第1話
『今夜も夫は来ない。
私がこの国に嫁いで一年。夫はディオスバルス王国の王太子。そして、夫には愛人がいる。それを知ったのは嫁いで三ヶ月経った頃。愛人――夫の愛する方は夫の従姉妹であり公爵令嬢であるシルビア様。とても美しいその方を夫は幼い頃から愛していたという。
私とは政略結婚で表面的には王太子妃として立ててくれているが、それでも夜のお渡りがだんだんと少なくなり、日に日にシルビア様が第二妃になるのではという声が城内で大きくなることに心を傷めない訳ではない。
お二人からすれば私こそがお邪魔虫なのだろうが、それでも夫の心を手に入れることも出来ず、笑顔を張り付けてこれから先何十年も過ごさねばならないなんて、さすがに辛い。
ああ、私はこれからどうすればいいのだろう。
どうすればこの孤独から抜け出せることが……』
「おい」
『ああ、どうすれば……』
「おい、フィンシア」
「おお、神よ……って、ええっ!!??カイル様!?どうしてここに!?」
夫――カイル様が後ろに立っていたことに気付いた私は慌ててノート(ネタ帳)を隠した。
「どうして、って、それ一週間ぶりに帰って来た夫に言う台詞か」
ノートに覆い被さっている私に夫が冷たい視線を送る。
(ああ、そんな目で私を見るぐらいなら、シルビア様のところに行けばいいのに)
思わず可愛くないことを思ってしまう私はさらに恨みがましい台詞も口に出してしまう。
こんなことだから夫に愛されないのね。
「だって、ここに来るなんて思わなかったものですから……」
恨みがましい台詞に夫が小さくため息を吐いた。
「ここは俺とお前の寝室なんだぞ。ここに来なきゃ俺はどこで寝るんだ」
呆れたように『どこで寝るんだ』なんて言う夫の言葉に私の心はズタズタになる。
(どこで、って、そんなの決まってるじゃない。貴方の寝る場所はいつもシルビア様の……この一週間だって、ずっとシルビア様のところに行っていたんでしょう)
そう責め立ててやりたいけど、それじゃあまるで妬いているみたいで言いたくない。
だから、また嫌味っぽい言い方しか出来なくて……
「ここではなくてもカイル様は他にも眠る場所がおありでしょう。この一週間だってそこでお過ごしでしたのでは」
「……どういう意味だ」
カイル様の声に少し怒気が含まれる。
内心、怒らせてしまった、嫌われてしまったとドキドキするけど、それも素直に伝えることが出来ない。
「無理にここに来ていただかなくても……という意味ですわ」
「フィンシア、お前……」
(って、この展開いい!浮気してる夫に素直になれない妻。これは絶対にウケる!!
うわあ。この展開の続きを直ぐに書きたい!
でも、カイル様が帰って来たのにそれは無理ね。仕方ないから明日書こう。この展開を忘れないようにしないと)
私は渋々ノートを閉じた。
後ろを振り向くと、夫が軍服を脱いでいるところだった。
「一週間も留守にして悪かったな。今回の魔物討伐は数が多くて時間がかかって。……寂しくなかったか?」
悪かった、とか、寂しくなかったか、とか、やけに気を遣って。これって、浮気をした罪悪感からきてるのか誤魔化そうとしているのかのどちらかね。
そんなに気を遣わなくても私は一向に気にしていないのに。
一週間前、カイル様は魔物討伐だと言って、ゼルマーノ――シルビア様のご実家である公爵家の領地に赴いた。
魔力の強いカイル様が魔物討伐のために各地に赴くのはしばしばあること。
でも、今回の討伐は違うと思う。
魔物討伐と言って、本当はシルビア様と不倫旅行していたのだと思う。
わざわざ魔物討伐という大義名分を掲げ、魔物討伐部隊の第三・四部隊を連れて出掛けていった、この用意周到さ。
さすが浮気のプロ。
見事です、カイル様。
そして、不倫旅行隠蔽工作に協力させられた部隊の皆様もご苦労様です。
茶番に付き合わされた部隊の皆様に手を合わせながら、私は小説の続きを考える。
カイル様は不倫旅行がバレてないと思っているみたいだけど、こんなとき、夫の優しい言葉に素直になれない妻はどうでるのか。
一発触発みたいな展開もいいかと思ったけど、こうして夫の嘘にほだされてギリギリのところまで引っ張って最後にドカーンと捨てられる展開もいいかもしれないわね。
頭の中で色んな展開を考えている私はカイル様の存在をすっかり忘れていた。
「……フィンシア、聞いているのか?」
カイル様に声を掛けられてハッと我に返る。
「あの…申し分ありません。え、と、なんでしたっけ?」
聞いているのか?と問われれば、聞いていませんでしたと答えるのが正解。
でも、それを正直に答えるのは出来なかったので、もう一度言ってほしいと遠回しにお願いしてみる。
「……いや、別に大したことてはないんだ。気にしないでくれ。
じゃあ、俺、風呂に入ってくるから」
少ししょんぼりした感じでカイル様は浴室に消えていった。
気にするなと仰ったけど、あんなに哀愁漂う背中をされるとちょっと気になる。
カイル様、何を言ったのかしら?
