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第五章【淋 ―そそぎ―】


 一


 殿山家の居間。

 黙って話を聞いていた父は、四人からの説明が終わると、ぬるくなった茶を飲み干した。

「なるほど」

茶碗を置いて静かに言う。

「……そして、お札に封印されたシロさんの力が放たれて爆発。その下がり腕という妖怪が死んだ瞬間に結界は崩壊。余剰エネルギーが外に向けて放たれ――シネボックスも大爆発、というわけですか」

「相変わらず飄々と物事を飲み込む野郎だな。ちったあ動じやがれ」

石之助は三本目の煙草に火をつける。

 父は唸る。

「まあ――色々と言いたいことはあるけれど……まずシロさん」

「何じゃ」

「石楠花の言う通り、他人とはいえ、人を見殺しにするのは良いことではない。あなたの話し振りからして、何かあなたなりの微妙な事情があったようにも思えるが、それだけは覚えておいて欲しい。いいかな」

「……む……」

シロはちらりと大輝を見る。

 大輝はシロの心情を知っていて、しかもそれが自分への想いからくるものだということも理解しているため、どんな表情をしたら良いか分からなかった。

 シロはうつむき、ふうと溜め息をついた。

「しろも何となくは分かっておったのじゃ……これからはなるべく人間を見殺しにはせぬ」

「素直な返事だね。あなたなら、いつか本当に人の心を理解できるよ」

「そうかのう」

「多分ね。服は残念ながら今着ているだけになってしまったが、また買いに行けばいいだろう。――それから、お義父さん」

父は石之助に顔を向ける。

 石之助はソファに深くもたれ、濃厚な紫煙を口から吐き出す。

「あん?」

「こっちへ来るなら来ると、どうして連絡くらい入れてくれなかったんですか?」

「面倒くせぇからな。日帰りのつもりだから宿を借りる必要もねえしよ」

「わざわざお出向きになるほどの御用はなんですか?」

「てめぇらの顔を見に来ただけだ」

「石楠花に術を教え込んだ呪い師であるあなたが、偶然シロさんが現れたのと同じタイミングで、私たちの顔を見に来たわけですか」

「……しっかりした野郎だよ、お前は。まあそういう奴だから娘を任せたんだがな。説明は面倒で好きじゃねえけど、まあいいか」

石之助は苦笑いする。

「そうさな――眠り石の話は、そこの白い姉ちゃんから聞いたか」

「ええ。何でも、石落とかいう昔の人が沢山の妖怪を封じ込めた大岩で、西の山の中腹にあるとか」

「そうだ」

「しかし細かくは聞いていません。その、石落という術師のことも。出来ればお話願えますか」

「うん」石之助は座りなおす。「石落ってのは、わしらの一族でもずば抜けた力を持った人間だったらしくてな。まあ……まさかこの姉ちゃんみたいな大妖怪を封じるほどだとは、わしも思わなかったが」

「油断したのじゃ」

シロは暗い声で言う。

「見くびらず相手をしておれば――あのような者に……」

 石之助は頷く。

「実際そうなんだろうよ。姉ちゃんの妖力は莫大だ。油断でもしない限り、人間にどうこうできるようなもんじゃねえ。……しかし石落が縛師として優れていたのは事実だ。なにせ常世への干渉が可能だったくらいだからな」

「とこよ?」

石楠花が首をかしげる。

 説明したのはシロだった。

「この世の隣にあるのが常世じゃ。しろたちのような妖怪の力も及ばぬ世界のことよ。そこでは、こちらの道理は何一つ通用せぬ」

「全然……理屈の違う世界ってことかい?」

「その説明をすると、ちいとばかり話が反れるが――常世ってのは物質じゃなく、エネルギーと情報の合わさったようなもんで構成された世界らしい」

石之助はガラスの灰皿に、長くなった灰を落とす。

「何、わしらのように脈々と伝わってる術師の家系ってのは、案外色々とあってな。そのうち一つに、神の力を感じられる見神の家系……神を見ると書いてみかみと読むんだが、そいつらに聞いた話さ。ちなみにだが連中は常世を神の国と呼ぶぜ」

「どうしてですか?」

大輝は茶をすする。

 石之助は煙を吐き出しながら頭をかく。

「わし自身はそんなもん感じられねえから何とも言えねえが、神ってのは情報の塊みたいなもんで、常世と繋がってるつうか……端末みたいなもんなんだそうだ。そういう端末がこっちの世界を動かす。例えば……そうだな、麒麟っているだろ」

「麒麟――武帝の時代などに現れたという、最高位の神獣ですか。角のある雄が麒、角のない雌が麟。強い力を持っていながらも気性は穏やかだとか」

「礼司は妙なことまでよく知ってやがるな。そうだ。そして麒麟の発現と共に即位した王は、必ず仁のある政治を行い歴史を動かす。そういう上位の神獣なんかなら人の目にも見えるし、常世が神っていう端末を使ってこの世界に干渉し、因果を動かすいい例ってわけよ。麒麟だけじゃなく、黄帝の前に現れて森羅万象の知識を与えた白澤や、他にその手で有名なところでは、歴史の要所要所で現れる龍なんかがいるな」

「……神の世界か……」

大輝は口の中で呟く。

 石之助は座りなおした。

「えらく話が反れちまった。まあ要するに、それくらいこの世界と理屈の違う、位の高い世界ってことだ。ところがそこに石落は、こちら側から干渉する術――渡りの術を作り上げた。それは石落一代の秘伝で伝承はされてねえが」

「神様の世界に行っちゃう術?」

石楠花の言葉に石之助は軽く首を振る。

「や、そういう感じじゃねえよ。そこの姉ちゃんも言ったろ、常世にこっちの理屈は通用しねえって。こっちからすりゃ、常世は単なる、隔絶された異世界だ。だがその、隔絶されてるってとこに意味がある」

