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第四章【下腕 ―さがりかいな―】

 一


 午前二時。

 営業が終わり、遠慮無く明かりの点き続ける無人の館内は、上映中よりもなお広く感じられ、それでいて、密室としての圧迫感をじんわりと充満させている。

 こうして見るとさほど大きくもないスクリーンに向かい、緩やかに下ってゆく傾斜。通路だけを残して満遍なく並ぶ、座り心地の良い椅子の海。

 ポップコーンの残り香。

 高い天井。

 今、そこに上原孝太は一人だった。

 大学生の彼が木、土とアルバイトをしているこの「シネボックス」は、四階建てで計6ボックスからなる、比較的大きな映画上映施設だった。

一階は受付とグッズ販売エリア。二階から四階までは、2ボックスずつがそれぞれ同じ間取りですっぽりと収まっている。ボックス、というのはシネボックス特有の言い方だが、要するに上映スペースのことである。

 掃除はもう、他のスタッフたちの手によって済んでいる。あとは孝太がDボックスとEボックスを見回って、今日の仕事は終了だった。

 孝太は、Dボックスに並ぶ席の間を縫うように歩き回り、入り口に戻る。

「――異常なし」

この確認文句も含め、全てマニュアル通りの行動である。

 もっとも、こんなに真面目に点検などせずとも、問題となる異常など、ほとんどあったためしが無い。時々酔った客が寝ていることもあるらしいが、それも大抵は掃除をする係の者が見つけてしまう。

 だから最後の確認作業は儀礼的なものであった。時間がないときは省略してしまうこともある。

 孝太はDブロックの扉に施錠し、Eブロックへ向かう。

 質のいいカーペットの上を歩きながら、部屋で待っているであろう、同い年の恋人のことを考える。

 よく夜更かしをする彼女のことだ。今頃も、孝太のゲーム機を勝手に起動させ、最近熱を上げている格闘ゲームに興じていることだろう。

きっと孝太も帰るなり相手をさせられるに違いない。「あたし昨日より強くなったから。ほんとほんと」――などと言われ、強引に。それがここ数日のパターンだ。

 そういえば、同棲を始めたこの頃では、二人でいることが当たり前になってしまい、あまり出かけることが無くなった。せいぜい、国道沿いのアミューズメント・パークまでバイクを飛ばし、千円札を何枚か崩して遊ぶ程度だ。

 あと幾日かすれば、ここの給料が振り込まれる。そうしたら……いや、今日帰ったら、久しぶりに、遠くへ遊びに行く計画でも持ちかけてみよう。適当に携帯で検索でもかけながら。

 孝太は静かにそう決めて、Eボックスの扉を押し開けた。

 明かりが点いているはずのその空間には、染み出しそうに濃厚な闇が充満していた。

「あれ……?」

無音。

電気系統の異常だろうか。

 一歩、生ぬるい闇の中へ踏み込む。

 眼前にだらりと一本の腕が下がった。

 白く生々しい、誰かの腕。

 孝太は声を上げられなかった。もう一つの手が彼の口を塞いでいた。

 身動きも取れない。いくつかの手が彼の制服のあちこちを掴んでいた。

 手。手。手。

 扉が閉まった。

 ――結論を言えば、彼は、恋人のいる部屋に帰ることは出来なかった。

 彼女や、新潟に住む孝太の家族の元に届いたのは、孝太が持ち物を全て残したまま、姿を消したという報せだけだった。


 二


 日曜の朝。

 遅く起きた大輝は、寝すぎたせいか中々おぼつかない足で部屋を出て、廊下の突き当たりにあるトイレのドアを開けた。

 シロと目が合う。

「――あれ?」

「ん……おお、起きたか大輝」

「あ――お早うござい、――じゃなくてっ!」

大輝は自主的に吹っ飛んで尻餅をつく。

「な、ななな、な」

「待っておれ、今小用が終わったところじゃ」

シロはからからと、使い方を覚えたばかりのトイレットペーパーを巻き取り、千切ったそれを白い腿の谷間に――

 大輝は床に這いつくばったまま、百八十度目をそらす。

「ちょ、ちょっ、ちょおおっ!」意味不明な叫び。「な、なんで鍵かけないんですかっ!」

「忘れておった」

ざああ、と水の流れる音が聞こえる。

 続いて大輝の顔の横から、綺麗な白面が、後ろからにゅっと突き出した。探るような危ない笑みで。

「大輝。今、しろの用足ししておるところを見たか?」

「み、見てません!」色々と見えそうだったが。「――っていうか、ごめんなさい! 俺がノック……ノックしなかったのも、いけなかったですよね! すみません!」

 シロは座り込んだ大輝の横に両膝をつき、肩にしなだれる。シロは今、大輝が小遣いで買ってきた黒いTシャツと、安いジーンズパンツを身に付けていた。

「しろは気にしておらぬゆえ、そのように謝ることはない。しろは大輝に嫁いだ身ぞ。それはまあ、恥ずかしくないと言えば嘘になるがの、例えばの話、大輝が望むならば、しろはどのような姿も見せる所存でおる。今のような姿でも、ちゃんと様子の見えるよう……」

