。

「孝史さんは、本当に――」

 口許に刹那の躊躇いを覗かせ、言い淀んだ樹は、声に出すことを気兼ねするかのように、ささやかに唇だけを動かす。

 ――似ている、と。


 不意に。

 ふつ、と街燈の白い明かりが小さく弾けて限りなく弱まり、夜の中になりをひそめた。

 相反して、漂う水の()と、闇の色彩が一段と濃厚になる。

 孝史の目の前には、頼りないほどに白い、樹の姿だけがあった。


「孝史さん、緋鯉を――」


 上空を風が走り、(ともしび)を閉じ込めた薄雲が、ゆらりとあそぶ。

 枝垂れる柳が大きく波打った。

 触れ合い擦れ、一斉にさざめく柳の葉の、軽やかに涼やかな音。


「――て、もらえませんか?」


 湿り気を帯びた重たい風に攫われ、葉擦れの音にかき消されて、物静かに囁かれる樹の声が届かない。

 風に戯れる柳の細枝に隠れ、樹の口許が見えない。

 切なげな眼差しで何かを訴え、そこはかとない憂いを漂わせる樹は、妙に大人びて見えた。

 

「今、なん……て?」


 孝史の問いに答えることなく。

 瞼を伏せた樹は水路へ向き直り、とん……、と軽やかに地を蹴った。

 白いシャツが、肌が暗闇に霞んで、呑まれていく。

 目を瞠る孝史の前で、ゆっくりと落ちていく。

 樹の突拍子のない行動に、孝史は思考が真っ白になる。瞬時に全身から音を立てて血の気が引いた。息を吸い込もうとしていた肺が委縮して、ぴたりと動きを止める。

 息が詰まり、声は出なかった。


 とぷん……、と。孝史の足許よりも下の方で静かな水音が立った。

 それは、世界を隔てるのにも等しい、どこか遠くから聞こえた小さな音。

 それきり、水の波立つ音も、水面を掻く音もしない。

 時の流れすら止まったかに思える無音(せいじゃく)に包まれて、樹の消えた一点を見つめたまま、孝史は茫然とする。

 

 ――深いのか?

 足がつかない程に。

 呼吸を再開するのと同時に、思考が戻る。我に返った孝史の脳裏に、水は苦手かと、……泳げるのかと尋ねた時の、要領を得ない樹の返事が過った。

 樹は、泳げないのかもしれない。

 背筋をひやりとさせた孝史は、樹を追って水路へと飛んだ。


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