* * *
一週間ぶりの我が家。
魔物討伐を終えて急いで帰ってきたが、妻はまた書き物に夢中で俺が部屋に入っても気付かなかった。
何度か声を掛けてようやく気付いてもらえたが、俺の顔を見て『えっ、何でここに?!』みたいな顔してたよな。しかも、「お帰り」の一言もなくノートを隠すので必死だったし。(ちょっと酷くないか)
その後もどこか上の空で、俺が『一緒に(風呂に)入らないか』と誘っても無視されたし。(一瞬心が折れそうになったけど、よく考えればフィンシアはもう入浴済ませてるよな)
フィンシアと結婚して半年。
政略結婚だったけどフィンシアは控えめで優しい性格で、俺は一目でフィンシアのことが好きになった。だから、寂しい思いをさせたくなくて急いで帰って来たんだが、もしかして、帰って来てほしくなかったのか。
実は俺がいない方が羽を伸ばせるとか。
嫌いとか言われた訳じゃないし、露骨に避けられてる訳でもないけど、何というか壁を感じるというか一線引かれているというか、そんな感じがする。
書き物をしている時が一番楽しそうだし、俺のこと本当は……あんまり……好きじゃない……とか……。
いやいやいや、それはマイナスに考えすぎだ。
特に嫌われることをした覚えもないし、まだフィンシアが俺に慣れてないだけだ。
よく考えれば結婚してからも魔物討伐で城を開けることが多かったし、もっともっとコミュニケーションを取った方がいいのかもしれない。
よし!そうと決まれば、今夜は一週間ぶりの夫婦の夜だ!
待ってろよ!フィンシア!
* * *
カイル様がお風呂に入っている間に少しでも思い付いたネタを書き留めるため、私は閉じたノートをまた開いた。
私の趣味は恋愛小説を書くことだ。
一国の王太子妃の趣味としては少々いただけない趣味なので秘密の趣味というやつで知っているのは実家から付いてきた侍女たちだけ。
そして、今手掛けているのが『孤独の王太子妃(仮)』というタイトルの小説で、これは私自身がモデルになっている。
まさか自分をモデルにするなんて思ってもいなかったけど、政略結婚で夫に愛人がいるなんてネタを有効に使わない手はない。
結婚式の後の舞踏会でシルビア様から『私、カイル殿下とは幼い時からの付き合いですの。よろしくお願いしますわね』と挨拶(宣戦布告)された時はショックというより、キタッーーって感じだったわ。
そもそも、『結婚したい王子様ランキング』で常に三位以内に入っているカイル様に愛されるなんて微塵も思ってなかったし、私みたいな平凡な容姿の小国の王女なんかが妻になってスミマセンって思ってたから、反対に肩の荷が降りたというか、力が抜けたというか、変な言い方だけど……ホッとしたの。
カイル様に好かれようと必死にならなくてもいいんだ…って。
カイル様に恋人がいるなら、私は二人の邪魔をしないようにすればいいだけ。
それに、それをネタにして大好きな恋愛小説を書いてもいいのでは…と、私の執筆意欲がニョキニョキ湧いてきて。
そうして書き始めた『孤独の王太子妃(仮)』が、今まさに自分を顧みない夫に対して反抗しつつある場面に差し掛かっていて、そこで夫に少し優しくされてしまって……
浮気夫の嘘にほだされるか、それとも、さらに反抗するか。
