第六章【大輝 ―たいき―】
一
傷だらけになった石之助が家に戻ったのは、石楠花がシロを連れ去ったのと、ほとんど入れ違いであった。
破れたガラス戸は応急的に雨戸で塞がれ、紫の風で飛び散った諸々の物はそのままに、大輝と父、そして石之助がテーブルを囲む居間。
かちり、こちりと時計の音が耳に障る。
石之助は、洗面所にあったタオルで額の血を拭い、重く唸った。
「……間に合わなかった――ってえわけだ」
「お義父さん」
「考えの回らなかった、わしの責任だ」
血に汚れたタオルを膝の上で握りしめ、父と目を合わせることもなく、下を向いたまま、石之助は語る。
「あいつは……石落の野郎は、雷で注連縄が千切れ、縛が解けてからも、ずっとあそこで待っていやがったんだ。自分の魂を収めるだけの器と、術師としての力を持った、あつらえ向きの依代……自分の血を引く石字縛師の肉体がやって来るのをな」
「お義父さんではなく、石楠花が選ばれた理由は――?」
「潜在力だ。あの子は先祖返りといって、わしなんぞより、よほど術師に向いた体質をしている。単に器としてなら格好の肉体ってえわけだ」
「つまり……石落という男は、石楠花の体を乗っ取り、それを使って、この時代で……かつて成し遂げられなかった何らかの目的を果たそうとしているわけですか」
「石楠花の体を乗っ取ったのは、一時的なもんだと考えるのが妥当だがな」
石之助は腕組みする。
「今は石楠花の肉体からゆっくりと力を吸い取り、自分のものにしているんだろうぜ」
「それで石楠花は、どうなります?」
「まあ少なくとも、それで死んだりってことは無ぇ。……しかし――」
ちらり、床を見る。
そこにはシロの吐いた血が、まだ乾くこともなく、生々しく残っている。
「お前らの話を聞くかぎりで……石落があの姉ちゃんを滅ぼさず、自分の元に置いていた理由は、何となく分かっちまったな」
石之助は眉をひそめる。
「数多の人間を食い殺した、その報いだとしてもよ……気持ちのいいもんじゃねえ。考えると反吐が出るぜ」
「――どうしますか、お義父さん?」
「また行くさ」
石之助は、ぐんと立ち上がる。
「眠り石にな。このまま放っておくわけにもいかん」
「……俺も」
大輝は顔を上げる。
「俺も行きます。眠り石に」
「――坊主が?」
「はい」
大輝は、ゆっくりとソファーから腰を上げた。
「俺も行かせてください」
「お前が行ってどうする? 何も……」
石之助はそこで一度黙り、首を横に振った。
「いや……そりゃあ、わしも同じことか。行ってどうすりゃいいのか、わしだって分かってねえんだ」
やけくそのように笑う。
「いいだろ、好きにしやがれ」
「大輝」
見上げた父が口を開く。
大輝と父の視線が合う。
――沈黙の後、父は言った。
「気をつけて行きなさい」
大輝は何も言わず、頷いた。
二
そこは薄暗い板の間であった。
壁の際に並べられた蝋燭が照らす、閉じられた空間。理を異にする世界の中に、ぽっつりと作られた物理空間である。
その中心に、裸にむかれた美しき女怪が、何か寄りかかれるものでも探すように、たった一人、力なく座り込んでいた。
シロは背を丸めたまま、暴れもしなかった。声ひとつ上げなかった。
悲しくも、彼女はとうに知っている。この壁の向こうに、何も無いこと。そこには、認識することも出来ぬ常世の闇が、ただ広がるばかりだということ――ここは常世の牢獄、その別室に過ぎないということを。