「んな――何言って」

朝から耳元で、十八歳未満お断りレベルにマニアックでディープなことを。

大輝は思わず余計な想像をして、未熟な頭を一秒でパンクさせた。

「……あ、立ちくらみ」

 石楠花が階段を上がってきた。

「大輝、朝ごはん出来――って、こらあ! 朝っぱらから何ベタベタしてるんだよ!」

だだだ、とフライパン返し片手に突っ込んできて、直前で急ブレーキをかけ、シロに詰め寄る。

「大輝を誘惑すんなって言ってるだろ、この淫乱妖怪!」

「ふん」

シロは目を吊り上げて立ち上がる。

「いちいち馬鹿丸出しで騒ぐでない。騒々しうて耳が痛いわ」

「誰がバカだ!」

「お前じゃ」

「うるさいっ! 毎日朝晩と大輝に付きまとって――昨日なんて、夜のうちにベッドに潜り込んだだろ!」

「しろに先を越されたからといって怒るでないわ」

「だ……誰が、このっ!」

石楠花はフライパン返しを振りかぶる。

 大輝は慌てて立ち上がる。

「や、やめてくれしゃくネエ!」

「止めるな大輝!」

「――ん? 何か鳴っておる」

シロがぴくりと耳を動かす。

 大輝と石楠花は、ぴたりと止まった。

 確かに、ピンポン、ピンポン、と、階下で何かが鳴っている。

 大輝は硬直して考える。

「インターホン? あ――そうか」

大輝と石楠花は顔を見合わせる。

「親父の出張って昨日で終わりだよね」

「お義父さん、帰ってきたんだ」

そして二人は、同時にシロを見る。

シロはぱちくりと赤い眼を瞬かせる。

「……何じゃ」

「ど――」

「どうしよう」

大輝と石楠花はまた顔を見合わせた。

 何にせよ、このまま無視するわけにもいくまい。三人は何の策も無いまま、揃って階段を下りてゆく。

 ただ、せめて出来るだけゆっくりと下りながらの緊急会議である。

「どう説明するんだよ、この大バカ女のこと」

「どうってそりゃ事実を話すしか」

「その事実が問題なんだろ!」

「何の問題があるか。しろがちゃと嫁として挨拶をすれば済むことであろうに」

「あんたは黙って……迂闊にフワフワ浮かぶんじゃない!」

「五月蝿いのう」

「おい、誰だ? その女性は」

「え」

大輝は階段を下りきったところで立ち止まる。

 スーツケースと紙袋を持った背広姿の父が、玄関に立っていた。

 石楠花も立ち止まって仰け反る。

「お、お義父さん?」

「鍵を忘れたと思ったが、ポケットに入ってたもんでな。自分で開けて入ったよ」

いつもの眠たそうな口調で言いながら、重たそうな荷物を足元に置き、少し白髪の混じり始めた髪をかき上げる。顔も慢性的に眠気を帯びた人である。

「で、そのノッポの女の人はどちらさんだ? 何だか床と足の裏が離れているような気がするが」

「いや、あの、これは――この人はね、親父」

「わらわはしろじゃ」

シロは大輝のしどろもどろを置いてけぼりに、すとんと床に降り立ち言った。

「こ度、そなたのご子息と夫婦の契りを結んだ狐の化生じゃ。義父上よ、以後宜しくお願い申す」

「……ふむ?」

父は、ちょっとシロの顔を眺めてから、頷いた。

「シロさんか。ま、居間で話でもしようか」

「それがよいかの」

父とシロは、すたすたと居間のほうへ行ってしまった。

 大輝は呆然と二人の後ろ姿を見送る。

「ああ……そっか」肩を落とす。「親父ってああいう人だった」

「取り合えず何でも受け止めてから考えるんだよね、お義父さん」

石楠花も父の人格を思い出したらしく、ぎこちなく笑う。無論楽しがっているわけではない。

「しかし四十にして、ここまでのレベルにまで達してたなんて……今、あの女、宙に浮いてたのに」

「そういうこともあるんだろ、って思ったんだよ、きっと」

そういうこともあるんだろ。

父の必殺技である。何でもそれで片付けるのだ。

道を究めた武術家か、そうでなければ禅僧のような達観。ごく一般的な会社役員である父が、なぜそれを持って生きているのか、息子の大輝にすら分からない。

 呆れているところで、居間から父の声がした。

「二人とも、いつまで玄関にいるんだ。お前たちもこっちへ来なさい」

間が抜けているようにすら聞こえる、落ち着き払った声。二人は大人しくそれに従った。

 そして数分後。焼き鮭と目玉焼き、それと味付け海苔をおかずに、大輝と石楠花は茶碗の白米を黙々と口に運んでいた。

 テレビに近い方のテーブルでは、父とシロが面接のように向かい合って、互いに落ち着いた様子で話している。

「シロさんはおいくつかね。見たところ大輝とは年が離れているようだが」

「何千年生きたかは忘れてしもうたが、この島国へ来たのは唐の頃じゃ」

「またえらく長生きだね」

「妖怪じゃからの」

「そういえばさっき浮いていたね。――で、お仕事は何を?」

「大輝の嫁じゃ」

「ふむ。その前は?」

「適当に人を攫い、殺しては食っておった」

「よくないねえ」

「らしいのう。大輝もよくないと言っておった。だからもうやめにした」

「そうかい、それはいいことだ」

「しろには何がいかんのか、まだ分からぬがの」

「追々分かるさ。それにしても背が高いが、何センチあるのかね」

「石楠花が計ったところ百八十二せんちだそうじゃ」

「大きいな。私も別段背の低い方ではないが、それでも十センチの差があるよ」

「うむ、そのことなのじゃが、大輝は背丈のある女は嫌いじゃろうか。大輝は小柄じゃから、もしかしてしろの大きいのが嫌かも知れぬ。しろはちょっと気にしておる」

「本人に訊いてみればいいんじゃないかね」

「何となく聞きづらくてのう」

「そうか。――大輝」

不意に父は大輝のほうを向く。

「お前、背の高い女性はいやか?」

「え」

突然話を振られ、大輝は茶碗を片手に止まる。

「あ、いや、別に……」

「ふむ」父は顔を戻す。「だ、そうだよ」

「よかった。心中ずっと気にしておったのじゃ」

シロは文字通りに胸をなでおろす。

 父は腕を組む。

「シロさんは大輝のような子供の、どこがそんなに気に入ったのかね。見たところあなたは男性に不自由するような感じではないが」

「大輝は心根の優しい子じゃ。そこがしろは大好きじゃ」

「まあ、それくらいがあの子の取り柄だからなあ。結婚の話は本気かい」

「本気じゃ。しろは、大輝の前では嘘というものを言わぬ」

「嘘が嫌いかね」

「嫌いではない。元来しろは嘘つきじゃ。しろの顔かたちに一目で惚れた男や、しろが攫った赤子可愛さに我を失った親どもなどは、尽くしろの嘘に引っかかり、面白く踊った挙句にこの腹を満たしてくれた。嘘は便利で良いものじゃ。しかし大輝の前に限っては、しろは一つも嘘をつくわけにはいかぬ」

「なぜかね」

「常日頃より嘘をついていては、信じてもらわねばならぬ言葉も疑われてしまう。しろは、大輝が好きじゃ。その言葉を大輝に疑われてはかなわぬ。だからもう嘘をつかぬ」

「なるほど」

父は大きく頷いた。

「なかなか健気でいい娘さんじゃないか。父親の私より年上だというのも妙な話だが、大輝のことを任せてもいいかも知れんな。歴史なんかにも詳しいだろうし」

「ちょっ――ちょっとお義父さんっ?」

石楠花が目をむいた。

「ちゃんと話聞いてたのかい? 明らかに変だろ、そいつの常識と価値観は! 妖怪丸出しじゃないか!」

「妖怪と人間だってうまくいくこともあるさ。最近は国際結婚も盛んだしな」

「とんちんかんなこと言わないでくれよ!」

石楠花は口から米粒を飛ばす。

 シロが言いつけるように口を挟む。

「義父上よ、石楠花のやつも大輝に惚れておるのじゃ。ああして横恋慕でしろの邪魔ばかりしおる」

「何だ、そうなのか石楠花」

「な! そ――それは、その」

石楠花は赤面して言いよどむ。

 横で大輝も顔を赤くした。

 さすがに大輝も、もう義姉の気持ちには気付いている。なにせ石楠花ときたらここ数日、義理の姉という立場をギリギリで守っているようでありながら、実際にはほとんど開き直って、シロと真っ向から大輝を取り合っているのだ。

 しかし、だからといってどうすればいいかも分からない。石楠花は確かに、大輝にとっては慕ってやまない素敵な義姉だが、いざその想いが自分に向けられているとなると、どうしていいのか見当もつかない。ひょっとしたらこれは、シロのこと以上に、扱いに困る事柄かもしれない。そのことについてはあまり考えないようにしているくらいだ。

 父は眉間にしわを寄せた。

「そうか……困ったな。まあ、そういえば大輝と石楠花には血縁がないし、仕方のないことか。人の気持ちというのは、立場などで抑えられるものじゃない。さて、どうする大輝」

「え、ええっ?」

大輝は思わず声を裏返す。

「どうするったって、そんな……俺、まだ中一だし、そんなの……」

「ん。それもそうか」

父は胸の前の腕を組みなおす。

「ふうむ――ちょっと参ったが、まあ、なるようになるだろう。取り合えず、お土産の饅頭があるからみんなで分けようか」

父はそう言うと立ち上がり、すたすたと居間を出て行った。

 脱力した大輝と石楠花。

 それを気にもせず、シロは微笑んだ。

「皆に饅頭をくれるのか。義父上は太っ腹じゃのう。さすがは大輝の父じゃ」

 そんな調子で、出張先のご当地饅頭と暖かな茶が人数分並んだテーブルを囲み、こういう状況になるまでの経緯などを色々と話しているうちに、午前中は過ぎていった。

 石楠花の家系については父も初耳だったようで、少し意外そうに聞いていたが、それでも常人の反応よりは遥かに落ち着いたものだった。

「なるほどねえ」

父は三杯目の茶をすすり、ゆっくりと頷く。

「まあ、何にせよ、シロさんは他に行くところもないだろう。うちにいるといいさ」

「話の分かる義父上じゃ」

微笑んだシロは饅頭をひと齧りする。そうした細かな仕草には、やはり何千年も生きてきただけあって、大人を超えた雰囲気がある。

 もはや突っ込み疲れた石楠花は、ソファーの隅でいじけるように背を丸めていた。

「もう好きにすれば?」

「こら石楠花、大輝を取られたくない気持ちは分かるが、それはまた別の問題であってだな」

「だからそんなんじゃないってば!」

「ああ、すまん。――とにかく、必要以上にシロさんを邪険にするのはやめなさい。まだこの時代にも慣れていないようだし、他に頼れる知り合いもいないというじゃないか。私たちが受け入れてあげなくてどうするんだい」

