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冷たい玻璃  作者: 和奏
番外編
13/13

慄然


 ――水が、肌を刺すほどに冷たい。


 祐樹は全身が締め付けられたかのように、きゅっと竦むのを感じるが、それも一瞬のこと。身体は徐々に冷水に馴染んでゆく。

 縮こまっていた身体が緩んで、(うっす)らと目を開いた。

 直後。

 祐樹は大きく目を瞠り、瞬かせた。

 水中にいるはずなのに、地上と変わらない鮮明な景色があった。黒みがかる碧は何処までも澄んで、夜空に浮かんでいるかのような錯覚に陥る。

 半信半疑の表情で、祐樹は硝子玉を握ったままの右手を見遣り、最初に両腕を、そして両足に力を入れて上体を起こす。

 肌に触れる液体の感触は本物なのに、柔軟で、嘘のように身体が軽く、水の負荷を感じない。

 まるで、冷ややかな絹の薄布(けんぷ)を纏っているようだと、祐樹は思う。


 あまりにも非現実的な空間に、祐樹は、夢を見ているのかもしれないと訝しむ。

 しかし。

 右手に握る硝子玉が掌に食い込み、微かな痛みを感じる。皮膚を通して伝わる球面の滑らかな質感が、祐樹に現実を知らしめた。

 とく……ん、と鼓動が小さく跳ねて、ふわふわと気持ちが高揚する。

 夏服のシャツの内側に留まっていた空気が布を滑り、肌をくすぐり、袖口から飛び出して水中を転がった。繊細な薄硝子を思わせる大きな気泡が、しなやかに形を歪めつつ、祐樹の目の前を上がってゆく。つられて、喉を反らして上空を仰ぐ祐樹の口が、ぽかん、と開いた。


 こぽ……、と。

 微かな音を立て、真珠のように小さな気泡が、いくつも夜の空へと昇ってゆく。

 