またここへ帰ってきてしまったのだ。
「……。帰ってきた、か」
小さく呟く。
その後ろに、すうと石楠花が現れた。
「そうだ、任氏」
シロの細い肩に手をのせる。
「懐かしかろう。お前を縛してからの十年余り……毎夜毎夜、共に過ごした寝所だ」
石楠花の口が、大きく開かれる。
そこから、どぼりと紫の水が流れ出した。おびただしく吐き出される水は石楠花の喉を、胸を、腹を、脚を伝って床へと流れ、そして石楠花の足下から生えるように、ひとつの人影を形作ってゆく。
「……俺も懐かしいぞ、任氏よ。石に封じられている間も、お前の肌は忘れられなんだ」
低い声で語るのは、水から変じた男の姿。
短く刈られた髪に、鋭い目。熊のような肩をした中年の大男――石落であった。身に纏った黒い衣は、古き石字縛師の衣である。
石楠花の体が、支えを失ったように床に倒れる。
石落はそれを見下ろし、ふんと笑う。
「俺に根こそぎ力を吸われ、気を失ったか。まあいい、お陰でこうしてまた、自らを形作ることが出来た」
言いながら、右手を顔の横で開く。手はしゅるしゅると糸のようにばらけ、そしてまた元の形へと戻った。
血肉に頼らぬ体でこそ出来る芸当である。手の形を変えるばかりではない。石落の全身は、石落の思うままに変じるのだ。虎を想うならば虎、鷹を想うならば鷹へ。
術によりこの体になった石落は、もはや人ではなかった。かといって妖怪でもない。怨霊などという不確かなものでもない。体を得た意念。意念が形となった体。人を越えた人――それが石落である。無論――
「これでまた、お前で遊ぶことが出来る。他の妖怪どもを再び集めるのは、その後だ」
にぃやりと笑い、座り込んだシロの裸体に、背後から体を寄せる。
「なあ、俺もそろそろ我慢がならん」
するりと、赤いリボンがほどかれる。
白銀の長い髪が重みのままにこぼれ、リボンは音も無く床に落ちた。
「昔のように――」
白くなめらかな首筋に舌先を這わせる。
「――俺を喜ばせてみろ」
シロは何も言わなかった。
全てを知っているがゆえに全てを諦めた、能面のように動かぬ顔。
ただ、宙を見つめるその目から、ひとすじの涙だけが零れ落ちた。
三
割れた巨石の前に、大輝と石之助は立っていた。
湿った闇。頭上に広がった枝葉の隙間から、月明かりだけが差し込んでいる。
石之助は七枚の札を足下に並べ、両手で印を結ぶ。
「とにかくわしに出来ることはこれだけだ。ここにある常世への入り口を……目に見えるものとする」
ぴしり、ぴしり。
弾けるような音と共に、札が左から順に一枚ずつ、鋭い紫の光を帯びてゆく。
七つの光が立ち上り、巨石の前――ちょうど亀裂の入った前で、ぐるぐると絡み、回り始める。
石之助が何やら早口に唱えている。
みるみる回転が速くなる。
廻る光は紫の光輪となり、そして弾けた。
大輝はその一瞬、目をそらす。
光が止み、ゆっくり視線を戻すと、そこには嘘のようなものがあった。
「……っ! これ……が……?」
眼前にあったのは、大輝の部屋のドアとそう変わらぬ面積の、長方形の漆黒であった。
写真の一部をナイフで切り取ったような。その穴から向こうの景色が覗き見えているような。
――しかしその向こうには、何も無い。
今、ここに広がっている闇とは比べ物にならぬほど深い闇……いや、闇などという生易しいものではない。