「そうじゃそうじゃ。意地悪ばかりするでない」

「だからあたしはあんたのそういうところが!」

「しゃ、しゃくネエ落ち着いて……」

大輝はいきり立つ石楠花をなだめつつ、父に確認する。

「親父、本当にいいの?」

「ああ。そうすることが、そ――」

父はそこで何か言いかけて、やめた。

「……とにかく、私はこのままで問題ないと思う。シロさんは年の功で色々と料理なんかも出来るということだし、家事を分担すれば、石楠花の負担も減ることだろう。なあ石楠花」

「ん、まあ、ね」

石楠花は渋々と頷く。

家事を負担だとは思っていないが、受験生であり、普通ならば遊びたい盛りの自分がそうしたことに時間を取られているのを、義父が以前から気にしていることは知っている。だからここは敢えて受け入れておこう――というのが本音であろう。

 湯飲みを置き、父は、ふうむと唸った。

「あとは、そう……問題は服や生活用品か」


 三


 そのとき「シネボックス」のEボックスは、新作上映の最中であった。

 シネボックス全体の客数は多いものの、このEボックスだけは、上映タイトルが今時流行りもしない米国産のB級SFであるせいか、日曜の昼間とは思えぬほど閑散としている。

 効果音と台詞に混じってちらほらと鼾すら聞こえてくる、広く暗い空間。最後列近くのカップルは、スクリーンにはさほど目もくれず、かといって体を触れ合わせるでもなく、互いに無為なことを囁き交わしていた。

 男は開始五分で空になったソフトドリンクのカップを弄び、静かに欠伸する。

「帰りどこで食ってく?」

「マックで良くない? 地下街にあるじゃん」

女は高校生だった。新しく開けたピアスの具合が気になるらしく、しきりに右耳をいじっている。

「あたしお金ないし」

「だからメシくらい俺が出すって。何でもワリカンじゃ格好つかねーだろ」

「あんただって大学生なんだからお金ないくせに」

「バカ、お前よりゃ持ってるよ」

男は言いながら足元にカップを置いた。

 その瞬間、すう、と照明が落ちた。

 上映中であるため、当然今までも暗いことは暗かったのだが、この暗闇は、それとは一線を画していた。

足元の誘導灯すら消えた。

段差や壁の、青いLEDも消えた。

――闇。

スクリーンも濁って明かりを失い、ざらつき始める。

 男は天井を見る。

「何だよ……停電?」

 ふっ、と、スクリーンも黒に。

 それはものの数秒だった。

 Eボックス内を漆黒が支配した。

 ヒロインの叫びだけが四方のスピーカーから鳴り響く。

 ほんの少しざわめくボックス内。

 そして一瞬で、嘘のように空間は元に戻った。

 今までこんなに明るかったのか。戻った瞬間、男が思わずそう感じるほど、数秒の闇は深く完全だった。

 男は隣を見る。女と顔を見合わせるつもりだった。

 だが、誰も座っていなかった。

「え――?」

 幼馴染の恋人は彼の隣から消えていた。

 ほんの数秒で終わった、今生の別れだった。


 四


 その姿に誰もが振り返った。

 落ち着いたベージュのコート。その下から伸びる、クリーム色のパンツに包まれた、細く長い脚――そう、大輝たちが選んだ服装に、これといって目立つ要素は無い。むしろ地味なものから順にセレクトしたくらいである。

 だが、彼女は道行く者たちの目を尽く引いていた。

 長くボリュームのある、ふさふさの白いポニーテール。それもあるだろう。

背の高さ。それもある。

 だが、それすらさしたる特徴とは数えられぬほどに、シロは美しかった。

まず顔立ちが。加えて足の運びが。仕草が、視線が、雰囲気が。何だか、この駅前通りを歩いているのが奇跡と感じられるような、違和感にも似た存在感がある。

 シロは自覚があるのか無いのか、隣を歩く大輝に対し、無造作に笑いかけ、語りかける。

「のう、大輝や。ここは家の近くより大きな建物が多いのう。店も多いし、人もたくさん歩いておる。自動車とやらもずいぶん沢山動いておって、危なくて仕方がない。ここがこの時代の都かえ」

「あ……いえ、そういうわけじゃ……普通の駅前ですよ」

さっきまで身に付けていたものを含む、シロの衣服や靴が入った大きな袋を片手に、大輝はどぎまぎと俯く。

 そうだった。シロは綺麗なのだ。

すれ違う男たちが皆、シロを見ている。その視線で大輝は、いつの間にか慣れてしまっていたことを再認識していた。

 微妙な気分に陥った大輝の袖を、不意に立ち止まったシロが、くいと引く。

「見よ大輝、あの者どもは何か妙なことをしておる」

「はい? ……あ」

 シロの指さした先は、ファーストフード店の店先だった。

 そこにあるベンチに腰掛けた男女が、互いに寄りかかり、うっとりと唇を重ねあっている。

 シロは首をかしげる。

「そういえば、昨晩のてれびどらまや、大輝の借りてきた映画でも同じようなことをしておった。ああして口をくっ付けて何が楽しいのじゃ?」

「あの……キス、知らないんですか?」

「きす?」

シロは、どちらかといえば魚の名前を呼ぶに近い発音でリピートする。

「知らん。したこともない。昔の人間どももしておったじゃろうか……いや、よう思い出せんが」

「はあ――」

「のう、あれはどうした意味があるのじゃ」

 二人の後ろで、同じく立ち止まっていた父が、余計な解説を入れる。

「あれは夫婦や恋人がするものだよ」

「何じゃと?」

「ああしてお互いに好きだという気持ちを証明しているのさ。シロさんが注意していなかっただけで、多分、昔の人たちも似たようなことをしていたんじゃないかな。接吻なんていう古い言い回しがあるくらいだし」

「お、親父」

大輝の焦り空しく、シロは予想通りの反応をみせた。

「何と――大輝よ、なぜしろにきすのことを教えなかった」

「あ……いや、だって」

「しろと大輝は夫婦ぞ。それに、しろは大輝が好きでたまらぬ」シロは大輝の両肩を掴む。「この言葉に尽くせぬ想いの証しとなるのならば、せねばならぬであろうが。これ、下を向くでない」

「ちょ――ちょ、シロさん」

「いいかげんにしろ、このバカ狐」

見かねた石楠花が、シロの耳を横から引っ張った。ちなみにこの行動、出かける前に父の前で交わした「人前でケンカもしくはそのきっかけとなるような行動はとりません」という条約に触れるものである。