「出られぬのじゃ」

シロがぽつりと言う。

「もがけど、叫べど、いかに強き力を振るえど……そこは、この世ではない」

「そういうことだ。妖怪を閉じ込める牢獄には丁度良いってわけだな。石落は常世のどこかに三次元の空間、要するに現世の出島みたいなもんを作り上げ、数多の妖怪を閉じ込めた。眠り石ってのは、その空間への扉みてえなもんだった。だが最近になって、それに何かがあったってわけだ。そうだな姉ちゃん」

「う――む」

嫌な何かを思い出すような面持ちで下を向いていたシロだったが、話を振られて顔を上げる。

「眠り石は、壊れたのじゃ。雷を受けての。あの中より這い出したしろは、弱っていたところを大輝に助けられ、ここにおる」

 石之助は目を丸くする。

「よりにもよって眠り石に雷かよ。恐ろしい偶然もあるもんだぜ。いや、本当に偶然かどうかは分からねえが」

 父はゆっくりと瞬く。

「なるほど。大体の事情はわかりました。ともかくお義父さんは、その眠り石の異変に気付いて、何が起きたか確かめに来たというわけですか」

「まあ……そうだったんだが、どうやら予想通りにぶっ壊れちまったらしいし、そっちの方は確認するまでもねぇや」眉間にしわを寄せる。「しかし眠り石に関して心配なのは、妖怪のことだけじゃねえ。もうひとつある。だから一応行って、それも確認しなけりゃいけねえ」

「と言いますと」

「ん。そりゃあまあ、こっちの話だ」

石之助は、よっこいせとソファーから腰を上げる。

「じゃあちょっくら見てくらあ」

「今から眠り石を?」

石楠花も立ち上がる。

「もう日が暮れそうだよ」

「どうせすぐそこじゃねえか。何時間もかからねえよ」

「そっか……。――ねえ、あたしも行っていいかな?」

「どうしてだ?」

「見てみたいんだ、その眠り石っていうの。あたしの先祖が作った、そんなすごいもの……壊れてても、ちょっと見てみたいじゃないか」

「ふむ。ま、いいか。ついて来な」

石之助は荷物も持たず、煙草とライターだけをひょいとポケットに入れて、居間の出口に向かって歩き出す。

 しかし、ドアの前で、思いついたように振り返った。

「なあ――白い姉ちゃんよ」

「なんじゃ?」

「映画館であんたが使ったのは、狐火かい」

「そうじゃが」

「銀の髪を生やした、狐の大妖怪ねえ」

石之助は目を細める。

「――あんた、ひょっとして、死んでるはずの化け物じゃねえか?」

「……何のことじゃ」

「いや、あんたが俺の思ってる化け物と同じもんだとしたら、石落は、なんでか嘘を書き記してることになるんだな」

「何の話か……分からぬ」シロはぷいと顔をそむける。「日が暮れるぞ。小娘を連れ、さっさと割れた石ころでも見に行くがよい」

「ありゃ、怒らせちまったか? すまねえな、余計なこと訊いちまったみたいだ」

石之助は頭をかいて、居間を後にし、玄関の方へ歩いていった。

 石楠花はちょっと首を傾げていたが、すぐ我に返り、祖父の後を追って行った。

「待ってよ、お爺ちゃんっ!」

 静かになった居間に残されたのは、大輝と、シロと、父だけであった。

 大輝は、玄関から二人から出てゆく音を聞きながら、ふうと息をつく。

「なんだかややこしい話だったなぁ」

「……しろは――あのような話は、どうでもよい」

茶碗の中を見つめ、シロは言う。

「石落はもうおらぬ。何もかも終わったことじゃ」

静かで、妙に辛そうな声だった。心なしか顔の色が、いつも以上に白く見える。

 大輝はテーブル越しにその顔を覗き込む。

「シロさん……?」

「石落の名など、耳にするのもいやじゃ」

ふわりとシロは宙に浮き、一人で居間を出て行った。

 大輝と父は顔を見合わせるばかりであった。

「なんか……元気なくなっちゃったな、シロさん。あんまり機嫌も良くないっていうか」

「そうされただけの理由があるにせよ、長きに渡り封印されていたというのは、彼女にとっても良い思い出ではないだろうからね。気分が悪くなるのも仕方ないさ」

「うん――」

大輝はしかし、何か引っかかるものを感じていた。

 父は、シロの出て行ったドアの方を見やる。

「まあ――それにしても、確かに少し顔色も悪かったようだな」

「さっき手の化け物と戦ったせいかな……俺、見てこようかな」

「いや」父はソファーを立つ。「ちょっと私が行ってくるよ。彼女とは少し話もしてみたい」

「話……?」

「安心しなさい。息子の奥さんに手を出すような真似はしないよ」

「親父っ!」

「冗談だ」


 二


 住宅地を離れ、駅から反対方向、つまり西の方角に少し歩けば、その山はある。

周囲をぐるりと切り開かれてなお、未だ誰の手も入らぬ、そこに在りながら忘れられた山。今となっては誰も呼ばないが、夜鳴山という名を持っている。

 遠目に見るぶんには一跨ぎにできそうな小山であるが、実際に麓から登り始めてみると、傾斜が急である上に道らしい道もなく、山に慣れた者でもなければ、相当な苦労を要する。それは石楠花も例外ではなかった。

 進むたびにいちいち肌を引っかく雑木どもをかき分けながら、石楠花はぶうたれていた。

「け……獣道ですらないじゃないか……さっきから崖みたいなところ登ったり、草を割って歩いたり……まるで遭難してるみたいだよ」

「お前が来たいと言ったんだろうが」

祖父は、もうすぐ七十に近い老体だというのに、体重を感じさせない足取りで、ひょいひょいと上へ進んでゆく。

「なあに、そんなにでかい山ってわけじゃねえんだ。すぐ着くさ」

「ホントに……? あたし、いつも学校から見えてるこの山が、まさかこんなに険しいなんて――って、ぎゃわっ!」

「どうした?」

「蛇、蛇みたいなのが今、足下を!」

「そんなもんで騒ぐんじゃねえよ。さっさと歩かねえと、いくら何だって日が暮れるぜ」

「だってあたし動物が苦手なんだよ!」

「無理もねえな」

石之助はさらりと言う。

 石楠花は、細い木の一本に掴まって止まる。

「……え?」

「昔、お前があんまり泣き虫だったもんだからよ。わしは心配して、気性の荒い土佐犬のゴンゾウと庭で戦わせて鍛えたんだ。お前が勝つまでな。それから気は強くなったが、どうにも動物が苦手になった。覚えてねえか」

