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冷たい玻璃  作者: 和奏
番外編
12/13

魅了


 かつて登山道であった廃道は、上空を鬱蒼とした樹々に覆われ、星明りのひとつも降ってはこない。

 廃道は、密度の高い、きめ細やかな闇に深く沈んでいた。

 そこかしこに蔓延る闇が、じくじくと懐中電灯を持つ祐樹の指先に絡みつく。細々として心許ない小さな明かりは、今にも闇に呑まれてしまいそうだった。

 言いようのない不安に駆られながらも、祐樹は祖父が転んでしまわないよう、その足許に明かりを落とす。

 久しく手入れのされていない小路は荒れて、ところどころ土を被り、落ち葉が積もっている。けれども、陽光が届かないことが幸いしたのか、山中に茂る夏草に勢いはなく、なだらかに続く小路を隠してしまうほどではない。

 かつては整えられていた登山道の面影が、廃道となった今も、至る所に残っていた。


 暗闇をものともせず、祖父は普段と変わりのない歩調で、廃道を進んでゆく。

 遅れまいとする祐樹の足許には、明かりが届かない。自然と歩幅は狭く、せわしなくなった。

 祐樹は、祖父のシャツを指先で摘まんで引っ張り、宥める口調で優しく誘いかける。 

「宏樹さん、危ないですよ。もう引き返しましょう。ね?」

「……」

 ぴた、と祖父の足が止まった。

 引き返すかと思いきや、祖父は小首を傾げて、その場に固まる。耳を澄ましているかのように、目を瞑った。


「宏樹さん?」

 不審がる祐樹が辺りの様子を窺うと、どこからか、微かにせせらぎの音がする。

 幼い頃に祖父が聞かせてくれた、秘密の場所の近くにあるという小川だろうか。


「あぁ……」

 祖父は、吐息混じりの小さな感嘆の声を漏らした。そして、ふらりと憑かれたように小路から脇へと逸れる。

 腰ほどまで丈のある草叢を数歩進み、祖父は、枝の張りだした低木の間を強引にすり抜けた。

 懐中電灯を祖父に向けていた祐樹は、目を丸くする。

「宏樹さん!」

 見失うまいとして、祐樹も祖父の後を追い、低木の隙間に身体を通す。

 立ち尽くす祖父の背の向こうに――。


 幾千もの星粒を散らした、碧い玻璃のような。


 ――池が、あった。

 道祖神の裏から山へと入り、廃道を進んで、まだそれほど時間は経っていない。

 昼間であれば、子供の足でも容易く、短時間で辿り着けるであろう距離だった。

 突如現れた池に目を奪われて、祐樹は溜め息を漏らし、ただ言葉を失う。


 水面という境界の向こう側。わずかな濁りもない透明に澄んだ水は、どこまでも深く、ぞっとするほどに碧く。水中で、きらきらと瞬く星彩は、まるで世界中から集めた宝石を池に沈めて、閉じ込めてしまったかのようだった。

 星粒の煌めく池は神秘的で美しく、さながら宇宙(そら)であった。


 とくとくと、祐樹の胸の鼓動が速くなる。

 ここへ来るまでに祐樹が池に抱いた不審は、瞬時にして跡形もなく消え去った。

 こんなにも美しい(もの)が、悪いものであるはずがない、と。

 魅了される。


「しぃちゃん」

 我知らず、池の縁ぎりぎりの位置に立っていた祐樹は、背後から掛けられた声に、はっとなる。

 祖父の呼ぶ名が、おそらく自分に向けられたものであることを(うっす)らと察して、祐樹は祖父の顔を見上げた。

 池から溢れる(かす)かな星光(ほしあかり)を浴びて、今にも泣き出しそうに、苦しそうな顔をした祖父は、手許を眺め下ろした。

「返さないと……って思っていて。でも、ぼく、どうしたらいいのかわからなくて……。これ、()()()()()()()()()

 差し出されたのは、無色透明の硝子玉。

 祖父は、祐樹の手を片手で掬い上げて、持っていた硝子玉を握らせると、嬉しそうに頬を緩める。

 うんうん、と何度も頷く。

「よかったねぇ、しいちゃん。これがあれば、池に入っても還ってこられるね」

「え……?」

 どうやら祖父は、祐樹を誰かと勘違いしているらしい。 

 胸許で硝子玉を握る手に、ぎゅっと力がこもる。そろり、と祐樹は首を巡らせ、池を見遣った。


 ――池に、入れる……?


 それは祐樹にとって、幼い頃からの念願であり、抗い難い誘惑であった。しかも、祐樹の眼前にあるのは、祖父からは聞いたことのない、星々の散りばめられた夜の池なのだ。

 何か、見えるのだろうか。

 ……何も、見えないかもしれない。それでも。

 息の続く、わずかな間だけでも池に潜ってみたいと、祐樹は強く思う。

 しかし、祐樹が池に入ってしまったら、その間、祖父は独りになってしまう。

 もしも水から上がった時に、祖父がいなくなっていたら……?

