第三章【任氏 ―じんし―】
一
子守唄が聞こえる。
静かで、きれいな声が。
大輝には分からない、昔の言葉で綴られる、優しい唄が。
どこかで聞いたことがあるような気がする。
どこで聞いたのだろう。分からない。
歌声の中で、大輝は幼い頃の思い出に巡り合っていた。
あれは冬だった。
大輝は風邪をひいていた。
小さな体を横たえるベッドの傍らには、母が椅子を置いて座っていた。
咳をして目を覚ますたび、母の優しい顔がそこにはあって、大輝はとても安心した。
母はずっと、大輝の小さな手を握っていてくれた。
温かな手から暖かな何かが伝わって、大輝の体を優しく包んでいるようだった。
そう――包まれていた。
「お母さん」
大輝はまどろみの中、手を握り返して呟く。
闇の中で聞こえてきたのは、やはり優しい声だった。
「目を覚ましたかえ」
「? ――っ!」
大輝はぱっちりと目を開け、跳ね起きる。
夢が霧散し、光が広がる。
目が合った。きょとんとした、赤い眼と。
「何じゃ……いきなり飛び起きて」
「あ――いや、あの」
大輝は狼狽する。狼狽しかできなかった。
体の痛みを感じながら、とにかく問う。
「こ、ここは」
「見て分からんか、おぬしの部屋じゃ」
「え……ああ」
そう。
確かにここは、大輝の部屋である。
だが、長身の白い女――この当たり前の光景には不似合いな存在が、大輝のベッドに腰を掛けて、大輝の手を――
「わ」
思わず、握られていた手を引っ込めた。
女は首をかしげる。
「何を恥ずかしがっておる。おぬしを抱え、ここまで運んだはしろぞ。それに」
細い目を殊更に細め、くすりと女は笑う。
「しろとおぬしは毎夜、この床で共に眠る仲ではないか」
「え――あ、いや」
大輝は、女の体温が残る手をなぜか布団の中に隠し、目を泳がせる。
「っていうか、その……」
恐る恐る、女の顔に視線を合わせる。
首をかしげたまま、うっすらと微笑みながら大輝の言葉を待つ、その顔。
睫毛の長い、穏やかな目。すっと通った鼻すじ。薄桃色の唇。
大輝は呆けた。
「……はあ」
「どうした?」
「いや、その……き」
きれいですね。
そう言いかけて我に返り、ぶんぶんと首を振る。
「いや、な、何でも――」
ずきん、と痛んだ。
「つ――っ!」
「これ、頭を振るでない!」
女の手が大輝の頭に伸び、ふわりと置かれる。
「あまり血は出ておらぬが、打ったあとがある。しばらくはあまり動かしてはならん。腹のわきも、左の腕もそうじゃ。腫れておるでな、気を付けよ」
女は大輝の頭を愛でるように撫で、すっと腕を引っ込める。
大輝は頷く。
「あ……はい、すみません……」
――じゃなくて。
大輝は思考する。
そう、まず俺はどこで寝たんだっけ。ここじゃないはずだ。
学校にいた。
授業も受けた。
それで帰ろうとして、白鳥先生……先生が……。
大輝は目を見開いた。
「あ――」
思い出した。
あの理科室での悪夢が、全身の痛みと繋がる。
「俺……白鳥先生に……」
「しらとりせんせい? あの、食み虫に憑かれた人間のことか?」
「……せ……先生は」
「見ておったろう。しろが殺してやった。あれに憑いた虫もな。だから案ずるな、もう怖くはない」
「……殺し……た?」
「どのみち頭の中を食われておったで、あれ自身はとうに駄目じゃったがな。ちゃんと息の根を止めねば食み虫が外へ逃げ出して来ぬから殺したまでよ。全く、悪い虫じゃ。あの者の体を操り、大輝をこんなに痛めつけおって」
「……。そっか……」
死んだんだ、白鳥先生。
大輝は――特に何の感慨も抱けなかった。
何だか現実のような気がしない。まだ悪夢が続いている気がする。
その反面、あれは夢などではなく、紛れも無い現実であったということも、体の痛みが教えていてくれるが、だからといって「なるほどね」と実感できるような出来事でもない。
まどろみのような夢うつつ。ここはその続きだ。
しかし、だからこそ、今なら受け止められることがある。
大輝は女の顔を見つめ、静かに確かめてみた。
「お姉さんは……シロなんですね」
「しろじゃ。しろはしろじゃ」
「……どうして、その……シロ……さんは」