「……それ……あたしがいくつの時だい」

「あの時お前は五歳くらいだっけかな」

「五歳で土佐犬と……死んだらどうすんのさ」

石楠花は怒ることすら出来ずにうなだれた。

 言われてみればそんなこともあったような気がする。その日の夜に襖の陰から見た、母が祖父に茶碗を叩きつけている光景が、ふっと脳裏に蘇る。

 それからも二人は、枝をかき分け、土に爪先を食い込ませ、草木の生え茂った山肌を黙々と登った。

 疲れながらも慣れてきた頃、石楠花がまた口を開く。

「ねえ――お爺ちゃん」

「あん」

「さっき、妖怪以外にも心配事があるって言ってたね。って言うか、今からそのことについて調べに行くんだろ?」

「そうだ」

「それって、何のことだい? 妖怪以外に、一体何が……」

「んむ、実はな、石落自身に関することだ」

石之助は邪魔な枝を横へ払う。

「何から話したもんかな……石落ってのは、確かに優秀な縛師だったが、胡散臭え話も多いんだ。妖怪をこっそり使役していたとか、武家や力のある商人相手に、妙な商売をしていたとかな」

「へえ……?」

「そういう細かい記録も随分あるし、ちょっと考えただけでも、妙なことが出てきたりする。今から見に行く眠り石についてもそうだ」

「考えれば分かる妙なことって、何さ」

「普通、縛師ってのは妖怪を滅ぼすもんだ。字では縛すると書くが、そりゃあ術の性質からであって、結局は、狙った化け物を消滅させる。なのに石落は、わざわざ眠り石に数多の化け物を封じた。生かしたままでな」

「あ――そっか」

「もちろん文字通りに縛するだけの場合もあるが……そりゃあ特別な事情があるときのことだし、そういう場合には大抵、封じた土地に、ひとつひとつ塚でも作って奉ってやるもんよ。何も一っ所に集めておく必要はねぇ」

「何か理由があった――ってことかな」

「さあ、分からねえがな」石之助は倒れた木を飛び越える。「それとよ、さっきの姉ちゃんにしてもおかしいんだぜ」

「バカシロのこと? あいつはいつもおかしいよ」

「そうじゃなくてだ。ありゃあ、ひょっとして、任氏ってやつだろ」

「じんし?」石楠花は記憶をたどる。「ああ……そういえば、会ったとき、そんなふうに名乗ってた気もするけど」

「やっぱりな。髪が白く、別嬪の姿をした強力な狐の化生っていやあ、この国じゃ任氏以外にゃ考えられねえ。もっとも元は中国にいたらしいが」

「ああ、そんなことも言ってたよ」

 石之助は、ふんと笑う。

「任氏か――一応今は大人しくしてるようだが、あちこちに残ってる伝承によりゃあ、男も女も片っ端から食いまくり……そればかりか、老人は肉が固いからって鍋で煮込むわ、妊婦を見つけりゃその腹裂いて赤子を食うわの、おっそろしく残酷な化け物らしいな。しかも実際会ってみりゃ、あの絶望的な妖力だ。いつ機嫌を損ねてぶち殺されるもんかと、内心さっきまで冷や汗もんだったぜ」

「……あたしはあいつ関係じゃ、別の意味でいつも冷や冷やしてるけど。で、それがどうしたわけさ」

「うむ、任氏ってのは、石落が残した記録によれば、さる武家の息子を攫ったことにより、石落のもとに殺せという依頼があって、直後、滅ぼされたことになっている」

「でもあいつったらピンピンしてるじゃないか」

「そこが妙なんだ。石落はなぜ、任氏――あの姉ちゃんを秘密で封じ、生かしておいたのか。それがはっきりしねえ」

「うーん……」

「石落の妙な話は、まだあるぜ」

「まだあるの?」石楠花は思わず笑う。「あたしのご先祖は随分胡散臭い人だったんだなあ」

「そう言うなと言いたいところだが、そうだったらしいから仕方が無ぇ」

「どんな話?」

「他ならぬ石落自身が、眠り石に封じられたって話さ」

「はあ?」石楠花は間抜けな声を出す。「何それ、妖怪でもないのに――しかも、自分で作った牢屋に閉じ込められちゃったわけ?」

「正確には少し違う。石落が封じられたのは、死んだ後だ。それに渡りの術は石落にしか使えねえから、常世の牢に封印は出来なかった」

「どういうことだい」

「石落は死んだ後に亡霊として世に害を及ぼしたんで、息子たちによって封じられたと記録にある。ただし常世の牢獄じゃなく、眠り石そのものにな」

「幽霊になって、石に?」

「霊的な力ってものは確かにあるらしいが、怪談みてえに、幽霊として姿を現したり、現世に干渉できるもんじゃあない。だから亡霊ってのは物の言い様で、恐らく石落は、やはり独自の術と力によって、自分の思念を具現化して残したんだろう。とんだ芸当だが、常世の中に三次元空間を作る術を編み出したような男だ。無理のある話じゃねえ」

「でも、害を及ぼしたって、具体的に何をしたのさ」

「そのあたりは記録に無いな」

「分からないんだ……」

「ああ」石之助は頷く。「考えが及ぶのは、多分息子たちの術で思念体は滅ぼせなかったんだろうってことと、封印の依代に眠り石を選んだのは、眠り石がそれ自体で強い霊的な力を持っていたからなんじゃねえか――とか、まあ、その程度までだな」

「ふうん」

「ほれ、着いたぞ」

 辿り着いたのは山のちょうど中腹、テントを三つつか四つ張れるほどの広さを持つ、平らな足場であった。

 ジーンズの膝についた葉っぱを払いつつ石楠花は言う。

「……で、石落の亡霊がどうなってるか、ここまで調べに来たんだね」

「妖怪どもは逃げたと分かって、それはそれで片付いちまったが、石落の封印の方は、どういう仕組みなのかも見当がつかねえ。解けちまってるかどうかくらい、確かめておかにゃあ気持ちが悪いだろうが」

