エピローグ【陽光 ―ひのひかり―】
一夜があけて朝も過ぎ、太陽が空の頂に昇った昼間。しかし庭へと続く戸は相変わらず、割れたガラスの代わりに雨戸を閉めてあるので、居間の中は夜のような雰囲気である。
コードレスの受話器を相手に、石之助はソファーにどっかりとあぐらをかき、つるつるの頭をかきながら、もう何十分も説明を繰り返していた。
「だからなぁ、イレギュラーなんだよ。分かったか? 何……? ああ、もういい! お前らでずっと考えてやがれ!」
いい加減飽き飽きしたのか、どうやら一方的に通話を終了したようである。
切った電話を傍らに投げ出し、石之助は舌打ちする。
「ったく……見神の連中ってのは頭が固くていけねえ。発現した神獣の力を確認して大騒ぎしてるだろうと思って、こっちから親切に電話してやりゃあ、そんなことは有りえない、有ってはならないの一点張りで、全然話になりゃしねえ。あっちまったもんは、飲み込む以外に仕方ねえだろうによ。まあ、どっちにしろ電話してよかったけどな。もうちょっで大挙して押し寄せてくるとこだったぜ」
向かいの大輝は苦く笑う。
「すみません、迷惑かけちゃって」
ちなみに今日は、あんなことがあった次の日だし――などという曖昧な理由で、石楠花ともども、体よく学校をサボっている。
石之助は首を横に振る。
「わしは構わねえよ。しかし、あの様子だと連中、近いうちお前のところに誰か差し向けてくるぜ。今電話してた相手は下っ端だからいいが、上の方は……多分、放っておかねえはずだ。まあ細かいことは言えねえが、面倒くせぇことになるのは覚悟しといた方がいい。特に……あの連中が出しゃばって来たら、輪をかけて面倒になるだろうな」
「はい? あの連中――ですか?」
「いや、それはまあ、こっちの話だ。それにしても、神獣の霊性か」
石之助は大輝を眺めてため息をつく。
「淋って女――礼司の一人目の女房は、然るべき時に常世から遣わされ、因果を動かすための魂だってのに、本来あるべきじゃない形でこっちの世界に紛れ込んだんだな。それもあろうことか、人の形でよ。恐らく石落が常世に干渉をした影響で来ちまったんだろうが」
ちらり、テーブルについてコーヒーを飲んでいる礼司を見る。
「どえらいもの相手に子供こさえたもんだよ、てめぇは。ことの重大さを分かってるか?」
「細かいことは、私にはどうでもいいですよ」
父はカップを置き、煙草に火をつける。
「淋さんは向こうで元気にしている……それが分かって、私は嬉しいです。彼女は本当に素敵な女性でした」
「へっ。のろけは余計だ。女房を褒めるんなら俺の娘だけにしやがれ」
石之助は肩をすくめる。
石楠花がキッチンから出てきた。
「ねえ、そろそろお昼ごはん出来るけど――バカシロは、まだどこか行ったっきりなのかい?」
「そういえば朝から姿が見えないね」
父は横目で大輝を見る。
石之助は、ふむと唸る。
「どっかで考え事でもしてるんだろうが……そろそろ誰か、探しに行った方がいいんじゃねえのか?」
そして石之助も大輝を見た。
大輝は戸惑う。
「え――」
気まずい間。
大輝は石楠花の方に視線を向ける。
石楠花は、やれやれと首を振った。
「仕方ないな……大輝、あんた探してきな」
「え、俺?」
「そうだよ。まあ、お前の役目だろうからね。――ただし!」
石楠花は菜箸を、びっと向ける。
「必要以上に甘くするなよ! 見つけたら余計なことせずに、さっさと連れ帰ってくること!」
「厳しいですね」
「全くだぜ」
父と石之助は呟いたが、石楠花に睨まれて下を向いた。
箸を下ろし、石楠花は、はあと溜息をつく。
「……ったく……仕方ないとはいえ、これでも譲歩しすぎてるくらいだよ。今回だけだからな」
ぶつぶつと言いながら、キッチンに戻っていった。
そして。
大輝は父親たちの無言の圧力に促されるように、靴を履き、家を出た。
しかし探すといったって心当たりは無いし、相手は空を飛べるシロである。近くにいればまだ探しようもあるが、隣町や、はたまた他県なんかにいた日には、完全にお手上げだ。第一、何を話せばいいのか――と、それは見つけてからの問題か。
「さて……どうしたもんかな」
玄関先で立ち止まり、大輝は何となく庭を見る。
縁側に、降り注ぐ陽光を受け、長い銀髪をわずかな風になびかせながら、ジーンズ姿のシロが座っていた。
「あれ」
雨戸のせいで見えなかったのか。もしかしたら、ずっとここにいたのかも知れない。
大輝は声をかける。
「シロさん」
「あ――」
シロは立ち上がろうとするような仕草を見せたが、結局、気まずそうに座りなおした。
「大輝か……」
目が合わぬよう下を向く。
