折り紙が散るその机に
「三角に折る。端っこと端っこを合わせて。そう」
「こう?」
瑞希のちいさな親指が折り紙の端を押さえるも、なんとなくずれてしまう。
「もうちょっとこう。そしたら、ここにあわせて、こう」
「かんたんだし」
「簡単? 次は反対側、おんなじようにね」
「あとはここを入れるだけでしょ。ここからは瑞希がやる」
「やってみて」
巴のお腹には瑞希とは兄妹になる二人目の赤ちゃんがいる。瑞希は、この冬にはお姉ちゃんになる。巴はつわりを気にして、春なのに最近は外に出るのも億劫で瑞希と家で折り紙やお絵かきばかりしている。務めていた博物館で小学生に折り紙を作って上げることも多かったため、折り紙は得意なのだった。
「ママ、今度はこれ作るね。作ったらみずちゃんのと隣っこね」
「しようがないなあ。コレクションにしてやるか」
瑞希は得意そうにへらへらと笑うと、
「ママのを入れてあげる袋を作るね」
と糊を手に取る。
「わあ、ママ嬉しい」
瑞希は顔を埋めて折り紙を山折りにする。
「ママ、いつかこの四十八ページのゾウさんを成功させたいと思っていたから」
巴も熱心に折る。幼女らしくしてふたりで並んでいると、時を忘れてしまう。妊娠中はとくにそうだった。巴は瑞希のそばにばかりいる。育休、産休中は博物館での勤務もごぶさたですっかり専業主婦になじんでいる。今日の鍋の中にはポトフが入っている。放っておいてもおいしく出来る煮物料理ばかり作ってしまう。巴はお腹の辺りにふんわりと手をあてる。編み込みの髪の合間から見える、千羽鶴をモチーフにしたピアスが揺れる。巴の指は幼児みたいに短くて、ちょっと太い。
二人目の妊娠は順調とは言えなかった。妊娠一ヶ月で、巴は出血をして入院した。なんとか流産は免れたものの、安静の日々が続いた。活発な年齢になってきた瑞希を見ると巴はふがいなく思ったが、まずは赤ちゃんの命を大切に、医師にしたがって静かな時を過ごしていた。しかし瑞希と過ごす妊娠生活は、それなりに無理を強いられる場面も多かった。ほどなく、また巴は出血してしまった。
巴は病院で点滴をしてもらうさなか、隆が実家の母親に電話をしているのを本当は好ましく思っていなかった。夫婦だけでなんとか育児をし続ける生活になれていた矢先、自分の体のことで実家の母親に頼ったりなどしたくなかった。高速道路を走らせて三十分ほどの距離にすんでいる実家の母とは、それなりに関係も良好だったが、あまり親密に会ったりできない距離に住んでいるからこそ、その関係が保たれていたのだと言ってもいい。通いで手伝いにはこれない距離だからこそ、しばらくは同居が続くことになる。瑞希のことを任せられる分、体は休ませることはできるが、お互いに気兼ねして気疲れはまぬがれないだろう。そうやって、退院して早々、巴は母を実家に帰してしまったのだった。
なるべく瑞希とこじんまり生活していけばいい。そう請け負って、瑞希と隣合って座って、なにか机に向かう。折り紙は無心に折ると、できあがったときの喜びに感動が湧く。幾重にも紙が重ねて折られていくと、複雑な表情の仕上がりにほうとため息が漏れる。返しては折り、返しては折っていく。からからと音を立てて、折られていく折り紙は瑞希の笑い声になんとなく似ている。
「ただいま」
「わあ。パパ」
瑞希がしがみつくように抱きつく。隆は足をとられておっと、と体勢を立て直すと、苦笑いして巴にただいま、ともう一度言った。
「おかえり」
「パパ、見て。瑞希が作ったの。コップだよ」
「おお。ピンクのジュースが入っている。ごくごく」
「ああ、パパ、勝手に飲んじゃだめ」
「あれ、だめだったのか?」
意外そうな表情をして見せた後、隆はごめんと瑞希の頭を撫でる。
「瑞希にきょかをとって。ちゃんと」
「許可がいるのか? 難しい言葉を知ってるな。巴聞いたか。三歳が許可だって」
「許可って知ってるの?」
巴が瑞希に立て膝で真向かう。
「知ってるよ。いいですよって言ってあげることだよ」
「おお、すごいな」
隆が感動したように瑞希を抱き上げくるりと回って見せた。
「うわあ、瑞希落ちちゃう」
けらけらと瑞希が笑うと隆がそのまま抱きしめて瑞希を下ろした。
「ご飯の準備できてる」
巴が箸を据えて湯飲みにお茶を淹れると、
「ああ、もう座る」
「瑞希もすわる」
と隆の膝の上に乗っかった。
「二人羽織みたいね。パパ、食べにくそう」
「瑞希、降りて」
「いや、いや、パパといっしょ」
「じゃあ、前を向いて。パパと食べよう」
瑞希のお膳を隆のお膳の横に置く。隆は瑞希の頭の上にご飯茶碗を持って行って、食べにくそうに口に運ぶ。
「ご飯をおっことしちゃいそうだ」
隆は苦笑いする。
「瑞希、きょかするよ。パパから降りてあげる」
「はは。助かった。許可してもらった」
隆はめがねのフレームを持ち上げると、居住まいを直してポトフのお皿に手を掛ける。
「よかった。みずちゃん、無理はいやよ。それでね、わたし、いい応募をみつけちゃったの」
「いい応募?」
「信濃美術館でね、県民から作品を公募しますって」
「作品を?」
隆はお茶をこくりと飲んでから、
「信濃美術館だから絵ってことかな?」
「そう。絵を展示してくれるみたい。改装工事に入る前の期間に県民から募集した作品を展示しますって。やってみてもいい?」
「そりゃもちろん。でもお腹の子に障るからあまり根詰めないように」
「それはだいじょうぶ」
巴はにっこりと微笑むと、お茶で口を注いで、
「切り抜きや折り紙を使ってコラージュ作品にしようと思っているの。小さく切って、貼って」
「なるほどね」
「瑞希も手伝う」
「みずちゃんは園で絵を展示してくれるのよね。公民館で展示しますってお知らせきたわ」
「こーみんかん」
「この土日に行ってみようか。なあ、巴。その信濃美術館の公募は送った人全員が展示してもらえるわけじゃないだろう。選出された作品だけなんじゃないのか?」
「どうかしら。応募資格は長野県民ってあるけど」
「予選が通るといいな」
「美術館に自分の作品が展示されるなんて夢みたいだもんね」
巴は箸をおいて胸の前で手を組んだ。瑞希の食べこぼしに気づいて、台拭きで吹き上げると飽きてしまった瑞希にもう一度箸を持たせる。
「箸の練習はそのへんにして、スプーンを出してあげたら?」
そういって隆は立ち上がろうとすると、
「そうね。わたしやる」
と巴が引き出しを開けて、瑞希にスプーンを渡すと瑞希は上手にスプーンを持って食べ始める。
「ウインナー、もっと」
「あといっこね」
巴は鍋の中を覗いて瑞希のお皿を寄せる。
「締め切りは八月末日までなの。夏休みにはりきっちゃう。いい夏になりそう」
「そうだな」
巴は隆と笑い合った。信州の春は、多分、日本の春のなかでもほんのり暑い。日本の春は一直線上に晴天の太陽を繋いでいって花を咲かせているんだろう。巴は鼻の下に汗の粒を溜めて一生懸命にしゃべる。瑞希が負けじと被せて話してくる。瑞希は巴の元気に負けたくないからだ。瑞希に見上げられて、巴はにっこり笑ったり、眉間にしわを寄せて、小姑みたいなことを言ったりする。瑞希はへこたれないばかりか、時にべそをかいては巴を困らせたりした。
日曜日に巴と隆と瑞希は、瑞希の絵が展示されている公民館へ出かけた。公民館に入って、すぐの廊下では園の紹介文が簡単に展示され、年少から年長までの三クラスの作品が小さな室内に所狭しと並べられている。
年少のコーナーを探して、巴はカメラを構えている。運動会をテーマにした紙粘土の工作は、グラウンドのトラックを模して作られたオブジェにひとつひとつ置かれて展示されている。
「みずき」と書かれた名札を見つけてその体操着姿で手足を伸ばした瑞希の粘土の人形にシャッターを切る。紙粘土の人形たちの中央には、玉入れのかごが据え付けられており、運動会の雰囲気を演出している。そんな一コマをカメラに収めると、小さな物語を感じられる一枚に、カメラの画面も確認して、よし、と巴はひとりごちた。
「ねえ、瑞希のお弁当、おっきいねえ」
隆が瑞希に笑いかける。
「瑞希のお弁当、おいしかったよ」
「バスハイクの時の絵ね。画用紙いっぱいのお弁当」
三枚ならんだ行事の思い出を描いた絵にシャッターを切っていく。
「瑞希、隣に並んで。そう。隆も隣に」
瑞希がピースを作る。隆の笑顔がぎこちなくて、ふふ、と巴は含み笑いをする。
絵の中の人物はまつげが長くぱっちりとした瞼に片方はウインクをしている絵が多い。おきまりの瑞希の絵なのだった。どんな小さな紙にも瑞希はこのスタイルをオーソドックスに書き散らかして部屋中いっぱいにする。瑞希は水色が好きなのか、くれよんは半分に折れ、そのひとつひとつも短くすり減っている。ワンピースは必ず水色と決まっているのか、展示された三枚はすべて水色のワンピース姿の瑞希が描かれている。
絵も工作も一通り撮影が済むと巴は、
「隆、今日はこのあと文房具屋さんに寄ってもいいかな。折り紙を買いたいの」
「それはもちろん構わないけど」
隆は巴の方を見て頷く。
「瑞希にもおりがみ」
「みずちゃん、一緒に使おうね」
「本当は瑞希はかわいいキャラクターのおりがみがいいんだけどね」
瑞希はふふんと鼻をならして笑うと、
「ぬりえの絵本、この間買ったでしょう?」
「もう全部ぬっちゃった」