言いながら石之助は、それを見上げる。

 石楠花も見上げた。

 長く伸びて絡み合う枝々の下、上から下まで真っ直ぐに亀裂が入り、山肌に食い込んでいながら、お互い嫌い合うように左右へ傾いだ、苔むした巨石。

 確かに大きいが、ただ、それだけである。

 石楠花は少々落胆した。

「……これが眠り石……? 普通の、でっかいだけの石に見えるけど」

「ああ、こいつがそうだ。しかし見事に真っ二つだな。どれだけでかい雷が落ちたんだか……」

「常世の入り口ってどこさ」

「そこにあるぜ」

「え? 見えないけど」

「見えるもんじゃない。まあ、世界の裂け目ってのは血に頼って認識できるもんでもねえから、わしや見神の連中がやってるような、特別の訓練が必要だ。お前にゃ分からんよ。もっとも、わしら石字縛師がいくら訓練をしたところで、見神みたいに存在化した神までは感じられねえがな」

「ふうん……?」

確かに何も分からないし感じない。それ以前に、色々な情報が入ってきすぎて、そろそろ頭がパンクしそうである。

 石之助は笑いながら、眠り石に歩み寄る。

「ったく、おめぇは潜在してる力はでかいくせして、術師としては真っ白けだな。今から勉強しなおすか?」

「もう十分勉強になってるって……」

祖父の背に続きつつ、石楠花は力なく答えた。

 石之助は、巨石の足下で、不意にしゃがみ込む。

「この注連縄は――」

千切れた縄を拾い上げる。

「こいつもぶっ千切れたのか。ん――?」

 何やら調べている祖父を尻目に、石楠花は間近で巨石を見上げていた。

「……ホント、ただの汚い岩って感じだけど」

す、と手を伸ばす。

 石之助の叫びが響いた。

「いけねえ! これは石字文句の布で締められた縄だ! 眠り石に触るな!」

「へ?」

ぺたり。

時既に遅く、石楠花の手のひらは、眠り石に触れられたところであった。

 紫の風が巻き起こった。


 三


 二階へ上がると、息子の部屋の扉が、少し開いていた。

 殿山礼司はそのドア越しに声をかける。

「シロさん」

「……義父上か。……入られよ」

「失礼するよ」

礼司はゆっくりと入室する。

 大輝のベッドの上で枕を抱き、シロはその長身を丸めて寝転がっていた。

 礼司はデスクの下から椅子を引っ張り出し、そこに腰を下ろす。

 シロは丸まったまま問う。

「何か用ごとかえ」

「いや、あなたの顔色が悪かったものでね。気分がすぐれないのかな」

「そういうわけではない……」

むっくりと体を起こす。胸に抱いた大輝の枕はそのままに。

「ただ、少しばかり嫌なことを思い出しただけじゃ」

「封印されていたことかね」

「それもそうじゃが」遠い目をする。「――あまり話しとうない。なぜかはしろにも分からぬ。ただ、他の者に――中でも大輝に知られるのが……どういうわけか怖い」

「ふむ?」

「すまぬな義父上。住まわせてもらう身で隠し事など」

「いや、いいんだ」

礼司は首を振る。

 肩を弛緩させ、抱いた枕に高い鼻を埋めて、シロは呟く。

「……心安らぐ良き匂いじゃ」

ふふっ、と笑う。

「しろはよく人の肉を食ったから分かる。大輝の身は、まだまだ幼き童の匂いじゃな」

「まあ、あれは実際、子供だからね」

「そうじゃのう。あのように体も小そうて、大輝はまっこと可愛らしき子よ」

大輝の匂いを満喫するように、シロは枕を抱きしめて頬ずりする。

 礼司はその姿を眺めながら、静かに問うた。

「少々変わった形ではあるが……あなたは本当に、うちの息子が好きなんだね」

「うむ」

シロは枕にあごを乗せ、柔らかな声で語った。

「こうして大輝の匂いに包まれるだけで、ぽかぽかと暖かい。しろは大輝のことが好きじゃ。それより他に言いようのないことが、もどかしうてたまらぬ。それゆえ、大輝のため、この身に出来ることならば、しろは何なりとしてやりたく思うておるのじゃが……」

 礼司がもたれた椅子の背が、きしりと鳴く。

「それは、息子があなたを助けたからかい」

「ん……そうじゃが、しろが大輝に尽くしたく思うは、恩義からではない」

シロは枕に顔を埋める。

「何と言えば良いものか……だんだんと好きになったのじゃ。きっかけなど、今となっては分からぬようになってしもうた。人間の娘のように、この想いを上手に伝える術を、しろは知らぬ。じゃからしろなりに尽くすつもりでおる。……しかしのう」

顔を上げ、ため息をつく。

「実のところ、大輝に何をしてやれば良いのかも、しろには皆目分からぬ。いつまで経ってもしろが甘えておるばかりじゃ」

困ったように微笑む。

「何やら愚痴になってしまったのう。許してたもれや」

 礼司は腕を組み、軽くうつむいた。

「――そう、か……」

「どうした、義父上。しろの言うことが気に障ったか? またしろは間違えておるか?」

「いや」礼司は首を振る。「ただ……あなたは何千年も――我々人間には想像もつかないような、長い時間を生きてきたという。時々、まるで子供と対しているように錯覚してしまうこともあるが、それはただ人間の価値観を持っていないからで……あなたは確かに、永い時を生き、色々なことを見て、知ってきた存在だ。それはあなたの眼差しで分かる。なのに、そんなあなたが、生まれてたった十三年しか生きていないうちの子を、心の底から好いてくれているのだなあと思うと――何というか」

「妙に思うかえ」

シロはまた微笑む。

「何――生きた年などつまらぬこと。無為な百年もあれば、ぐるりと考えの変わる一夜もある。それが証拠に、しろは大輝に拾われてより今までの短い日々の中で、色々なことを学んだ。年月など朝霧の如く曖昧なものじゃ。しろは大輝を好いておる……この想いこそ確かなことじゃ」

