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冷たい玻璃  作者: 和奏
緋鯉
4/13

俄雨


 風向きが変わり、湿り気を帯びた涼しい風が地表に流れ込んだ。

 さぁっと薄墨色の影が走り、瞬く間に空気の色が塗り替えられる。……晴天であったことが嘘のように、薄暗くなる。

 暗雲の垂れ込めた天を、眩い閃光が奔り、すぐさま空を引き裂くような雷鳴が耳を劈いた。

 ぽた、と雫が落ちて。

 それを皮切りに、景色が白く霞むほどの、激しい雨が降った。

 

 突然降り始めた雨に、一人の青年が道沿いにある一軒の家の軒下へと駆け込んだ。

 大きな雨粒が荒々しくアスファルトを叩き、巻き上げられた土埃の湿気(しけ)た匂いが、やわらかに鼻孔をくすぐる。

 青年は、雨を避ける為に頭に乗せていた鞄を下ろし、軽く振って水滴を払う。ひとまず落ち着き、小さな安堵の吐息を漏らした。

 もう一人か、二人。

 軒下を借りることができそうだと周囲を見渡すも、激しい水音を立てながら降りしきる水煙(すいえん)にけぶる景色の中で、慌ただしく行き交う人々は声もなく背を丸め、思い思いの方向へ足を向ける。

 青年と視線の合う者はない。

 動くものの気配は何もなくなり、やがて人々が道の上から姿を消すと、軒下に青年は独り取り残された。


 天を仰ぎ、稲光と暗雲の流れを見守る青年が、降り注ぐ雨の雫を追いかけ、再び地上に目を落とし――。

 

「あ……」


 ――軽く、目を瞠る。

 宙を舞う水の粒子の先、ほのかに青みがかる半透明な景色の中に、浮かび上がる人影があった。

 道を挟んだはす向かい。水路脇に生える柳並木の間、雨に打たれて重くしなる枝の下に、一人の少年が佇んでいた。

 あれでは雨を凌げないと、青年は心配に表情を曇らせる。

 何よりも――。


「――おい!」


 張り上げられた声に気づいたのか。顔を上げて視線を交わした少年は、まだあどけなさを残す面持ちの十四、十五の年頃に見えた。

 

「こっちへ来ないか! 雷が近――」

 言い終えぬうちに視界が蒼白い閃光に塗りつぶされ、同時に身の竦むような雷鳴が轟き、青年の声を掻き消した。

 

 驚いたふうに目を瞬かせた少年は、そろそろと左右を確認すると、意を決したように、とんっと地を蹴り柳の下を飛び出した。

 ぱしゃぱしゃと軽快な水音を連れて。

 少年は、青年のいる軒下へと駆け込んだ。

 頭からずぶ濡れとなった少年の肌に、制服らしい半袖のシャツが張り付き、肉付きの薄い撫肩をくっきりと浮き上がらせている。淡色の象牙を思わせる肌が、白い生地の下に薄く透けて見えた。

 俯く少年の濃褐色の瞳に、しっとりとした長い睫毛が重たげに掛かり、瞼を滑る雫を受け止めてそっと外へと散らす。

 顔に張り付く髪もそのままに。水を集めた毛先から、頬を伝う雫を拭うこともしない少年に、見かねた青年は鞄の中をまさぐる。

 少年は、その手に何も持ってはいなかったから。

「使うか? ……とはいえ、あまり役に立たないかもしれないが」

「え?」

 鞄の中から取り出したハンカチを差し出す青年を、少年はきょとんとして見上げる。次いで濡れた自身の身体を見下ろした。


 丁度、学校は夏服に切り替わったばかりの頃合いなのだろう。

 陽が陰り、雨が降ることで空気を冷たく感じる中、袖口から覗いた少年の細腕がしっとりと濡れる様は、ひどく寒々しく見えた。

「早く拭いてしまわないと、冷えて風邪をひくだろう」 

 ああ、と納得したように軽く頷いた少年は、わずかに微笑んでみせた。

「ご親切に、ありがとうございます」


 少年が身体を拭き終えるのを見計らうように、垂れ込めていた暗雲の隙間から幾筋もの光芒が射し込んだ。

 厚い雲はゆっくりと風に押しやられて、空は、つい先程までの明るさを取り戻す。

「雨、もう止むみたいですね」

「……ああ、俄雨(にわかあめ)だったのか」


 遠ざかっていく雷雲の置き土産か。

 ぽつりぽつりと天から落ちてくる雨の雫は、一粒一粒が硝子のように透き通っていて。

 宙を彷徨う微細な水の粒子と共に、陽光を受けてきらきらと輝き、雨に洗い流された鮮明な景色を、白く眩しく彩った。


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