自分でつけた名前にさんを付けるのも妙な話だが、目の前にいるのは、どう見ても大人の女性である。シロ、と呼び捨てにするには抵抗がありすぎる。
「シロさんは、犬だったのに、どうして人間になっちゃったんですか」
「人でも犬でもない。しろは狐じゃ。犬など大嫌いじゃ。――しろはな、ずっと昔に大陸で生まれた狐よ。あまり長く、どれだけ生きたかは忘れてしもうたが。今から何百年か前にこの国へ来て……色々と……」
色々とあって――とシロは眉をひそめる。
「そこな山の眠り石に封じられての。運良く強い雷が落ち、その石が真っ二つになったお陰で、こうして外に出ることが出来た。余計なものも色々と逃げたようじゃが」
「狐……って、そんなに長生きなんですか。人に化けたり……」
「狐の中でもしろは別じゃ。人の姿になったり、知恵があるのは、しろだけじゃ。他にもおるかも知れぬが会うたことはない」
女――シロは、ゆっくりと語りながら、母が子供にするように、大輝の膝の布団を丁寧に整える。
「しろは人の肉の味をおぼえ、それを食ろうて生きるうち、だんだんと知恵が身についてきての。いつの間にやら長く生き、いつの間にやら力を持っておった。まあ、ひらたく言えば狐の化生よ」
「……化生」大輝は布団をなおすシロの手をぼんやりと見つめる。「……人間を食べるんですか」
「うむ」
当然のようにシロは頷き、座りなおす。
「人の肉は美味い。煮ても美味い。焼いても美味い。生でも美味いし、殺すときの悲鳴も怖れる顔も、みじめな命乞いを断ち切る刹那の心地もまた格別よ」
楽しい何かを思い出すようにシロは笑い、そしてゆっくりと真顔に戻る。
「じゃが大輝のことは食わぬと決めておる。初めは得体の知れぬ生意気な小僧と思い、力が戻れば五体を引き裂き、生のまま食らってやろうかなどとも考えておったが、今ではもう、そのようなことは考えておらぬ。しろは大輝が好きじゃ。大好きじゃ」
大輝の膝に、布団の上からしなだれかかる。
「人など皆、食い物と思っておった。よく動く玩具と思っておった。そして……そうでなければ、醜い下衆であるとも知った。――じゃが大輝は違う。大輝はしろの恩人じゃ。親のようなものじゃ。それに――」
シロは、大輝の膝の上で顔を上げる。
白面の頬を紅に染め、澄んだ赤い瞳で大輝を見つめる。
大輝は困惑した。
「え……と」
ぐるぐると思考が回る。
化け狐――で、人食い?
すごく悪くて怖いバケモノじゃないか。
でもきれいな人だ。目は妙に細いけど、そこがまた何とも特徴的で。
こんな美人が、俺のことを大好きって、そんな夢みたいなこと。それもこんなに寄りかかって。ああ、でも人食いなんだ。しかも殺すときの悲鳴がいいとか何とか、冗談みたいに残酷なこと――マジかよ。人殺しって初めて会ったかも。何人殺したんだろう。きっと大勢殺したんだろうな。しかも食べたんだ。美味しいって言ってるし。白鳥先生のことも殺したって言ってたけど、やっぱりあの後……うわ、考えたくないそれは。
っていうか妖怪?
けっこう年上だよな。女の年ってよく分かんないけど、二十五歳くらいかな。いや、何千年も生きてるんだっけ――ホントに? 大陸って中国? 外国人? 確かにちょっと中国ぽいかも。中国の妖怪ってことか。
妖怪。
めちゃくちゃ背ぇ高いな。バレーの選手みたい。でもやたら手足が細いし、スポーツとか似合わない感じだな。
あ、俺があげたリボン。髪しばってるんだ。気に入ってくれたのかな。
どんどん滅裂になってゆく思考を断ち切ったのは、階下より届いた義姉の声だった。
「たいきーっ、いるんだろー?」
大輝は思わず、げっ、と飛び上がる。
「しゃくネエが帰ってきてる!」
「そういえばさっき下から物音が聞こえておったわ。まあ、大輝が気を失ってから一刻ほども過ぎておるからの」
「ど、どうしよ……」
何だ、どうして俺は焦ってるんだ。悪い人食いの妖怪と――いや、それは物凄いことだけど関係ない。じゃあ何だ?
ええと――
そうだ、女の人なんだよ!
こんな色っぽいオトナの人と二人っきりで部屋にいるって……こんなことバレたらどうするんだ!