巴は訝しむように瑞希のおでこをちょんとこづくと、
「そんなことないのは、ママが知ってるのだ」
「はいー。ホントはまだのこってまーす」
瑞希が仰向いて笑う。そのままのけぞって体がひっくり返りそうになる。
「おっと。瑞希」
隆が慌てて支える。瑞希はそのままのけぞって床に寝転がりそうになる。
「みずちゃん、そのへんで」
巴が制すると、瑞希は体を起こして隆の背に隠れるようにして微笑んだ。巴はその展示された部屋に自分たち以外誰もいないのをほっとすると、瑞希に目配せをした。はにかんで隆のそばから離れようとしない瑞希を隆に任して、巴たちは公民館の玄関を降りた。穿いていたスリッパを丁寧に下駄箱に戻すと靴のつま先をとんっと突いて靴を履く。からからと扉を引くと、外は葉桜が風にそよいで波を打っている。青々と茂った枝葉はきらきらとその根元に影を落として、影との隙間に陽の光が透けて道路に一直線に降りてくる。瑞希が影ばかり選んで踏んで歩くのを、つながれた手を引かれる隆が瑞希に振り回される格好で、隆はおいおい、と言って笑って瑞希について行く。
「おいおい、瑞希。そっちにはいかないよ」
隆が引かれる手に力を込めて、逆に瑞希の手を自分の方に寄せると、
「ああ、パパ」
「みずちゃん、車に乗るよ」
巴が手を添えてもう一度、みずちゃーんと声を掛ける。隆に連れられた瑞希は影踏み遊びを諦めて、しゅん、として隆についてくる。後ろ側に引かれるように歩いてくる瑞希は隆におっかかって身を任せている。
「道路に黒いところの方が多かったの。黒いところしか歩いちゃいけないんだよ」
「それでちゃんとおうちに辿り着くかな?」
隆は笑ってハンドルを握るとエンジンを掛ける。ハンドルを切りながら、でもでも、とぐずる瑞希にいつまでも笑っている。
「かげおにってしたことある?」
「幼稚園であるよ」
瑞希が声を荒げる。
「でもりゅうくん、いつまでもつかまらないんだよ。オニになったことない」
「オニになると影の中しか走っちゃいけないの?」
「そう」
「夕方は影が伸びるからオニが有利だな」
「幼稚園の時間はまだ日が高いもんね」
チャイルドシートの中で足を揺らしている瑞希はごきげんでオーディオからながれるアンパンマンを歌う。アンパンマン体操の振り付きでぶんぶん手を振って、隆は隣で気をとられるな、と笑って運転する。巴は信濃美術館で応募する作品の構想を練っていて、さっきから静かに景色を流し見ている。車窓から流れる信州の景色は、果樹園が広がっていて、低いその木に咲く白い花が無限に林立しているようだ。どこまでも続く果樹の広がりを遠く眺めてなにかヒントはないかと思い巡らしている。
巴にとって、瑞希との毎日がなによりも創作のヒントを得ることができる。瑞希の生命力は巴の生活に新鮮な風を吹かせ、喜々としてみずみずしい感性を提示し、飽くなき好奇心で目の前を明るく照らしてくれる。視線は低く、今まで気づかずにいた視点に驚かせられ、小さな世界から見える新しい可能性を瑞希は拓かせてくれた。小さな子どもと生活することならではの構想に着目し、可憐ながらたくましい風情が彩られている。今しかないその時間を一枚の紙に記録することはなんと有意義であることか、と巴は構想に念入りに取り組んでいる。
広がる果樹の木々に途切れが見え始め、町並みに変化を感じ始めた頃、お店のたちならぶ通りを隆が走らせる。しばらくぶりの信号に立ち止まり、ウィンカーのカッチカッチという音が乾いた車内に響いて聞こえる。
「どんな色紙があるかな。絵の具は家にあるものを使うから、色紙と画用紙があればあとは描けるから」
「審査はいつなの?」
「秋に通知があるって」
隆は駐車場に入ると難なく停めてサイドブレーキをかけた。瑞希が勇んでチャイルドシートから降りる。巴はシートベルトを外すと車内から足を下ろしてドアを閉めた。
店内へと三人並んで入っていく。春の強い風に、巴は瞼を瞬きさせながら舞う髪を手で押さえた。風が光の直線をアスファルトの上に移していく。光線が突き刺す春の風景に、巴は埋め込まれるようにして歩いて行った。隆と瑞希が言い合ったりするのを後ろに聞きながら。
待合室の電光掲示を見上げる。受付を通ってから二時間。まだ巴が呼ばれる気配はない。途中、分娩が入ってしまい、外来の診察はストップしてしまった。先生は二階の分娩室に入ったきり、診察の待合番号は、三十分前と変わらずに映されている。巴はまだ中待合室にも呼ばれない。体重と血圧を測ったのは、もう一時間半前のことだ。
少し膨らみかけたお腹に手をあてる。巴はまだ一ヶ月に一度の健診で、赤ちゃんもまだレモンほどの大きさで、内診で見る限り見た目ははっきりとはしない。性別が分かるようになったら名前を決めよう。巴はそれまで、男女どちらにしても格好のつく名前を考えたりしている。
正午にさしかかろうとしたとき、巴は中待合に呼ばれた。空腹を感じるとつわりになりやすかったが、院内にいる緊張感のせいか巴は気丈夫でいる。幼稚園にいる瑞希のことを思いながら雑誌に顔を埋め、時々ぼんやりしながら赤ちゃんの名前辞典、と書かれたページの名前のランキングを指でなぞったりしていた。
巴は内診室に呼ばれ、扉を抜けると、カーテンの向こう側に入った。ズボンとショーツを脱いで内診台に座ると、その冷たさに上半身が縮み上がる。緊張して待っていると、カーテンの向こうから先生のスリッパのぱたぱたする音が聞こえ、昆さーん、上がりまーす、と声を掛けられ、息を飲む。
「薬、付けますね」
と看護師の声が聞こえ、陰部に冷たいガーゼが当てられると、すぐに内視鏡が入れられる。
下半身に力がこもる。
「昆さん、ここ、心臓です」
映されたモニターをじっと見つめるも、巴にはよく分からない。ただ、
「はあ」
とだけ応える。
「順調ですよ」
「ありがとうございます」
内視鏡が抜かれると、大きく息を吐く。内診台がウィーンと音を立てながら元の椅子の形に戻っていく。
「お支度してください」
「はい」
巴は内診台から立ち上がるとショーツを穿いて、ズボンを上げた。隣の診察室に入っていくと、先生が座ってカルテを書いている。
「昆さん、順調です。お産だけど、ウチでいいよね? 予約しとく?」
「はい。お願いします」
「尿にタンパクがちょっと出てるから、休むようにしてね」
「はい。気を付けます」
「なにか言っておきたいこととかある?」
巴は思い巡らすも、
「いえ、特に」
と挨拶し、ありがとうございました、と席を立った。お大事に、と看護師に声を掛けられ、扉を抜ける。中待合を通り過ぎ、待合室の椅子にまた座ると手を組んでその窓から見える中庭を眺めた。安堵とともに吐き気がこみ上げてくる。眉間をさまよっていくようなめまいを感じ、足下に視線を移す。この待合室のなかで、どれくらいの妊婦がつわりを感じながら、ここになにげなく座っていることだろう。そう思いながら口元にポケットから出したハンカチをあてがう。お決まりの洗濯洗剤で洗濯したそのハンカチがいつもつわりの症状を軽くさせてくれる巴のお気に入りのアイテムだった。そっとかすかな香りを吸い込むと自然と落ち着いてくる。ライナスのタオルみたいなものかもしれない。巴は青ざめる顔を下に向けてハンカチを少し噛んだ。
受付で巴の番号が呼ばれると巴は立ち上がった。ハンカチをポケットに入れて、バックの口に手を入れる。無料で受診できる健診は、次の受診日を予約するため診察券だけを受付に差し出すと、また一ヶ月後にその日を決めて、巴は受付を後にした。歩いて通えるこの産院は、瑞希を出産したときも車に乗らず、歩いて産院に向かったのだった。すでに陣痛も始まって数時間たった後だったが、巴は構わず産院に向かって入院バックを手に、歩いて行った。不思議と歩いている道のりでは、陣痛が襲ってくることはなかった。
五分ほど産院沿いの通りを歩いて、交差点の信号で小路に入ると自宅がある。通り沿いでハンカチを取り出し、握りしめていたが、外気に触れている間は自然と治まってハンカチをあてがうこともない。握る掌がほんのりと汗を滲ませ、ハンカチがしとどに濡れていた。
巴は軽く昼食を済ませると、机の引き出しを開け、椅子に腰掛けた。引き出しからはさみを取り出し、先日買った色紙を包みから開けると、手を差し込み数枚引き抜いた。手でぱらぱらと捲って行くと巴は全色取り出して、色を一枚一枚確認した。
巴はその一枚を取り出し、細い短冊状に切っていった。何本もそれを作って、一枚全てを短冊状に切りそろえると、その一本を手に取り、今度は小さな正方形の形に切り落としていった。そうやって一本一本手に取って、小さな正方形を作っていく。ぱらぱらと机の上に散っていく正方形の色紙は一枚を切り終える頃にはいくつもの正方形に切りそろえられていた。
巴は二枚目も三枚目も手に取って、短冊状に切っては、それを正方形にしていく。色違いの十枚を切り終える頃には正方形の色紙は色とりどり机の上を散っていって、机をモザイックの柄に仕立て上げていた。巴はそれを一枚一枚手に取って、色のグラデーションを作ってみたりした。まだ構想は決定づけられず、手のみ動かして、色合いだけを見ている。相性のいい色の配置だけ確認して、試作品に取りかかろうと画用紙を一枚引き抜いた。