無である。
現れたのは、無へと続く窓であった。
力を使い果たした石之助は、がっくりと膝をつく。
「っ……。そうだ……」怖れの笑み。「これが常世への扉だ……分かるか? 向こう側に、こっち側と同じ理屈が、何一つ存在しねえのが。わしらにとっては、何も無いのと同じなんだよ……」
よろよろと立ち上がる。
「だが向こう側のどこかに、あるはずだ……石落の作り出した三次元の空間が……しかし――」
石之助は、常世の扉に手を伸ばす。
その手は、裂音と共に弾き戻された。
「――ぐっ!」
「石之助さんっ?」
「大丈夫だ」
石之助は手を押さえて舌打つ。
「……それより、今ので分かったろう。石落め、扉を内側から塞ぎやがった。繋がりが断たれてやがる」扉を睨む。「物質で構成されたわしらの体は、常世の中を通って、石落の作った空間に辿りつくなんてこたあ出来ねえ……。だから……どうするか……畜生、わしの頭め、考えやがれってんだ」
石之助は歯軋りをした。
大輝は立ち尽くしていた。
闇を――異世界を前に。
「しゃくネエ……シロさん……」
口の中で呟いた、その時。
――微かな声が聞こえた。
大輝は見回す。
「……えっ?」
「どうした、坊主」
「いや、今――」
声。いくつかの声。押し殺した泣き声、消えかけた叫び、そしていざなう言葉。
耳を澄ます。
確かに、聞こえる。扉の向こうから。
大輝は、一歩ずつ、吸い寄せられるように歩み寄る。
「……聞こえる」気のせいではない。「泣き声が聞こえるんです。シロさんが泣いてる」
「坊主――?」
「しゃくネエがすごく怒ってる。それに……この声は……」
「坊主、危ねえ、扉に近づくな!」
「これは……」
大輝は扉の前で目を閉じる。
――大輝。あなたは大輝ね?
懐かしい声。
そうか。
心の中で、何かが繋がった。
「――母さん?」
大輝の目が見開かれる。
左眼に宿った、黄色く激しい光。ざわざわと逆立つ髪。
石之助が驚き後ずさると同時に、大輝は、それが当たり前であるかのように、細い両腕を突き出した。
肘から先が、超えられるはずのない壁――常世への扉をくぐる。
波紋。
何かが引き裂かれるような音と共に、扉から金色の雷がはしった。
空間が歪み、ぐらぐらと揺れる。
地が震えた。空が震えた。景色が震えた。
ここにある全てが震えていた。
石之助はバランスを崩してその場に尻餅をつく。
「な……」
そこにある、有り得ぬはずの光景を見上げる。
海蛇のようにのたうつ雷の中、大輝の体が光を帯び、扉をくぐり抜けてゆく。
世界と世界を隔てる壁を、大輝の肉体が越えてゆく。
「んな馬鹿な……術も使わず――てめえの体を、上位世界の法則に沿って、書き換えてやがるのか……?」
石之助は身動き一つできず、見上げるだけだった。
「小僧……お前、一体……?」
答えなど見つかるわけもない。
そして大輝は消えた。
光は止み、空間の揺らぎはおさまり、あとに残ったのは老人と静寂と夜の音、それから常世の扉だけだった。
四
突然の束縛に驚いて、思わずシロから手を離し、石落は驚きの声を上げた。
「娘――お前、もう目を覚ましたのか」
石落の太い右腕には、石楠花がしっかりとしがみ付いていた。
「お生憎さま……あたしってば、そんなにヤワじゃないんだ。……それとね」