大輝はベッドを下り、立って頭を抱える。どうでもいいし当たり前だが、学生服のままだった。
「うわ……やばい……やばすぎる」
「大輝はあの小娘が怖いのか?」
シロはベッドに座ったまま、ふんと鼻を鳴らす。
「成る程な、やはり思うた通りじゃ。あの女は日ごろ大輝を脅しつけておるのじゃな。話し振りから最初は大輝の姉かとも思ったが、どうにも顔かたちが似ておらんし、何より昨日の振る舞いは妙じゃった。大方器量に自信が無く、力ずくで縛っておこうという魂胆じゃろうが……そうはこのしろが許さぬわ」
ざわざわと、頭の上で巨大なポニーテールがざわめく。
「叫ぶ間も無く切り刻み、どこぞの臭い肥溜めにでも放り込んでくれる」
赤い目を鋭く輝かせ、歯をきしませる。唇の端から牙がのぞく。
大輝はぎょっとした。
「――ちょ、ちょっと! 何わけ分んないこと言って……って言うか殺しちゃダメ! ダメですから! しゃくネエは俺の義理の姉貴で……じゃなくて、誰だろうと人は殺しちゃダメですよ!」
「大輝は難しいことを言う。誰も殺さねば誰を食うことも出来んではないか。生きたまま丁寧に食ってもゆくゆくは死ぬぞ」
「だからそうじゃなくて、ああもう――とにかく物騒なことはやめてください!」
「あのように粗暴そうな小娘にも情けをかけるか。そうした心の優しさがお前の良いところじゃがな、大輝。これより先、その優しさはしろにだけ向けてくれればよい。大輝が誰か他の者……いや他の女に優しくするのを思うと、しろはなぜだか辛くなるでな。――中でもあの小娘は格別気に食わん。大輝を見る目が気に食わん」
「だめだ、話になってない」
大輝は肩を落とす。
とんとんと階段を上る音がする。続いて石楠花の声。
「おい大輝、いるんだろ? 返事くらいしろよ」
大輝はまた飛び上がる。
「あ……上がってきた!」
「扉を開けたときが小娘の最期じゃ」
「だからダメですって!」
「そんなにだめか」
「ど、どうしたら……、あっ」
大輝はひらめく。
「そうだ! シロさん、俺のことどうやって運んできてくれました?」
「抱えて飛んできたぞ」
「やっぱり! 何となくそんな気がしたんだ――妖怪って空飛べるんですね?」
「皆ではないがしろは飛べる。この通りじゃ」
シロはベッドから座ったままの姿勢で、ふわっと浮いてみせる。
「造作もないことよ」
「よし、じゃあ窓から! ちょっと窓から外へってああダメだっ!」
大輝はまた頭を抱えた。
そんなことをしたら、見つけた近所の方々がどう思うか。きっと女が空を飛んでいると思うだろう。その通りだし。いや待て、そもそもここまで運んできたということは、下手したらもう誰かに見られて――
「ああ……っ」
大輝の頭はパンク寸前だった。
こんこん、とドアがノックされる。
「大輝、入るよ?」
「あ――ちょ、ちょっと、あ……」
宙に浮いているシロ。状況の悪さは倍加している。
ドアに向かい、大輝は手をバタバタさせる。
「あ、その、しゃくネエ、あのね!」
「――何だか分からぬが、まだ駄目らしい。仕方ないのう」
背後でシロの不満そうな声。
ドアが開き、石楠花が顔を突っ込んでくる。
「大輝……って、な――何やってるんだい! 誰だよその女の人は! まだ中学一年生のくせに、そんな大人の女を部屋に連れ込んで、二人っきりで何してるんだ! 口では言えないような、ものっすごくヤラシイことしてたな! そうなんだろ! ひどいよ大輝、あたしだって大輝のこと、ちょっといいなって思ってたのに! 義理の弟じゃなかったら告白できるのになあって、ずっと思ってたんだぞ!」
と――それは一瞬で大輝の脳内を駆け巡った、多分に妄想を含んだ予想であり、実際の石楠花の反応は、実に冷静でつまらぬものだった。
「何だい、また一人でぼんやり突っ立って」
「え――」
振り返る。
シロはいなかった。
大輝は間抜けに口を開ける。
「あれ……」
「どうしたんだい」
「あ、いや、何でも……」
「これ」石楠花は数学の参考書を手渡してくる。「今日の朝渡そうかと思ってたんだけど、忘れてた。あたしが一年の頃使ってたやつ」
「え――あ、ああ」
「それけっこう役に立つから。公式憶えるときに使いな」
「あ……ありがと」
「ん? お前、なんかほっぺたにアザが出来てないかい?」
「あ――その、ちょっと体育で打っただけだよ」
「ふうん。そんじゃ夕食出来たら呼ぶから」
石楠花はそう言って、そっけなく扉を閉めた。
大輝はドアの前に、今度は本当にぼんやりと立ち尽くした。
二
石楠花は義弟の部屋のドアを後ろ手に閉めると、ふうと息をついた。
「ま、意味はないと思うんだけど、一応ね、一応」
自分に言い聞かせるように呟く。
非科学的にも程があるが、何だかこうせずにはいられなかったのだ。
ポケットの中にある単語帳にしてもそうである。
それにしても、今の大輝は何だかおかしかった。ドアを開けたら妙に焦って――
「あ」
考えて、ふと思い当たる。
弟も年頃だ。部屋で一人のときにする、家族に見られたくないことといえば。
「……そっか」
一人で勝手に赤面する。
食事までに、手、ちゃんと洗えよ。
心中で義弟に語りかけ、石楠花は部屋の前から去った。
三
義姉の心知らず、大輝はきょろきょろと間抜けに部屋を見回していた。
「シロさん……?」
いない。本当についさっきまでいたはずのシロが、忽然と消えてしまった。
「……シロさん……」
いなくなってしまった?