「なるほど――」

「どうした義父上、先程より何やら考えておるようじゃが」

「え? ああ、いや」

不意に瞳の奥を赤い視線で射ぬかれ、礼司は戸惑って視線をそらす。

「あなたを見ていると、ある人のことを思い出すんだ。その人も、ひょっとして同じ気持ちで――いてくれたのかな、と」

「誰のことじゃ?」

「ええ……と……だね。いや、あなたが聞いてくれるのなら、聞いてもらいたい話があって、それがつまり、それなんだが……しかし」

礼司は脚を組み、ぶつぶつと言いながら少し迷ったものの、少々の決心と共に、深く息をついた。

「この話は……大輝にもしたことがないんだがね」

「それはしろに聞かせてよい話か」

「うん。まあ、内緒というわけじゃないんだ。ただ、あれに話しても、どうせ信じなかっただろうから、今まで言わなかっただけで。何せ私にも夢のように感じられる出来事で、何というか……その、大輝の母親のことなんだが」

「ほう?」

「変わった名前の人だった。こういう字で……」

デスクの上にあったメモ帳に、礼司はさらさらとその一文字を書く。

 ――淋。

 ぴりりとそのページを切り離し、シロに渡す。

「これで、そそぎと読むんだ」

「ふむ。確かに変わっておるの」

「私は淋さんと呼んでいた。姉さん女房だったんでね」

「いくつ離れておったのじゃ」

「それが――見当がつかないんだよ」礼司は頭をかく。「なにせ、淋さんは私が生まれたときから……いや、どうやらそれより随分と前から私の家にいたようなんだが、その頃には既に、大輝を産んだときと寸分変わらない、二十歳くらいの女性の姿だったんだ。あの人はずっとそのままの年齢だったんだよ」

「ふむ……?」

シロは座りなおす。

「確かに、妙な話のようじゃ」

くん、と鼻をひくつかせる。

 そして礼司の昔語りは始まった。

「――私の実家は、青森の、山に囲まれた村の外れに立つ、小さな農家だった。学校が遠くてね。自転車がすぐに壊れるから、よく家の裏で修理したものさ。辺りは畑だらけで……両親の仕事は、その畑の世話だった。家族は私と、父と母と――それから淋さんの四人だった。あなたも昔の人だから、やっているところをよく目にしたことがあるだろうが、畑仕事というのはなかなか大変なもので、朝から晩まで畑にいなければならない。両親はとても忙しかった。だから私は幼い頃、親にかまってもらった記憶があまり無い。その代わり、家事をやりながらいつも相手をしてくれたのが、淋さんだったのさ」

礼司は懐かしげに微笑む。

「淋さんは――綺麗な人だったよ。あなたのように美人としての迫力みたいなものがあったわけじゃないが、笑顔のとても綺麗な人で……その笑顔を見ると、心が安らいだ。そんなによく喋る人ではなかったけれど、賢くて優しい人だということは、彼女の表情から分かるんだ。穏やかで、いつも静かに笑っていて――でも、悪戯が過ぎたときは、しっかり怒られたな」

「良い者だったのじゃな」

「ああ。寝る前に本を読んでくれたのも、小学校の授業参観に来てくれたのも淋さんだったし、汚れた服を洗ってくれたのも淋さんだった。淋さんはまるで、もう一人の母親みたいだったよ。ただ――そう、ちょうど十歳くらいになり、分別が付き始めた頃から、私もさすがに疑問に思い始めてね。つまり」

礼司は自分の頬をなでる。

「十年の間に私は大きくなったし、両親もそれなりに老けたのに、淋さんだけは同じ姿のまま、少しも歳をとらないんだ。それに気付くと同時に、私はようやく考えるようになった。当たり前のように一緒に暮らしているこの人は、いったい誰なんだろうって――」

窓を見る。

「でも、私はそれを両親にも、淋さんにも聞かなかった。だから今でも、淋さんが何者だったのか、私は知らない」

「なぜじゃ?」

「子供の私でも気付くようなことに、近くに住む大人たちが気づいていないはずはなかった。それに淋さんは私が生まれる何年も前からあの家にいたようだから、その頃からずっと見てきた大人たちが感じる違和感は、私のそれより遥かに強かったのだろう。一部の人たちが気味悪がって心ない噂をしていることも、淋さんがそうした言葉に傷ついていることも、同じ頃分かり始めたのさ。淋さんはあまり強くない人だったから、私は……私が、彼女を守らなくてはいけないと、そう思った」

「うむ」シロは枕を抱きながら言う。「義父上は偉い子だったのじゃな」

「そんなに偉くなんかないさ」

礼司は照れ笑う。

「とにかく皮肉にも、そうした心無い人たちの言葉が、淋さんが何者かなんていう疑問はつまらないものだということを、子供の私に気付かせてくれたんだ。両親が私に何の説明もしなかったのにも、そうした意味があったんだろう。淋さんは私の家族で、そして、それだけが大切なことなんだと分かったんだ。それからは淋さんを守ろうと、子供なりに必死だった」

礼司は脚を組みなおした。

「小学校のクラスには――といっても小さな学校だったから一学年につき一クラスしかなかったんだが、私に向かって淋さんの悪口を言う奴らもいた。そういう連中を、私はこてんぱんにやっつけた。今にして思えば、子供というのは素直なものだから、ただ親から吹き込まれたことをそのまま言っていただけだったのだろうけど……そう考えると、少々悪いことをしたとも思うよ」

「何じゃ。義父上は案外に強かったのじゃな」

「直線的な馬鹿だったのさ。確かにもともと腕っ節は強かったが、それだけじゃなく、淋さんを守れるような男になりたいという一心で、やたらに体を鍛えたんだ。武術の心得があった父に、夜中こっそり稽古をつけてもらったりしてね。もしかしたら――その頃からもう私は、淋さんに異性としての憧れを抱いていたのかも知れない」

