智樹
「智樹、……智樹! 起きて! ねぇっ!」
瞼を閉じていても差し込む、部屋の眩しい白熱灯の明かり。
そして、母の差し迫った金切り声に、智樹は叩き起こされた。
明るい部屋の中に相反して、カーテンの隙間から覗く窓の外は、深い闇。
……深夜であることが、窺えた。
「じいちゃんがいなくなって、祐樹も……、いない?」
上体を起こした姿勢で聞く母の説明が、寝起きでぼんやりとする智樹の頭に、鈍く響く。
「じいちゃん……、外に出てしまったんじゃなくて?」
呆然とした智樹の口から、戸惑う声が細く零れた。
「祐樹は……、じいちゃんがいなくなっているのに気付いて、探しに……」
「それなら誰かを起こすでしょう!?」
大声で被せるようにして、すぐさま母は智樹の言葉を打ち消した。
「お父さんが近所の人に声を掛けて、この辺りを探してくれているのだけど……! ねぇ、祐樹は何か言っていなかった!?」
取り乱した母は、縋るように智樹に尋ねた。
いなくなった祖父と祐樹を関連付けるものを思い出し、ばつが悪い顔をした智樹は、尻窄みに答える。
「昼間に祐樹と……、昔、じいちゃんから聞いた、あの話をしていたんだけど……」
「……え?」
「池の、話」
驚愕の表情を浮かべる母親の顔から、さぁっと血の気が引いた。
「俺……、ちょっと探してくる」
胸騒ぎを覚えた智樹は自転車にまたがり、祖父から何度も聞いた話を思い浮かべながら、夜の田舎道を走った。
皆の探している近所ではなく、山へ向かって。
祖父の話を夢中になって聞いていた、まだ幼い頃。
智樹が祖父の秘密の場所へ繋がる目印を知ったのは、年明けの神社で祭事が行われた時だった。
祭りとあってか、いつになく酒を飲み酩酊した祖父からこっそりと聞きだした、秘密の場所へ繋がる目印。
それは、集落のはずれの、道の脇に立つ道祖神だった。
祖父の子供の頃には山へ続く登山道だったが、いつしか道は塞がれ、道祖神が祀られるようになったのだと。
早速祐樹にも教えて、一緒に祖父の秘密の場所へ出掛けようと思っていた。
けれど。
――道祖神か。
勢いのある炎の、パチパチと爆ぜる音に紛れて、智樹の耳に大人たちの声が届いた。
今しがた、祖父から聞いたばかりの単語に、智樹は足を止める。
焚かれた炎の脇で酒を酌み交わしている年老いた大人達が、何かを話している。
本人たちは知ってか知らずか、酒を飲んだことにより、普段よりも少し声が大きくなっているようだった。
智樹は視線を滑らせ、そのうちの一人、よく知る近所のお爺さんの顔を窺った。
――最近はなくなったが……。何だったんだろうな、あれは。
――ああ、どんなに駄目だと諭しても、子供が寄せられていく池、か。
(池……?)
祖父よりもずっと歳をとったお爺さんの皺深い顔が、揺らめく朱い炎に照らされ、濃い影を落とす。
――水はあんなにも澄み切っているのに、池底に落ちた子供が見えないなんてなぁ。
――ああ。落ちても戻ってくる子供もあれば、戻ってこられない子供もいて……。
――神隠しだなんていう者もいたが、道祖神を祀るようになってからは、無暗に近づく子供もいなくなった。
――子供好きの神様がきっと、村から子供が連れて行かれないよう、悪い物から守って下さっているんだろう。
有難いことだ、と誰かが悼む口調で、ぽそりと呟くのが聞こえた。
そうっと、その場を離れた智樹は、母の姿を見つけると、尋ねていた。
「母さん、子供の消える池なんて、あるの?」
驚くほどに険しい顔をした母は、叱るのにも似た真面目な低い声音で「誰から聞いたの?」と、問い返してきた。
祖父の秘密の場所、目印の道祖神、透明な水。……悪い物。
それらを繋ぎ合わせてしまった智樹は、口ごもりながら答えた。
「……じいちゃん、から」
促されるままに、祖父から聞いた内緒話をすると、母は露骨に嫌な顔をした。
その時から、智樹の中で祖父の秘密の場所は、夢のある冒険物語のような、きらきらとした明るいものではなくなっていた。
(怖かったから……)
大人たちの口調や雰囲気から、祖父の語る秘密の場所が、怖くなった。
口にすることはおろか、話を聞くことさえ悪いことをしているような気持ちになった。
だから、祖父に話をせがむのを止めたのだ。
祐樹に自分の見聞きしたことを伝えるのは、彼の大事なものを壊してしまうようで言えなかった。
道祖神という目印さえ教えなければ、祐樹だって池へと辿り着けない。
大丈夫だと思った。
山のふもとまで来ると、智樹は自転車を道の脇に乱暴に投げ捨て、目印となる道祖神の脇を擦り抜け、草叢へと分け入る。
山の空気が濃くなり、空気がひやりとして変わった。
歳を重ねて、また一つ知ったこと。
集落の外に連なる山々の中には、一か所、立ち入ってはならないとされる『忌み地』があるという。
どんなものなのか公に語られず、静かに忘れ去れるのを待つかのような、それ。
祖父の秘密の場所はそこだと、智樹は確信する。
冷たい水に沈んでいく祖父と祐樹の姿が脳裏を過り、智樹は堪らず声を張り上げる。
「祐樹っ! ……じいちゃん!」
片手に持つ小さな懐中電灯の明かりを頼りに、智樹は草叢を掻き分け、小川を辿り池を探す。
茂みを払い、吹き抜けてゆく風にしっとりとした水の香を嗅ぎ取るのと同時に、足許で、ぱしゃ……、と水音が立った。
刹那、ぐらりと身体が傾いで重心を失う。
次いで、鋭利な刃物で全身を刺されるような冷たさを感じて、息が止まった。
重しを括りつけられたかのように、冷たい水底へ、するりと身体が引き込まれていく。
こぽ……、と耳許で水と空気の混ざる音がする。
――池に落ちたのだと、思考は後から付いてきた。
慌てて目を見開いた智樹の後を追うのは、くるくると円を描きながら光を散らす懐中電灯。
そこから真っ直ぐに伸びる一筋の透明な光芒は、黒い水に宇宙のような深い碧と、細かな硝子細工にも似た白い気泡を映して魅せる。
水であって、そうではない。
まるで、硝子越しに水中を覗き込んだかのような絵が、智樹の網膜に鮮明に焼き付く。
不意に。
――ああ、やっぱり。夜も綺麗だ……。
「……っ!」
とぷとぷという水音に混じり、耳許で祐樹の囁く声が、聞こえたような気がした。
満天に散らばる星の下、冷ややかな暗碧の水に揺蕩う智樹の背を、とん――、と軽く突き上げるのは、掌。
幼い頃から、常にそばに在った人の、手。
智樹に触れた時の、馴染みのある力の入れ具合。
振り返らずとも判る、双子の兄の、それ。
(祐樹……!?)
ふつ、と懐中電灯の明かりが消えて、智樹の視界が墨一色に塗りつぶされた。