 シロの条約破棄も早かった。

「何をするか、この小娘!」

大輝の肩をぱっと放し、石楠花の額に額を叩きつける。

 ごづっ、と恐ろしい音が響き渡った。

 大輝は後ずさる。

「い、いきなり頭突き……っ!」

最近ケンカがエスカレートしているとは思っていたが、まさかここまでやるとは。しかも比較的穏健であるはずのシロの方が。

 石楠花は大きく仰け反り、涙目でシロを睨む。

「この化け物――上等だ、やってやる!」

「ちょ、ちょっと待て」

シロは額を押さえて待ったをかける。

「おでこが……おでこが痛い」

 あんたも痛いのか。

 大輝は心の中で突っ込んでから、我に返る。

「じゃなくて――ちょっと二人とも、こんな所でケンカしないで!」

「うん、みんな見ているよ」

父も頷く。

 シロと石楠花は、はたと睨み合いを中断し、周囲を見回した。

 当然といえば当然。あっという間に遠巻きな人だかりが出来ていた。

ひそひそと囁きあう者たち、指をくわえて見ている子供、動画におさめようと携帯を構えている女子高生。

 さすがに続行の空気ではない。

 二人は、ふん、と顔をそむけ合い、何とか掴み合いだけは回避された。

 そうしてまた歩き始めた一行。

服屋に続き、次に目指すは駅に近い大型ドラッグストアである。

 シロは歩きながら父に問う。

「どらっぐすとあとは何じゃ。それもてれびで宣伝されておったが」

「平たく言えば薬屋かな」

「薬ならば家にあろうが」

「他にも色々と揃うんだよ。例えばシャンプーとかね。あなたの気に入ったものを選ぶといい」

「しゃんぷうなど、大輝か石楠花と同じもので十分じゃがのう」

シロは口をへの字に曲げる。

 父は苦笑した。

「あなたは雰囲気の割に質素な人だね」

「そうかのう」

「まあ、シャンプーに関わらず、女性なら必要になってくるものも揃うから、行ってみて損はないよ」

「何のことじゃ」

「例えば――失礼ならば許して欲しいが、シロさんは、人間との間に子供が出来る体なのかな。つまり、その――人間の女性と、同じように」

「む。……まあ、な。そうした意味か」

シロは何とも言い難い微妙な面持ちで頷く。

「今の者どもがどうしておるかは知らぬが、道具があれば助かるわい」

「だろう?」

父は微笑んで頷いた。

 そこで、シロは急に立ち止まった。

「むう」

「どうしたのかね」

「これは何じゃ。異人の顔の看板がやたらと飾られておるが、何か催しておるのか。人も随分と並んでおる」

 そこは大型映画館、シネボックスの前だった。金属素材を前面に押し出した、未来的なデザインの建造物である。

今はマジック・マンソン監督の人気SFシリーズ「メカニカルアニマルズ」の最新作、「ディス・イズ・ザ・ニュージェネレイション」が封切られたばかりのため、いつもよりも多くの人が並んでいる。

 父はぽりぽりとあごを掻いた。

「これは映画館だよ。何というか――大きなテレビのようなものがあってだね、それに映される映画をみんなで観るのさ」

「映画はしろも好きじゃ。大輝の借りてきたでぃぶいでいを、二人が学校へ行っておる間、しろもいくつか見た。なかなか面白いものじゃ」

言いながらシロはシネボックスを見上げる。

「しかし、このようなところがあるとは知らなんだ。大きいてれびというと畳くらいか?」

「いや、その何倍も大きいね」

「想像もつかん。しろたちも見られるか?」

「ふむ」父は腕時計を確認してから言う。「ちょっと観てみるかね。そういえばここの割引券が何枚かある。――大輝と石楠花はどうだ」

 石楠花は、入り口の列を見て、うーんと唸る。

「別にいいけど……ずいぶん並んでるじゃないか。次の上映で見られるかな」

「でも、これってメカアニの列じゃない?」

大輝も列を眺めて言う。

「他の映画ならそんなに混んでないんじゃ……」

「おお、あれが面白そうじゃ!」

シロは言い終えぬ大輝の肩に手を乗せ、きれいな指で、一番端に飾られた大型ポスターを指した。

 どれかと見やった三人の目に飛び込んできたタイトルは――「地獄マシーン」。

 言い得ぬ沈黙。

 その後に、石楠花はがっくりと肩を落とした。

「よ……よりにもよって、なんてつまんなそうな……」

 美女、真っ二つ。それがタイトルの下に書かれたコピーである。

悪いロボットらしきキャラクターが、巨大な枝切りバサミのような凶器を持ってブロンド美女を襲っている写真がバックだ。

「なんで今時こんな映画がDVDスルーじゃないのさ」

石楠花が頭を抱える横で、シロはぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「何とも強そうなろぼっとじゃ。しろはあの映画がよいと思う。大輝はどうじゃ?」

「うーん……」

大輝は少し困ったが、まあいいかと頷いた。

「いいんじゃない? その――何ていうか、空いてそうだし」

「私は何でもいいよ。その映画なら、ちょうどそろそろ次の回が始まるようだしね」

父はそう言いながらも、ポスターを見ながら苦笑いを浮かべている。

 シロは石楠花を見た。

「その――石楠花は……どうかの」

珍しく小さな声で、しかも口ごもる。

 シロの心情は、石楠花だけではなく全員の目に、ありありと見て取れた。

 この映画が見たい。

しかし、自分のことを嫌っている上に、さっきケンカしたばかりの石楠花が賛同してくれるとは思えない。

でも、出来ることならば――この映画が、見たい。

 石楠花は、はあと溜息をついて呟いた。

「……あんたって、なんで時々憎めないんだろうね」

 石楠花の賛同も得たところで、四人は地獄マシーンのチケットを、並ぶこともなく割引価格で購入。ポップコーンと飲み物と、ついでにパンフレットも一部買って、階段で四階へと上った。

 通路の分かれ道で大輝は半券を確認する。

「ええと――Eボックスだから、こっちか」

「なんだか隣のボックスに向かう人の方が多いって感じるのは、あたしの気のせいかな」

恐らく気のせいではないであろう、石楠花の独り言。

 Eボックスの扉を開けると、その中は予想通りの惨状であった。

 閑散。その二文字に尽きる。

 入り口のところで、石楠花が立ち止まる。

「う――」

「どしたの、しゃくネエ」

 石楠花は自分の肩を抱く。

「いや……なんか、例の変な悪寒が――って、そこの狐女!」

「何じゃ」

「耳! 耳が狐になってる!」

「おお」

シロは、白銀の毛が生えそむった大きな両耳を、ぱたぱたと動かす。髪の毛の色と同じであるせいか、さしたる違和感が無いのが奇妙である。

「すまぬ、地獄ましぃんが楽しみでつい気が緩んだわ」

「油断して妖気ばらまくのはいいけど、見た目には気をつけなよ」

「分かっておるわい」

シロの耳が、見る見る人間のものに戻る。

「しかしおぬし、何か思い違いをしておるようじゃが」

「何さ」

「揃って入り口で立ち止まっているのも何だ。早く入るとしないかい」

父にやんわりと急かされたことで、会話は中断された。

 出入り口は最前列の左脇である。ボックス内に入ると同時に、シロは、わああ、と子供のように口を開けてスクリーンを見上げた。

「大きいのう。これがてれびだとは信じられぬわ」

「シロさん、見たところ席が十席ほどしか埋まっていないから選び放題だが、どこに座りたいかね」

「もちろん一番前の真正面がよい。せっかく大きいものじゃから、一番大きく見えるところに座るのがよかろう」

 最年長の簡単な思考回路が席を決定した。

 細かくは、左から石楠花、大輝、シロ、父の順である。自然とそうなった理由は言うまでもない。

 何にしても、ほどよく歩き疲れ、荷物に加えて飲み物やポップコーンなどを抱えた一行にとっては、座り心地の良い座席はありがたい代物だった。

 着席と同時に大輝はパンフレットを開く。

「ええと――監督と脚本はエド・ウッズ? 全然知らないな。演出も、エンディングテーマの作詞作曲も、クリーチャーデザインも――あっ、殺人ロボットの中身も同じ人だ」

「すごいワンマンだな……」

石楠花の表情は暗い。

 父が席を立つ。

「私はちょっと喫煙所で一服してくるよ」

早口にそう言い、煙草を吸いに行くだけのはずなのに飲み物まで持って、父はさっさとボックスを出て行った。

 石楠花が舌打つ。

「このタイミング……お義父さん、土壇場で逃げたな」

「親父が好きなのって、ジュゼッペ・トルナトーレとかだからね」

そんな人にこれはきついだろう。大輝はパンフレットの三ページ目、殺人ロボットが、バイクのサイドカーに一回り小さいロボットを乗せて疾走している写真に目を落としながら、そう思う。