言いながらも石楠花の両足は、まだしっかりと立つには頼りなく、しがみつくことで何とか倒れずにいる状態である。それでも――ぎろりと、間近にある石落の顔を睨みつける。
「いくらムカつくバカ狐でも……あんたみたいな奴に泣かされてるの見ちゃったら、黙って見過ごすわけにはいかないんだよ!」
「……ならばどうする」
石落は右腕を振るう。
石楠花の体は簡単に浮き上がり、飛んで壁に叩きつけられ、落ちた。
「うっ――」
「お前の精気はもうろくに残っておらん。動き、喋れるだけでも大したものだが」
床に倒れたまま睨む石楠花を、鋭い目で石落は見据える。
「それでも邪魔をするのなら、殺すぞ」
「……、最低だ……」
石楠花は床に爪を立てる。
「お前みたいな奴の血が、あたしに流れてるなんて……最低だよ……。お前なんか、地獄に落ちればいいんだ!」
「よく言えたものだ。その度胸に免じて、俺の手で苦しまぬよう殺してやる」
石落の両腕が変じる。
黒い鱗に覆われた、爬虫類のような腕。鋭い爪がかちかちと鳴る。
シロが立ち上がる。
「やめよ……やめよ石落、しろはもう、お前に弄ばれるを拒まぬ! その娘は傷つけず現世へ送り返してやってくれ!」
「何?」
石落はシロに顔を向け、紫に光る両目で睨みをくれる。
裸の胸を押さえ、シロはまた崩れ落ちる。
「う……ぐっ」
「お前は本当に口の利き方を忘れたらしい」
うつ伏せになったシロの背に足を乗せ、石落は言う。
「俺にその身を使って欲しいのならば、それ相応のねだり言葉というものがあろうが。なあ任氏」
「う――」
シロは鼻と唇の端から赤い血を、そして赤い瞳からは透き通った涙を流し、かすれた声で、ゆっくりと、かつて痛みとともに教え込まれた言葉を紡いだ。
「……しゃ……石落、殿……」
この部屋で、幾度も幾度も言わされた文句を。もう決して口にしたくはなかった、思い出したくもなかった言葉を。
「……この」白い背を踏みつけられたまま。「……この……惨めで浅ましき、任氏めを……」
「し、シロ――」
「……どうか……」
「やめろよシロ!」
石楠花はゆかに這いつくばり、泣き叫ぶ。
「お前、大輝のこと好きなんだろ! そんな奴大嫌いなんだろ! 言いなりになんか――そんな奴の言いなりに、なっちゃダメだっ!」
「黙れ、娘」
石落が右腕を、びゅるりと伸ばす。
その手は石楠花の小さな頭を鷲掴みにした。
「あ、あっ――」
石楠花の体が持ち上がる。
そのまま壁に頭を押し付けられ、石楠花はうめいた。
「うああっ!」
「そら任氏、早く昔のようにねだってみせろ。この娘が頭の中を撒き散らす姿は、見たくないのだろうが?」石落は笑う。「お前が人間の娘をかばうとは、なかなかに面白いが――俺の手元はいつ狂うかわからんぞ」
「……う」
シロは更に強く背を踏みつけられ、ごほりと咳き込む。
「こ……この、惨めな……」
床に鮮血が散る。
「惨めで淫らな、任氏めの体を……」
「シロぉ――おっ!」
石楠花の突き出した手が空をかく。
五
夕焼けが景色をオレンジに染めていた。
そこはもう無いはずの、小さな公園だった。確か今では、この辺りはマンションになってしまったはずだ。
誰もいない。何の音もしない。
大輝はシーソーの横にぽつりと立ち、誰かを待っていた。
とても淋しい。
まだ大輝は小さな子供だった。今は四歳か……五歳くらいだろうか。そう、ちょうど五歳の頃だった。
ならばこれは、記憶?
