憧憬
現在執筆している話の番外編です。時系列では、一話目の「祐樹」の後の出来事になります。
――ゴソッ。
箪笥を引き開けるような微かな物音が聞こえて、祐樹の意識が、眠りと覚醒の狭間を彷徨う。
静まり返った家に、人の動く気配があった。
――ギシッ、ギシィ……。
廊下を軋ませ、誰かが歩いている。
祐樹が薄らと瞼を開けると、部屋は、天井で灯る豆電球のやわらかな薄茶色の明かりに、すっぽりと包まれていた。
窓に下るカーテンの隙間からは夜闇が覗き、まだ、夜明け前であることが知れた。
家族の誰かが水を飲みに、或いは用を足しに起きたのだろう。
夏の薄い肌掛けに包まる祐樹は、再び眠りに就こうとして、身じろぎする。ぺったりと肌に貼り付いていた寝間着が剥がれて、祐樹は自分自身が汗ばんでいることに気づく。
ほぅ……と深く息を吐くと、身体にこもる熱が逃げて、吸い込む空気が咽から水分を奪ってゆく。
咽が、ざらりとした。
上半身を起こすと、さらりと肌掛けが滑り落ちた。
咽の渇きを覚えた祐樹は、二階にある私室を出て階段を下りる。足は自然と台所に向いた。
眠気で頭がぼんやりとする祐樹は、水を飲んだらすぐに眠る心算で、明かりをつけずに廊下を進む。
廊下の奥で、ゆらり、と細く長い影が揺れ動いた。
祐樹が、台所のスイッチを押して蛍光灯の明かりを付けると、廊下に零れる白々とした薄明りの中に、祖父の姿が浮かび上がった。
「……じいちゃん?」
祖父の背に、祐樹は小さな声を投げるが、反応がない。
この頃の祖父は、物忘れがひどくなり、色々なことが判らなくなっていた。息子である父や、その妻である母を、別の名で呼ぶこともあった。孫である祐樹と、双子の弟の智樹の区別もつかず、時折、その存在すら忘れてしまうことがあった。
そして祖父は、朝晩と拘わらず、外へと出て行ってしまう。
――今も。
玄関に向かっているらしい祖父を留めようと、祐樹は歩調を早めて、祖父に近寄った。
孫の存在を忘却している祖父に、「じいちゃん」などと声をかけても、反応があるはずもない。祐樹は、祖父の呼び方を改める。
「宏樹さん」
名前で呼ぶと、祖父は、ぴくりと反応を示した。
祐樹は母の口調を真似て、祖父に語りかける。
「宏樹さん、家から出ては駄目ですよ。今は夜で、外は暗いから、危ないですよ」
穏やかな声音で、努めて優しく言い聞かせ、祐樹は、そっと祖父の腕を取る。
「でも、行かないと」
虚ろに、憑かれたように玄関を見遣り、祖父は答えた。
祐樹は、闇の先に目を凝らす。
玄関扉に嵌め込まれた擦り硝子は、夜の闇を透かして、一筋の明かりも見えない。
「? どこへ?」
祐樹を振り返る祖父の目が、わずかに瞠られる。台所から零れる薄明りを湛えた祖父の瞳が、間近に寄せられ、正面から祐樹の顔を捉えた。
内緒話をするようにひそめられた祖父の声が、熱っぽさを帯びる。
「秘密基地へ、行くんだ」
眠りの淵にあった祐樹の意識が、瞬時にして覚醒した。
はっと息を呑んで、祐樹は反射的に訊き返す。
「それって、じいちゃんが子供の時に、遊んでいた――」
今なら、祖父から『秘密の場所』を訊き出せるかもしれない。思いを巡らせ、祐樹は祖父の顔を食い入るようにして見つめる。
祖父の記憶を繋ぎ止めようと、ゆっくりと言葉を継いで、様子を窺う。
「――きれいな水の、池の話……?」
祖父の瞳の焦点が祐樹から外れて、ここではないどこか遠くを、曖昧に覗き込む。
ややあって、祖父は思い出したように掌を開いて、視線を落とす。
「ほら、ちゃんとビー玉も持ってるよ。……これがないと、還れないでしょ?」
祖父の掌には、無色透明の硝子玉があった。
