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冷たい玻璃  作者: 和奏
緋鯉
5/13

誘う水草


 水路沿いの道を歩く青年が、行く先の、道際の柳並木のたもとにひっそりと佇む人影を認めて、目を凝らす。


 ――ああ、昨日の。

 それが一緒に雨宿りをした少年だったと、青年はすぐに気づく。

 ほんの一時ではあったが、わずかながらも言葉を交わした少年は、青年の中でもはや『知っている人間』だった。

 初夏の陽光と、枝垂れる柳の細葉の淡い影の狭間にある少年は、白い光にほどけてしまいそうに。……微かに揺らぐ影のくすんだ灰色に紛れてしまいそうな透明感があった。

 目を離したら、その瞬間にでも掻き消えてしまいそうな、蜻蛉(かげろう)を思わせる繊細な儚さがあった。


 道の際に立つ少年は、そばを通りかかろうとする青年に気づく様子もなく、水路に身を乗り出すようにして足許よりもずっと下に流れる水を覗き込んでいる。

 水路は道よりも幅広く、成人男性の身長よりも幾ばかりか、深い。

 そういえば、彼は昨日もここにいたのだったと、青年は、ふと思い至る。


 ――何を、見ているんだろう……?

 横顔から窺い知れる少年の真摯な眼差しに、青年は興味を惹かれる。


 今にも水路の中に吸い込まれてしまいそうな少年の姿に、青年は思わず足を止めた。少年の肩を掴み、腕に力をこめて、わずかに手前に引き寄せる。

「そんなに前のめりになって覗き込んでいると、水に落ちるぞ」

「え……?」

 驚愕の表情を浮かべて振り向いた少年の、光を浮かべる濃褐色の瞳と目が合う。大きく見開かれた硝子玉を思わせる澄んだ瞳が、ゆっくりと一度、瞬いた。

 一呼吸ほどの間を置いて少年は、おずおずと口を開く。

「あ、昨日の……?」

「それ、制服だろう? 学校は? 辺りを学生が歩いていないのだから、まだ授業中じゃないのか?」

 少年は困ったような微苦笑を顔に浮かべると、少しの間動きを止めた。

「学校の先生みたいなことをいうんですね。そういう貴方は?」


 尋ねてから少年は、「あ」と短く声を漏らし、きちんと青年に向き直ると、礼儀正しく会釈をした。

「昨日はハンカチを貸してくれて、ありがとうございました。僕は、……いつき。樹木(じゅもく)の樹と書いて、いつきです」

「たかし。和泉(いずみ)孝史(たかし)。……大学生だ」 


 たかしさん、と小さな声で名前をなぞった樹の口許が固まる。あからさまに表情を陰らせた樹は、ばつが悪そうに視線を泳がせ、事情があって学校へは行っていないのだと言葉を濁した。

 それは親も知っていることだからと、樹は視線を落とすようにして逸らす。その歯切れの悪い口調から、何か特別な事情があるのではないかと推し量る孝史は、それ以上言及することも出来ずに口を閉ざした。

 挨拶も礼もきちんとできて、芯のあるしっかりとした話しぶりの少年は、素行が悪いふうには見えない。

 こうして外へ出ているのだから、とりわけ身体が悪いわけでもないのだろう。

「別に、踏み込んで訊く気はないよ。それよりも、水路に何か落としたのか?」

 ――ただ。

 孝史は、樹が何を真剣に見ていたのか、気になったのだ。


 いいえ、何も。と、樹はゆるりと(かぶり)を振った。

 彼は顔を傾け、水路の濁った水を底まで見透かすように、横目で見遣る。

「……緋鯉を、探しているのですよ」

「緋鯉? ここに?」

 (あか)い大きな鯉を思い浮かべながら、孝史は訝しむ。


「ええ――」

 小さくて可愛らしい緋彩(ひいろ)の、と。濃褐色の瞳にそっと睫毛を被せる樹は、淡く優しく微笑んだ。


 水路に、魚がいるのか。

 一歩水路に近づき、樹の隣に並ぶ孝史は、彼に倣い足許のさらに下――、水を覗き込んでみる。

 下流に水門を設置された広い水路はたっぷりとした水量で、一定の速さを保ち、とろりと流れている。だが、昨日降った雨のせいか、それとも上流(うえ)で何かしているのか。涅色(くりいろ)に濁った水は、見通すどころか、ぼぅ……と水面に自分の姿が映るだけ。


「……目が合えば、絡めとられますよ」


 背後からしっとりと囁かれる声に、孝史はびくりと肩を震わせた。

 水路の両端は浅くなっているのか、水底(みなそこ)に繋ぎ留められた沢山の青緑(あお)い水草が水面をいっぱいに覆い、緩やかな水流に翻弄され、しなやかに軽薄に漂う。

 まるで。

 樹の言う通り、手招きをする水草が水底へと誘っているようにも見えて、孝史は身体を引いた。


「こういう話や、水は苦手ですか?」

 意外だと言わんばかりに。……可笑しいのを(こら)えるように口許に片手を当てて、顔を覗き込んでくる樹に、孝史はむっとする。

揶揄(からか)ったのか」

「いいえ、まさか。……ただ、ちょっとだけ」

 孝史の反応が、親しい人間に似ているのだと。どことなく楽しそうに、樹は茶目っ気のある表情でくすくすと笑う。

 やはり揶揄われた気がしてならない孝史は、少しばかりむきになる。

「別に、こんな水路どうってことない。それに、泳ぎは得意なほうだ」

 田畑の多い土地柄、水路は身近なもの。

 大小さまざまに入り組んだ、水路の張り巡らされた土地で育ったのだから、もちろん、水の怖さは知っている。

 けれど、流れも緩い足が立つ水嵩の水路に落ちたくらいで、どうにかなるとも思えない。

「そうですか」

 相槌を打つ樹は、柔和に微笑むばかり。

 邪気のない笑顔に毒気を抜かれて、孝史は落ち着きを取り戻し、ささやかな興味の向くままに話を振った。

「樹は?」

 泳げるのか、泳げないのか。

 孝史の明るい眼差しを受け止めた樹は、表情一つ変えない。

 

「さぁ……、どうでしょう」

 何がどうとはいわず、ただ、曖昧にはぐらかす。口許には笑みを浮かべたまま、それ以上詮索されることを厭うように、樹は、水路に視線を落として口をつぐんだ。


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