 祖父と池を交互に見る祐樹は、しばし逡巡する。


 ――短い時間なら、……きっと大丈夫。


 胸に募る不安を、好奇心が押さえつけた。

 後ろめたさを覚えながらも、祐樹は祈るような気持ちで、祖父に頼み込む。

「あの、宏樹さん。少しだけ、池へと入ってみたいのです。僕が戻ってくるまで何処にも行かずに、ここで待っていてくれませんか?」

「……」

 けれど、祖父に反応はなく、瞳は虚ろに、どこか遠くをぼんやりと見つめている。

 期待した返事を得られず、祐樹は表情を陰らせ、目を伏せる。

「じいちゃん……」


 ――ごめんね。


 祐樹は、万が一にも祖父が池に落ちてしまわないよう祖父の手を引き、低木の枝を押しのけ、廃道へと戻る。

「じいちゃん、祐樹だよ。僕が戻ってくるまで、ここに座って待っていてくれる?」

 廃道の入口――、道祖神の祀られている方角を向くように祖父を座らせた祐樹は、明かりの点いた懐中電灯を、祖父に握らせる。

 そばを離れている間に祖父が歩き出してしまっても、山から下りて行けるように。

 ……池から戻ったら、すぐにでも祖父に追い付けるように。

「じいちゃん? ここで待っていてくれる?」

 祖父の顔を覗き込み、繰り返し尋ねる。

 廃道を見つめていた祖父が、首を横に向けて祐樹と目を合わせた。

「うん」

「……」

 祖父の返事は、あまりにも軽く覚束ない。

 刹那、躊躇って。祐樹は不安を振り払うように声を絞りだす。

「すぐに、戻って来るから……」


 身を翻して祖父に背を向け、祐樹は低木の間を抜けて、池のほとりに立った。

 暗闇に浮かび上がるのは、ほのかな星光を湛えた、碧い池。

 こくり、と咽を上下させた祐樹は、深く息を吐いて、身体中に響く胸の鼓動を落ち着かせる。

 肩に入った力が抜けて、握っていた拳が緩む。祐樹は、掌に在る無色透明の硝子玉を眺め下ろした。

(なんだろう、これ……?)

 硝子玉の有無で、還ってこられるとか、こられないとか言っていた。


 祐樹は指先で硝子玉を突いて、掌で転がしてみる。

 ぽわ、ん……、と。

 指先で触れた部分に漣が立ち、球体の表面を微かな青白い光が波紋となって広がった。

「……え?」

 呆然として目を瞬かせた祐樹は、不思議な硝子玉を、ぎゅっと握り直す。

 池に来るまでの道中、祖父の囁いた『歌』を、胸の内で反芻する。


 まぁくんは、わざとビー玉を落として、追っかけた。

 ひろくんは、うっかり落として、まっさおになった。

 しぃちゃんが、自分のビー玉をひろくんに握らせた。

 しいちゃんはびっくりして、ひろくんは池から上がった。

 ビー玉はぜんぶ無くなって、子供もみんないなくなった。

 小魚たちは、見てただけ。

 ぼくは、それを見てただけ。


 幼い頃に聞いた話では、祖父は、硝子玉を池の底に落としたのだと言っていた。

 硝子玉を落とした『ひろくん』が、祖父――宏樹(ひろき)――であるのなら、『しぃちゃん』は、自分の硝子玉を祖父に手渡したことになる。

 家を出る前、祖父は『まぁくんも、しぃちゃんも、これが無かったから還ってこられなかったんだ』と、硝子玉を見せて寄越した。

 つまり、今、祐樹の手の中にある硝子玉は……。


「……じいちゃんのじゃない、『しぃちゃん』の硝子(ビー)玉」


 得心がいって、祐樹は独りごちた。

 祖父は祐樹を、『しぃちゃん』と見間違えていたようだったが、『まぁくん』と『しぃちゃん』は、未だに還ってきていないのだろう。

 ……眼前に広がる、碧い池から。


 理屈は、判らない。

 けれど、手のなかにある硝子玉は、池から上がるのに必要な物なのだ……と、祐樹は思い至る。

 水際に屈みこんで、祐樹は恐るおそる池の中を覗き込んだ。

 どこまでも透明な碧い水は、深い水底までを包み隠さずに晒している。

 子供の姿などは、見えない。

 安堵の胸を撫で下ろすと、祐樹は苦く微笑する。

(勘違いかも、しれないし……)

 硝子玉は、後で祖父に返そう。

 だから。


 ――ほんの、……少しだけ。


 星の瞬きに誘われ、幻想的な碧に視線が吸い込まれてゆく。

 伸ばした指先に触れるのは、別世界の冷たさ。

 ゆらり、と祐樹の身体は大きく前に傾いで。

 音もなく、静かに、……ただ静かに。


 境界面を、すり抜けてゆく。


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