違う。だってあの時は――。
大輝は幼い目を見開いた。
「おかあさん」
公園の入り口からこちらへ歩いてくる、髪の長い、若い女性の姿を見つけて走り出す。
真っ直ぐに、夢中で走り、立ち止まった女性の脚に正面から抱きついて、大輝は柔らかなスカートに顔を埋めた。
離してはならない。
大輝は思う。
もう離してはならない。
小さな手が、スカートをぎゅっと掴む。
大輝の頭に、優しく手がのせられる。
「大輝」
母の声。そう、この声だ。
「ごめんなさい……大輝」
「ぼ、ぼく」
大輝は泣いていた。
「ぼく待ってたんだ。い、いつもここで遊んでたら、おかあさん迎えに来てくれたから」
涙で声が崩れる。
「だから、ここにいれば、おかあさん、ぜったい来てくれるって、ぼく」
「ごめんなさい大輝」
母の声も震えた。
「ここであなたは、ずっと待っていたのね。あなたの心は、ずっとここで――」
「おかあさん……」
「いい子にしてた?」
「……うん」
「お父さんは元気?」
「げ――元気だよ」鼻水をすする。「おとうさん、まだ、おかあさんが編んだセーター、大事にしてるよ。ぼく、知ってるんだ」
「そう……」母は目を閉じる。「礼司くん……優しい子。……変わらないのね」
母の声は、押し殺した喜びと、切ない痛みに満ちていた。
大輝は問う。
「ねえ――おかあさん、これ夢なの?」
「いいえ。夢じゃないわ」
「じゃあ何?」
「ここはどこでもないの。過去でも現在でも未来でもあり……あなたの心と存在と……そして私の存在が、全ての時間とともに溶けあう場所よ」
「――ふうん……」
「ねえ大輝、今、あなたは幸せ?」
「……うん。しあわせ」
「みんなと仲良くしてる?」
「うん。……あのね、おばけのシロさんが今、家にいるんだよ」
「おばけ?」
「そうだよ。きれいな人なんだ。面白くて……ぼくのこと、好きだって言ってくれるんだ」
「そう――」
「こわい人だけど、こわくないんだ。それにね、しゃくネエもいるんだよ。しゃくネエはいつもぼくのこと大事にしてくれるんだ。すごく優しいんだ。怒るとすごいけど……でも、やっぱり優しいんだよ」
「そう……」
母は大輝の頭を、そっと撫でる。
「……じゃあ大輝は、その人たちのことを助けに来たのね」
「――え――?」
大輝は顔を上げる。
「ぼくが――たすけに来た?」
「あなたの強い想いを感じたわ。大事な人たちを救うためにここへ来た――」
母は抱きついていた大輝を優しく離し、しゃがんで目を合わせる。
「その人たちの声も聞こえた。今も聞こえてる。あなたにも聞こえているはずよ」
「声……」
大輝は母の目を見つめながら、耳を澄ます。
「……聞こえる。……泣いてる」
シロさん。しゃくネエ。
「ぼくを、呼んでる……?」
「その人たちの心が、あなたを呼んでいるのよ」
「こころが呼んでる……」
目を閉じる。
感じる。
深い闇の底で、二人が助けを求めている。
身を切られる痛み。
何も出来ない苦しみ。
全てを諦めさせられ、突きつけられた深い絶望。
その中で、二人がなお思う者の姿が。
二人の中にある温かな何かが――自分ならば。
熱い力が胸に宿る。
「――。そっか……じゃあ」
大輝は目を閉じ、言った。
「……俺、行かなきゃ」
まぶたを上げる。
もう大輝は、五歳の子供ではなかった。
小柄な母の目は、もう大輝の目とほとんど同じ高さにあった。
大輝は微笑んだ。
「……母さん、ありがとう。また会えて嬉しかった」
「私もよ」
母――淋は、涙を拭いた。
「私はいつもここにいるわ。そしてあなたと、礼司くんの中に」
「母さん……」
「行ってらっしゃい、大輝。あなたの――今あなたを愛してくれる大事な人たちを、その手で守ってあげて」
「……ああ」
大輝は頷き、そして天を仰いだ。