画用紙を目の前にして、巴は一旦立ち止まる。人差し指のささくれだったところを指でなぞると、ざらりとした感触に、何度も行ったり来たりと撫で上げる。やがてささくれだった端をもってひっぱると、ぷっくりと血の玉が滲み巴はそれを口に含んだ。甘やかな鉄の香りに、そっと舌から引き抜くと、ひっぱったささくれは赤く腫れぼったくなって、空気に触れる度きりりと傷んだ。
巴はそれを下唇にあてがってもう片方の手で切ったばかりの正方形を一枚ずつ並べていった。並べながら、隣との色の配置を考えながらある形にしていった。それは円形だったけれど、食い違いに、また色紙をばらばらにして円形を崩すと、今度は寒色系の色ばかりを集めて隙間から埋めていった。やがてまた円形を作り出すと、暖色系の色も加えて、また形状を少し崩したりしていった。
引っ張ったささくれの人差し指は、また血の玉を滲ませて、それはさっきよりも小さな玉だったけれど、また巴は口にそれを含んだ。先ほどよりも薄い鉄の香りに、指を口から引き出すと、その指で、正方形の色紙を数枚すべらせて、暖色系の円形のそばに寄せてみた。
そうやっていくつかの円形を作って、またばらばらと画用紙の上から全部払い落とすと、画用紙はもとの白いままでまた机の上に広がったのだった。画用紙に巴は自分の目を近づけて、その地の粗さをさらさらと掌で障ったりしていると、なんとなく今日見た子宮の中の、あの白黒のモニターが思い出されて、また吐き気を思い出しては掌に力を込めるのだった。
二人目の子どもは当たり前のように巴のお腹にその生命の存在を知らしめてきて、巴に吐き気を催させる。巴と今、共にして存在しているお腹の子は、巴とは別の人間であることをまるで教えてでもいるかのようだ。巴は巴でありながら、お腹の子を意識したとき、別の生命と共にいるのだからと、ひとり他人行儀になる。お腹の子の為に食事の内容を気にしたり、服装を考えるにもひとりきりではないからと自分を気遣う。そうやって共にいた子どもとの十ヶ月間は、そのあと、急に我が身から剥がれ落ちるように生まれてくる。その時、初めて、共にしていた子と顔を合わせ、自分とは違う顔をしているということに巴は初めて納得するのだろう。
瑞希が生まれ、初めてその顔を見た時に、自分の子宮の中で十ヶ月間居続けた瑞希に対して、この子だったのか、と初めて正体を知れたような気がして巴は落ち着かなかった。
もう自分を融解してくるような甘さとは別れをつげなければならないと気がついたとき、これからどうやって瑞希を育てていくのだろうと戸惑い、新しい気持ちで瑞希と向き合おうと努めた。初めて瑞希を授乳した巴はそのあまりにも不慣れな自分に、瑞希とはもう他人同士になってしまったのだという諦念が胸中を巡っていったのだった。
瑞希の抱き方もたどたどしく、その頬に寄せた時、甘さにまだ浸かっていたい気持ちを隣にいた隆にぶつけた巴は出産の痛みもまだ癒えぬ頃だった。尿道にカテーテルを入れられ、身動きも取れない巴はその恥ずかしさもあって、実家の母すら遠ざけた。隆にだけは見られたくないと、カテーテルが外される日まで面会を拒み、一人産後の痛みに耐える時間が必要だった。やがて瑞希と命名されて役所に提出したよ、と隆に報告される時になってようやく巴は隆と向きあって瑞希を抱くことができた。瑞希の授乳を何回かこなすにつけ、巴は我が身と離れていった瑞希をようやく自覚するようになっていった。
退院してまもなくは巴と瑞希とふたりきりの時間が多くなった。お世話の仕方もこなれてきて、眠る時間の多い瑞希を見ながら自分を十分に労るようにした。生後二週間で夜泣きが始まり、夜、眠れない日が続くと、乱れる髪を手で押さえつつ、巴は何度となく授乳を繰り返した。授乳の回数が多くなる分、瑞希の体重も増えていくようだった。夜、一人授乳をしていると、夜の深閑とした闇に自分のいらだちをぶつけていきたくなるような憤りを感じる。渦巻く憎悪と何者に代えがたい可愛らしさの愛の中に、ただ硬くなった乳房を差し出しその吸われる心地よさに初めて安らぎのような静けさを得るようだった。
巴は切った色紙を封筒のなかにいれ、画用紙を透明のセロファンの中に元通り収めると、引き出しの中に仕舞った。帽子に手を掛け、ジャンパーに袖を通すと、瑞希の通う幼稚園に向かう。三時で降園になる瑞希を迎えに行くのだ。鍵穴に通し、かちゃりと軽く乾いた音が響く。スニーカーの足を前に出す。雨を知らない晴天続きの春は、梅雨入りする気配を見せぬまま、枝葉は空に向かって伸びていく。停めていた車に影を作るその仰いだ先のヤマボウシは白い花を覗かせている。巴は車に乗り込むとエンジンを掛け通りをでていった。
車を停め、ドアを開けると、隣から顔を出す戸谷が、
「こんにちは」
と巴に声を掛ける。
「おつかれさま。最近、ちょっと暑いね」
戸谷は腕に嵌めたグローブを引き上げながら、
「さっき、この子と公園行って来た。結構、遊んでる親子がいたよ」
と戸谷は手を繋いだ小さな手を振ってみせる。無表情にぶんぶんと降られる左手と、目線がかなたを向いているのがなんとなく可愛らしい。
「ようちゃんの妹さん、もう一歳?」
「そう。早いよねえ。洋介が年長になる頃には、この子は年少だわ」
「公園遊び、おつかれさま」
「ねえ、ほんと。活発になっちゃって」
「ちょっと公園で疲れてる? ぽけっとしててかわいい」
戸谷は屈んで顔を覗き込むと、
「はは、寝起きの顔だわ。起こしてきたから」
とわしゃわしゃと髪をなでる。巴は礼拝堂脇に戸谷と並んで年少のクラスの終わりを待っている。幼稚園の園舎に隣接している礼拝堂は園舎よりもその建物は古く、宣教師たちによって開設されたその幼稚園はカトリック系の教育を子どもたちに施す。礼拝堂からは子どもたちの聖歌が響き渡り、近所周辺までその調べが漂って聞こえている。
「あ。こんにちは」
礼拝堂からチャプレンの先生と園長先生が出てきたのを巴は挨拶をすると、戸谷が続いて、こんにちはーと元気のよい声を出す。
「こんにちは」
にっこりと微笑むチャプレンの森先生は、戸谷の背に隠れている子の頭に手を置いてしゃがんでその子に笑って見せた。
「汗が出ますね。いい陽気で。たくさん遊んだ感じね」
森先生はおでこを撫でて起き上がると、戸谷に笑いかけた。
「ええ。公園、大盛況でしたよ」
「活動的でいいですね」
園長先生が戸谷に向かって言う。
「お母さん、お体は大丈夫?」
不意に園長先生から話しかけられ、巴は、
「あ、はい。安定期もすぐで」
と答えると、
「暑い時期にお腹が大きくなりますね。お大事にしてくださいね」
園長先生にねぎらわれ、居住まいを正すと巴は、
「ありがとうございます」
と会釈した。それから年少のクラスの保育室から何人か子どもたちがわーと出てくると、園長先生はあっという間に囲まれてその中で微笑んで立っている。巴は瑞希のそばに寄ると、瑞希は、
「ちょっとこうたろうくんと遊んでいい?」
と巴の足をぎゅうと抱いた。
「いいよ」
「やったあ。こうちゃん、いくよー」
掛け声と共にふたりつきやまにむかって走って行くと、そのままかけっこになってぶらんこに手を掛ける。思い切り蹴って孝太朗くんに背中を押してもらう瑞希はきゃっきゃっと歓声をあげる。
「こわいー」
瑞希の高い声は園庭に響いて巴の気を散らしてしまう。
「こら、こうちゃん、ゆっくりー」
孝太朗くんのお母さんがブランコに駆け寄る。
「ごめんね、瑞希ちゃん。ほら、こうやって、ゆっくりね」
「ぎゃはっはっ」
孝太朗くんはそのまま走って行って滑り台の階段に足を掛ける。瑞希が追って行って、二人、並んで滑るとまだ心配そうに見上げる孝太朗くんのお母さんのそばに寄って、
「内山さん、すみません。はしゃいじゃってますね」
「ほんと、瑞希ちゃんにもすみません」
「いえ。こちらこそ」
何度も頭を下げる孝太朗くんの母親に、巴はいつもこの人はこうなのだ、と一旦口を噤むと、瑞希の走る姿を目で追った。孝太朗くんに小言めいた声を掛けるこの母親とは、なんだか気が合いそうにないと、巴は一歩下がると、
「ほら、瑞希ちゃんに挨拶して。孝太朗行くよ」
と遠巻きから親子を眺めた。それから、
「さようなら。昆さん」
と挨拶され、どきりとすると、
「さようなら」
ようやく孝太朗くんの親子に向かってそう言うと、小さく手を振った。瑞希がいつのまにか巴の横にいて、
「あと何分? もう少し遊べる?」
とズボンの裾を引っ張られる。
「もう少し大丈夫だよ」
瑞希に微笑みかけると巴は戸谷を目で追った。戸谷はまだ森先生と話していて、洋介くんと妹のここみちゃんは二人の周辺を駆け回っている。巴はそのそばに寄ると、小さく森先生に会釈して戸谷の横に立った。
「クリスマスに劇をやるんだって。降誕劇」
「降誕劇?」
巴はややあってから、
「ああ、イエスさまの誕生の物語のことかな」
「そうです」
森先生が頷く。
「この子の予定日がクリスマス周辺で」
「へえ。ロマンチックになるね。降誕劇の配役とかって、年少さんにもあてられるんですか?」
戸谷からの質問に森先生が、うーんと唸りながら、
「年長さんが中心となります。年少さんは聖歌隊になってもらうんです。たくさん歌を覚えてもらうんですよ」
「そうかあ。うちの子できるかなあ」
戸谷が洋介くんを見つめる。洋介くんはママに見つめられていることに気づいて戸谷に寄ってくると、