「……わ、ぁ……!」


 息を止めていたことも忘れて、祐樹は感嘆の声を漏らした。

 目が眩むほど沢山の青白い輝きを放つ大きな星粒が……、銀砂の如く小さな星屑が、紫がかる濃藍(こいあい)の空一面を照らしていた。

 まるで望遠鏡を覗き込んだかのように、星の一粒一粒が、はっきりとして明るい。

 瞬く星々のうち、白金のような星が一粒、すぅっと細い光を曳いて流れた。それを皮切りに、星粒が縦横無尽に夜空を奔り、幾筋もの白金の線を曳いては、消えてゆく。

 流れる星のどれかが、今にも自分の許に落ちてきそうで、祐樹は空から目を逸らすことができなくなる。

 感動に打ち震える祐樹の胸が、きゅうっと締め付けられ、微かに吐息が零れた。

 水中に在りながら、声が零れたことも息ができることも、もはや些事であった。

 不思議な事象を、在るが儘に受け入れた祐樹は、此処が特別な場所なのだと改めて認識する。


「ああ、やっぱり。夜も綺麗だ……」


 真っ先に思い浮かべたのは、生まれた時から常に共に在り、一番の親友と言っても過言ではない双子の弟、智樹の顔。

 智樹にも、この満天に煌めく星を見てもらいたい。

 帰ったら智樹を起こして、祖父の『秘密の場所』を見つけたことを報せよう。

 驚く智樹の顔を思い描き、心を躍らせた祐樹は、くすりと小さく笑う。

 でも、あとひとつだけ。

 家に帰るのは、あとひとつだけ星が流れるのを観てから――。



 ――ぱしゃ……。

 どこかで、軽い水音が立った。


 時が経つのも忘れて星空に見入っていた祐樹は、はっとして我に返った。

 どのくらいの間、そうしていたのだろう。

 すぐに廃道に残してきた祖父のことが思い出されて、全身から、さっと血の気が引いた。

「じいちゃん……!」

 弾かれたように振り仰いだ、視線の先。

 やわらかな星光(ほしあかり)を湛えた暗く碧い水中を、背を下にして、誰かがゆっくりと沈んでくる。

 見間違うはずもない。よく知った後ろ姿に、祐樹の思考は、刹那、真っ白になる。

「……智樹?」

 目を凝らして人影を見つめ、小首を傾げる祐樹は、弟の名を口にする。

 どうして、ここに智樹が? ……否、それよりも様子がおかしい。

 泳げないはずがないのに、智樹は、ぴくりとも動かなかった。


 ――星空に驚いて、見惚れているのだろうか。


 すぐさま水を強く蹴って、祐樹は、智樹の傍らに泳ぎ寄る。

 不意に、仄暗い後ろめたさと不安が、祐樹の胸を過った。

 智樹は、夜中にいなくなった祖父と祐樹に気づいて、両親と一緒に探しに来たのではないか。

 もしかしたら、祐樹が池に潜っている間に、祖父は下山していて、両親や智樹に会ったのかもしれない。

 そして祖父から、この場所を聞いて……。


「智……」

 智樹の顔を覗き込んだ祐樹の双眸が大きく見開かれて、絶句する。


 驚愕の表情を浮かべる智樹の瞳は、祐樹を見つめ返すことなく、時を止めてしまっていた。薄く開かれた唇は蒼ざめて、呼気も声も零れない。

 智樹の身体を、夜に染まる透明な暗碧の水が包み込み、肌は血の気のない冷たい白を纏う。

 静かに水底に引き込まれてゆく智樹の髪だけが、軽薄な水草の如く、ゆらりと泳いだ。


「とも、き?」

 忍び寄る『死』の気配を本能が感じとり、祐樹は慄然とする。

 (にわ)かに訪れた『死』が、智樹をどこかへ連れ去ろうとしている。

 恐怖に支配された身体が、竦み上がった。強張る腕を伸ばすも、手は小刻みに震え、指先の感覚がない。

 平静を失う。

「……智樹っ、智樹!」

 ――早く、水から上げないと……!

 無我夢中で智樹の腕を掴み、引き上げようとするも、ままならない。

 祐樹は、智樹の身体の下に潜り込み、背後から支えようとする。……だが。

「なんでっ!?」

 細く鋭く、祐樹は悲痛な声を上げた。

 目に見えない大きな力が智樹を捉え、水底へと押し流しているかのようだった。


「どうして!」

 双子であるのに、何故、祐樹は平気で、智樹だけが沈んでゆくのか。

 疑問を口にして、祐樹は唐突に気づく。


「ビー、玉……?」

 そう、だ。

 祐樹は硝子(ビー)玉を持っていて、智樹は持っていない。

 ……祖父は、硝子玉をひとつしか持っていなかったから。


 考えている暇は、なかった。


 きゅっと唇を引き結んだ祐樹は、智樹の背に左手を添えて支える。そして、もう一方の手で智樹の掌に硝子玉を置いて、握らせた。

 智樹の手から硝子玉が零れ落ちないよう、右手でしっかりと包み込むと、祐樹は必死に語りかける。

「頼むから、智樹……! 『呼吸(いき)をして』、『ビー玉を離さないで』……!」

 水底に引き寄せられていた智樹の身体が、その場に留まり、わずかに喉が反れて、こぽ……と口から空気が零れた。

 智樹が、息を吹き返す。

 ――瞬間。

 氷を思わせる冷たい水が、祐樹の身体を包み込んだ。

 全身の皮膚が切り裂かれたかのような鋭い痛みが走り、ぐっ、と呼吸が詰まる。

 凍える身体の自由が利かなくなり、智樹の手を包み込んでいた右手が外れる、直前。

 祐樹は、智樹の背を支えていた左手に、ほんのわずかに力を込めて、上へと押し上げる。

 (かじか)む指先が、智樹の衣服を滑り、力なく水を掻いた。


 ……離れてゆく。


 するり、と不可視の力が祐樹の身体を絡めとる。

 糸に引かれるように、祐樹は、するすると沈んでゆく。

 深く冷たい、水底へ――。


番外編兼、祐樹の視点でした。

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