 さっそく上映開始のアナウンスが流れ始めた。

 大輝はパンフレットを閉じる。

「もう始まるんだ」

「こんなに済し崩しで映画館にいるのって初めてだな、あたし」

「何やら暗うなってきおった。大輝、なぜ暗うなるのじゃ」

「昔はああいう画面じゃなくて、映写機っていう――」

説明しかけて大輝はやめる。正確な説明には時間が必要だ。。

「とにかく昔の名残ですよ。シロさんに昔なんて言い方するのも変ですけど。それに、暗くて周りが見えないほうが、映画に集中できますからね」

「なるほどの」

「それにしても、ずいぶん暗くなったね。シネボックスってこんなに暗かったっけ?」

石楠花が首をかしげる間にも、照明はどんどん落ちてゆく。入り口の誘導灯も、足元のランプさえも。

 一瞬、視界がゼロになる。

 しかしすぐさまスクリーンに映像が映し出された。

まるで長方形に切り取られたそこだけが、闇の中に浮かんでいるようだった。

 近隣施設や化粧品のコマーシャルを見ながら、シロは静かに感嘆の声を上げる。

「ほう。てれびではさほど面白くない宣伝も、このようにして見れば中々に趣きがあるではないか。音も大きくて、何だか贅沢じゃ」

「そう……ですね」

大輝は返事しながらも、深すぎる闇への違和感に少々惑っていた。

 確かにこれは、暗すぎる。手元のポップコーンを見るのがやっとで、隣にいるシロや石楠花の顔すら、薄ぼんやりとしか形が見えない。まるで布団をかぶったようだ。

 だが考える間も無く、映画は始まった。

 同時にシロが肩にしなだれかかってくる。

もちろん、映画館でカップルがするオーソドックスな姿勢というものを、シロが知っているわけではない。これは単純に、何かと抱きついたり、体をくっ付けたがる癖の延長である。いつも家でやっては石楠花に怒鳴られている行動と同じだ。

 しかし今は暗闇の中。止める役である石楠花の目に、シロと大輝の姿は見えない。

それを知っているシロは、ここぞとばかりに甘えようとしているのだ。

 大輝は――黙ってそれを受け入れた。

 半分は、絵的にいささか僭越ではあるが、親心に似た感情である。仔狐の姿でいた頃は大輝の腕の中がお気に入りだったのに、最近では倫理の壁が立ちはだかっているせいであまり触れることも出来なくなり、少し拗ね始めているシロの心情を慮ってのこと。

 もう半分は、言うまでもなく、健全な少年の根源にある回路が働いたのである。

いつもの抱きつきなどにも言えることだが、細かいことは抜きにして、綺麗なお姉さんに好きと言われ、くっ付かれることは、大輝といえど嬉しくないはずがない。ただ、常識の代弁者ともいえる石楠花の目が気になって、何となく拒む姿勢を取らざるを得ないだけだ。もちろん大輝自身の、「まだ自分は十三歳になったばかりだ」とか「シロの気持ちを抱きとめるだけの準備はこちらにはない」などという現実的な自覚も、アタックを受け入れてしまうことに歯止めをかけている。

 だが――今は。

どうしてだろう、今だけは。

 オープニングテロップが流れ、大音量でメインテーマが鳴り響く中、シロがこっそりと耳打つ。

「……いやではないか?」

「え――」

「ここのところ、大輝はその……しろがこのようにするとじゃな……」

「――嫌じゃないですよ。そのまま寄りかかってていいです」

「……。……ふふ」

心底幸せそうに笑む吐息。

遠慮がちに擦り付けられる頬と肩。

 大輝は得も言われぬ心地になって、指先をじんわりと痺れさせた。

 心中で謝罪する。

ごめん、しゃくネエ。正直いって俺、今、この人が可愛くてたまりません。

だって仕方ないんだよ。こんなに綺麗なお姉さんが、子供みたいに甘えてくるんだから。そりゃ俺だって降参だよ。

でも――ごめんなさいシロさん。それでも俺はまだ、あなたと恋人になったりとか、そういうことは到底考えられないでいます。

だって俺はまだガキだし、何ていうか……しゃくネエのことも、その……俺にとって、憧れの人なんですよ。

俺ってダメですね。

本当に、どうしようもなくダメですね。

 背徳から陶酔へ、そして自己嫌悪へと巡った思考は、テロップが終わるとともに断ち切られた。

 突然、スクリーンに江戸城が大写しになったのである。

「あれっ」

 その地下で着物を着た武士たちが、めいめいに鉢巻を締め、木槌やノコギリを片手にロボットを作っている。

 隣から石楠花の声がする。

「あたし……何だかもう、楽しみになってきたよ」

「――うん」

大輝も引きつった笑みで同意した。

 その後、地獄マシーンのストーリーは五分おきに急展開し、殺戮はもちろん、タイムスリップしたり宇宙に行ったり恋愛があったりと忙しい内容だったが、そんな内容であるだけに開始四十分あたりから大輝と石楠花は疲れはじめ、楽しそうにしているのはシロのみという、予想通りの状況に落ち着いていた。

 シロは何かあるたびに、いちいち大輝の腕を引いて揺する。

「見よ大輝、あの南蛮人ども、海の中できすをしておる」

「は、はあ」

「よう分からんが心地よさそうじゃ――ええい、さっきから鬱陶しいのう」

「え?」

「何、こっちの話じゃ。おお大輝、ろぼっとが現れおったぞ。あやつが腰につけている物は何じゃ」

「あれは浮き輪ですね……」

 ずっとそんな調子であった。

 映画はそれからも物凄い勢いで続いたが、殺人ロボットがプロレスラーたちに破壊され、大型タンカーと共に爆発したところでようやく決着し、テーマ曲と共にテロップが流れ始めて、百十二分に及ぶ長い道のりは終わった。

 To be continuedの文字が気になるところではあったが、取り合えず、大輝は大きく息をついた。

「……終わった。すごい映画だったなあ」

「あたしも同感……」

「ふむ――」

シロは満足げに言う。

「映画というのは良いものじゃのう。昔からこのようなものがあれば、しろも退屈せなんだが――しかし我が侭に付き合わせて悪かったのう」

「そんなことないですよ」

「あたしも別に構わないよ。いい経験になって良かったんじゃないの。それにしても――」石楠花は足下に顔を向ける。「いつまでも真っ暗なままだね。そろそろ足元の灯りくらい点いてもいい頃なんだけど……これじゃ歩くことも出来ないじゃん」