「ママ、帰りたーい」
と声をはりあげた。妹のここみちゃんは何度か転んでいたのか、ズボンを泥で汚していて、あーあ、と戸谷が駆け寄る。
「ほら、ばっちいよ。パンパンして」
戸谷がここみちゃんお膝を軽く叩いて泥を落とす。戸谷は巴を見上げて、
「わたしたち、もう行くわ」
とここみちゃんの手を取った。巴は戸谷に手を振ると瑞希はどこにいるだろうと仰いだ。瑞希に寄っていって、
「もう時間だよ」
と手を伸ばす。瑞希は巴の手を取って、ぶんぶんと降る。
「瑞希の好きなご飯にして」
巴に向かって仰向く瑞希は息が荒い。
「じゃあ、そうしよう。ハンバーグね」
「ええ。瑞希、ハンバーグ好きじゃないよ」
「あれ? じゃあ、そぼろご飯ね」
「まあ、何でもいいよ」
瑞希は車に駆け寄っていく。巴はゆったりとした足取りで瑞希の後を歩いて行った。瑞希をチャイルドシートに乗せると巴も乗り込んでフロントの向こうを仰ぐ。目深に被っていた帽子に手を掛けると、日差しを避けるように道の先をみつめてアクセルを踏み込んでいった。瑞希の歌う、アンパンマンを聴きながら。
昨日から瑞希の夏休みが始まって、早速朝寝坊をする瑞希をいいことに巴は早朝から机に向かっていた。巴のお腹はウエストを張り出すようにでっぱり始め、腰は弓なりにしなり腰痛になりがちだった。昼間瑞希を相手にしながら制作を続けた昨日だけで、腰の負担は大きく、巴は朝の早い時間に制作の時間にあてることにした。
画用紙には正方形に切り取られた色紙が無数に貼られていた。二人目が誕生する少し前に展示されるこの作品を、降誕劇をテーマに制作していこうと決めて取りかかってから二ヶ月経つ。小さな四角の折り紙はいくつもの光源をその画用紙に散りばめられ、ひかりの中から、愛されるべき乳飲み子とマリア、ヨセフを配置させている。大きな画用紙を二つつなげて作った一枚は正方形の折り紙に重ねて糊づけされている。中央下にイエスを抱くマリア、その脇で微笑ましく寄り添うヨセフ。
夜が明けてから三十分経った頃、巴はカーテンを開けて窓を細く開けた。網戸からそよそよと夏の風が入ってくる。清澄な空気の中、巴の体の芯から熱が帯びて、涼感をねだるように網戸に顔を近づける。遠くで雀の鳴く声が聞こえて、彼方の空を見上げると、その青さに山の端も溶け合って境目が曖昧だ。巴は画用紙に真向かうと、空と山との稜線を作るために折り紙を手で探った。色を四色ほど選ぶとその数枚をまばらにおいて稜線として囲っていく。空は青いようで、ほんのり空気を含んだような軽さが広がっている。軽さの描く色を探して、色紙の中に手をつっこむと、淡いピンク色を手に取って、隣り合わせてみた。そこから光源が広がり、光の輪となって母子に降り注ぐ。マリアは俯いていて、その痩身の体で生まれたばかりの赤子を抱く。橙と薄橙、黄緑。イエスの体の色を選んでいくと、糊を手に取った。山の稜線から平行に降りていった先にイエスがいる。
乾いていく間にも次の一枚を貼り付けると隣の色紙がぶれて隙間が出来てしまう。うーんと巴は唸って、隙間を埋めようと人差し指を細かく動かす。小刻みに動かし隙間が埋まると巴はふうと鼻から息を出し、折り紙が舞い散ってしまう。慌てて折り紙を手で押さえ、ひとり、笑ってしまうと、ついと緊張の糸を手繰らせて口を真一文字に結び、色紙を丁寧に選んでいく。貧しい娘の着る服を一枚ずつ選んでいく。
遠くの空の下、羊飼いと羊が救い主の誕生を喜んでいる。三人の博士たちは贈り物を手にしてイエスに会いに行く。大きな星がきらめいている。星はベツレヘムのイエスを照らす。巴は大きな星に取りかかる。星から光が降り注ぎ、円形に地上に照らしていく。星は輝く白や黄色、黄緑を選ぶ。ピンク色が透けて、巴はふと思い立って窓辺に立ち、空を見上げる。透けていく空の星を仰ぎ、透過していった先をみつめている。
やがて蝉がしぐれ鳴いて空を賑わせていくと、空は青みを増して晴天の今日を知らせる。陽の高くあがっていくのも、体の温度を上げて芯まで火照らせる。巴は台所に立って蛇口を捻ると勢いよくコップにその水を注ぎ、口に付けた。
蝉の音は幾重に重なり夏の空を引き裂いていく。じりりと暑さと相まって巴の体のお腹の子にも地割れていくように響いて行くと、お腹の子がまんじりと動き出す。巴のお腹をせり出すようにうねり動いて、お腹の子は自己主張していく。
うねうねと動き回るお腹の子にそっと巴は左手を置いた。巴の手の向こう側で喜ぶようにお腹の子が羊水の中を泳ぎ回っている。巴はこめかみに汗が滲み、つと落ちていくと、いつのまにか鼻の下にも汗の粒が滲み、脇までも湿らせた。巴は堪らなくなって両手を畳の上について仰向くとふうと息を勢いよく吐き出した。
降参したかのように巴は壁におっかかると、お腹を張り出すようにのけぞった。後頭部がごりごりと壁に当たって、巴を居づらくさせる。巴はそのまま畳に仰向いて天井を見上げた。天井の木目をなぞるように見ていって、そのまま目を閉じると息が漏れて、それから深く呼吸をした。巴は寝息をあげながら、遠くの蝉とかっこうと鳴く鳥の音とを同時に聞きながら、その音が遠くたなびいていくまで聞き入っていた。
やがて巴は瑞希に起こされ目を覚ました。瑞希はか細い声で、お茶、とねだった。巴は起き上がって冷蔵庫をあけると、お茶のピッチャーを取り出し注ぐ。瑞希の前へ持って行くと、それを瑞希は一気に飲み干し、はあと晴れやかに息を吐いた。
「ママ、絵かいてたの?」
「そう。もうちょっとで終わるよ」
巴が微笑む。
「瑞希ももうおわったよ」
「何が終わったの?」
「これ」
と折り紙を差し出す。
「なあに、これ」
三角にだけ折られた折り紙が何枚もつながってぺたぺたとテープが貼られている。なんの形でもない。
「しゅりけんだよ」
瑞希は折り紙を水平に投げ出す。折り紙はくるくると回って畳に落ちる。
「ほんとうだ。」
「ここをこう持って。ママ、やって」
「こう?」
手裏剣は真下を、巴の足下に落ちていく。
「ママ、違う。こう」
瑞希は上手にくるくると回転させて遠くまで飛ばしていく。
「コツがいるのね」
「そうコツがいるの」
瑞希は手裏剣を何度も投げている。巴に投げ方を一生懸命教えるも、巴は遠慮して投げたがらない。瑞希は仕方ないなあ、と言って自分で投げる。瑞希が手裏剣を投げている間に、自分の作品に目を落とす。絵は淡い色がたくさん重ねて糊付けされていて、遠目で見ると色の重なりに迫力が欠ける。巴は思いきって原色の色紙を手に取って、その色合いの間に挟み込んで糊を付ける。瑞希が部屋をどたんばたんとしながら手裏剣で遊ぶ。瑞希が起きてきて、巴の制作も先ほどより心なしか大胆になる。
「ママ、この女の子かわいい」
「女の子? マリア様かな」
「マリアさま」
「赤ちゃんを産んで、抱いているんだよ」
「ママにも赤ちゃんがいるね」
瑞希は巴のお腹をさする。
「くすぐったいね、みずちゃんの手は」
巴が身をよじっている。
「ママ、お腹膨らんでるから、よしよしってしてあげないと」
「ありがとう。でもくすぐったい。赤ちゃんもくすぐったくて、くすくすって笑うよ」
巴は瑞希と話しながら原色の色紙を選んでいく。一枚ずつ糊を付けていって貼り付けると、原色の色紙はぽっと浮いたように絵に強弱をつけていくように思われる。巴は補色になる色も選んで隣り合わせてみる。
「この色の折り紙、瑞希にもちょうだい」
「これ?」
「そう。しゅりけんにはってみる」
「いいよ」
瑞希は糊を手に取る。
「手裏剣がカラフルになるね」
「ママからもらった。この女の子のおようふくの色だよ」
「ほんとうだね、水色のお洋服」
巴はマリアの着ている服にも補色の色を選んで糊をつける。貼り付けると、巴の制作する一枚は先ほどとは大分違った印象に見えてきた。瑞希は何枚も水色の折り紙を手に取って手裏剣に貼っていく。所々織り交ぜた原色の色紙のおかげでメリハリが出てきたようだ。巴は続けて原色を選んでいく。
「これで投げてみるね。さっきよりもよく飛ぶはず」
瑞希は期待を膨らませて手裏剣を持つ手を構える。
「それっ」
手裏剣は瑞希の手を離れて部屋を飛び出していく。
「やっぱりそうだ。パアーアップされている」
瑞希は神妙そうに手裏剣をみつめ、やっ、と投げていく。巴はふうと息を吐き出した。肩をぽんぽんと叩いてうーん、と小さく伸びた。お腹に手を置いて、上下と擦っていく。外は陽が高くなっていて、強い日差しが窓ガラスをきらきら反射させ、部屋の室温も上昇させる。巴は台所に立つと冷蔵庫からとまとを取り出す。とまと、ハム、卵、ヨーグルト。並べて、巴は腕まくりすると、小型の携帯ラジオのスイッチを入れる。朝のラジオ体操第一の音楽とともに作る朝食。巴は息をふうふう吐き出しながらフライパンでオムレツを作る。パチパチと油の上で跳ねる卵の黄色い液体を見ながら、巴は折り紙の色彩を思い出す。卵を返していくのもまるで折り返していく折り紙みたいに思えたりする。瑞希のやったあ、という声に振り返りながら、ラグビーボール型に畳まれたオムレツをお皿に乗せていった。
応募した一枚の絵が展示されることが決定した。通知を受け取ったのは夏の終わりだった。頭の上をのしかかってくる残暑を振り払って、巴は小躍りに喜んだ。実際、瑞希の手をとってくるくるとその場を踊って見せた巴を、隆はおい、危ない。お腹が揺れてる、と笑って制したのだった。