大輝は急に、手に掴みかけた大切なものを、呆気なく失ったような焦りに――包まれる間もなく、ベッドの下から、その白い小さな影は飛び出した。
もとの、昨日までの姿のシロ。
それが、瞬間、激しい銀色の光を発する。
大輝は眩しさにぎゅっと目を閉じる。
「う――?」
数秒たって、そろそろと目を開けると、そこには、ベッドに腰掛けてそっぽを向くシロがいた。
さっきと同様、白い女の姿をしたシロだった。
「……ふん」
シロは大輝と目を合わせず、ふてくされた面持ちで口を尖らせる。
「大輝はしろを隠そうとばかりする。昨日までは獣の姿だからならぬと言い、力が戻って人の姿を作れるようになっても、それはそれでいかぬ様子じゃ。大輝はしろといるのを見られるが、そんなに恥ずかしいか」
「あ――」
大輝はシロの姿を前に暫し硬直したが、我に返って否定する。
「ち……違うよ、そうじゃない……です」
「ではなぜ隠す」
シロは振り返り、ぶすっとした顔で言う。
「しろは今、惨めな気持ちじゃった。大輝がしろのことを、人の目に見せられぬ、みっともない女と思っておるのではないかと、そんな気になった。ならばしろはずっと隠れておる。大輝がそう望むなら、住まうが寝床の下でも文句は言わぬわ。ただ――」
少しずつ、シロの高い声が揺れる。
「……ただ、しろは悲しい。何だか分からぬが心が痛い。しろはかようにも大輝を慕っておるに、大輝はしろを恥ずべきものと考えておる。きっと、いつも優しく撫でてくれたのも、膝に乗せて言葉をかけてくれたのも、しろを可愛いと思ってしていたのではなく、ただ哀れと思っていただけなのじゃ。さっきまでの安らぎも幸せも、何もかもしろの一人よがりだったのじゃ。あの言葉すら……」
声がかすれてゆく。
「そう思うと――そう思うとしろは、何故だか分からぬが、腹が立つより――」
唇を結び、壁を見つめたまま黙ってしまう。
すん、と形のいい鼻が鳴る。
その細い目から一粒の涙がこぼれ落ちる。
シロの言葉は続かなかった。
――大輝は大いに動揺した。
「あ、いや、その」
口ごもる。まさか泣くなんて。
「聞いてください。それは――違いますよ、シロさんはその……何ていうか、俺の目から見ても、ちゃんと素敵な人ですよ。仔犬――じゃなくて仔狐か――とにかくちっちゃい姿の時だって……そりゃ確かに最初は可哀想と思って拾っただけだったけど、すぐ可愛いなって……ホントに。だからそんな、変な風に思い込まないで下さい。――でも、でもですね、その」
「……大輝はしろが好きか」
「え? あの――」
「答えよ大輝」
シロは大輝の目をまっすぐに見る。
「はっきりと答えておくれ。大輝はしろが好きか」
真剣な、心ごと投げ出してぶつかってくるような、思いつめた眼差し。
揺れる白銀の前髪の奥、涙に濡れた赤い瞳。
気おされるがままに大輝は頷いた。
「は……はい。好きで――、わっ!」
「大輝!」
言い終らぬうち、シロは腰掛けていたベッドから跳ね上がり、大輝に抱きついてきた。
驚いて参考書を落とし、長い腕の中で大輝はもがく。
「ちょ、ちょっとシロさ……、っ?」
身長差のせいで、顔面がもろに、深い胸の谷間に埋もれる。
柔らかすぎる。腕もだ。女の人の体ってこんなに――ああ、なんていい匂いなんだろう。
シロは大輝の頭に頬擦りしながら、甘えるような声で言う。
「しろもじゃ。しろも大輝が大好きじゃ。このような心持ちは本当に初めてじゃ。もう、どうすればいいか分からぬ!」
「ちょ、ちょっとシロさん、そんな……そんなに密着して体こすりつけたら……っ」
「大輝――ん?」
シロの動きが、大輝を抱きしめたままぴたりと止まる。
「しろの太ももに何か当たっておる」
「あ……こ、これは」
「――。大輝」
シロは腕をほどき、一歩、離れる。
「……大輝はしろの体に情をおぼえたか」
「あ、いや、その」
大輝は両手で股間を隠す。
言い分けも出来ないし、こんなみじめな姿はない。赤面すらできない。
「これは……ですね」
「大輝は――」
