慄然
――水が、肌を刺すほどに冷たい。
祐樹は全身が締め付けられたかのように、きゅっと竦むのを感じるが、それも一瞬のこと。身体は徐々に冷水に馴染んでゆく。
縮こまっていた身体が緩んで、薄らと目を開いた。
直後。
祐樹は大きく目を瞠り、瞬かせた。
水中にいるはずなのに、地上と変わらない鮮明な景色があった。黒みがかる碧は何処までも澄んで、夜空に浮かんでいるかのような錯覚に陥る。
半信半疑の表情で、祐樹は硝子玉を握ったままの右手を見遣り、最初に両腕を、そして両足に力を入れて上体を起こす。
肌に触れる液体の感触は本物なのに、柔軟で、嘘のように身体が軽く、水の負荷を感じない。
まるで、冷ややかな絹の薄布を纏っているようだと、祐樹は思う。
あまりにも非現実的な空間に、祐樹は、夢を見ているのかもしれないと訝しむ。
しかし。
右手に握る硝子玉が掌に食い込み、微かな痛みを感じる。皮膚を通して伝わる球面の滑らかな質感が、祐樹に現実を知らしめた。
とく……ん、と鼓動が小さく跳ねて、ふわふわと気持ちが高揚する。
夏服のシャツの内側に留まっていた空気が布を滑り、肌をくすぐり、袖口から飛び出して水中を転がった。繊細な薄硝子を思わせる大きな気泡が、しなやかに形を歪めつつ、祐樹の目の前を上がってゆく。つられて、喉を反らして上空を仰ぐ祐樹の口が、ぽかん、と開いた。
こぽ……、と。
微かな音を立て、真珠のように小さな気泡が、いくつも夜の空へと昇ってゆく。
「……わ、ぁ……!」
息を止めていたことも忘れて、祐樹は感嘆の声を漏らした。
目が眩むほど沢山の青白い輝きを放つ大きな星粒が……、銀砂の如く小さな星屑が、紫がかる濃藍の空一面を照らしていた。
まるで望遠鏡を覗き込んだかのように、星の一粒一粒が、はっきりとして明るい。
瞬く星々のうち、白金のような星が一粒、すぅっと細い光を曳いて流れた。それを皮切りに、星粒が縦横無尽に夜空を奔り、幾筋もの白金の線を曳いては、消えてゆく。
流れる星のどれかが、今にも自分の許に落ちてきそうで、祐樹は空から目を逸らすことができなくなる。
感動に打ち震える祐樹の胸が、きゅうっと締め付けられ、微かに吐息が零れた。
水中に在りながら、声が零れたことも息ができることも、もはや些事であった。
不思議な事象を、在るが儘に受け入れた祐樹は、此処が特別な場所なのだと改めて認識する。
「ああ、やっぱり。夜も綺麗だ……」
真っ先に思い浮かべたのは、生まれた時から常に共に在り、一番の親友と言っても過言ではない双子の弟、智樹の顔。
智樹にも、この満天に煌めく星を見てもらいたい。
帰ったら智樹を起こして、祖父の『秘密の場所』を見つけたことを報せよう。
驚く智樹の顔を思い描き、心を躍らせた祐樹は、くすりと小さく笑う。
でも、あとひとつだけ。
家に帰るのは、あとひとつだけ星が流れるのを観てから――。
――ぱしゃ……。
どこかで、軽い水音が立った。
時が経つのも忘れて星空に見入っていた祐樹は、はっとして我に返った。
どのくらいの間、そうしていたのだろう。
すぐに廃道に残してきた祖父のことが思い出されて、全身から、さっと血の気が引いた。
「じいちゃん……!」
弾かれたように振り仰いだ、視線の先。
やわらかな星光を湛えた暗く碧い水中を、背を下にして、誰かがゆっくりと沈んでくる。
見間違うはずもない。よく知った後ろ姿に、祐樹の思考は、刹那、真っ白になる。
「……智樹?」
目を凝らして人影を見つめ、小首を傾げる祐樹は、弟の名を口にする。
どうして、ここに智樹が? ……否、それよりも様子がおかしい。
泳げないはずがないのに、智樹は、ぴくりとも動かなかった。
――星空に驚いて、見惚れているのだろうか。
すぐさま水を強く蹴って、祐樹は、智樹の傍らに泳ぎ寄る。
不意に、仄暗い後ろめたさと不安が、祐樹の胸を過った。
智樹は、夜中にいなくなった祖父と祐樹に気づいて、両親と一緒に探しに来たのではないか。
もしかしたら、祐樹が池に潜っている間に、祖父は下山していて、両親や智樹に会ったのかもしれない。
そして祖父から、この場所を聞いて……。
「智……」
智樹の顔を覗き込んだ祐樹の双眸が大きく見開かれて、絶句する。
驚愕の表情を浮かべる智樹の瞳は、祐樹を見つめ返すことなく、時を止めてしまっていた。薄く開かれた唇は蒼ざめて、呼気も声も零れない。
智樹の身体を、夜に染まる透明な暗碧の水が包み込み、肌は血の気のない冷たい白を纏う。
静かに水底に引き込まれてゆく智樹の髪だけが、軽薄な水草の如く、ゆらりと泳いだ。
「とも、き?」
忍び寄る『死』の気配を本能が感じとり、祐樹は慄然とする。
俄かに訪れた『死』が、智樹をどこかへ連れ去ろうとしている。
恐怖に支配された身体が、竦み上がった。強張る腕を伸ばすも、手は小刻みに震え、指先の感覚がない。
平静を失う。
「……智樹っ、智樹!」
――早く、水から上げないと……!
無我夢中で智樹の腕を掴み、引き上げようとするも、ままならない。
祐樹は、智樹の身体の下に潜り込み、背後から支えようとする。……だが。
「なんでっ!?」
細く鋭く、祐樹は悲痛な声を上げた。
目に見えない大きな力が智樹を捉え、水底へと押し流しているかのようだった。
「どうして!」
双子であるのに、何故、祐樹は平気で、智樹だけが沈んでゆくのか。
疑問を口にして、祐樹は唐突に気づく。
「ビー、玉……?」
そう、だ。
祐樹は硝子玉を持っていて、智樹は持っていない。
……祖父は、硝子玉をひとつしか持っていなかったから。
考えている暇は、なかった。
きゅっと唇を引き結んだ祐樹は、智樹の背に左手を添えて支える。そして、もう一方の手で智樹の掌に硝子玉を置いて、握らせた。
智樹の手から硝子玉が零れ落ちないよう、右手でしっかりと包み込むと、祐樹は必死に語りかける。
「頼むから、智樹……! 『呼吸をして』、『ビー玉を離さないで』……!」
水底に引き寄せられていた智樹の身体が、その場に留まり、わずかに喉が反れて、こぽ……と口から空気が零れた。
智樹が、息を吹き返す。
――瞬間。
氷を思わせる冷たい水が、祐樹の身体を包み込んだ。
全身の皮膚が切り裂かれたかのような鋭い痛みが走り、ぐっ、と呼吸が詰まる。
凍える身体の自由が利かなくなり、智樹の手を包み込んでいた右手が外れる、直前。
祐樹は、智樹の背を支えていた左手に、ほんのわずかに力を込めて、上へと押し上げる。
悴む指先が、智樹の衣服を滑り、力なく水を掻いた。
……離れてゆく。
するり、と不可視の力が祐樹の身体を絡めとる。
糸に引かれるように、祐樹は、するすると沈んでゆく。
深く冷たい、水底へ――。
番外編兼、祐樹の視点でした。