「灯りは点かんぞ」

シロは当然の如くにそう言って、立ち上がる。

「さて、そろそろ片付けねばな」

「片付けるって何をです?」

「先刻、石楠花は妖気をしろのものと思うたようじゃが、それは間違いじゃ。しろはちゃあんと妖気を消しておった。――見よ」

 ぼわん。

 炎が生まれた。

 シロが開いた掌の上で、炎の玉がゆらめいている。

 石楠花は焦って立ち上がる。

「な、な、何やってんだい!」

「しろの狐火じゃ」

「じゃなくて! こんなところでそんなことして、人に見られ……」

「人などもうおらん」

「え――?」

石楠花は、炎によって少しは明るくなったボックス内を、きょろきょろと見回す。

 大輝も立ち上がって見回した。

 どの席にも人がいない。映画が始まる前は、ちらほらとだが、確かにいたのに。

帰ったのだろうか。いや、そんな気配はなかったし、第一、さっきまでの暗闇では通路を歩くことも難しかったはずだ。

 シロは涼やかに語る。

「しろたちのことも狙うておったが、映画を見る邪魔なので、今までしろが払っていたのじゃ。――それにしても、大したものではないと思うておったら、何とまあ、ここまで力を蓄えておったとはな。これでは恐らく、片付けねば出ることもかなわぬ」

「何の話……ですか?」

「上を見よ」

 言われて、大輝と石楠花は天井を見る。

「――うあ……」

大輝は腰を抜かしかけた。

 それは異様な光景であった。

 無数の長い腕が、暗い天井を埋め尽くさんばかりにぶら下がり、蠢いている。

まるでイソギンチャクの触手のように。

天井そのものも、何か人肌のような材質――いや、違う。あれはもう天井ではない。何かの体なのだ。

その中心に、人の背丈ほどもある、肉の割れ目のような穴があり、口のようにぱくぱくと開閉している。

 石楠花は身構えた。

「な、何だよこれ……でっかい……妖怪?」

「下がり腕じゃ」

「……さがり、かいな……?」

「石字縛師の末裔がそんなことも知らぬのか。人家の天井に成り代わり、家の者が寝ている間に腕を垂らして引き上げ、一飲みに食ってしまう化け物じゃ。ここまで大きいのは初めて見たが――一体どれほどの者を食えばこれほど育つのやら」

「あいつに食われたのかい、さっきまでここにいた人たち……」

「じゃろうな。映画を見ている間、次々と気配が消えておった」

「あんた……」

石楠花はシロを睨む。

「あんた、それ、黙って見過ごしてたのかよ」

「何を怒っておる。別にしろが殺したわけではないわ」

「そういうもんじゃないんだよ、人ってのは!」

「ふん」

シロは鼻を鳴らす。

「おぬしはそうしていつも、しろのすることに文句をつける。いつもいつも……それだからこそ、さっきだけは……何者にも邪魔をされたくなかったのじゃ」

「何のことだよ!」

「しゃ、しゃくネエ」

大輝は板ばさみのポジションで慌てる。

「確かに話し合いが必要だとは思うけど、今はそういう時じゃないんじゃ……って、危ない!」

 恐ろしく伸びた腕の一本が、天井から一直線に石楠花を襲う。

 悲鳴を上げる石楠花を、シロの狐火がかばった。

 燃え上がった腕はぐねぐねと暴れたが、はね上げるように振るわれたシロの逆手刀がそれを断つ。斬られた腕の先は飛んで座席のひとつに落ち、その座席はパチパチと燃え始める。

 シロは舌打つ。

「奴め、本腰を入れてきおるぞ」

「じょ、冗談じゃない! さっさと逃げなきゃ!」

石楠花は立ち上がり、出入り口目掛けて駆け出した。

 シロが制止する。

「待て、それはもう扉ではない!」

「えっ?」

振り返る石楠花。

その背後で、両開きの扉が変形した。

それは――箱根細工のように組み合わさった腕の塊であった。

 ばらりと分解した無数の手が石楠花を捉える。

「や、やだっ……」

「小娘、石字縛符を使え!」

「そんなの持ってない!」

「なっ――何故持っておらぬ、無用心な!」

「だってあの嫌な感じの正体があんただって分かったし!」

「阿呆! しろの他にも化け者どもが解き放たれたと言ったであろう!」

「そういう連中はあんたにビビって逃げたんじゃないのかよ!」

「身の程知らずや、こういう知恵無しは別なんじゃ!」

「そんなこと聞いてな……うわああ!」

べらべらと言い争う間にも、石楠花は無数の腕の中に飲み込まれてゆく。

 シロが跳んだ。

「ちいっ!」

ぶわりと中空で舞うように回り、続けざまに火の玉を生んで飛ばす。

 石楠花のすぐ近くにそれは尽くぶつかり、腕たちは驚いたような動きを見せて石楠花を放した。

 床に転がって石楠花は怒鳴る。

「あ、熱い――っ! 何すんだよバカ狐!」

「助けてやったのにその言い草は何じゃ!」

「うるさいっ! さっさとその炎で、この化け物やっつけろよ!」

「たわけ!」

シロは空中で、襲ってきた三本の腕を叩き斬る。

「こやつはもう四方を取り込んでおる! 全て焼き尽くすことなど造作も無いが、それをすれば、しろはともかく大輝まで黒こげじゃ! 逃げ場がなくては仕様がない!」

「強いくせに役立たずだな!」

「やかまし――大輝、後ろを見よ!」

シロは鋭く大輝に叫ぶ。

 大輝はいきなり言われて戸惑い、背後に下がっていた一本の腕に、後ろ襟を掴まれた。

「うわ、あ、あっ!」

物凄い力で、魚が吊り上げられるが如く、大輝の小さな体は浮上した。

 あっという間に、座席の並ぶ床は遥か下方。

 大輝は悲鳴を上げる。

「や、やめ――やめてくれっ!」

「大輝、暴れてはいかん、落ちてしまう! 今助けに……」

「畜生――っ!」

必死にもがく大輝の耳にシロの叫びは届かなかった。

 無我夢中で両手を後ろに回し、自分を掴んでいる手を払おうとする。

 しかし、人一人を簡単に持ち上げる怪力はどうしようもない。

「は……な、せ……っ!」

 大輝の中で何かが燃えた。

 それは一瞬であった。

 その刹那だけ、金色の光が大輝の左目に宿ったことに、シロや石楠花はおろか、大輝自身も気づくことはなかった。

 手は、怖れるように大輝を放した。

 落下が始まる。

「わああっ!」

「大輝!」

スクリーン前の床に叩きつけられる、そのすんでの手前で、シロの腕が大輝を抱きとめた。

「大輝よ、体は平気か? よう人の力であれを払ったな」

「あ――は、はい……?」

「よし、立て。しろから離れてはならぬぞ。ついでに小娘もこっちへ来い」

 シロはそう言って二人を寄せると、足を大きく広げて腰を落とし、背を丸める。

獣が警戒するような構えであった。

その周りを、七つの火の玉がぐるぐると飛び回る。

 すぐさま立て続けに襲い来る腕たちを、シロは目に見えぬほどの速さで叩き斬ってゆく。

 血しぶきが散り、ぼとぼとと床に落ちる手首。

 石楠花は大輝をかばうように、その肩を抱きしめた。

「大輝……」

「しゃ、しゃくネエ」

「あっ、これ貴様! 大輝にべたべたと触るでない!」

迫る腕を斬り払いながら、シロが怒鳴る。どうでもいいことだがいつもと逆である。

 ぐにゃりと床が揺らいだ。

 いや――それは床ではなかった。

「くっ……足下までもが……」

シロは歯をきしませる。

 黒かった床が人肌の色へと変わり、ぞわぞわと、あちこちより腕が生えてくる。

 大輝は足を掴まれた。

「げっ……」

「大輝――うぐっ?」

石楠花の首を、いつの間にか背後から生えた腕が締め付ける。

 シロはそれらを払おうとしたが、床から生まれた腕の壁に阻まれた。

「くっ――」

長い爪を伸ばして無造作に斬るも、後から後から腕は生えてくる。

「ええいくそ、邪魔じゃ!」

無数の腕たちは、だんだんとシロの体にも絡みつく。

さすがに力で負け、シロは動きを奪われる。

「く……他の者を守りながら戦うのが、これ程厄介とは……っ!」

 そこはもはや、わらわらと蠢いてはなびく腕の森であった。

 天井の巨大な口が、いざ三人を吊り上げて飲み込まんと、不気味に開閉している。

口の中は、どこへ通じているとも知れぬ闇である。


 五


 闇の中から、一つの影が落ちた。落ちたというよりは飛び出したといった方が正しいか。

 その者は落ちながら、迫り来る腕を足場にして何度か軌道を変え、腕の生えていない隙間を狙い、すたりと降り立った。そこは大輝たちのいるスクリーン際から離れた、最上段である。