礼司はぽりぽりとあごを掻く。

「買い物のときも、私は必ず淋さんに付いて行って、こっちを見てこそこそと話しているおばさん達に睨みをきかせていた。淋さんの服の袖をしっかり握って……彼女は困ったように微笑っていたよ。――滑稽だろう?」

「いや、しろは可愛いらしいと思う。きっと淋殿も嬉しかったことであろう」

「あなたにそう言ってもらえると安心するが」礼司は笑う。「まあ、そうこうするうち、私は中学生になった。中学にも、やはり私の家に不老の女性が住んでいることを知っていて、妖怪だなんだと――ああ失礼、その頃はあなたのような存在が本当にいるなんて知らなかったもので」

「良い、良い。しろは気にせぬ」

「いや、本当に失礼した。ともかく淋さんの悪口を言う者は中学校にもいて、それも私は片っ端からやっつけた。先輩だろうが群れていようが……淋さんのことを変に噂する奴なら、誰も彼もお構いなしに、何度でもね。仕返しに高校生の兄貴連中を連れてこられてタコ殴りにされても、私は決して引かなかったし、最後には必ず黙らせた。家まで来てこっそり嫌がらせをする者も現れはじめたが、必ず見つけて滅茶苦茶に殴り、脅しつけた。がむしゃらに、徹底的にやった。そうこうするうち……何というかその、恥ずかしながら……」

「やんきぃか?」

「……どうしてそんな言葉を?」

「てれびで見た。やたらと殴ったり脅したりする子供はやんきぃじゃ」

「ああ、そう……」

礼司はなぜか出た額の汗を、手の甲で拭う。

「まあ、不良とはちょっと違うんだけれど……いや、結局は同じような感じになっていたか……。何にせよ、私はその頃から一目置かれるというか、怖れられるようになったんだ。そこら一帯の中学を見渡しても私にケンカで勝てる者はいなかったし、逆らう者もいなくなった。私は親が出てきたら親にも殴りかかったから、やがて大人すら、厄介に思って何も言わなくなった」

「まるで獣じゃのう……。そなたの親は、そなたを怒らなかったのか。てれびでは、子供がやんきぃになって揉め事を起こすと、親は泣いて怒るものだと教えておったが」

「それがうちの両親の変わったところさ。親父は、例えば学校に呼び出されたときなんかは、先生の前で俺のことを蹴飛ばしながら怒鳴るんだが、帰り道ではけろっとしていて、さて酒でも買って帰るかというような調子だったし、母はといえば最初から何も言わなかった」

「それは物分りのよい親じゃ」

シロはころころと笑った。

 つられて礼司も微笑む。

「まあ両親はそんな調子で、――淋さんは……」

ふと、遠い目になる。

「淋さんは、そう……私が怪我をして帰るたび、縁側で黙って手当てをしてくれて……それから私の手を握って、泣いていた」

開いた両手を見る。

「……何も言わずにね」

「ふむ」

シロは大輝の枕を抱きなおす。

 軽く両手をもみ合わせて離し、礼司は話を続ける。

「そして私が十五になり、町の高校へ進む頃には、周囲一帯で、淋さんについて詮索することが禁忌となっていた。それでもやっぱり時々妙な噂が立つことはあったが、私が睨むまでもなく、すぐ勝手におさまるようになった。私に痛い目に合わされたことのある連中が、やめておけと忠告するからね」

「ようまあ、義父上もそこまでやったものじゃ……しろは感心するわ」

「子供だったのさ。本当に、子供だったんだよ。そんなことをしても――周囲の噂話を全て断っても、彼女が人から訝しがられている事実は変わらないということに、気付くことも出来なかったんだ。彼女は表立った中傷を受けなくなっただけで、相変わらず、私たち家族以外の者に受け入れられはしなかった。あんなことに意味なんて無かったのさ」

「それでも淋殿は嬉しかったはずじゃ」

シロは抱いた枕にあごを乗せ、ぱたぱたと生白い足を遊ばせる。

「そなたの気持ちが伝わらぬはずはない。不器用であれ、自分のためにそこまで懸命になってくれる子を、愛しく思わぬことは無かろう。十五といえばもう立派な男じゃし、女として嬉しく思うてもおかしくはない」

「ん……まあ……」

ぽり、と鼻の頭をかく。

「そう……だった、らしくて」

「む?」

「いや、その」

礼司は決まり悪い笑いを作る。

「だから実は、その頃にはもう……何というか、私たちはね」

「ほう」

察したシロは感心したように目を丸く――とまではいかないが、シロなりに大きく見開いた。

「出来上がっておったか」

「あ、いや……やっぱり私たちは、気持ちの上で何というか……彼女は私が赤ん坊の頃から親のように面倒を見てくれた人だったし、だからお互い、そういう感じとはまた少し違ったんだが……中学を卒業するあたりから、その……どう言ったものか」

「夜ごと床を共にしておったのであろう?」

「いや、親も一緒に住んでいたし、そういったことはほんの時々で」

「時々でも同じことじゃ」

「ん――まあ……うん。そう……だね」

逃げ切れずに頷く。

「とにかく……そういうわけで私たちは、形こそ少々特殊だったが、確かに愛し合っていた。だから、高校を卒業し、こっちの方にある大学に進むことが決まったとき、私の方から言ったんだ。もし良ければ、自分と一緒に来てくれませんか、と。――淋さんは頷いてくれた。それから私は実家を離れ、大学に通いながら、彼女と二人で暮らすようになった」

「ふむ」

「そうなってからも、私は彼女が何者なのか、何一つ追求はしなかった。やはり彼女は歳をとらず、いつまでも同じ姿のままだったが、もうそんなことは心の底からどうでもよくなっていた。そして――大輝が産まれたのは、私が大学を卒業し、今働いている一つ前の会社に就職してから、しばらくした頃だ」

す、とデスクを撫でる。

「淋さんは私のもう一人の親で、時が経つにつれ姉となり、一人の女性となり――そして妻となり、大輝の母となった。本当に不思議な人だった。彼女はこんなに私の人生に深く関わったのに、私は淋さんのことを、淋さんであるということしか知らなかったんだ。やがて別れの時がやってくるまで、ずっと……」

