硝子玉
智樹が目を覚ますと、そこは白い壁に覆われた病室だった。
寝かされている硬めのベッドのすぐ側には、両手で智樹の手をきつく握る、憔悴した母の姿。
療養している智樹に、母は多くを語らなかったが、病室に運ばれるまでの事をぽつりぽつりと口にした。
あの晩。智樹が家を飛び出してすぐに、母も外へ出たのだという。
母から池の付近を探すように頼まれた近所の人達は、道祖神の前で乗り捨てられた智樹の自転車を見つけ、そこから後を追い山へ入ったそうだ。そして、池に落ちた智樹を助け出した。
幸い、大きな水音を聞きつけて、駆け付けた人たちにすぐに引き上げられたので、智樹は大事に至らずに済んだ。
そう説明する母の声は、掠れて力ない。
母が話すのは、智樹の事だけ。
目を合わせずに終始俯いている母が、大事なことから目を背け避けているように感じて、智樹は表情を陰らせる。
「……ねぇ」
母さん、と智樹が次の言葉を紡ぐ前に、「それとね……」と、母は口早に声を被せて話を遮る。
「見つけた時に、これをしっかりと握っていたそうなの」
あなたの? と躊躇いがちに母が寄越したのは、見覚えのない透明な硝子玉だった。
何故か。
「……うん」
掌で転がるそれを眺めた智樹は、「知らない」と言えずに肯定する。
池に落ちる前には、持っていなかった物。
引き上げられた時に自分が持っていたという無色透明の硝子玉は、その昔、祖父が池の底に落とした物のように思えたから。
見たことのないそれを、智樹は知っているような気がした。
「ねぇ? 母さん」
おもむろに身体を起こした智樹は、硝子玉を掌にぎゅっと握る。
手の中の物を透かすほどにじっと見つめていた智樹は、姿勢を正して母を真っ直ぐに見つめた。
――じいちゃんと、……祐樹は?
尋ねられた母は、口を引き結び、黙った。
気の遠くなるような重い沈黙の後、彼女は薄く口を開く。
祖父は、独りで歩いているところを近所の人が見つけ、保護されたから無事だった、……と。
祐樹は――。
「――あの子……、まだ、帰って来ないの」
ぼんやりとした無感情の眼で、母は、うわ言のように呟いた。
「そう……、なんだ」
隙間風のような薄い声音で返しながら、智樹はほんの少し目を伏せる。
母の言葉が、胸の中にすとんと落ちてきて、妙に得心がいった。
どうしてだろう。
祐樹がいないことは、なんとなくわかっていた。
季節が巡り、いくつもの夏が訪れ、そして去っていった。
あれから数年が経ち、けれど祐樹は見つからず、帰っても来ない。
智樹は時々、ふらりと道祖神の前にやって来ては、そこからぼんやりと山を見つめる。
手の中に、無色透明の硝子玉を握って……。
硝子玉は、『祖父の秘密の場所』が本当にあったことを報せるために、祐樹が握らせたのだと思えた。
そして、池に落ちた時に聞こえた祐樹の声。
彼はあの時、確かに智樹と一緒に空を眺めて。
今も尚、透明な冷たい玻璃の中から、刻々と変化してゆく美しい空の彩りを、飽きずに眺めている。
――そんな気がしたから。