「――ふう」

 背筋の真っ直ぐな、痩せた禿頭の老人。黒いジャンパーにジーンズという、若者のような出で立ちのその老人は、異界と化したボックス内を見回して、ぽりぽりと毛のない頭をかく。

「やれやれ。寝てる間に化け物に食われ、慌てて腹の中から抜け出してみりゃ……こりゃ、もしかして下がり腕か? 妖気が大したことねえから油断したな」

胸ポケットに手を突っ込み、ごそごそと中をあさる。

「映画なんぞやめとくんだったかな。どうせ座った途端に寝ちまったしよ」苦く笑う。「ま、見つけたからにゃ退治しなきゃいけねえだろうな。――ごみごみした感じに混ざって、一つ、バカでかい妖気もあるのが気になるが」

取り出したのは、一枚の竹札だった。

「――取り合えず、こいつでも食らいな」

 投げられた札を中心に、紫の閃光が生まれる。

 爆音と共に、腕の海を切り裂くように雷が走った。雷は座席の上を、壁を、床を、通路を、生き物のように駆け回る。

 スピーカーからうめき声のような暗音が轟いた。


 六


 ――突然に体を締め付けていた腕たちが離れ、大輝はバランスを崩して膝をつく。

 顔を上げると、同じように膝をついて首をおさえている石楠花と、駆け寄ってくるシロがいた。

 シロはしゃがんで大輝に抱きつく。

「すまぬ大輝、しろの技量が及ばぬばかりに、このような!」

「あ、いや、それはいいんですけど――」

顔に当たるふくよかな感触にどぎまぎしつつ、大輝は横目で辺りを確認する。

「何があったんでしょう、今……」

「ふむ――?」

シロは立ち上がって見回す。

「確かに何か強い力が走ったようじゃったが」

 足下と壁にざわめいていた腕どもが、ずるずると肉の中に引っ込んでゆく。天井から生えた腕はそのままだが、どれも文字通り手をこまねいて、さっきのように下へ伸びてくるでもなく、上の方で揺らめいている。

 石楠花が遅れて立ち上がる。

「く、苦しかった……でも、どうしたんだろ、いきなり……」

「分からぬ。おぬし、何かしたか?」

「してないよ。何も持ってきてないって言っただろ」

「では――、む?」

シロが遠くの隅に一つの人影を見つけた。

「あれは誰じゃ」

「えっ?」

石楠花はシロの視線の先、その者を見た。

 それは、遠くからでも分かる、見慣れた男だった。

「お……お爺ちゃんっ?」

「ええ?」

大輝も目を凝らす。

 狐火揺らめく闇の中、腕組みをして立つその姿は、確かに大輝も何度か会ったことのある人物――石楠花の祖父、石之助であった。

このボックス内にいたのか。入ったときは全く気付かなかった。

 石之助もこちらに気付いた様子で、おお、と手を挙げる。

「石楠花に大輝じゃねえか。お前ら、こんな馬鹿でっけえ下がり腕相手によく無事だったなあ」

とおん、とおん、と、老人とは思えぬ跳躍力で座席から座席へ跳び、三人の前に降り立つ。

「おや……何だ。でけえ妖気の正体はあんたかよ、姉ちゃん」

シロの顔を見上げる。

「もしかして、あんたがうちの孫娘たちを守ってくれたのかい」

「ん――」

シロは戸惑いつつも答える。

「まあ、の。石楠花めはついでじゃが」

「誰がついでだい!」石楠花が吼える。「だいたい、あんたが気付いてるくせに黙ってたからこんなことに!」

 シロは石楠花に取り合わず、石之助を睨む。

「じじい。貴様も石字縛師か」

「一応な」

「今のは貴様か」

「そうだ。しかし、でかくて禍々しい妖気だな、姉ちゃんよ。血の臭いもぷんぷんしやがる――そうか、あの夜、庭で感じたのはあんたの妖気か」

にやりと笑う。

「あんた人食いだな。今までにどれだけ殺して食った?」

「もう人は食わぬ。大輝に嫌われるでな」

「そうかい」

石之助は胸ポケットに手を入れる。

「何だか事情があるようだが……なんにせよ、話はこいつを片付けてからだ」

竹札を一枚取り出す。

「姉ちゃん、あちこちで燃えてる妖炎はあんたのだな。この符に、そいつをありったけ叩き込んでくれ」

「何じゃと?」

「それだけでかい妖気だ。辺り気にせず全力でやりゃ、こんな空間丸ごとブッ飛ばすくらいのエネルギーがあるんだろう。それを込めて、妖力の時限爆弾を作るのさ。で、そいつを仕掛けてから逃げ出すって算段よ」

「ふむ――じじいめ、位の高い術を使いおる」

シロは片手を突き出して構える。

「まあよい。気には食わぬが、下がり腕もまた気に食わぬ。それに今は大輝の身がかかっておるゆえ、言われたとおりにしてやるわ」

石之助の持った符に向けられた白い掌が、ごうごうと燃え始める。

 石之助は身構えて笑う。その頬には脂汗が滲んでいる。

「こりゃ凄え……体の芯までビリビリきやがる。相手があんたじゃなくて命拾いしたぜ」

「しろの力が分かるのなら全霊で構えよ。しくじって弾け飛んでも知らぬぞ」

炎が、大きさはそのままに光を増す。

激しい熱が空気を揺らめかせる。まるで一握りの太陽のように。

 そして、どん――と放たれた。

 符を持った両手に強大なエネルギーの直撃を受け、その圧力で石之助は大きく後退した。

 スニーカーの靴底がざりざりと音を立てる。

「ぐ……おっ、とォっ!」

こらえながら石之助は声を上げる。

 次の瞬間、狐火は符の中へと吸い込まれた。ばしゅんと激しい音が鳴り響き、石之助の手の中で、符は白煙を上げて光り輝く。

 石之助はそのままの姿勢で硬直していた。

「ふうっ……な……何とか取り込めたが……」

ちっ、と舌打ちする。

「こりゃやべえな。わしの意思に関わらず、こいつは暴走しちまうぞ」

「お、お爺ちゃん?」

「わしのせいじゃねえ、姉ちゃんの力が思ってたより強すぎたもんで、扱いきれねぇんだ。全く食えねえ姉ちゃんだぜ。妖気丸出しかと思ったら、まだまだ底力を隠してやがる――とんだバケモンだ」

「のんびり感心してる場合じゃないですよ!」

大輝は足踏みする。

「どうするんですか石之助さん、このままじゃ俺たちまで巻き添えですよ!」

「おお、いけねえ。急がねえとな」

石之助は札をいったんポケットに仕舞い、もう一枚の札を取り出して壁まで走る。

 三人もそれに続いた。

 不気味に脈動する肉壁の前、本来なら出入り口があるはずのところで立ち止まり、石之助は札を構える。

「さてと、ここだけでも封じちまわないと扉が出てこねえ」

「ねえ、さっきから思ってるんだけど、この馬鹿狐の馬鹿力で穴開けちゃえばいいんじゃないの?」

「誰が馬鹿じゃ……」

「穴を開けても、外とここは繋がらねえんだよ」

石之助は苦笑いする。

「細けえことは省くが、こういう化け物は包み込んだところを結界化しちまうんだ。だからこれから、局所的に妖力をぶつけて、そこだけ下がり腕の具現を無効化する。まあ中和させるってこった」