「淋殿は、今どうしておるのじゃ?」

「……分からない。この家に越してきて、大輝がようやく物心つきはじめた頃、あの人は突然に消えてしまった。居間の机の上に、置手紙を一枚だけ残して」

目を伏せる。

「まるで夢のような人だった。あんなに一緒にいたのに、あんなに大事だったのに……もしかすると、初めから、この世にいなかったんじゃないかと……そんな風にすら思ってしまう」

静かに息をつく。

「彼女の話はこれでお終いさ。大輝には、ただ行方不明になったとだけ言ってある。そして私は数年後に石楠花の母親と再婚し、その妻も三年前に亡くしたというわけだ」

「ふう――む」

シロはいつの間にか枕を置き、腕組みをした状態で、宙に座って部屋の中を漂っている。

「老いぬ女……か。まるでしろと同じく化生のようじゃが」

宙で寝そべり、考え込む。

「しかし、息子の大輝は一抹の妖気も持っておらぬ。大輝は半妖ではないぞ」

「というと……淋さんは、あなたのような妖怪でもなかった――つまり、人間だったと?」

礼司が見上げる。

 シロは唸る。

「おかしな話じゃが、そういうことになる。我らと人が交われば、生まれた子は半妖になるものじゃ。そうならなかった淋殿は……」

シロはベッドの上に音もなく背を埋め、ふと天井を睨んで呟く。

「……。もしや……いや、まさかな……」

「え?」

「いや、何でもないわい」

シロはひょいと体を起こし、ベッドから立ち上がる。

「すまぬな、しろにもよう分からん」

「そうかい――」

「力になれず申し訳ない。しろの言葉を、淋殿を探す手がかりとしたかったのであろう?」

「ああ……いや」

礼司は首を振る。

「そういうわけでもないんだ。ただ私は――淋さんの話を、誰かに聞いてもらいたいというか……話したかったんだよ。現実味のない内容だから今まで誰にも話せなかったが、あなたにならば、すんなりと話せると思っただけさ。こうして人に話すことで、あの記憶は現実だったのだと、少しは自分に言い聞かせることができる。第一……何となく、私には分かっているんだ。彼女にはもう会えない。……何となくだが、そう感じるんだ」

椅子から腰を上げる。

「こちらこそ昔話に付き合わせて悪かったね」

「良い。――さて、そろそろ下へ行くか。今日の夕餉はしろが腕を振るうとしよう。飯炊きは石楠花の誇れる数少ない領分であるゆえ、あまり侵してしまうわけにはいかぬがの」

そう言ってシロはころころと笑った。


 四


 短くもない時間が過ぎて、ようやくシロと父が居間に戻ってきた。

 ソファに寝そべってテレビを見ていた大輝に、飛んできたシロがいきなり覆いかぶさる。

「大輝よ、待たせたのう。淋しかったじゃろう?」

「うわ、ちょ、ちょっと」

心地よすぎる体温と重み、近すぎる顔が大輝をたちまち赤面させる。

「シロさん、も、もう具合はいいんですか」

「もとより病などではないが――大輝はしろの身を案じてくれたか?」

「え、ええ、そりゃまあ」

「ほんにもう、優しき子よ」

シロは大輝に頬ずりしてから、ふわりと離れる。

「どれ、夕餉の支度に取り掛かるとしようか。赤子の肉と山菜でもあれば、しろの得意な料理を振舞えるのじゃが、そういうわけにもいかぬし……ここは無難に水炊きでもこしらえるとするかの」

言いながらキッチンの方へ飛んでゆく。

 一抹の不安を覚えつつその後姿を見送り、大輝は、向かいに腰を下ろした父に問う。

「――ねえ、親父」

「何だ?」

「シロさんと、何話してたの?」

「ん……」父はテレビから目を離す。「何だ、気になるのか」

「いや、別に――そういうわけじゃ」

言いよどむ大輝に父は微笑んだ。

「安心しなさい。言っただろう? 息子の奥さんにちょっかいを出すような真似はしないよ」

「またそんな……」

「しかし、面白いものだな」

父は、シロのいるキッチンの方へ目を向ける。

 シロの長身は壁の向こうなので見えないが、何やら作業をする音と、どこかの民謡だろうか、聞いたこともないがどこか懐しくもある鼻歌が、ここまで微かに聞こえている。

 父はテレビに目を戻し、しかしそれを見るでもなく、ぼんやりと独り言のように呟く。

「私はまだ帰ってきたばかりだが、彼女がいることで、家の中が賑やかになっているのが分かる。石楠花も――あれの母親が亡くなってからというもの妙に大人びてしまって、私は内心少し心配していたんだが……シロさんと喧嘩をしているときは、あの子も歳相応に、ちゃんと女の子の顔をする」