巴は絵が搬入される日をカレンダーで赤く印を付け、空いたスペースに、信濃美術館へ、と書き記すとまたくるりと回った。巴は絵を梱包し終えると、それを恭しい態度でスチールラックに立て掛けた。搬入する月曜日の午後は、隆も休みをとって二人で運ぶ手はずを整える。巴は浮き足立つ気持ちにいてもいられずヨガマットを敷いてヨガをする。大きなお腹を沈み込ませて、その股関節の中に埋もれると重力でお腹の赤ちゃんの重みを感じる。バランスボールに腕を伸ばし、身を預けたりしながらしてると、瑞希がよじのぼろうとしてきて、隆が慌てて、ママ危ない、と瑞希を抱き上げようと必死だ。
「巴とは久しぶりのドライブデートになるね」
隆はにこにこして鼻の下が伸びている。
「安全運転してね。大切な絵が載ってるんだから」
「巴と赤ちゃんの乗せてるからだろう? ゆっくり走るよ」
「事故になったらどうしよう…」
巴ははらはらと胸騒ぎが止まらない。
「事故になんかなるもんか」
隆はエアーのハンドルを握る。
「瑞希は行けないの? 瑞希も行きたい」
「みずちゃんは幼稚園だよ。絵が美術館に展示されたら、一緒に観に行こう」
巴は瑞希の両手を取ってぱちんと叩いてみせた。
「あーあ。つまんない」
瑞希は手を振り払ってバランスボールに抱きつくときゃあきゅあ言いながら身を預ける。隆は手帳を開いて確認をしているそばへ巴が寄ると、
「改めて運転よろしくお願いします」
と頭をちいさく下げた。
「任せてよ。僕も楽しみだ」
隆は力こぶをつくった。それから巴はカレンダーに赤く印を付けた日まで、×印を付けながらその日を待った。月曜日の朝を迎えた日は落ち着かず、朝から録画していた笑点を流し見ながら緊張に胸湧くのをなんとかごまかし続けた。昼で隆が仕事からあがってくるのに合わせて昼食を準備し、その間も笑点を流している。やがて、ちゃんちゃかちゃかちゃかちゃんちゃんっというおなじみの音楽が脳内再生され、それがこびりついて離れなくなったのに苦しんで、ようやく録画を止めると、隆が、大丈夫? と苦笑いをして親子丼を頬張った。
「笑点の次はなんにする?」
隆はにやにやしている。
「馬鹿にしないで。静かなときを過ごすから」
巴はほとんど噛まずに親子丼を食べきったのを胃を擦りながら、
「気持ちを落ち着かせるためにゾウさんでも折ろうかな…」
「ゾウさん…やけに脳天気に出たね」
「逆よ。苦渋の作に出たの。四十八ページのゾウさん、折ってみる」
巴は本棚から「親子での折り紙教室」の背表紙を人差し指で押し出す。引き出しから折り紙を取り出すと、ぺらりとセロファンの糊を剥ぎとり、灰色の折り紙を一枚取り出す。
「このゾウさん、アフリカ象なのよね…基本形Hまで折る。えっと基本形は、と…」
「アフリカ象って、象って他になに象があるんだろう?」
「インド象とかじゃない?」
「違いが分かる?」
開いた本に俯いている巴に頭を寄せる隆は、
「すごいね。このゾウさん、ちゃんと牙まである」
「そうでしょ。そしてこのフォルム」
「うん。なんだか立体的」
巴は三角形に折った部分を開きつぶすと、人差し指で折り線をなぞる。
「待って。すでにもう写真のようにいかない」
「ここをこういう感じで折り下ろすといいんじゃない?」
「ああ、で、この先端を…折り込む」
「そうそう」
左右を対称的に折り込んで裏返し、横向きにすると、先端に切り込みを入れる。
「そこが牙になるんだ」
「そう。で、細くする」
「なんだか曲がってない?」
「…うるさいよ」
「まあ、いい感じだね」
巴は鼻の部分を折り潰して下げると先端を折り曲げた。
「おお。鼻が何か今にも掴みそうな器用さだね」
「バナナとか? りんごとか? 」
巴は嬉しそうに顔をほころばせる。
「うんうん。ゾウって分かるよ、これ」
「耳は糊づけるのね」
巴は糊を手に取る。
「おお、顔が出来た」
「え? 上半身と下半身と別々に作るのか…へえ」
「そう。基本形Iまで折る。基本形は、と…」
巴はパラパラと本を捲る。
「巴、時間見てる? そろそろじゃない?」
「ああ、もう行こうか」
と立ち上がる。
「どう? 落ち着いた?」
「うん。若干」
「よかった。絵はぼくが持つよ」
隆がスチールラックにある絵に手を伸ばし、両手で抱える。巴はバックだけ持つと、いそいそと玄関を降りて靴を履いた。そうやってふたり、家を出て車に乗る。巴はでっぱったお腹の下をシートベルトを這わせるとかちっとはめ込んだ。巴は後部座席を気にしながら、
「大丈夫かな? 落ちたりしないかな…」
と心配そうにつぶやく。
「ゆっくり走るし、大丈夫だよ」
そういって隆はハンドルを切る。隆は機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。オーディオはついていない。隆の鼻歌は走り去るエンジンの音にかき消されながら、ご機嫌な様子だけが車内を巡っている。車線変更をするために隆は加速していく。
巴は口を噤んで、足下に軽く手を握る。何度となく走った国道も難なくスピードを上げて走り抜ける。波打つような道路に体がふわりと浮遊し、がたんと揺れる度、巴は後ろの席に置いた絵を見遣る。夜明け前に起きて制作し続けた一枚は、巴の夏が描かれている。
生まれてきたイエスは救い主の誕生として喜ばれた。そのイエスに覆い被さる苦難を思って、巴は自分の赤ちゃんと重ねて途方もなく感じる。十字架の重みを背負うイエスにマリアにも似た愛情を向けてしまう。マリアの哀惜の念を一枚にしたためるようにも思った。生まれた喜びよりも、その別れを意識してしまう巴は、ひとりの途方もない人生にひれ伏したい気持ちだった。冬になると生まれてくる子ども。諦めきれない甘さが尾を引く。でもお腹の子は、生まれてきたいと強く願って巴のお腹を痛めてくるはずだ。
その痛みは長い時間を伴って巴の産もうというエネルギーを期待している。巴が痛いなら、お腹の子どもも痛いはずだろう。狭い産道を上手にくぐり抜け、巴のいきみに助けられて産声を上げる我が子は、何を担って生まれてくるのだろうか。
ビルの建ち並ぶ脇を走って、街路樹の中を抜けて行くように木の陰に入っていく。木は風に揺らめいていて、影が空に向かって間延びするようだ。静寂な空気に満ちて、車の通りは次第にまばらになっていく。公園の林を脇に、学校も建ち並ぶ界隈に、学生の歩く風景も多くなる。隆はスピードを緩めながら坂道を上っていったり降りていったりを繰り返し、信濃美術館の駐車場に停める。
「着いた。絵はぼくが持とう」
隆が運転席から降りて後部座席に回る。巴はシートベルトを外すと、ドアをあけ足を下ろした。
「大きな平面を持っている人がいる。あのひともそうなんだね」
隆が見遣ってこそっと耳のそばで話すのを、
「受付、展示室の方だって。なんだか作業中って雰囲気」
玄関を抜けて広い廊下を歩きながら巴は辺りを見回している。案内される表示にしたがって進んでいくと、展示室の前に着いた。
「こんにちは」
広い展示室の前にカウンターが置かれ、そこに立つ女性に挨拶をされた。
「こんにちは」
「お名前は?」
「昆巴です」
「昆さん…あった」
巴は小さな紙切れを渡される。
「キャプションにかかれる情報はこれで間違いないですか?」
それは絵の題名や巴の名前などが書かれた紙だった。巴が応募したときに寄せたものだった。
「はい。間違いないです。それでお願いします」
「わかりました。この通りにしますね。お持ちした作品を壁に印してある昆さんの名前の前に置いておいてください。その場所で展示されます」
「はい。失礼します」
巴と隆は展示室の中に入っていく。中には作業着を着て名札を下げた職員が数名いて、大きさもまばらな作品たちが壁に寄りかかって床に並んで置かれている。
巴は自分の名前を探す。すると入ってすぐのまもなくの所に巴の名前を見つけた。
「ここだね。ここに置くんだね」
隆は梱包を剥いで絵を床に置く。
「こうやって見渡すと、巴の絵は小さいね」
「そうみたい。描いてるときは意識してなかったけど」
「いろんな絵があるね」
「なんていうか、わたし嬉しいけど、うん。なんていうか…」
「よかったね」
隆が巴の手を取る。巴は隆の手を握り返す。巴よりも先を行く隆はその手をひくと、巴はさっきよりも隆にぴたりと寄った。展示室を後にする。階段を上るところで二人は手を離して、これから受付にくる絵を持ったひとにぶつからないように道をあけたりしながら登り切った。
切り抜きや折り紙を貼り付けて物語を描ききったつもりだった。でもいざこの場に来てみて、手放すのが惜しいくらいに思った。絵を持って現れるひとに出会う度、立て掛けられた絵をちらりと視界に入れる度、もっと描き加えるべき所を反省して後ろ髪が引かれた。
新聞や雑誌の切り抜きにセンスが感じられない。折り紙の色合いに雑っぽさを感じてしまう、思いつく限りの至らなさを反芻して巴は展示室から離れて美術館を後にする。隆が巴の手を取って歩こうと差し伸べるも、巴はちょっとためらってからその手を取った。
