祐樹
「いいか、誰にも内緒だぞ? でなきゃ、この話は無しだ」
祖父の語り出しは、いつもそんなふうだった。
「母さんにも?」
祐樹の隣で、わくわくとして声を弾ませるのは双子の弟の智樹だ。
智樹の輝くように明るい横顔を見つめた祐樹は、次いで、祖父の顔を見上げる。
祖父は、悪戯っぽくにやりと笑った。
「母さんにも、だ」
祖父は決まったやり取りの後、まだ幼い子供であった祐樹や智樹に『秘密の場所』の話をこっそりと聞かせる。
「じいちゃんが小さい頃は、この辺り一帯は山に続く林だったんだ。虫も動物も沢山いたし、小川には魚も沢山いた。よく周りの大人に内緒で、友達と連れ立って山へ入り込んだってもんだ。そこの中腹で……」
――けれど、それももう、ずっと前の話。
「ただいま」
片手をひらひらとさせ、顔を煽ぎながらキッチンへと入って来たのは、学校から帰宅した智樹だった。
汗をかく智樹から視線を滑らせて、祐樹はキッチンの窓の外をちらりと見遣る。
強い夏の白光を受けて、窓から見える外の景色は浮き上がるほどに眩しく、目を射った。
「おかえり」
先に帰宅していた祐樹は、額から汗を流す弟のために、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。
氷をいくつか落とした透明なグラスに、麦茶をなみなみと注いでダイニングテーブルの上に置くと、グラスの側面はすぐに曇り、小さな水滴をふつふつと浮き上がらせる。
「ありがと」
麦茶に釣られるように智樹が椅子に腰かけ、伸ばした手でグラスを持ち上げると、カラン……と氷が微かな涼の音を立てる。
傾けられたグラスの側面を水滴が滑り、ぽたり、と大きな雫がテーブルに落ちた。
一息に麦茶を飲み干した智樹は、不思議そうな顔をしてテーブルの上に目を留める。
視線の先には、袋詰めされた飴菓子があった。
「へぇ、金平糖?」
「……そう」
薄い水色や鮮やかな青、淡い紫。冷色の星粒を思わせる金平糖が詰められた袋には、『青紫陽花』と記されている。テーブルに置かれたそれに、智樹と同じく視線を留めた祐樹は、頬を緩めて答えた。
「じいちゃんに、和菓子をね」
顎に片手を当てた智樹は、「う~ん」と小さく唸り、心配そうな悩ましい顔をする。
「和菓子? 金平糖は和菓子っていうより飴だろ? じいちゃん喉に詰まらせるんじゃねぇの?」
「うん、だからこれは観賞用。……和菓子はこっち」
自分で作れたら良かったんだけど……、と祐樹は床に置いてあった学生鞄から、小さな紙袋を取り出した。
白い紙袋の中から一つ一つ取り出したのは、朱い金魚と緑色の葉が透明なゼリーに閉じ込められたものや、深く碧い夜空とそこに瞬く星を描いたような美しい和菓子。
涼しげに、綺麗に拵えられた和菓子は、祖父から伝え聞いた思い出の場所の一欠片のように思えて、祐樹は柔らかに目を細める。
「じいちゃんがさ、昔よく話してくれていた秘密の場所へ行くまでの小川や、そこから見た空に……似てるかな?」
和菓子を見せたら。
祖父は、自分たちに繰り返して聞かせた話を思い出してくれるだろうか。
また、……話をしてくれるだろうか。
祖父は言っていた。
――玻璃のような透明な池の水に身体を預け、そこから見上げる空の碧は素晴らしかった。
青空を一枚剥がしたような薄い水色から、深くなるほどに色彩を重ねて濃くなる碧は、切なく胸を締め付ける。水中に差し込む幾本もの光芒は細く儚く透き通り、水面のさざ波に柔い絹布のように揺らぐ。静かに揺蕩う水は、時として鮮やかに輝く翡翠へと彩りを変える。
ほのくらく冷たい銀をひらめかせて頭上を舞う薄鈍色の小魚は、愛らしくも優美で……。
身体から離れ空に向かって登っていく気泡は、陽の光を受けて真珠のように輝き、くるくると踊る。手に持っていた色の無いビー玉を一つ落とすと、ゆらゆらとどこまでも落ちていき、水底に吸い込まれて、それもやがて玻璃の一部になる。
呼吸をしていないことを忘れさせるほどに、幻想的な色彩を詰め込んだ、自分だけの静謐な秘密基地。
夏でも肌を刺すほどに冷たい、どこまでも透明な水の中――。
秘密の場所はどこにあるのか、どうやって行くのかと尋ねる智樹に、祖父は、昔は集落から登山道に続く道があったのだけど、今は無いのだと説いて聞かせた。
けれど、目印になるものはあるよ、と。
ただ、祐樹の隣でどんなに智樹がせがんでも、結局祖父は、その目印を教えてはくれなかった。
集落の外にはいくつもの山が連なり、祖父のいう山がどれなのか、どこから入るのか。祐樹には見当もつかない。
涼を閉じ込めた夏の和菓子に目を落として物思いに耽る祐樹を、智樹は頬杖を付いて眺め見る。小さな吐息に絡めて、呆れたように呟く。
「物好きだよな、……お前」
「そう?」
きょとんとする祐樹に、眉をひそめる智樹は嫌悪するように言い捨てた。
「秘密の場所だなんてさ、あんなのは……じいちゃんの幻想だ」
「そういえば、智樹は急に話を聞きたがらなくなったよね。……どうして?」
「別に……、興味がなくなっただけだよ」
わずかに顔を背け、和菓子から視線を逸らした智樹に、祐樹は淡く微苦笑してみせる。
「……そっか」
双子であっても、二卵性双生児である自分と智樹は、顔も性格も、まるで違う。
どちらかといえば、祖父に何度もねだり、熱心に話を聞いていたのは智樹の方だったのに。
智樹の隣で何度も聞いているうちに、いつしか祖父の話しに取り込まれたのは、自分の方だったのかもしれないと、祐樹は思う。
祖父は最近、物忘れがひどくなった。
何度も同じことを繰り返して言ったり、昔に死んだ人の事を生きているように話しだしたり。
孫である祐樹や智樹のことも、時々わからなくなるようだ。
だから、祐樹は。
祖父の記憶が一片でも残っているうちに、もう一度、話を聞き出したいのだ。
叶うならば、幼い頃から自分を魅了して止まない美しい水の景色を見てみたい。
行ってみたい。
――祖父の『秘密の場所』へ。