「今行くよ、しゃくネエ……シロさん!」
左目が光った。
六
こつり、こつりと時計の鳴るリビング。
ソファに腰を下ろし、うつむいていた礼司は、がばりと顔を上げた。
「――大輝――?」
懐かしい幾百の記憶が、突然に体を通り抜ける。
「これは……この暖かさ……淋さん?」
立ち上がる。
どくり、どくりと胸が高鳴る。
「大輝……会ったのか、彼女に――?」
七
常世への扉が、金色に輝いた。
再び、静かに空間が震え始める。
石之助は、じり、と後ずさる。
「何が起きてやがる……」
手の届かぬ場所で、力が動き始めた。
石之助は拳を握り締める。
「坊主――お前なのか?」
八
並んだ蝋燭の灯りのみで照らされた、薄暗い板の間。
その壁際に倒れた石楠花。
腕を怪物のように変形させた、黒衣の大男――石落。
そして。
「何だよこれは……」
着ていたものを全て剥ぎ取られ、石落に踏みつけられたシロは、顔を上げ、血にまみれた唇を開く。
「た――」
信じられぬものを見るような目で。
「たい――き?」
「……シロさん……」
大輝は壁際に目を移す。
石楠花は床にはいつくばったまま、大きな目を見開く。
「大輝――? そんな――どうして――?」
頭から顔に流れている、紅い筋。
「しゃくネエ……」
大輝は、ぎり、と歯を軋ませる。
そして石落を見た。
石落もまた驚嘆の眼差しで、音も無く現れた大輝を見ていた。
「小僧、貴様いつ――どこから入った?」
「……お前、何してんだよ」
一歩、前に出る。
「どうして二人が血ぃ出して泣いてんだ。どうして……シロさんを、足蹴にしてんだよ」
「まさか常世の戸を閉めた術に、何かの手違いでも」
「その足をどけろ!」
大輝は跳躍し、飛び込んだ。
振るわれた拳は石落の不意をつき、正面からその胸を打つ。
石落はシロの背から足を離し、後退した。
「ぬ――っ」
「お前だったんだな!」
大輝は叫ぶ。
「お前が……っ!」
長い髪を散らせて倒れるシロをはさみ、二人は対峙する。
大輝は両手の拳を握り、ぶるぶると震える。
「お前が……そうだったんだな……」
「何が言いたい、小僧」
「……、シロさんは……」
石落を見上げ、今にも弾けそうな感情を理性で抑えながら、ぎりりと睨む。
「シロさんは、俺と初めて会ったとき、俺の手を引っかいたんだ。抱きかかえても、すごく怯えて、暴れて――家に連れ帰ってからも、何日かは……撫でようとすると、必ず一瞬体を縮めたんだ。人の手が怖かったんだ」
「だからどうした」
「お前がシロさんの心を、そんな風にしたんだ!」
睨みながら大輝は膝をつき、シロの肩を抱き上げる。
シロは大輝の胸の中で、その顔を見上げた。
「た、いき……」
涙に滲んだ声。血に汚れた口元。
大輝は一瞬シロの顔を見つめ、そして再び石落を睨む。
「お前みたいな奴に、シロさんを渡すわけにはいかない。この人は――」
大輝は、はっきりと言った。
「シロさんはもう、俺の家族だ」
「何を……馬鹿なことを。下賎な化生が家族などと、戯言にも程がある」
二人を見下ろし、石落は鼻で笑う。
「それにな小僧。貴様は分かっておらんのだ、これの本当の値打ちと、相応の使い道を。――知らぬのならば教えてくれよう」
瞳の奥で、おぞましい何かが揺れる。
「こやつの体はよい。そもそもが男を惑わすための、極上の体だ。味わえども味わえども飽くことがない。しかも、どのような無茶な遊び方をしても、壊れることがないのだ。抱くのを楽しみながら戯れに腹を切り裂こうと、目を抉ろうと、次の夜には元のとおりに治っておる。分かるか? これは真の意味で自由にできる体なのだぞ」
熱い声でシロに言う。
「思い出すのう任氏。気丈なお前が床の上をのたうち、もう殺してくれと泣き叫んだ夜の数々を。お前の涙が、無様な悲鳴が、惨めな言葉で哀願するさまが、俺をなおのこと猛らせた」