「は? なんでお爺ちゃんから妖力が出てくるわけ?」

「石字縛師が文字を通して発揮する力は、妖怪の力と同質でな。まあ追々説明してやるよ」

「? ……もうよく分かんないけど、助かるなら何でもいいや」

石楠花は理解を放棄したのか、投げやりに言う。

 瞬間、天井から数本の腕が伸びてきた。

 シロの腕が宙を薙ぎ、生まれた狐火がそれを吹き飛ばす。

「急げじじい。下がり腕め、しろたちを逃がさんつもりでおるぞ」

「おう、ちょっと待ってろや」

石之助は何やら早口に唱え、構えたほうの札が紫に輝くと共に、それを壁へと投げ放つ。

 札は肉壁に張り付き、周囲にばりばりと雷をはしらせ始める。

「ぬ――う」

手を構えたまま、石之助は唸る。

どうやら壁の札に力を送り込んでいるようだが、肉壁に異変は起きない。

「ダメだな……おい石楠花、お前もちょっと力を貸せ」

「ええっ?」

「お前にはまだ技を使いこなすだけの技量はねえが、血の力だけならわしよりずっと強いはずだ。そいつをわしに貸せって言ってるんだよ」

「そんなの、どうやって」

「わしの背中に手をあてて、わしに力を送り込むようにイメージするだけでいい。ほら早くしろっ」

「わ、分かったよ」

石楠花は言われたとおりに石之助の背に手をあてる。

 そうしている間にも、天井からは次々に手が迫る。

「いかん。力が戻ってきておるぞ」

大輝をかばいながらシロは呟く。

 床が再び動いた。

 四人の足下に、腕が、再びめきめきと生え始める。

 大輝は思わず飛び上がる。

「うわわっ」

「ちっ――早うせい、縛師ども!」

「やべえな……」石之助は壁の札を睨む。「石楠花、力が来ねえぞ! もっと意識を集中しろ!」

「やろうとしてるけどよく分かんないんだよ!」

 大輝を抱き寄せてシロが怒鳴る。

「この役立たずの小娘めが! おぬしのような能無しが義理の姉かと思うと、しろは恥ずかしうて身が縮む思いじゃ!」

 祖父の背に手をあてたまま、かっと振り返って石楠花も怒鳴り返す。

「誰があんたの義理の姉だ! それに――」

鬼の形相でシロを睨んで叫ぶ。

「何度言ったら分かるんだよ! 大輝にベタベタ触るんじゃないっ!」

まさかその気合いが引き金となろうとは。

 石之助が目を見開く。

「……来たっ!」

 張られた雷の陣が、一気に力の勢いを増した。

肉壁がずるずると四方へ退き、黒い両開きの出入り口が現れる。

 札が粉々に弾け飛んで雷が消えた。

「今だ、わしに続け!」

 扉を蹴り開けて飛び出す石之助。

 続いて石楠花が外の通路に転がり出る。

 シロが大輝の手を引く。

「出るぞ大輝!」

「ちょ、ちょっと待っ――」

「どうしたのじゃ!」

「せ――背中と足、掴まれて……うあっ!」

 床から生えたいくつもの手に捉えられ、大輝は恐ろしい力で引き戻されてゆく。

 肉壁がまた少しずつ侵食し、出入り口を塞いでゆく。

 シロは大輝の手を握ったまま、ぎりぎりと歯を軋ませた。

「――下賎な下がり腕めが、少しばかり肥え太ったからと、いつまでも図に乗りおって……っ!」

ざわざわと白銀の髪が蠢く。

「いい加減にせよ! うぬが掴んでおるのは、この大妖の夫ぞ!」

 飛び込んで大輝を正面から抱きしめ、ぐわ、と口を開く。

 牙だらけの口。

 その奥から、極大の炎が吐き出される。

 おびただしい炎は、壁を、座席を、天井を、舐めるように焼き尽くす。

 オレンジに染まり、みるみる燃えゆく腕の異界。

 天井の口からおぞましい断末魔が発せられ、轟き響く。

 大輝を縛る手が離れた。

 その身を抱いたまま、シロは後方へ跳躍して外へ飛び出る。

「止めじゃ、じじい!」

「おうよっ!」

石之助は、先ほどシロの力を封じ込めた符を胸より抜き、閉ざされかけている隙間から、中へと投げ放った。


 七


 大輝の父――殿山礼司は、シネボックスの向かいにあるオープンカフェで、のんびりとコーヒーを飲んでいた。

 腕時計をちらりと見て、ふむと唸る。

「三人とも遅いな……そんなに長いのか、地獄マシーンは」

 と、不意に騒がしくなった。

 顔を上げて見てみれば、シネボックスの正面出入り口から、中にいた人々が物凄い勢いで飛び出してくる。観客もスタッフも清掃員も、誰も彼もが、互いに他を押し退けながら、さしずめ割れ桶の水が流れ出すように。

 殿山礼司はその光景に首をかしげる。

「ふむ? ――ああ、ちょっと、お兄さん」

「な、何スか?」

礼司に呼び止められ、飛び出してきた若いスタッフの一人は、青い顔を振り向かせる。

 礼司は持っていたコーヒーカップをのんびりと置いて問う。

「中で何かあったのかね」

「それが、爆弾があるらしいんですよ」

「爆弾?」

「さっきスタッフルームに変わった連中が飛び込んできて、でっかい爆弾を見つけたから中の人を避難させろって、大騒ぎして」

「何と――」

「おじさんも早く遠くに逃げた方がいいですよ」

スタッフはそう言って、たったと向こうへ走っていってしまった。

 そこで石楠花の声がした。

「お義父さん!」

流れ出す人の波からぴょいと飛び出し、義理の娘はこちらへ駆けてくる。

 礼司は煙草の火を灰皿でにじり消す。

「石楠花……無事でよかった。大輝とシロさんは?」

「あれ、あれ」

石楠花が指す先には、同じくこちらへ駆けてくる、大輝とシロの姿、そして――

 礼司は、おや、と椅子から立ち上がる。

「お義父さんじゃないですか。お久しぶりです」

「おう、礼司か」

石之助は礼司の前で立ち止まり、ふうと息をつく。

「この年で走り回るのは疲れるぜ」

「大輝たちとは中で会ったんですか?」

「まあな」

「……もしかして、お義父さんも観たんですか、地獄マシーン」

「いやあ、観ようと思ったんだが始まる前に寝ちまって、起きたら何と、化け物の腹の中でよ」

「化け物?」

「しろのことではないぞ」

シロが横から言う。

 その瞬間。

 まさに空気が震えるような大爆発であった。

 轟音と共に激しい閃光と爆炎が生まれ、皆が見上げるシネボックスの上部が、冗談のように吹っ飛んだ。

 爆風を全身に受け、礼司は、呆然と口を開ける。

「――え」

 転がり落ちる金属の壁。

 離れたここまで飛んできて、足下にばらばらと降り注ぐ破片。もくもくと湧き出る黒煙。無数の悲鳴が周囲を包む。

 パニックの中、大輝が力なく呟いた。

「ああ……映画みたいになっちゃったな……」

 石楠花は呆然と見上げるのみ。石之助はぽりぽりと頭をかき、シロは――

「のう義父上や、地獄ましぃんは思うた通りに良い映画じゃったぞ」

その場の状況を全く無視し、嬉しそうに笑っていた。

 礼司は、ゆっくりと頷いた。

「……そうかい、それは良かったね」



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