マリアに受胎を知らせる大天使ガブリエル。マリアは恭しくガブリエルの前でひざまずく。私は卑しい娘ですから、そう言って頭を垂れる。小さな希望の光を授かる夫婦の喜びは貼り付けられる紙の集合によって描かれるべきで、それは自分の裁量を超えて壮大なテーマとして巴に立ちはだかる。自分も妊娠している身として、気安く取りかかった最初の思いつきは、手放す段階になって初めて展示されるにふさわしいとは到底思えず逡巡した。
制作していた早朝の時間を取り戻して、貼っていった一枚ずつをもっとより計算された元で作成し直せたら、と巴は美術館を仰いだ。何度も仰いだ。いま、巴の手を離れた一枚を思って、これから多くの人目に触れる一枚を思って、恥ずかしさがこみ上げた。恥ずかしい。我が身の恥を思って、身を竦めながら広がる芝生の上を子どもらしい気持ちで歩いて行った。風が枝をそよがせ鼻の奥を熱っぽくさせながらうだる晩夏の午後を、心許なく巴は歩いた。手を取って歩く隆は清々しそうに胸を張って、深く呼吸するみたいにはあ、と大きく息を吐いた。
「巴の絵、すごくよかったよね。他と比べるわけじゃないけど」
隆が笑いかけて振り向くのを、巴は、
「そうかな。全然至らないなって思っちゃった」
「そう思ってもらったほうがいいけどね」
「そうでしょう?」
巴は慈悲を乞いたい気持ちにもなっていた。
「そういうものだよ。やっぱり奢らないでいてもらいたい。その気持ちで次にもつないで行ってほしいもの」
「次も描きたいと思った。あんな…恥さらしだ」
「恥ずかしいものだと思うよ。大衆を相手にして。でもやっていってよ」
「これからも恥さらしを?」
「恥ずかしくない一枚を描けるように」
巴は俯いて、うんと答えた。
「展示されるのはいつ?」
「十月の最初の週。四日間だけ。」
「瑞希と見にこよう」
巴はまた、うんと頷いて周りを囲うように立つ木を仰いだ。日差しがそこから透けて落ちてくる。隆の顔の上に影と陽のひかりとが行ったり来たりするのを眺めながらしばらくその立ち並ぶ根元を歩いて行った。隆の晴れ晴れとした表情がなんだかうらめしい。肌をかすめていく午後の日差しがほんのり秋の寂しさを伝える。手元からすり抜けて行く風を拾うようにして握りしめた拳を見つめる巴は、なにかを手にしたような気がしてそっと掌を広げてみたのだった。
巴は車から降りるのを渋る。隆は大きくため息を吐いた。もう美術館に着いてから五分経過している。駐車場のまんなかで、飽きてしまった瑞希は走り回っていた。巴はひたすら車の足下のシートを眺めて、待ってね、待ってね、心の準備がね、と隆に言い続ける。 隆は諦めて瑞希のそばによると、瑞希の真ん前にきてなにか話している。瑞希は了解しえないような不明瞭な顔つきをして、またぐるぐると駐車場を走り出す。隆は弱ったように頭を掻くと、瑞希を背にして乞うように巴をみつめた。
巴は観念して車を降りると、隆の隣に立った。ようやく、といった感じで安堵のため息を漏らした隆は車に鍵をかけて三人駐車場を出て行く。隆と手をつなぐ瑞希はもう片方の手で巴の手を取ろうとする。巴は恐る恐る瑞希の手を取って三人ロビーへと入っていった。
描いている時のような高揚感が薄れて手指も冷たく、緊張で汗が滲む。前の方へと張り出すお腹と胸につかえるような気持ちの悪さに、巴は青ざめたまま展示室に入った。整然と並ぶ額ぶちの一枚一枚は寂静とした展示室を飾っていて、巴は美術館らしい雰囲気に飲まれながら順に見ていく。絵を照らす斜光が、絵に品格を与えて、物語を連想させている。巴は堪忍したように自分の展示された場所まで一枚ずつ近づいていった。描いていたときのありのままの素直さで自分の絵と真向かう覚悟ができると、自分の絵と差し向かいで向かい合った。
それはあまりにもありふれていて面白みのない一枚だった。類い希な珍しさは認めようもなく、それは落ち着いてはいるものの、人をかき乱していくような憧憬は与えようもない一枚だった。恋を覚えるような制作期間を思い出しては巴は恥ずかしさが湧き、頬が紅潮していった。体の中に仕込まれた導火線が順に着火していくようなほてりが巡って、巴は自分の絵から目をそらすどころか、その羞恥心でもって、しげしげとみつめた。
「いいねえ、巴。写真を撮れないのが残念だ」
隆が褒めちぎる。巴はますます恥ずかしくなった。頬の血管が切れて真っ赤に染まるのを掌で押さえたりしながら、黙りこくって絵を見つめる。目を逸らすことができずに、隆の褒める言葉が宙を浮いていくように思った。自分の描いた目の前の絵にあてはまりそうもない隆の言葉は、子どもを褒めるようなよくある日常の一コマとしてそこに置かれるようだった。
瑞希が、ママのー、ママのーと声を張り上げる。マリアさまーと言って手を合わせる。瑞希はたしかに巴の絵を愛しているのだと知ると、巴はいくらかほっとしたように安心のまなざしを絵に向けた。瑞希の脇にいると途端に愛されるべき一枚に見えてくる。瑞希の声に合わせて隆が笑う。家族三人で絵を囲って、巴は初めて絵を描き終えたような達成感を感じ始めていた。
巴は自分の絵を通り過ぎると、気安い気持ちで他の展示された作品を見ていった。自分の絵が多少誇らしくも思え、絵を通り過ぎていくごとに巴の気持ちは殊勝にも思えた。重荷は少しずつ剥がれ落ちるようであって、晴れ晴れとしていた。
眺め流すにつけ素人染みた展示だと思う巴は、自分の描いた作品もその並びに類なく素人らしいと一人納得する。後ろを振り返って自分の作品を何度も確認しては、この素人の作品が並ぶ展示室にふさわしい一枚だと思えてくる。突出してひれ伏したくなるような作品は出会うはずもなく、一枚ずつ流し見ると、子どもの手習いに毛が生えたようなものだと思って巴は眺めた。どれも類なくそれらしく並ぶ。不思議と他人の絵をみていると、鏡をみているように、自分に恥ずかしさが湧いてくる。そうかと思うと、自分に勝る人もいないだろうと尊大な気持ちも湧いたりする。
「中島敦の『山月記』で袁傪が李徴の詩を聞いて、第一流の作品となるにはどこか欠けるって思うんだよね。作者の非凡さを感じながらも。李徴は尊大な羞恥心が虎だったと嘆いていたね。臆病な自尊心が潔しとしなかったって。わたしは李徴は虎の身に墜ちてしまうほど、その詩業を真摯に受けとめていたと言えると思うよ。詩に投じることはできなかったけど、あさましい姿となりはてたのをさだめと受け入れたんだから」
巴はなかば独り言のように言う。隆は黙って巴を見つめる。そうしながらにこやかに目の前の作品を評していきながら、ねえ、巴、と隣の絵隣の絵と歩を進める。瑞希は飽き飽きしたように展示室を小走りに縫って走って行くのを隆が慌てて手を引いたりして自分に引き寄せてはちいさな手を握る。
大衆は巴の絵の前を通り過ぎる。何人もの大衆が順番に巴の絵の前に一瞬、立ち止まっては、ある程度、見つめると、また通り過ぎる。巴はそれを展示室の遠くから確認して、大衆のひとりひとりの顔色をよく見てみる。誰もが能面のような無表情で、ただ通り過ぎていくのだけが巴に届く。
巴ははじめ、裸の自分をじろじろと見られているような気分にさせられたのだったが、やがて、大衆を前に、ある種の安堵のようなものが広がる。大勢の中にいる自分とある大衆のひとりに対して、ただ、「こんにちは」と挨拶をしているようなそんなよくある日常を思わせた。大勢に紛れて大衆を演じている自分。色とりどりの大衆の色。自分の色。絵の色。服の色。肌や髪の色。声の色。展示室を照らす光の色。
広い展示室の一通りの絵を見終えると、三人は展示室を後にした。秋晴れの空は高くて、どこまでも突き上がっていくようだった。雲は風で薄れていって、ちぎれてまたつながる。高いところで吹く風は早いようで、空のキャンバスを次々と描き変えていく。
美術館から程近い珈琲喫茶店に車を止める。三人でお祝いにチョコレートパフェを頼む。瑞希は隆と分け合って食べる。
バナナを頬張る瑞希の口はチョコレートのシロップで汚れている。瑞希の口元が汚れているのも今日は構わない巴は信濃美術館で飾られる自分の絵をいつまでも思ってしまう。あと二日間飾られる絵は、また搬出に絵を取りに行くのだった。
「瑞希は初めての美術館だったね」
シロップが伝うバニラアイスをスプーンに掬う瑞希は、あまりに集中していて隆の声も届かない。代わりに巴が、
「初めてじゃないよね。安曇野や松本で美術館巡りをしたことがあったよね」
「あれ、そうだったかな」
隆は瑞希からメロンをもらって、刺したフォークの隙間から頬張る。
「草間彌生の絵を見ながらきゃあきゃあ言ってたじゃない」
「そうだった。庭でも写真を撮ったし、自販機が草間彌生をモチーフにしたデザインだった。その自販機でジュースを買ったんだ」
「まだ未満児だったけど、結構のんびりと絵を見られてよかったよね。親子連れも多くて気兼ねしなかった」
「瑞希、チューリップのあるお庭で写真撮ったよね?」
「うん。たぶんねー」
瑞希は関せず、つめたーいと口をすぼませる。隆が紙ナプキンで瑞希の口の周りを拭いたりする。瑞希が顔を背けてスプーンの手を前につきだすのを、
「ほら、ちゃんと拭かないと痛くなるよ」
「いや。もうだいじょうぶだもん」
ふたりをじっとみつめながら巴はチョコレートパフェのシリアルとアイスをごちゃまぜに混ぜ合わせてスプーンを掬う。隆に嫌々拭かれてしまった瑞希の唇は真っ赤に染まり、その薄い口元が機嫌良さそうに笑っている。