「大人たちには、秘密なんだ。怒られちゃうから。まぁくんも、しぃちゃんも、これが無かったから還ってこられなかったんだ」
「……え? ……誰?」
初めて聞く、祐樹の知らない子供の名前だった。
そんな愛称の人間が、近所にいただろうか。
戸惑う祐樹をよそに、祖父は玄関から出て行った。
祐樹は一度振り返り、眠っている両親を起こそうか、迷う。けれど、この機会を逃したら、二度と祖父から秘密基地の場所を訊き出せないような気がして……。
迷いを、振り切った。
極力音を立てないよう、急いで階段を上がって私室に戻ると、机の脇に掛けてあった学生服に着替える。
玄関の靴箱に入っていた懐中電灯を掴んだ祐樹は、家を出た祖父の後を追いかけた。
虫も、草木も寝静まる、真夜中。
水気を含む冷ややかな夜気が、薄衣の如く、しっとりと肌に纏わりつく。
「じいちゃん、足許が暗くて危ないから、手を繋いで歩こう?」
「……」
祐樹は、片手に持つ懐中電灯で足許を照らし、もう一方の手を祖父と繋ぐ。
道路脇にある街灯を頼りに、祐樹は祖父と並んで道を歩いた。
まっすぐに前を向く祖父の唇が、小さく動いている。祖父の細い声を風が攫って、祐樹の許へと届ける――。
まぁくんは、わざとビー玉を落として、追っかけた。
ひろくんは、うっかり落として、まっさおになった。
しぃちゃんが、自分のビー玉をひろくんに握らせた。
しいちゃんはびっくりして、ひろくんは池から上がった。
ビー玉はぜんぶ無くなって、子供もみんないなくなった。
小魚たちは、見てただけ。
ぼくは、それを見てただけ。
――ビー玉?
訝しむ祐樹は、眉を寄せる。
「じいちゃん、それは歌?」
「……」
集落を離れて山が近づいてくると、祖父は、きょろきょろとして路傍に何かを探し始めた。
――ジ、ジーッ。
街灯の蛍光灯が、羽虫のような異音を鳴らし、白光が、ちかちかと忙しく瞬いた。
薄明りの微かに届く草叢で、祖父は不思議そうに小首を傾げる。
「なんで、登山道の入口に、お地蔵さんがあるんだろう? 変だなぁ。こんなの、なかったのになぁ」
「それは……」
村の守り神でもある、道祖神だ。
道の辻や三叉路の傍らに祀られ、道行く人々を見守り、悪いものが村へと入ってこないよう防いでくれる賽の神様。
村には小さな道祖神社もあり、年に一度、祭りだって行われる。
祐樹が物心ついた頃には、道祖神は既に、この場所に在った。祖父も、今は忘れているだけで、道祖神の存在は当然知っているはずだ。
昔、ここに道祖神は無かったのだろうか。
「……なんで?」
祐樹は、疑問に思う。
登山道の先には、おそらく祖父の秘密基地がある。
わざわざ登山道を塞ぐようにして道祖神が祀られているのは、何故だろう、と。
ただの廃道では、ないのだろうか。
――何かが、おかしい。
登山道を抜けてきた温度の低い微風が、祐樹の頬を冷たく撫でてゆく。
血の気の引いた身体を、空恐ろしさが駆け抜けて、ふわり、と浮遊感を覚える。
祖父は、山に入る心算なのか。背丈の高い草叢を、無造作に手で掻き分ける。
道祖神の脇を、すっと通り抜けた。
ぎょっとした祐樹は、慌てて懐中電灯で祖父の背を照らす。
「……待って、じいちゃん!」
周囲に首を巡らせるが、近くに家などはない。また深夜ともあって、人影は皆無であった。
二の足を踏む祐樹を置いて、祖父は草叢を掻き分けて山に入ってゆく。
身体が覚えているのか。祖父が足を止める様子はない。
「じいちゃん! 待って、……宏樹さん!」
呼び止めながらも、祖父が止まらないことを半ば確信して、祐樹も山へと入っていった。