くっく、と笑う。
「お前はその浅ましい身で、幾度も身篭っては俺に手間をかけさせたが――いくら流させようと、お前の味が落ちることはなかった……。そうだったな、任氏?」
石落は懐かしそうに語る。
大輝の顔から完全に表情が消える。
石楠花は絶句していた。
そしてシロは――
「う……」
シロは大輝の胸の中で、びくりと体を返して下を向き――嘔吐した。
吐き出されたものが床に落ち、音を立てる。
全てを吐き出し、シロは激しく咳き込む。
「……げ……ほ……」
「シロさん――」
大輝はその体を抱きしめる。
冷えきった細い体から、小刻みな震えが伝わってくる。
耐え切れぬように呼吸が乱れ、背中が痙攣している。
大輝は――唇を噛む。
石落はなおも声を浴びせた。
「さあ、お前の口からも教えてやれ、任氏。貴様がどれだけ卑しく、淫らな化け物かを。俺が教えたことをこの小僧にもしてやるといい。そうすればこの小僧も貴様の」
「ベラベラうるせえんだよ、このクソ野郎」
大輝はシロを優しく寝かせ、ゆらりと立ち上がる。
体を丸めて咳き込むシロから、目を逸らさぬまま。
「分かってんのかよ……自分のしてきたことをよ……」
髪がざわめく。
「この人を……閉じ込めて、お前のくだらない欲のために……」
びりびりと空気が震え始める。
「思い出しただけで、辛くて苦しくて吐いちまうような、酷いことを、ずっと……ずっと、こんな暗いところで……お前は!」
「まだ分からんか小僧、貴様は何も」
「そういうお前はシロさんの何を知ってんだよ!」
大輝の左目が、金色の閃光を放った。
同時に髪が全て逆立つ。
大輝を中心に金色の風が巻き起こる。
石落は仰け反る。
「な……っ」
「――た――いき?」
石楠花はよろよろと上半身を起こす。
「大輝、あんた……」
空間が金色に染まり、動き始める。
どこからか歌が聞こえる。
声無き歌。音階無き歌。常世の歌が。
大輝の言葉、その一つ一つが、全てを強く震わせる。
「お前は知らないだろ……シロさんが、照れると少し目を泳がせること……」
拳がきしむ。
「美味い物食って、美味いと思ったとき、わざわざ箸置いて手を叩くこと……嬉しいとき、細い目が、もっと細くなること……シロさんの、そういう顔や癖なんて……お前は一つも知らないだろ」
頭の中が、熱湯を注がれたように熱くなる。
「苦しんでる顔や泣き顔しか知らないような奴に――そんな顔しかさせられない奴に、シロさんのことを語る資格なんて、無いだろうがっ!」
咆哮のような怒声。
それが、金色の突風とともに、石落に叩きつけられる。
石落の体は後ろへ吹っ飛んだ。
「ぐ……っ、な――」
一度転げ、立ち上がる。
「き、貴様、化生か!」
「石落――っ!」
光に包まれた大輝の額、その中央が、めきめきと変形してゆく。
尖った骨がせり出し――角を成す。
肉に包まれた、一本の角を。
石楠花は呆然とその姿を見上げる。
「大輝、あんた、まさか……妖……?」
石落は大輝から距離をとり、両手を前に突き出す。
「化け物ならば話は早いわ! 術により一息に滅ぼしてくれる!」
石落の前に紫の炎が生まれ、それが次々に文字を形作ってゆく。
「かき消えよ、小僧!」
灼熱が放たれた。
紫の激流が大輝を襲う。
大輝はそれを正面から受けた。
石楠花の悲鳴。
豪炎を片手でかき分け、大輝は――ゆらりと前に出る。
「お前なんかにやられるもんか」
服一重、髪一本燃えはしない。
「俺は二人を連れて帰るんだ」
「馬鹿な――」
石落は、紫炎をものともせず前進する大輝に慄く。
床に手をつき、よろよろと体を起こしたシロも、その光景を見上げていた。
「……大輝……」