「わたしは不思議の国へ行ってしまったと思った。あれだけの世界を作り出せたら本物だなって思う。瑞希が興奮しちゃうのも分かる気がする」
「自分たちが子連れだっていうのも忘れそうなくらい楽しかったよね。美術館でのマナーを気にする以前に、展示そのものを心から楽しんだ感じだった」
隆は、あの時はやられちゃったよなーとめがねの奥から巴に同調を求めている。
「不思議の国から抜け出せてよかった。なんて危険なんだあって思っちゃった。でもまたあそこに行けば、不思議の国に行けるって分かっちゃったな」
「ぼくも滅入っちゃったな」
どろりと溶けたパフェの容器の底をかき混ぜながら、順番に隆と瑞希とを見つめている。
瑞希は隆にお世話されてやっかむように怪訝な顔をすると巴に向かって、
「ねえ、ママ。絵はどこいっちゃったの? もうお家には帰ってこないんでしょう?」
「ううん。来週取りに行くんだよ。今度はお家で飾るんだよ」
「瑞希の絵を飾ってよ。ママばっかりずるいよ」
「はあ、そうだよなあ」
隆は気がついたように瑞希の頭を撫でる。
「瑞希の絵も幼稚園から帰ってきたらお家に飾ろう。公民館で飾ってもらったもんね」
「あの時の写真はどうしたっけかな。現像はまだだっけ」
隆が仰向いて思い巡らすと、
「わたしが現像したよ。家に戻ったら見てみようか。隆と瑞希のツーショットがあったよ」
「おうちを絵と写真だらけにしようよ」
「ええ?」
隆が笑って瑞希の頭をこづく。いい案だ、と言ってこづく。
「そしたら、ようちゃんにもゆいかちゃんにも来てもらって、おうち美術館するの」
「おうち美術館かあ。みんな来てくれるかなあ」
巴は苦笑いしながら腕まくりをしてやる気をみなぎらせる。
「いいねえ。おうち美術館。不思議の国へようこそ」
「瑞希がたくさんかくからね。お姫さま、かくからね」
「じゃあ、ママが怖ーい魔女を描くよ」
「瑞希、王子さまも描いてお姫さまを助けるんだ」
隆が瑞希の腕を取って力こぶを作る。瑞希の発案を元に巴と隆は美術館みたいな家を作る計画を夢物語のように話して店を後にし、家に戻ってからも尽きずに話しては日が暮れていった。翌週、巴の絵の美術館からの搬出は巴だけで済ませ、巴はしばらく展示された自分の絵に向かって、お疲れさまと額縁の裏側を撫で上げ脇に抱えた。美術館を後にすると、何度も見上げた美術館をまた仰いだ。真上を覆う曇天は重い雨粒を携えている。黒や灰色の雲に向かって清々しい気持ちを向けた。秋の一瞬にして変わりゆく空は雷のどろどろという音を遠くまで響かせる。時折吹く強い風に落ち葉が舞い散る。巴の髪がふわりと持ち上がって、頬に落ちていった。梱包された絵を脇に、雷を避けるように、車に乗り込む。巴の手に打ち付ける雨粒が、その上で弾いて滑り降りていった。
巴の陣痛が始まって二時間が経過していた。陣痛を記録するアプリにその間隔を記すと巴はスマートフォンを机に置いた。隆にはいち早く連絡して、三時の瑞希のお迎えを隆に頼むと、今度は巴は実家の母親に電話を掛けた。今日の夜には母は父親に送られて巴の家には着くはずだ。しばらくは実家の母に瑞希の世話をお願いすることになると頼むと、母は、お産、がんばんなさい、と巴に明るく笑った。
トイレに入ると、おしるしがあるのを確認する。お腹はかちんこちんに硬くなっている。巴は陣痛の合間を縫って、お昼ごはんを食べる。口に食べ物が入っている最中にも陣痛は襲い、そのたびに巴はスマートフォンを手に取った。陣痛の襲う時間はまだ不規則で、巴はひとりきりの部屋で、痛みを逃す。
巴は入院バックを自分の方に寄せて、それを抱くように覆い被さる。ひとりで心細くもなりながらも、瑞希を昼間の今の時間だけでも園で預かってもらえるのをありがたくも思った。隆からは時々連絡があるものの、仕事の都合をつけることに奔走しているだろう隆を思って、巴は出産の時までひとりでやりすごすことを隆に告げる。やがて隆からの連絡が途絶えがちになってくると、やにわに陣痛の間隔も短くなってきて、痛みの時間は長くなってくる。それでもまだ産院には連絡するのはまだ早いだろうからと、巴は強くなってくる痛みに息を殺すように耐え続けた。
三時に隆と瑞希が家に帰ってくると、隆は俯く巴の肩に手を掛けた。隆の手が乗せられると、巴は顔を上げて、黙ってスマートフォンを隆に渡した。
「なあ、巴。もういいんじゃないのか? ほら、もう十五分おきだろう」
隆はスマートフォンをタップしながらおろおろしたように話す。
「うん…なんだか瑞希のときより早いような気がして…」
「だって二人目だろう。お産も早いんじゃないのか?」
「うん…そんなことを看護師さんも言っていたような…」
「そうだろうと思うよ。電話してみようよ」
「うん」
巴が産院に電話している脇にぴたりと寄る隆は、スマートフォンに耳をあてる。巴は隆から離れるように立ち上がると、はい、はい、と応対し電話を切った。隆を振り返ると、
「もう来て下さいって」
「ほら、やっぱりそうだろう。おい、瑞希。ちょっとおいで」
隆が瑞希と話している間にも陣痛が襲う。巴は瑞希から離れて、息を大きく吐き出す。ふーふーと息を吐いて、お腹を擦る。瑞希が寄ってきて、ママ、と巴の隣に座る。
「ママ、どうしたの?」
巴は息を長く吐き出す。ううう、と声が漏れる。隆は入院バックを手に取ると、なにも言わずに瑞希を抱き上げ、
「さきにチャイルドシートに乗せてるから。痛くなくなったら車まで歩いておいで」
「ううう…ん」
瑞希は、ママは? ママは? と言いながら隆に抱かれて玄関に連れて行かれる。ママは? ママも来る? と涙もにじむ声に、巴はつい涙の粒をこぼした。巴は玄関まで歩くと、
「ママ、赤ちゃん産まれるからね。みずちゃん、送ってね」
と瑞希に笑う。
「生まれるの? 赤ちゃん?」
瑞希の手がお腹に触れて巴は落ち着くように、うん、と答えた。
「瑞希、ママを病院に送ろう」
巴は車に乗り込むと長い痛みが襲う。ふーふー。長く吐き出していると、
「陣痛の間隔が短くなってないか? アプリは継続してる?」
「もう…いい。うううんん…」
隆がエンジンを掛ける。瑞希がなにかを口ずさんでいるのに気づくと、巴は顔を上げた。「おめーでとーう、おお、マリア。神の御前にーおとーこの子どーもを~」
「ああ。降誕劇の…」
「すみれ組のなっちゃんが歌ってたよ。なっちゃんはガブリエルだよ。こわーがるーことーなど、どこーにもーないのだ~」
瑞希の歌声は隆のはやるウィンカーの音と混じって巴に届く。巴はセーターの姿のまま、こめかみに汗を滲ませてコートをぎゅっと握りしめた。あっという間に着いてしまった産院の駐車場に巴は降りると、隆が後部座席に回ってきてバックを抱える。チャイルドシートから降りた瑞希はまだ歌を歌っている。
「今日も降誕劇の練習をしたんだね」
巴の背中に汗が滲んでいる。
「そうだよ。もうすぐページェントだよ」
「ママも見に行けるかな」
「ママ、来てね」
瑞希が巴のセーターの裾を握る。
「今日は元気な赤ちゃんを生むからね」
それから巴は受付を通って、二階へと案内される。二階にあがるのは瑞希を出産したとき以来になる。隆と瑞希は手をつなぎながらエレベーターに乗り込む。巴も続く。それから巴だけ陣痛室に入ると、巴は出産の際のガウンに着替えた。内診の準備のため、巴はベットに横たわる。
助産師と先生が巴のいる陣痛室へと入ってくる。やがて先生から触診をされると、
「子宮口八センチだね。もう分娩室入ろっか。すぐ生まれるよ」
と言う先生の言葉に驚く巴は、
「え、え」
と息が漏れる。すると陣痛がまた襲って、巴の顔が歪む。
「ふーって息吐いて、ふー」
と助産師が腰を撫でる。
「そう。上手ですよ。ふー」
「ふーうう…」
「分娩に入ります。ご主人にもそう説明して」
はい、という助産師が出て行く背中を見つめて、巴は分娩室へと移動する。巴は分娩台に横になるとすぐに看護師から点滴をされ、左腕はテープでぐるぐる巻きにされた。看護師に囲まれているうちに、途切れなく陣痛が訪れる。痛みを逃して長く息を吐いていると、助産師に上手ですよーと声を掛けられる。
「痛みに強いね。落ち着いていていいですよ」
「はい」
「旦那さんに水を持ってきて貰ったからね。これ、力水だよ。元気な赤ちゃん産むのに大事な水だよ」
入院バックに詰めて置いた水は巴が多めに用意したものだった。ストローに口をくわえて一口こくりと飲む。唇がかさかさに乾いていて皮が捲れ上がっているのを、巴は舌で舐め取ると、ふうと細く息を吐いた。乾燥した空気に硬くなった皮がきりきりと染みていくとまた巴は口を結んで硬く閉じた。ほとんど休みなく訪れる痛みに助産師が腰を撫でてくれる。ほとんど魔法の手のように思える擦るその手を頼りに、巴は呼吸をどんどん乱していく。横向きに倒れた巴の体はよじれてベッドの上でうなり続ける。
「大きく息を吸って、赤ちゃんにも酸素を送り込んであげる感じでね。いいですよ。とっても静かな産婦さんだね」
巴としては声も出ないにすぎない陣痛の波に、ただひたすら我が身を痛くないように呼吸を深くしてじっと耐えた。
「またちょっと触診するね…」
助産師の手が伸びると巴は身を竦める。こんな時の度胸をどこで自分は手にしたのだろうかと、瑞希の時も思ったのだった。
「もう全開大だね。出産の準備を始めるね」