シロは大輝を見下ろし、無表情で静かに、しかしとんでもないことを問うてきた。
「大輝は、しろの身を遊び物にしたいと思うたか?」
「んなっ?」
大輝は目を丸くして、ぶざまな前屈みで否定する。
「な――ちょ、何言い出すんですか! ち、違います、断じて!」
思わずつばが飛んだ。
大輝は無意味に手をわなわなとさせ、思いつく限りの言葉を並べ立てた。
「そりゃ何というか邪なことを感じないでもなかったですけど、それは俺にも俺なりに本能というものがあるからで、つまりいわゆる自然な反応というやつで――女性を遊び物にするとかそんな、最低なことは断じてですね」
「……。そうか」
狼狽をきわめる大輝の顔を見つめ、安心したようにシロは微笑む。
「大輝はそうじゃな。そうした子じゃな。やはり……しろの思うた通りじゃ」
するりと、着物の肩をはだける。
「なあ大輝、おぬしならば良い。おぬしにならば、しろは身を委ねようぞ。いや――」
「え……?」
「委ねたい。抱いておくれ、大輝。この身を――そなたの優しき腕のうちで清めておくれ」
再び腕が伸びてくる。
大輝は腰を抜かした。
情けなくも、文字通りに。
「……はあ?」
すこんと下半身の力が抜け、その場に尻餅をつく。
「シロさん――?」
話が飛びすぎだ。
抱くって、いつもみたく抱っこするって意味じゃないよな。服脱ぎかけてるし。
冗談か? いや、マジなのか。マジだよな。こういうのって、こんなに急なものなのか? いや、そういう問題じゃなくて。
シロは追いすがるように、座り込んだ大輝の上に覆いかぶさってくる。
二人は再び密着した。さっきと同じように。今度は、互いに床に寝ているというだけだ。
「……大輝は……まだ女を抱いたことはないか」
「え――? は、はい」
何普通に答えてるんだ。うわ――あったかい。重みが気持ちいい。
「ちゅ、中一……ですし」
「そうか――」シロは笑む。「ならば全てしろに任せよ。……しろもこのような高ぶりは初めてのことゆえ、いざ始まれば、どうなってしまうかは分からぬが――」
耳元で囁く切なげな声。
胸の鼓動が伝わってくる。
どきどきと激しい鼓動。
言葉どおり、シロの胸も激しく脈打っている。
首筋に何かがあたり、動転した大輝は女々しい声を上げる。
「う……っ……」
舌――? 熱い舌先が――
その時、重なった二人の傍らで、ばちんと何かが弾けた。
突如として紫の閃光が生まれ、シロは悲鳴を上げて吹っ飛ぶ。
「んっ――ああっ!」
「え……?」
大輝は我に返って目を見開く。
シロは勉強机の本棚にもたれ、長い両脚を投げ出して、腕をおさえていた。
しゅうしゅうと、その腕から煙が上がっている。
「馬鹿な……これは……石字文句の符呪? なぜこのような!」
「し、シロさ――」
大輝は立ち上がり、駆け寄ろうとした。
シロはそれを制する。
「寄るな、危ない!」
「え――」
「これは、この術はしろの妖気に、――ああっ!」
ばりばりと、紫色をした雷のようなものがシロを襲う。
その雷は、床の上に落ちた参考書から発せられていた。
「何だ……?」
大輝は何することも出来ず、苦しむシロを前におたつく。
「し、シロさん、シロさん!」
「うあ、あ、ああ――っ!」
叫びと共に衣が裂けてゆく。生白い体があらわになり、そして。
白銀の毛が、その肌を覆い始める。
めきめきと音を立て、シロの顔が変わってゆく。
鼻が伸び、口が裂け、目が切れ上がり――狐。狐の顔に。
「うあ――はあッ!」
のたうつ長い尾。獣の尾だ。
大輝は息を呑んだ。
「し……シロさ……」
化け狐。
やはり本当だったのだ。
大輝は口を開けてそれを見下ろしていたが――きゅっと下唇を噛み、苦しむシロに駆け寄った。
「シロさん、しっかりして!」
「あ――ば――馬鹿者、触れるでない! 巻き込まれる!」
「でも!」
ばん、と扉が開いた。
「何だい今の声は!」
石楠花が飛び込んできた。
そして後ずさる。
「……え?」
参考書から発せられる紫の稲妻。
それを受けてもがく銀の獣。
