俄雨
風向きが変わり、湿り気を帯びた涼しい風が地表に流れ込んだ。
さぁっと薄墨色の影が走り、瞬く間に空気の色が塗り替えられる。……晴天であったことが嘘のように、薄暗くなる。
暗雲の垂れ込めた天を、眩い閃光が奔り、すぐさま空を引き裂くような雷鳴が耳を劈いた。
ぽた、と雫が落ちて。
それを皮切りに、景色が白く霞むほどの、激しい雨が降った。
突然降り始めた雨に、一人の青年が道沿いにある一軒の家の軒下へと駆け込んだ。
大きな雨粒が荒々しくアスファルトを叩き、巻き上げられた土埃の湿気た匂いが、やわらかに鼻孔をくすぐる。
青年は、雨を避ける為に頭に乗せていた鞄を下ろし、軽く振って水滴を払う。ひとまず落ち着き、小さな安堵の吐息を漏らした。
もう一人か、二人。
軒下を借りることができそうだと周囲を見渡すも、激しい水音を立てながら降りしきる水煙にけぶる景色の中で、慌ただしく行き交う人々は声もなく背を丸め、思い思いの方向へ足を向ける。
青年と視線の合う者はない。
動くものの気配は何もなくなり、やがて人々が道の上から姿を消すと、軒下に青年は独り取り残された。
天を仰ぎ、稲光と暗雲の流れを見守る青年が、降り注ぐ雨の雫を追いかけ、再び地上に目を落とし――。
「あ……」
――軽く、目を瞠る。
宙を舞う水の粒子の先、ほのかに青みがかる半透明な景色の中に、浮かび上がる人影があった。
道を挟んだはす向かい。水路脇に生える柳並木の間、雨に打たれて重くしなる枝の下に、一人の少年が佇んでいた。
あれでは雨を凌げないと、青年は心配に表情を曇らせる。
何よりも――。
「――おい!」
張り上げられた声に気づいたのか。顔を上げて視線を交わした少年は、まだあどけなさを残す面持ちの十四、十五の年頃に見えた。
「こっちへ来ないか! 雷が近――」
言い終えぬうちに視界が蒼白い閃光に塗りつぶされ、同時に身の竦むような雷鳴が轟き、青年の声を掻き消した。
驚いたふうに目を瞬かせた少年は、そろそろと左右を確認すると、意を決したように、とんっと地を蹴り柳の下を飛び出した。
ぱしゃぱしゃと軽快な水音を連れて。
少年は、青年のいる軒下へと駆け込んだ。
頭からずぶ濡れとなった少年の肌に、制服らしい半袖のシャツが張り付き、肉付きの薄い撫肩をくっきりと浮き上がらせている。淡色の象牙を思わせる肌が、白い生地の下に薄く透けて見えた。
俯く少年の濃褐色の瞳に、しっとりとした長い睫毛が重たげに掛かり、瞼を滑る雫を受け止めてそっと外へと散らす。
顔に張り付く髪もそのままに。水を集めた毛先から、頬を伝う雫を拭うこともしない少年に、見かねた青年は鞄の中をまさぐる。
少年は、その手に何も持ってはいなかったから。
「使うか? ……とはいえ、あまり役に立たないかもしれないが」
「え?」
鞄の中から取り出したハンカチを差し出す青年を、少年はきょとんとして見上げる。次いで濡れた自身の身体を見下ろした。
丁度、学校は夏服に切り替わったばかりの頃合いなのだろう。
陽が陰り、雨が降ることで空気を冷たく感じる中、袖口から覗いた少年の細腕がしっとりと濡れる様は、ひどく寒々しく見えた。
「早く拭いてしまわないと、冷えて風邪をひくだろう」
ああ、と納得したように軽く頷いた少年は、わずかに微笑んでみせた。
「ご親切に、ありがとうございます」
少年が身体を拭き終えるのを見計らうように、垂れ込めていた暗雲の隙間から幾筋もの光芒が射し込んだ。
厚い雲はゆっくりと風に押しやられて、空は、つい先程までの明るさを取り戻す。
「雨、もう止むみたいですね」
「……ああ、俄雨だったのか」
遠ざかっていく雷雲の置き土産か。
ぽつりぽつりと天から落ちてくる雨の雫は、一粒一粒が硝子のように透き通っていて。
宙を彷徨う微細な水の粒子と共に、陽光を受けてきらきらと輝き、雨に洗い流された鮮明な景色を、白く眩しく彩った。