そう言って分娩室は慌ただしくなる。巴の脚は持ち上げられ、シーツに覆われて腰から下の様子が見えない。仰向けの体勢にさせられた巴は途切れない痛みに唸った。
「破水させます」
その瞬間、大量の温もった水が脚の間をかすめていく。巴は不安がよぎると共にいよいよなのだと下唇を噛んだ。痛みは最高潮に達していく。破水する前とは雲泥の差に、巴は全身を覆う痛みに耐えた。堪えきれず、
「まだいきんじゃだめですか…」
巴はすがるように声を絞り出す。
「いきんでもいいよ。息を大きく吸って呼吸を止めて。ここのレバーを握ってね」
助産師の声に合わせて長く下半身に力を込める。息が途中で途切れて、ぷはあっと声が勢いよく漏れる。赤ちゃんはまだ出てこない。痛みが続く。
「はい。息吸ってー、止める。うううんー。できるだけ長く止めてー」
声にならない声で唸る。顔が強ばってくると、
「あ、違う。下半身に力を入れるの。顔に力が入ってる」
巴はやり直す。もう一度息を吸い込むと、下半身に意識を集中させる。
「もうちょっと、長くいきんで。息つぎ我慢。うううんー」
巴は大きく息を吐くと、はあはあと呼吸を荒げた。痛みは続いていて、仰向けのお腹が重い。
「大きく、息を吸い込んで、長くいきめるように、大きく吸ってー」
助産師の声に合わせるものの、巴はひとりきりでの戦いに心細くもなる。腰にのしかかる赤ちゃんの重みに途方もない気分に落ち込ませる。隆はどこだろう、隆に立ち会って貰いたい、そう思いながらも、瑞希と一緒にいるだろう隆を呼ぶわけにも行かず、くじけそうにもなる。巴は声にならずいきみ続ける。
「あ。頭、見えてきたよ。髪の毛見えてる」
「ああ、もうちょっとだ…」
「そう、もうちょっとだよ」
水を一口飲み込むと、巴は仰向いてレバーを握る。手に力を込めると息を止めて唸った。押し出すように喉の奥を震わせ硬直させると、
「あ。いきまないで。はっはっ。息を吸って」
巴はえ、え、と思う間もはっ、はっ、はっ、と短く呼吸すると、
「でてきたよ」
早かった。もう会えるんだ、という感慨と共に胸に湿った感情が持ち上がってくる。産声は巴に安らぎを与えると、分娩室を満たし、その慌ただしさに寄り添う。巴の胸の奥でこだまするように波打つその産声に全身が浸っていく。痛みが剥がれ落ちて、訪れる休息に呼吸をするにつけ歓喜に奮いたった。
「男の子だよ」
その間にも先生が分娩室に入ってくる。先生は手袋を嵌め、巴に笑いかけた。
「昆さん、今回は安産だったねえ。初産は難産だったけど。おめでとうございます」
「おめでとうございます」
とりあげてくれた助産師が先生に続く。
「三千百グラムだよ。ほら、ご主人来てくれたよ」
「巴。おつかれさま」
そういって隆は寄り添うとぼろぼろと涙を流しながら巴の分娩台にひざまついた。
「あれ、隆。瑞希は? わたし、泣くタイミング、逃しちゃったな」
「瑞希はお義母さんと。ああ、巴…おつかれさま」
隆は鼻を大きくすすり上げる。
「赤ちゃんを胸に。カンガルーケアね」
カンガルーケアをバースプランに入れていなかった巴は戸惑いながらも、
「はい」
と胸元に置かれた赤ちゃんをのぞきこんだ。その温かくて思ったよりも赤ん坊の重みを感じる巴は、
「うーん。体つき、しまってるなあ」
と隆に向けて笑った。
「男子だからな。たしかに瑞希の時はもっとふんわりしてたな」
「陸上とか。水泳とか。野球とか。バスケとか」
「巴が元気でよかった。ほんとうにありがとう」
「私、助かったんだーって思った瑞希の時と、なんて早かったんだーって思った今回のお産と」
隆はいつまでも涙をにじませている。巴はつい笑ってしまった。それから巴は初乳を与えた。バースプランのなかでも特に重要視していた巴のかねてからの願いだった。看護師に支えてもらいながら、体の体勢を整える。多分、まだ乳は滲んでいないだろうと思いながら、乳首を赤ちゃんの口元に寄せた。赤ん坊は小さな口をすぼめながら巴の乳首を吸った。思ったより力強い吸い付きにお産での体が萎縮するように痛むと、巴は抱く手を強め、赤ちゃんの口元にじっと見入った。規則的な口の動きに合わせて吸われていく乳首は、その口から離れると、黄色い汁が滲んだ。巴はもう一度赤ん坊に乳を含ませると、今度は力強く規則正しく吸われていった。
「初乳、どうかな。ママの免疫いっぱいもらってね」
助産師は赤ちゃんに向けて笑いかける
「ありがとうございます」
隆が代わりにお礼を言う。
やがて赤ちゃんの口から乳首が離れるとその腫れぼったい瞼は真一文字に閉じられて穏やかに眠る。臍の緒でつながっていた巴と離れて、巴とは別の顔、別の体で生まれてきた赤ん坊をまじまじとみつめた。巴とは苦しみも楽しみも別々に訪れ、これからの固有の経験に、思わず寂しさが持ち上がるのを巴は堪えた。共に感じてきた感情は、この赤ん坊特有のものとしてプレゼントされ、生まれてきたのを巴はまるで受難のように感じられてしまう。途方もない旅の舵取りをしていかなくてはならない子を思って、巴は萎縮した。かと思うと、瑞希との毎日を思い出し、その日常は確かにそれぞれに保証されていて、類い希な経験に感謝もしたい気持ちでいたのだったと自分を奮いたたせた。巴は瑞希との日常を慈しんでいた。それは隆と瑞希と出会って初めて知った感情だった。巴は赤ん坊との甘さの日常を今日これまでに惜しんで別れを告げた。一緒に夜明け前に描いた一枚を、この子との特別な思い出として胸中にしまい込み、いま、カンガルーケアで胸の鼓動を共にしている我が子に、あの時、制作していった数ヶ月を反芻するようだった。
分娩台の上で、巴はいま自分はたった一人になったのだと自覚した。胸を押し上げてくるむかつきや、お腹を張り出してくる胎動、石のように硬く張っていた時もあった妊娠期間は急に終わりをつげて、しぼんだ腹部はしおれた風船を思わせた。ひとりきり、分娩台に休んでいると、表皮のみが自分に残された自分自身のようにすら思われてしまう。表皮は間延びして分娩台にだらしなくびろんと横たわっているかのように…少しずつ回復していく体は一ヶ月後には、産褥期も明け、増えた赤ん坊の体重とともに巴も以前の元気な巴に戻っていくことができるのだろうかと天井の柔らかな照明を見上げた。冬の厳しさを迎える十二月の夜空を彩る星に歓迎されているかのように感じられる日の出前だった。
産褥期で家で休息中の巴を思って戸谷が降誕劇のビデオ撮影したのをDVDに焼いて譲ってくれたのは、降誕劇があった土曜日の翌週末のことだった。降誕劇のある日は、隆も出勤で、出勤前の隆に連れられて瑞希だけで登園した。戸谷の映したビデオは手ぶれがひどく、それでも年少の席近くに陣取って撮影できたおかげで、年少の子たちや瑞希の様子はしっかり撮れていて、巴は戸谷に丁寧にお礼を言った。戸谷は笑って、出産のプレゼント、と言って産後の巴を労ってくれた。
瑞希は戸谷の撮ったDVDに合わせて自分の出番の歌を歌ってくれた。聖歌隊のコッターを着て、後ろに手を組んでお行儀よく歌う瑞希を見ていると、夜泣きで眠れない重くもたげた頭が癒やされていくように思った。巴は適当に縛った髪に手をやると、もう一度縛り直し居住まいを正すとぱちぱちと瑞希に拍手を送った。巴は授乳しながら何度もこのDVDを見る。瑞希はその度に歌ってくれる。
その夜、巴が赤ん坊の雪人のおむつ替えをしていると、その隣で瑞希が怒ったり泣いたりしながら地団駄を踏んでいる。その隣で隆が畳に手をついて遠巻きにみつめている。巴はおむつのテープを引っ張って、丸めると、おむつペールの蓋をもちあげてそれを放った。外では雪が吹雪いているようだった。窓ガラスが、打ち付けられる雪に揺れる。
「なんで泣いてる?」
隆が瑞希をのぞきこんでいる。
「なんかね、その磁石」
「磁石?」
隆が巴を見上げる。
「磁石がね、くっつきあったり、反発しあったりするのが、自分の思い通りにいかないって」
「そりゃ難儀だ。物理の法則を前にして自己の無力感を感じたわけだ」
「ほら、磁石に磁石を近づけると、逃げるでしょう? かとおもうと、ひっくり返って、くっついちゃうでしょう?」
瑞希をおぶっているような重圧感が、巴の顔面をくしゃくしゃに歪ませる。瑞希はまだ泣いている。
「瑞希にしてみたら、ただ隣り合ってそこにいてほしいだけなのにね」
「それじゃ、磁石に申し訳が立たないだろう。磁石なんだから」
「生きづらいじゃない」
「生きづらいって磁石の話だろう」
「そう。磁石の話よ」
それから巴は雪人をベビー布団に寝かせたまま、瑞希を抱きしめた。瑞希の鼻の両方から鼻水が垂れていて、流れた涙と混じって一緒になって瑞希の顔を濡らしていた。巴はティッシュを寄せるとそれを引き抜いて瑞希の鼻の下を拭った。瑞希は磁石を手から離して、巴の肩を握りしめた。巴は磁石をもと入っていたケースに収めると引き出しにしまった。瑞希はじっと巴の手を見つめている。
巴に抱きついたままの瑞希は、離れないとでも言ったように巴の腰に手を回して彼方をみつめている。おやつにする? と言う巴の声はまるで届かないとでも言ったように瑞希は手に力を込める。隆が瑞希の頭に触れて、撫でてあやしている。巴は逃れたいように、腰に回された瑞希の手をこちょこちょとくすぐるも握られたこぶしは小さな硬い石のようにまるで動かないのだった。