突然目の当たりにしたこの世の外の光景に、石楠花は絶句していた。
「――何だ――これ――」
「う……ぐ……」
シロは身をよじりながら、憎々しげに唸る。
「白々しい……この呪を仕掛けたは、うぬであろうがっ!」赤い瞳が爛々と輝く。「しゃ……石字縛師の末裔とは……とんだ小娘じゃ……!」
「あ、あんた、バケモノ? 本物の? 石字縛師って、まさか――ま、まさか、お爺ちゃんが言ってたのって、全部、本当のことだったのか?」
石楠花は膝を震わせながら言う。
ばちばちと紫の光。壁が、天井が、紫に染まる。
シロは牙を鳴らす。
「我ながら、よもや二度の油断を許すとは……あの石落の血族よ……この……この手で、その首を……うあ、ああっ!」
シロの体が跳ね上がる。
毛皮の端々が破れ、血が散った。
大輝は動転し、視線を部屋中にはしらせる。
「く、くそっ。どうすりゃ」
床。そうだ。
「参考書!」
大輝は参考書に駆け寄り、稲妻が途切れた一瞬を狙って、部屋の外に思い切り蹴り飛ばす。
――沈黙。
稲妻は止んだ。
「止まった――」
大輝は廊下に出て、恐る恐る、参考書を拾い上げる。
ばさりと本の部分が落ち、手にはカバーが残った。
「……何だこれ……?」
カバーの裏には、意味不明な漢字の羅列があった。
とにかく、これがいけないのだろう。
大輝はカバーを破いて床に捨てる。
そして再び、部屋の中へ。
立ち尽くす義姉と、床に横たわる、人のような体かたちをした白い獣の姿があった。
大輝はシロに歩み寄り、傍らに膝をついてその肩を揺する。
「シロさん……シロさん?」
「……大輝」
「大丈夫ですか? あ――」
赤。白銀の毛皮に、鮮やかな赤が滲んでいる。
「シロさん……血……こんなに……」
「……いやな姿を見せてしもうた」
シロは大輝の顔から目をそらす。
ドア際の石楠花が口を開く。
「あんた――何? 化け物――だよね。ここで――大輝の部屋で何して――」
「わらわは、し……いや」
むっくりと体を起こし、鋭い爪のある手で胸を押さえつつ、シロは答える。
狐の顔に、大輝には決して向けなかった、邪悪な笑みを浮かべながら。
「わらわは任氏ぞ。遥か昔、大陸にて変化した狐の化生よ。数多の男を、女を、赤子を殺し、そして食らい、引き千切り……貴様の先祖に忘れえぬ仕打ちを受けた妖怪じゃ」
「な――」
「石字を継ぐ忌まわしき者よ。来やれ。わらわが相手に……、っ」
どさ、と倒れる。
「ぐっ……う」
「シロさん!」
大輝はシロの傷ついた体を起こし、その肩を抱く。
――石楠花は、制服のポケットから単語帳を取り出した。
「ひ……人食いの妖怪……? 冗談みたいだけど、冗談じゃないよ。えっと……あれ、どこだっけ……」
ぱらぱらとそれをめくり、うち一枚を切り離し、シロに向ける。
「あ、あった――これ! お爺ちゃんが一番強いやつって言ってた――のって、た、確かこれだよな」
「石裂符か、よもやそんなものまで持っておるとはな」
シロは捨て鉢に笑う。
「投げよ。……そして殺せ。ただし大輝がこの部屋から出てからじゃ。巻き込むわけにはいかぬし、それに――大輝に、我が身が醜く裂けゆくさまを見られるのはとても耐えられぬ。このまま腕の中で死ぬことが出来ぬのは……本懐ではないが」
静かに言う。
「最期に大輝が案じてくれた。衣が血に汚れるも厭わず、この体を抱き上げてくれた。それだけでわらわは満足じゃ」
「何言ってるんだい、ば、化け物のくせして!」
石楠花はけたたましく言い放つ。
「大輝のことだって、殺して食べるつもりだったんだろ!」
「会った初めはその心積もりも無いではなかったな」
「くっ――」
石楠花は、札を振りかぶる。
「大輝っ! 離れてなっ!」
「ど、どうするんだよ」
「やっつけるんだよ! 決まってるじゃないか!」
「だ――」
大輝は怒鳴るように言う。
「駄目だ、そんなのっ! なんかよく分かんないけどそれはダメだ!」
「バカ、大輝、何言ってるんだい!」
「かわいそうじゃないか!」
「人間を殺して食べるようなやつが可哀想なもんか!」