テーブルから煙草を取り、一本を抜いて火をつける。

「シロさんは、実に面白い人だ」

「うん――」

大輝はソファーの上で寝返りを打つ。

聞こえてくるシロの鼻歌が耳に心地良い。

「俺も……うん。なんか……何ていうんだろう。――シロさんって……」

そう。

この感じ、何と言えば良いのか。

 歌が止み、キッチンからひょいとシロが顔を出した。

「大輝や、ちょっと良いかえ」

「どうしました?」

「電子れんじの使い方を忘れてしもうた。豚の肉を溶かしたいのじゃが」

「ああ、解凍ですか。――よいしょ」

大輝は腹筋に力を入れて起き上がる。

 テーブルの脇を通り過ぎ、居間から奥のキッチンへ入ると、もう野菜がそれぞれ綺麗に切られ、まな板の上に積み上げられていた。なかなかに手早い。

 大輝はレンジの前に立ち、ええと、と指を泳がせる。

「俺もそんなにこれ使わないんで、自信ないんですけど……ええと、確か、まず――」

「最初はこれじゃろう?」

 大輝とシロの指が同時に伸び、その先が、ボタンの前でつんと触れ合う。

 二つの手は、同時に引っ込んだ。

「す――すみません」

「ああ、いや、よい」

シロはふいと顔をそむけ、右手を左手でそっと包み、くすりと笑う。

「こうして不意に触れ合うと、不思議と気恥ずかしいものじゃな」

「そ、そうですね」

大輝はかゆくもない頭をかいた。

 それから無事にレンジを解凍モードで作動させ、ぐるぐると中で回る豚肉を、二人は意味もなく眺めていた。

 シロがレンジに目を落としたまま、ぽつりと言う。

「のう、大輝」

「はい?」

「いつまで続いてくれるかのう」

「……え?」

「しろは何だか怖い。まるで、谷に張られた細き糸の上を、爪先で歩いておるように心許ない。おってはならぬ場所へおる気がしてならぬ。しろには、ここは、心地が良すぎる」

「シロさん……」

「しろは愚か者じゃ」

滑稽な自分を嘲るように、微かに笑う。

「何百年か前までは人など食い物と馬鹿にしておったくせに、今は――あのようなことがあってからというもの……人というものが、内心、怖くて怖くてたまらぬ。そのせいで、大輝を優しい子と分かっていながら、心のどこかで信じられぬ。いつ大輝がしろに飽きてしまい、疎んじるようになってもおかしくないのではと、いじけるように疑っておる」

胸にあてた手が、握られる。

「しろは、心の弱い大馬鹿者じゃ……。すまぬ……。許してたもれや」

「シロさん――?」

大輝がシロの顔を覗き込んだ、その時。

 居間のほうで、何かが割れる、大きな音がした。

 続けて父の声が聞こえてくる。

「石楠花、何をするんだ!」

戸惑いの色濃い怒声であった。

 大輝はシロと共にキッチンを飛び出す。

 そして目にした光景は、唐突で、そして異様なものであった。

「しゃ……しゃくネエ……?」

 ――居間には風が吹き荒れていた。

それは紫の風であった。砂でもなく、霧でもない。空気が――その空間が、紫に染まり、激しく流れ動いている。

 庭との出入り口であるガラス戸が割れていた。内側へ飛び散った透明の破片が、居間のカーペットに散乱している。その上に、石楠花が土足で立っていた。

 石楠花は立ち上がった父を見据え、にぃやりと笑う。

「お前のような者に用は無い。邪魔だ。退いておれ」

別人のような低い声色。石楠花は大輝たちのほうを見る。

「小僧……お前にも用は無い。俺はそこの女狐を返してもらいに来たのだ。それは俺の、気に入りの玩具でな」

「しゃくネエ――何言って……?」

 石楠花は、大輝の傍らに立つシロに、すっと手を差し伸べる。

「さあ来い、任氏よ。お前の腹に埋め込んだ術はまだ生きておるぞ。また惨めに血反吐を吐き散らしたくなくば――大人しく俺について来い」

「な……」

シロは、一歩、後ずさる。

「貴様はまさか……そのような」

青ざめていた。息と体を震わせる。

まるで怯える子供のように。

「おぬし……石落……?」

「よし、よし。よく分かったな。伊達に幾年もの間、その身で俺の相手をしていたわけではないか」

石楠花は何度も頷く。

「恩知らずな餓鬼どもに封じられ、結構な時を無駄にしたが……雷で注連縄の縛が解けたところに、また運良く俺の餌どもが現れおってな。こうして動くことも出来るようになったので、俺はまた始めることにした。だがその前に――」

ぺろり、下唇を舐める。

「逃がすには惜しい遊び物を、取り戻しに来たというわけだ」

「い――」

シロは首を振る。

「いやじゃ……もういやじゃ。しろはもう……」

怯えた声を絞り出す。

「しろは……あのような仕打ちには、もう耐えられぬ。この者とも……大輝とも、離れとうない」

「ほう?」

石楠花は口元をつり上げる。

「俺がしばらく石に縛られていた間に、女狐が立場を忘れたらしい。また一から教え込まねばならんか? なあ――任氏よ」

その両目が紫に光る。

 瞬間、シロが崩れ落ちた。

「う……ぶぐ」

白い手で口を押さえる。その指の隙間から血泡がふき出し、落ちる雫が、ぼたぼたと床に赤黒い斑点を作ってゆく。

 大輝は傍らに膝をつき、シロの肩を抱いた。

「シロさん! どうしたんですか!」

「それの腹の中には、俺に逆らえぬよう、色々と施してあってな。少々手間もかかったが、任氏の体にはそれだけの値打ちがある」

石楠花は腕組みをして笑う。

「見たところ小僧は任氏に懐かれておるようだが、この女の味は、もう知っておるか? 試しておらんのなら、お前は千載一遇の機会を逃したぞ。化生の体は良い。人間の女とは比べ物にならぬ。しかも任氏は、俺が幾年もの時をかけて教え込んだ――」

「……や」

シロは顔を上げ、石楠花を弱々しく睨む。

「やめよ……やめてくれ、この子には……そのような……」

「知恵づいたか。化生が一丁前に恥など覚えおって」

また石楠花の目が光を放つ。

 シロは大きく背を反らせ、啼いた。

「うが、ああ、うああっ!」

口と鼻から、霧のように血がふき出した。

そのまま気を失い――どさりと、前のめりに倒れる。

 石楠花が糸で傀儡を操るように両手を舞わせ、そしてシロの脱力した体は、目に見えぬ力で宙に浮き、石楠花の眼前へと吸い込まれてゆく。

「ゆくゆく、これは夜伽の他にも使い道がある。こうして手に戻ってよかったわい」

石楠花はシロの長身を腕に抱きかかえ、高笑いをして、とおんと後ろへ飛んだ。

「さあ帰るぞ任氏、常世に建てたる我が屋敷に」

ガラスを失った戸をくぐり、庭へ。

「お前にはお前の、似合いの役目というものがある――」

そして、月に引き寄せられるように、夜空へ。

 シロを抱いた石楠花は飛んでいった。

 影はみるみる小さなくなり、それを見送る大輝は、膝をついたまま、何もできず、何一つ、呟くことすらできなかった。



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