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冷たい玻璃  作者: 和奏
緋鯉
6/13

梔子の香り


 樹と出会った、水路のある道を通りかかる時。

 孝史は、自然と水路脇の柳並木に目を遣るようになった。

 日増しに強くなる陽射しを浴びた景色が白く色褪せ、照り返す光に目を射られ、眩さを覚える――そんな日でも。

 柳のたもと、枝垂れる枝の下に溶け込むようにして、樹は居た。


「長く外にいると、熱射病になるぞ」

「……孝史さん」

 柳の幹に片手を添えて水路を覗き込んでいた樹が、後ろに立った孝史を振り仰ぐ。

 孝史が樹の顔を見下ろす、更にその下。

 長く静かに横たわる水路は、今日ものっぺりとした水面に、水草がゆらゆらと揺蕩うばかり。


 ――また。

「緋鯉を探しているのか?」

 一歩水路に近づき、孝史は水を覗き込む。だが。

 暗い緑の水を湛える水路は、ぼんやりと空を映すばかり。水面という一枚の薄膜に隔てられた向こう側には、魚の影一つない。

 緋鯉に興味があるわけではなかったのだが。

 樹に会う度に、彼が常に水を覗き込んでいるから、孝史は緋鯉は見つかったのかと、つい尋ねてしまう。

 だから。

 二人の会話の中心にあるのは、姿を見せない緋鯉であった。

 

 樹は水路に視線を戻し、とても穏やかに、されど真摯な声音で答えた。

「ええ。上がってきてくれないかと思って」

「ふぅん」

 生返事を返しながら、孝史は胸の内で呟く。

 鳥が自由に空を飛ぶように、水を泳ぐ魚が一か所に留まることはないのに、と。

 そもそも。

「緋鯉は、本当に居るのか?」

 疑念を抱く孝史は、躊躇いがちに尋ねてみる。


「……ええ」

 言葉少なく答える樹は、ただ、ねっとりと流れる水を見下ろすばかり。

 網で水底を攫うのではなく、釣り糸を垂らすわけでもない。

 水を騒がせ、緋鯉を驚かせたり傷つけたりすることを好まずに、ただじっと、それが水面に上がってくるのを待っている。

 ここに緋鯉がいるのだと、信じているのだ。

 口数の少ないこの少年は、どこか捉え難い。

 けれど。

 水面を見つめる樹の眼差しは至って真面目で、居もしない魚を一生懸命探す幼い子供のそれと重なった。

 微笑ましく思った孝史は頬を緩め、くすりと笑い声を漏らす。

 きょとんとした樹が孝史と視線を合わせ、不思議そうに小首を傾げた。

「どうか、しました?」 

「いや、別に」

 大人と子供の狭間にある、樹くらいの年齢の少年は、子供扱いしたら機嫌を悪くするだろう。

 可愛らしいとは言い出せずに、孝史は「それよりも」と話を逸らした。

「こんなにも待っているのだから。緋鯉も水底にいるのなら浮いてきて、ひと目姿を見せてくれたらいいのに」

 淀んだ水面に緋色の魚が閃いたのなら、きっと樹は喜ぶだろう。

 相変わらず、孝史自身は緋鯉に興味はなかったが。

 見かけるたびに、ただひたすらに。この場所で緋鯉を待ち続ける樹を想って、口から零れた言葉だった。 


 樹は大きく瞠った目を孝史に向ける。驚きに彩られていた樹の瞳が、ふと、金縛りが解けたように柔らかに緩んだ。

 樹は嬉しそうに、ふわりと顔を綻ばせる。

「ありがとう、ございます」

 

「餌を、撒いてみたらどうだ?」

 礼を言われて気をよくした孝史は、何ならどこかで買ってきてもいいと提案する。

 すると樹は、眉尻を落とし、申し訳なさそうに呟く。

「……何も、口にしないかもしれません」

「へぇ、そういうものか」

 孝史は釣りをしたこともなければ、川にいる魚に餌を撒いた事もない。

 人間の作った餌は、自然に住む魚にとって、食べ慣れないばかりか警戒されるものなのかもしれない。

 どうしたら緋鯉が水面へ上がってくるだろうかと、孝史は思案に耽る。


「それなら、草か……、そうだ。花を流してみたらどうだろうか」

「花を、……ですか?」

 何故花なのか理解できないといったふうに、樹が鸚鵡返しに尋ねた。

 遠い記憶に思いを馳せる孝史は、伏せた目を細める。

「ああ」

 花であれば、自然のものだ。

 春、川の上流から運ばれる、小さな丸い貝殻のような桜の花弁。それを、口を開けて無邪気に捕まえていた鯉を見たことがあった。

 しかし、今の時期に桜はない。

 

梔子(くちなし)なら、丁度これからの時期だ。花の香りが水にとければ、何が流れているのか気になって上がってくるかもしれないだろう?」

 混濁する水を湛えた水路を眺め下ろす孝史は、梔子の滑らかに艶のある花の姿を、くらりとするほどに強い芳香を思い浮かべる。

 ゆるやかに流れる涅色の水に運ばれるであろう、白い花を。

 冷たい水の底から空を見上げる緋鯉を、想う――。


 たとえ、淀んだ水の底から、純白の花弁が見えなくとも。

 水のうねりに踊らされ、揺らぎながら通り過ぎていく花の青褪めた影と、しっとりと濃厚で甘やかな香りは、水に移ろい混ざり。

 ……ゆっくりと深く、沈みこんで。

 やがて、水草の根元に沈み隠れる緋鯉のもとに、届くのかもしれない。


 まじまじと孝史を見つめた樹は、小さな吐息と共に目を伏せて、視線を水面へと滑らせる。 

「そうですね……。花は、()いかもしれません。……綺麗に咲く花の姿は寂しさをやわらげて、甘やかな香りは心を慰め、癒してくれるでしょうから」

 淡々と。

 感情という(いろ)の潜められた声音は、かえって哀しいまでに透き通り、それでいて妙な実感がこもっていた。


「樹は――……、いや」


 樹の言葉が、自己の抱く感情や想いを緋鯉という存在に投影したものなのか。それとも、彼の経験によるものなのか、孝史にはわからない。

 だが。

 学生でありながら、何らかの事情を抱えて学校へ行っていないという樹だから、憂鬱に心を沈ませることがあるのかもしれない。

 気持ちが塞ぐこともあるだろう。

 樹の気が、少しでも晴れるのなら。

「探してみるよ。梔子」

 

 小首を傾げることで孝史に顔を向ける樹は、凪いだ水面を思わせる静謐さを湛えた瞳を優しく細めて、しみじみというのだった。


「孝史さんは、親切な善い人ですね」

 ――と。


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