涙すら涸れた、赤い目で。
「おぬしは……」
紫炎が尽きる。
石落はじりじりと壁まで後ずさる。
「なぜ――なぜ縛術が効かぬ――貴様は化生では無いのか――? 一体、貴様――」
「……初めて分かった」
大輝は、石落の眼前で歩みを止める。
「憎いよ……お前が憎い。俺の家族を……大事な人の心を傷つけるお前が、憎くて……ブッ殺して、八つ裂きにしても足りないくらい憎くて……もう、どうすればおさまるのか分からない」
静かな声で。
「これが、本当に怒るってことなんだな」
「その魂……まさか……因果を統べる常世の霊性か? 馬鹿な、なぜ現世に――貴様のような小僧に!」
石落の肩が盛り上がる。
びりびりと衣が裂け、黒い鱗に覆われた体が現れてゆく。
「滅ぼされて――殺されてたまるものか!」
しかし大輝はそれを待たなかった。
「俺はもう許せないんだよ――ッ!」
体を覆っていた光がその手に収束し、形を作る。
閃光の大槍。熱い風が吹きすさぶ。
大輝はそれを両手で掴み、一切の躊躇いを持たず、わき上がる力のままに振り下ろした。
景色を揺るがす衝撃が、怪物に変じようとしていた石落の体ごと、眼前の空間を両断する。
「な……」
石落の目が見開かれる。
黒い血しぶき――刹那の無音――そして――
決壊。
物理空間の瓦解が始まった。
混沌が流れ込み、荒れ狂う。
上下左右の概念が消失し、二つになった石落と、石楠花とシロの体が、紙のように浮かんできりきりと舞う。
悲鳴と轟音。
壁が崩れてゆく。石落の体が砂と散ってゆく。
その中で大輝は吼えた。
大輝には見えていた。
あたたかな景色、帰るべき場所――守るべき、小さなもの。
大輝はそして、光そのものに姿を変えた。
十
常世の扉が、突如、轟音とともに弾け飛んだ。
石之助は吹っ飛び、地に転がる。
「ぬ――。……うおっ?」
体を起こし見上げたそこには、光り輝く獣がいた。
鹿のような形をした、しかし鹿何頭分もの体躯を持ち、長いたてがみと一本の角を生やした、筋骨隆々たる金色の獣が。
背には石楠花と裸のシロが、並んでぐったりと乗せられていた。
石之助は、それこそ飛び出さんばかりに目を見開き、年甲斐も無く大声を上げた。
「な、な、何だァ一体!」
腰が砕けて立つことも出来ない。
妖怪とならば、その昔、幾度となくまみえた。しかし、この獣の放つ神々しい光――同じ場所にいてはいけないような、恐ろしい存在感は。
「こりゃ、まさか神獣……麒麟、か……?」
ごくりと唾を飲む。
まばゆい光が段々と落ち着き、やがて、獣の体はみるみる縮みはじめる。
どさり、どさりと石楠花たちの体が地に落ちた。
そして大輝が――獣から戻った大輝が、そこには座り込んでいた。
両手を後ろにつき、間の抜けたため息を吐き出す。
「……はあ。……疲れた」
「な――お前、坊主」
石之助は立ち上がり、あんぐりと口を開ける。
「こりゃあ……一体」
「あ――」
大輝は疲れた顔を石之助に向ける。
「石之助さん、どうも、戻りました」
「どうもじゃねえよ……」
「救けましたよ」
大輝は、傍らに転がる、気を失ったシロと石楠花を見て微笑む。
「二人とも無事です」
「取り返した――お前が……? ――しゃ、石落はどうした」
「うーん……」
大輝は、ごろりと地面に体を倒した。両手両足を投げ出し、枝々の隙間から見える星空を見上げて呟く。
「俺も――無責任だよなあ……シロさんに、人殺しはダメだとか、さんざん言っておきながら……」
「ああん?」
「石之助さん、上着……シロさんにかけてあげて下さい。裸じゃアレだから……」
「お、おい、坊主」
「すみません、俺、もうへとへとで……喋れないです……」
大輝は目を閉じた。
倒れた三人の姿を見下ろし、石之助は唖然として立ち尽くすのみであった。