大輝もどういう顔をしたらいいか分からず、視線を泳がせながら言う。
「あの――そろそろ、昼飯、出来るって……」
「――そうか」
シロはしかし動こうとしない。
大輝はゆっくりと歩み寄る。
「あの、隣、座っていいですか」
「ん、うむ……」
シロは頷く。
大輝はシロの左隣に腰掛ける。
どこかで鳥が鳴いていた。
高い生垣の向こうを、主婦たちが何やら世間話をしながら歩きすぎてゆく。
シロが口を開いた。
「大輝よ」
うなだれたまま。
「すまぬ……こうして助けられながら……しろはどの面を下げて大輝と対せばよいのか分からぬ……今は、どのような顔をすればよいのか……」
さわりと足下の草がなびく。
長い脚を折りたたんで、かかとを縁側に乗せ、シロは膝を抱える。
「……。石落はな……細かくは分からぬが、この世を裏側より操ろうとしておったらしい……そのために化け物を片端から集めておった」
膝の間に顔を隠す。
「その中には、女怪もいくらかおっての……女怪の見目や体というものは大抵、人を惑わすため、男にとって具合がいいように出来ているのじゃ。ひとたび化生と交われば、生身の女子など相手に出来ぬほどにな。石落はそうした女怪を、牢獄とはまた別の間にそれぞれ囲い、情欲の捌け口としておった。しろは……その中でも、特別気に入られておった」
体を縮める。
「あとは、石落めの話しておった通りじゃ……。出来ることなら……」涙に声が濁る。「思い出したくはなかった……あのような……」
「シロさん……」
大輝はスニーカーのつま先を見つめる。
「その――俺、なんて言っていいか分からないですけど……」
本当に、何を言えば良いのか分からない。かけるべき言葉が見つからない。
結局大輝は黙った。
抱えた膝に顔を埋めるシロと、うつむくだけの大輝。
生垣の向こうをまた、買い物袋を下げた中年女性たちが、談笑しながら過ぎてゆく。
その話し声が段々と遠ざかり、やがて聞こえなくなった頃、大輝は忘れていたことを不意に思い出した。
「そうだ――」
ポケットに手を突っ込み、一本のリボンを引っ張り出す。
赤いリボン。崩れゆく空間から脱出する際、遠くの闇へ飛んで行きそうになっていたのを、すんでのところで掴まえたのだ。
「これ……」
「――?」シロは少しだけ顔を上げる。「……それは」
「持ってきたんです。シロさん、気に入って付けてくれてたみたいだから」
そっと受け取り、シロは――わずかだが、微笑んだ。
「気に入るに決まっておる。これはしろが大輝と共にいる証じゃと、大輝が言ったでな」
「……びっくりするくらい安物なんですけどね」
「問題ではない」
シロはたおやかな手つきで自らの銀髪を一つにまとめ、リボンでしばる。たちどころに、頭のてっぺん近くに、見慣れた巨大ポニーテールが完成した。
大輝は小さな声で、しかし聞こえるように呟く。
「それが無くても、シロさんは俺と一緒ですよ。ずっと――」
自分の言葉に顔が熱くなる。変な意味ではないのだが。いや、知らず知らずそういう意味も含まれているのだろうか。
とにかく。
「ずっと一緒ですから」
「……。一緒……」
シロは静かにその言葉を繰り返す。
大切に、噛み締めるように。
いつの間にか、並んで座る二人の間には、握り拳一つほどの間隙もなくなっていた。
ほんの少し時が止まり、その後にゆっくりと、シロの温かな体が大輝にもたれかかる。
「大輝――」
話す息がかかるほど近く、うるんだ赤い瞳が大輝を見つめる。
「――大好きじゃ」
そしてシロは瞳を閉じた。
まるで、そうすることが定められているかのように。
だからそれは、奇妙なほど自然に。
ほとんど当たり前のように――
陽光の中、大輝は、シロの唇に唇を重ねた。
それは決して激しいものではなく、ただ文字通りに唇を触れ合わせるだけの口付けだった。
ちゅんちゅんと鳥が鳴いていた。
四つ数えるほどの間があった。
やがてシロが目を開け、ゆっくりと唇は離れる。
終わった後、シロは呆けた。
「……はあ」
目をしばたかせ、わずかに戸惑った声で。
「今の……今のは――これが――そうなのか」
夢見心地の面持ちで、震える唇にそろそろと指をやる。
「何と……不可思議な心持ちじゃ……」
一方の大輝は、早くも自らの行いに驚き、慌て始めていた。唇に触れた、柔らかく湿った感触が、遅ればせながら大輝の脳へと届き、激しく混乱させる。
「い、今俺、何を……」
この呟き、相手にしてみれば至極無神経な失言である。
しかしそれは、幸か不幸か、シロには聞こえていなかった。
「ああ――、大輝よ!」
我に返ったらしいシロが、感極まった声と共に、改めて横から抱きついてくる。
「暖かい、暖かいぞ。まるで胸のうちに陽が差したようじゃ!」
「わ、わ」