(うーん、どちらがいいかしら)
私が悩んでいると、浴室の扉が開く音がした。
カイル様が戻ってくる。
私は慌ててノートを机の引き出しにしまった。
カイル様が戻ってきたらもう小説を書くことは出来ない。
だってカイル様はシルビア様という愛する人がいるのに、律儀にも子作りは疎かにしないのだ。
その辺は結構シビアにお考えなのか、やはり跡継ぎは正妃に産ませようと思っているらしい。
でも、そのネタはきっと大衆にはウケないだろう。
浮気夫と跡継ぎのためにやることはやってます、みたいな展開は生々しく共感してくれないと私は思っている。
それに、いくら小説でもそこまで赤裸々に真実を語ることはしたくない。
あくまで、小説はフィクション。
それが、私のポリシーなのだ。
連絡もなしに早く戻られたカイル様を少し恨みながら、(だって、カイル様とベッドを共にするときは心の準備が必要だから)私は深呼吸してベッドへ足を向けた。
寝室の扉が開く音がして、足音がこちらにゆっくり近付いてくる。
平静を装っているが私の心臓は爆発しそうなほど緊張している。
ああ、平和な一週間が終わってしまった。
これからまた子作りの日が戻ってくるんだわ。
シルビア様とも愛し合って、私ともなんて、カイル様って体力あるのね。
こういうのを絶倫っていうのかしら。
それとも世の男性は二人の女の相手をすることなんて大したことじゃないのかしら。
その辺がよく分からないのよね。もっと情報がほしいわ。
今度、カイル様の側近たちを観察しようかしら。
「何を考えているんだ?」
頭の上から声がして、顔を上げるとそこにはカイル様が立っていた。
上から見下ろされているせいだろうか睨まれているような気がする。
やっぱり今から行う行為はカイル様にとって不本意なんだわ。
そうよね。さっきまでシルビア様とずっと一緒に過ごしていたのに、帰って来るなり愛してもいない妻を抱かなければならないんですもの。
私がシルビア様のことを知らないと思っているから普段は優しく接してくださるけど、こういうふとした仕草や表情に本心が見えてしまうものなのよね。
カイル様は今日は本当は私と一緒にいたくないんだわ。
それに気付かないふりをする。
それとも、私の方からさりげなく避けてみる。
色々考えていたらカイル様が私の横に座ってきた。
ギシッとベッドが軋む。
作りがしっかりしているベッドでも身体が大きいカイル様が座ると少なからずベッドが軋むのだ。
「……何か悩み事でもあるのか?」
思いもよらぬ台詞に私は思わず顔を上げてカイル様の方を見た。
カイル様は私の様子を窺うような顔をしている。
これは、不倫旅行のことがバレたか気にしているってこと?
私が夫の不倫旅行のことで悩んでいると思ってる?
「……いいえ、特に何も」
私は正直に答えた。
だって、結婚式の日にカイル様にシルビア様という愛人がいることは知ったし、今回の不倫旅行も気にしないように……ううん、気にしていない。
「そうか。それならいいんだが。ただ、結婚してから政務や討伐でフィンシアとの時間を取れてなかったと思って。もっとフィンシアと話をする時間を作った方がいいのかと」
こ、これは……いきなりカイル様の態度が豹変した。
これはどういう意味なのかしら?
