梔子の香り
樹と出会った、水路のある道を通りかかる時。
孝史は、自然と水路脇の柳並木に目を遣るようになった。
日増しに強くなる陽射しを浴びた景色が白く色褪せ、照り返す光に目を射られ、眩さを覚える――そんな日でも。
柳のたもと、枝垂れる枝の下に溶け込むようにして、樹は居た。
「長く外にいると、熱射病になるぞ」
「……孝史さん」
柳の幹に片手を添えて水路を覗き込んでいた樹が、後ろに立った孝史を振り仰ぐ。
孝史が樹の顔を見下ろす、更にその下。
長く静かに横たわる水路は、今日ものっぺりとした水面に、水草がゆらゆらと揺蕩うばかり。
――また。
「緋鯉を探しているのか?」
一歩水路に近づき、孝史は水を覗き込む。だが。
暗い緑の水を湛える水路は、ぼんやりと空を映すばかり。水面という一枚の薄膜に隔てられた向こう側には、魚の影一つない。
緋鯉に興味があるわけではなかったのだが。
樹に会う度に、彼が常に水を覗き込んでいるから、孝史は緋鯉は見つかったのかと、つい尋ねてしまう。
だから。
二人の会話の中心にあるのは、姿を見せない緋鯉であった。
樹は水路に視線を戻し、とても穏やかに、されど真摯な声音で答えた。
「ええ。上がってきてくれないかと思って」
「ふぅん」
生返事を返しながら、孝史は胸の内で呟く。
鳥が自由に空を飛ぶように、水を泳ぐ魚が一か所に留まることはないのに、と。
そもそも。
「緋鯉は、本当に居るのか?」
疑念を抱く孝史は、躊躇いがちに尋ねてみる。
「……ええ」
言葉少なく答える樹は、ただ、ねっとりと流れる水を見下ろすばかり。
網で水底を攫うのではなく、釣り糸を垂らすわけでもない。
水を騒がせ、緋鯉を驚かせたり傷つけたりすることを好まずに、ただじっと、それが水面に上がってくるのを待っている。
ここに緋鯉がいるのだと、信じているのだ。
口数の少ないこの少年は、どこか捉え難い。
けれど。
水面を見つめる樹の眼差しは至って真面目で、居もしない魚を一生懸命探す幼い子供のそれと重なった。
微笑ましく思った孝史は頬を緩め、くすりと笑い声を漏らす。
きょとんとした樹が孝史と視線を合わせ、不思議そうに小首を傾げた。
「どうか、しました?」
「いや、別に」
大人と子供の狭間にある、樹くらいの年齢の少年は、子供扱いしたら機嫌を悪くするだろう。
可愛らしいとは言い出せずに、孝史は「それよりも」と話を逸らした。
「こんなにも待っているのだから。緋鯉も水底にいるのなら浮いてきて、ひと目姿を見せてくれたらいいのに」
淀んだ水面に緋色の魚が閃いたのなら、きっと樹は喜ぶだろう。
相変わらず、孝史自身は緋鯉に興味はなかったが。
見かけるたびに、ただひたすらに。この場所で緋鯉を待ち続ける樹を想って、口から零れた言葉だった。
樹は大きく瞠った目を孝史に向ける。驚きに彩られていた樹の瞳が、ふと、金縛りが解けたように柔らかに緩んだ。
樹は嬉しそうに、ふわりと顔を綻ばせる。
「ありがとう、ございます」
「餌を、撒いてみたらどうだ?」
礼を言われて気をよくした孝史は、何ならどこかで買ってきてもいいと提案する。
すると樹は、眉尻を落とし、申し訳なさそうに呟く。
「……何も、口にしないかもしれません」
「へぇ、そういうものか」
孝史は釣りをしたこともなければ、川にいる魚に餌を撒いた事もない。
人間の作った餌は、自然に住む魚にとって、食べ慣れないばかりか警戒されるものなのかもしれない。
どうしたら緋鯉が水面へ上がってくるだろうかと、孝史は思案に耽る。
「それなら、草か……、そうだ。花を流してみたらどうだろうか」
「花を、……ですか?」
何故花なのか理解できないといったふうに、樹が鸚鵡返しに尋ねた。
遠い記憶に思いを馳せる孝史は、伏せた目を細める。
「ああ」
花であれば、自然のものだ。
春、川の上流から運ばれる、小さな丸い貝殻のような桜の花弁。それを、口を開けて無邪気に捕まえていた鯉を見たことがあった。
しかし、今の時期に桜はない。
「梔子なら、丁度これからの時期だ。花の香りが水にとければ、何が流れているのか気になって上がってくるかもしれないだろう?」
混濁する水を湛えた水路を眺め下ろす孝史は、梔子の滑らかに艶のある花の姿を、くらりとするほどに強い芳香を思い浮かべる。
ゆるやかに流れる涅色の水に運ばれるであろう、白い花を。
冷たい水の底から空を見上げる緋鯉を、想う――。
たとえ、淀んだ水の底から、純白の花弁が見えなくとも。
水のうねりに踊らされ、揺らぎながら通り過ぎていく花の青褪めた影と、しっとりと濃厚で甘やかな香りは、水に移ろい混ざり。
……ゆっくりと深く、沈みこんで。
やがて、水草の根元に沈み隠れる緋鯉のもとに、届くのかもしれない。
まじまじと孝史を見つめた樹は、小さな吐息と共に目を伏せて、視線を水面へと滑らせる。
「そうですね……。花は、良いかもしれません。……綺麗に咲く花の姿は寂しさをやわらげて、甘やかな香りは心を慰め、癒してくれるでしょうから」
淡々と。
感情という彩の潜められた声音は、かえって哀しいまでに透き通り、それでいて妙な実感がこもっていた。
「樹は――……、いや」
樹の言葉が、自己の抱く感情や想いを緋鯉という存在に投影したものなのか。それとも、彼の経験によるものなのか、孝史にはわからない。
だが。
学生でありながら、何らかの事情を抱えて学校へ行っていないという樹だから、憂鬱に心を沈ませることがあるのかもしれない。
気持ちが塞ぐこともあるだろう。
樹の気が、少しでも晴れるのなら。
「探してみるよ。梔子」
小首を傾げることで孝史に顔を向ける樹は、凪いだ水面を思わせる静謐さを湛えた瞳を優しく細めて、しみじみというのだった。
「孝史さんは、親切な善い人ですね」
――と。