「心があるんだぞ!」
「だからって――このまま生かしておいたら、どうせまた人を食べるつもりなんだ! そうだろ!」
石楠花はシロを突き刺すように問う。
シロは低く答える。
「……そうじゃ」
「っ――」
石楠花は嫌悪に満ちた目でシロを睨む。
「――ほら見ろ! やっつけないと……こいつが食べるのは、お義父さんかもしれない! 歩美かもしれない! 大輝の友達かもしれない! それに――大輝かもしれないんだ!」
「……馬鹿め。今や大輝を食うものか……わらわは大輝を好いておる」
「まだそんなことっ!」
「しゃくネエ! シロさんもっ!」
大輝は叫ぶ。
「やめてくれよ! しゃくネエがなんでこんなこと出来るのか分かんないけど、こうやって話し合える相手を殺して、しゃくネエは平気なのかよ! それじゃ人殺しと変わらないじゃないか!」
「大輝、でも」
「シロさんも――昔何があったのか知らないけど! そんな簡単に殺せとか、殺すとかいう話、おかしいだろ! 絶対――くっそ、何なんだよコレ」
語る声が震えた。泣きそうだった。大輝はシロの肩を強く抱く。
「絶対変だよ、そんなのさあ……! だってシロさん、俺と話してるとき、今みたいに怖くなかったよ。見た目のことじゃなくて……優しかったじゃないかよ? ケガのこと心配してくれて……痛いとか辛いとか、分かるんだろ? 人間食べてたのだって、俺と会うずっと前の、ずっと昔のことなんだろ?」
「――大輝」
「絶対分かるよ、シロさんにも。ゆっくり話せば、なんで人を殺して命奪ったりするのが、ダメなことなのか……分かんないわけないんだよ。だからそれまで約束してくれよ。人間を食べない――もう、殺したりしないって」
「約束――?」
「そうだよ。そしたらしゃくネエも!」
顔を上げ、呆然とする義姉を見る。
「シロさんをそんな簡単に殺すとか言うなよ。シロさんがもう人を殺さなければ、シロさんを殺す理由だってなくなるんだから。第一……しゃくネエだって嫌だろ。俺しゃくネエのこと分かってるつもりだよ。こんな、わけも分かんないままシロさんのこと殺したら、絶対後悔すんだ。……そうならないためにも、しゃくネエも約束してくれよ。いいだろ」
「大輝……」
「いいだろッ?」
「そ――れは」
石楠花は目を泳がせ、くしゃりと札を握る。
「まあ――うん……まあ」
「シロさんは?」
大輝は続けてシロを見る。
シロは狐の顔をきょとんとさせたが、一呼吸してから、ため息のように答えた。
「……よう分からぬが、大輝がそのように言うのならばそのようにする。人の食い物や、どっぐふぅどで我慢するわ。あれもなかなか美味いでな」
そこでふと考えるように天井を見て、付け加える。
「特に赤い紙の貼られたものが良い。しろはあれが好きじゃ」
「ビーフ缶ね――分かった。買いだめしとく」
「……ドッグフード?」
札を握った手を下ろし、怪訝な顔の石楠花に、大輝は疲れ顔で笑う。
「ま、色々あってさ」
石楠花は、暫し呆然としていたが、やがて思い出したように悲鳴を上げた。
「あ――うわわわっ!」
「どうしたんだよしゃくネエ?」
「き、狐! こいつ狐じゃないか!」
「え? ……あ」
大輝も悲鳴の意味に気付いた。
石楠花は、その場でくらりと揺れ、卒倒した。
大輝はため息を一つ。
「石字縛師か……しゃくネエにも色々と聞くことが出来ちゃったな」
義姉の手から単語帳の一ページを引き抜き、ぴっと破る。
窓の外では、とっくに月が輝いていた。
四
同じ頃。
浅黒い肌の、禿頭の男であった。特に僧侶というわけでもなければ、七十という歳のせいで禿げているわけでもない。これが楽だからしているだけである。
寝間着の上に半纏を羽織り、一人、広い夜の庭を歩く。
風が抜けた。
ざわりと鳴った柿の木の下で歩みを止め、男は唸る。
「――む」
太い片眉が上がる。
「何かありやがったな」
男は懐より一枚の竹札を取り出し、握って目を閉じる。
握った手を伝い、札は老人に、禍々しい何かを知らせる。
眠り石に異変があった――か?