「手のひらが、指が全て痺れておる。嬉しく、恥ずかしく――これがきすか。しろは今、天にも昇る心持ちじゃ!」
「く、苦し……」
「やはりしろには大輝しかおらぬ!」
「うおあっ!」
大輝は縁側に押し倒された。
上から跨ぐように乗りかかり、シロは狂ったように、大輝の胸に自らの顔をこすり付ける。
「これはもう、好きなどという文句では言い表せぬ! しろはようやく分かった、この気持ちこそが愛情――愛するということか!」
「な、な」
「愛しておるぞ大輝、しろは大輝のことを愛しておる! もう――ああ、もう、切のうてたまらぬ! 今ここでしろを抱き、この身を癒し清めておくれ!」
「うええっ、ちょっと、って――?」
その時、もがく大輝の視界に、あってはならぬ者の姿が入った。
背筋に寒いものが走り、大輝は裏返った声で叫ぶ。
「――ああ! しゃ、しゃくネエ!」
「何じゃと?」
シロは大輝のシャツを脱がしかけたところでぴたりと止まり、大輝の見ている方を向く。
「なんじゃ小娘、そこへおったのか」
そう。玄関の扉の前には、石楠花が立っていた。
ホラー映画に出てくる幽霊よろしく、全く表情の無い顔で、何を持つでもなくぶらりと両腕を下げ、黙ってこちらを見ている。
実に不気味な姿であった。
大輝はシロに組み敷かれたまま、蚊の鳴くような声で問う。
「……、しゃくネエ……その……いつからそこに」
「――ああ、聞きたいかい?」
石楠花はにこりと笑い、優しい声で答える。
「ヒントだけあげようか。そうだね――思わず立ちつくすようなシーンを見た瞬間から、って言ったら分かるかな」
「う……」
大輝は絶句した。
シロは舌打つ。
「夫婦のきすを覗き見るとは大根より太い小娘じゃ。まあよい。そのままそこで、しろたちが愛し合う姿を、一人淋しく見ておるがいいわ」
嫌味たっぷりに笑う。
「何ならもっと近う寄るか?」
ぶちんと何かが切れる音が、少なくとも大輝の耳には届いた。
石楠花が拳を固めて飛び掛かるのと、シロが大輝の上を離れ、縁側から跳躍するのは同時であった。
二人は大輝をよそに庭の中央でぶつかり合い、がっつりと両手を四つに組み合わせる。
シロが悪鬼のごとく牙をむく。これが本物の牙だからひどい。
「いいか小娘よく聞け……今のきすは大輝からしてくれたものじゃぞ……っ!」
「な――」
ぎりぎりと押し合いをしながら、石楠花は縁側の大輝に羅刹のごとき顔を向ける。
「本当なのかよ大輝!」
「ああいや、何というかその、あれは出来心というか」
「で、出来心じゃと!」
今度の失言ははっきりと聞こえてしまった。シロは怒りと悲哀の入り混じった目で大輝を見る。
「大輝は出来心でしろにきすをしたか! 先刻の喜びは、全てしろの一人相撲か!」
「そ、そういうわけでは」
「大輝はしろを好きではないのじゃな!」
「そんな、違っ――好きですよ、シロさんのことは!」
「何言ってるんだ、惑わされるな大輝!」
乙女の怪力妖魔をしのぐ。涙目の石楠花が、ぐぐっとシロの手を押し返す。
組み合いながら石楠花は口惜しげに唸る。
「畜生……ちょっと目を離した隙に、こんな女狐の色香にはまって、キスまで……」再び大輝を睨んで怒鳴る。「大輝! あたしにもキスしろ! 今すぐ!」
「うええっ?」
「うええじゃない! なんでこいつに出来てあたしに出来ないんだよ! あたしのことは好きじゃないからかっ!」
「す、好きだけど、そんなこと言ったって」
「ああもう、ちくしょおぉっ!」
石楠花は半狂乱の叫びと共にシロを突き飛ばし、その上に乗りかかる。
「こうなりゃ間接キスだ! バカ狐、大人しくしろ!」
「な……ち、血迷ったか小娘!」
「やめてくれしゃくネエ、そりゃメチャクチャだ――あ痛っ!」
止めに入る大輝も巻き込まれ、もはや三つ巴の様相を呈す大喧嘩を、いつの間にか生垣の向こうに出来た人だかりと、雨戸を開けて覗く石之助たちが観戦していた。
石之助は静かに簡単の溜息を漏らす。
「……わしの孫、強ぇな」
「私の息子は弱いですねえ」父はやれやれと煙草をふかす。「ああ――サルビアの鉢が……まあ、また買えばいいか」
「しかし実際、坊主はどっちに惚れてんだ?」
「真に恋多きは男なり、ですかね」
「どっちも捨てがたいってか。傍から見ると勝手な生き物だな。おっ、姉ちゃんのシャツが……ああ惜しい」
「まだ子供だというのもあるのでしょうが――」
父は大窓の傍に立ったまま、また薄い煙を吐き出した。
「――まあ、確かに我が子ながら、みっともないですね。……あ」
「あ」
二人は同時に口を開ける。
無責任なほど澄んだ青空のもと、手元を狂わせたシロの平手が大輝の頬を打つ、気持ちのいい音が響き渡った。
〈第一部・了〉