会話して子作りを回避したいとか、それとも、不倫旅行でシルビア様と喧嘩して妻の方に戻ろうかな、的なやつなの。
はっ、だからこんな夜遅くに帰ってきたのかしら。
そんな…カイル様がそんな変わり身の早い人だなんて……ちょっとショックだわ。
* * *
妻の様子がおかしい。
さっきから何か悶々と考え込んでいる。
ベッドに入る前にゆっくり話でもして、と思ったけど全く会話にならない。
それとも、いきなり「悩み事でもあるのか」なんて聞いたのが悪かったのか。
女性は気難しいところもあって「言わなきゃ分からないの!」と逆ギレすることもあるとレオンから聞いたことがある。
もしかしたら、知らないうちにフィンシアは俺に何かしらのサインを送っていたのかも。なのに俺はそれに気付きもしないでのうのうと「悩みがあったら聞くぜ」みたいな態度をとって余計にフィンシアを怒らせてしまったのか。
どうしたらいいんだ。
今さらさっきのはなしなんて言えないし、なし崩しに押し倒しなんてしたらそれこそ俺は最低の夫だ。
ヤバい。良い解決策が浮かばない。
疲れてるから余計か。
* * *
カイル様が黙ってしまった。
黙るというか撃沈している感じ。
もしかしたらご自分でも何をなさりたいのかよく分かっていらっしゃらないのかも。
そうだわ。きっと、シルビア様と喧嘩したことでご自分を見失っているのね。
しっかりなさってくださいカイル様。
カイル様は素敵な方ですので、シルビア様と絶対仲直り出来ます。
「カイル様。カイル様はとてもお疲れのようです。ですから今日はゆっくりお休みになられてはいかがでしょう。きっと明日は良いことがあります」
私は意気消沈しているカイル様を励まそうと思って、今日はもう休むことを勧めた。
悩んだ時は寝るに限る。
そして、頭をスッキリして人生の困難に立ち向かうのだ。
って、恋人と喧嘩したくらいで困難って大袈裟かな。
でも、私という障害がある以上、たかが喧嘩されど喧嘩。カイル様とシルビア様にとっては大きな問題なのかもしれない。
「すまない、フィンシア。俺はフィンシアのこと何も分かってない不甲斐ない夫だ」
初めて見る弱気なカイル様。
それだけシルビア様はカイル様にとって大きな存在だということなんだ。
「いいえ、カイル様。カイル様は不甲斐なくなんてありません。とても立派な方です。そんなカイル様のこと(シルビア様は)大切に思って……」
「えっ?!大切!!本当に?!」
「え、ええ…そう思いますけど……」
突然元気になったカイル様に驚いてしまう。
そんなにシルビア様に大切に思われていることが嬉しいのかしら。
「そうか…いや、もしかしたら一線引かれているかもって気になってたから。でも、よかった。そうか、ちゃんと大切に思ってくれてるんだな」
カイル様……シルビア様と喧嘩してそんなに不安だったのですね。一線引かれているかもって、もしかして最近シルビア様と上手くいってなくて、それで、あんな大掛かりな不倫旅行を決行したのかしら。
恋愛って大変なのね。
王族だからって順風満帆って訳にはいかないのだわ。
「カイル様、自信を持ってください。カイル様はとても素敵な方です。(シルビア様が)一線を引くなんてことはありえません。だって、(お二人の)絆はとても強いのですもの」
まさか、自分がシルビア様のことでカイル様のを慰めるなんて思わなかった。
少し複雑な気持ちだけど、これで良かったんだわ。だって、カイル様、とっても嬉しそう。
いつも強気なカイル様が目を潤ませて……潤ませて……って、ええーーー!!カイル様、どうして私を抱き締めているんですか?!
「フィンシア……俺も、俺も大切に思っている。こんな俺だけどこれからもよろしく頼む」
こ、これって、愛人を容認した妻に感激してるってことなのかしら。よろしく頼むって、いずれシルビア様を第二妃として迎えるからよろしくってこと。
ここにきて、ずいぶん展開が変わったわ。
ああ、とうとうその日が来るのか。
泣いて私に感謝するぐらいカイル様はシルビア様のことを早く第二妃に迎えたいと思っていたんだわ。
「カイル様、私、大丈夫です。(シルビア様が第二妃になる日がいつかは来ると)分かっていましたから。だから、気にしないでください」
結局、私は物分かりのいい妻を演じてしまうのね。
だって、好きな人がこんなに喜んでいるのに駄目だなんて言えないじゃない。
愛されていないのに愛してなんて、言えないじゃない。
これ以上、カイル様に嫌われたくなんてない。
だから、私は決して伝えることの出来ないこの気持ちを小説にぶつけるの。
小説の中だけは私の好きなように世界を作れるから。
孤独の王太子妃――小説の中の私はこれからどんな未来が待っているんだろう。