あれは、県を二つほど跨いだ遠く、今は孫娘の住む町にある。
石楠花。
しかし、気配がここまで届くとは。
「あちゃあ……とんでもねぇのが目を覚ましたらしいなぁ」
石楠花たちが関わっていなければ良いが。
それに――眠り石がもし壊れたとなると、心配なのは妖怪のことだけではない。
老人は唸り、月を見上げた。
五
居間。
「と、まあ、そういうわけだよ」
一通り語り終えた石楠花の目じりは、ひくひくと痙攣している。
大輝は特に驚きもしなかった。
「なるほどね……」
今さら義姉の家系が呪い師でした、と聞いたところで、飼い犬が女の人に変わってしまったインパクトに比べれば、どうということはない。もう、何でもどんと来いである。
それに現実、義姉の書いた符が力を発したのも目の当たりにした後だ。語った内容は疑うべくもあるまい。
石楠花は付け加える。
「まあ、あたしだって、さっきまで信じてもいなかったけどね。今まで化け物になんか会ったことないから、使う機会もなかったし」
「あの、亡くなった義母さん――石乃さんも、そうだったの?」
「お母さんもそうだったらしいけど、お爺ちゃんから色々習ったのはあたしだけだよ」
「大輝、ほれ、髪に糸くずがついておるぞ」
「あ……ど、どうも」
「お爺ちゃんは、あまり昔のことを話さない人だけど――話し振りからして、使ったことがあったみたいだね。でも今はそういう……妖怪とか、減ってるらしいから」
「のう大輝、この小娘の衣は、しろには窮屈じゃ。特に胸の辺りが苦しいわい。しろは大輝の衣がよい」
「いや、俺の服のほうがもっときついですから」
「仕方ないのう」
そこで石楠花はテーブルを叩いた。
「さっきから、そこ! そこの白女!」
「何じゃ」
シロは指さされ、ぎろりと睨みを返す。
石楠花は半ば立ち上がってまくし立てる。
「何じゃ、じゃないよ! さっきから話の邪魔ばっかり! それと大輝から離れろ!」
「余計なお世話じゃ」
シロは大輝の腕に腕をからめ、余計にしなだれかかって口を尖らせる。
「邪魔は貴様の方じゃ。貴様らの腐れた血族の話など、みみずの糞よりどうでもよい。しろは大輝と二人きりがよいわ」
テーブルを挟んだ二つのソファー。
片方には、肩をいからせた石楠花。
向かい側には、大輝と、それにべたべたと寄りかかるシロが座っていた。
シロはもとの――というか何というか、背の高い女の姿に戻っていた。この姿になったとき石楠花が改めて仰天したのは言うまでもない。
石楠花は再度テーブルを叩く。
「ミミズの糞って、あんたなあ!」
「きゃんきゃんと騒ぐでない。心無き誰ぞにやられた傷に響くわ」
「もうほとんど治ってるじゃないか! このバケモン!」
「聞いたか大輝。大輝の義姉は、しろを化け物としか呼ばぬ。しろをしろとして愛してくれるのは、やはり大輝だけじゃ。のう大輝?」
シロは甘えた声で言いながら、見せつけるように大輝にじゃれる。
今、シロは破れた着物のかわりに、石楠花のパジャマを無理やり身に付けていた。
脚が長いために、おさまりきらない向うずねが見え、ふくよかな胸のあたりは、ボタンが弾け飛びそうなばかりに張りつめている。
大輝は生々しいその姿から必死に目をそらす。
「いや、まあ……その」
それでも体温は理性を超えて伝わってくるし、甘ったるい香りはいやでも鼻腔をくすぐる。
石楠花が吼えた。
「だからくっ付くな! あたしの大輝――じゃなかった、義弟を惑わすなっていうんだよ、この妖怪!」
「惑わしておるなどと人聞きの悪い。妖怪でもしろはちゃんと大輝が好きじゃ。心底好いておる」
「あんたが勝手に好きなだけだろ、何千歳も離れてるくせに! 見た目だって倍くらい離れてるぞ! 犯罪だ犯罪!」
「ふん、愚か者め」
シロはにやりと笑う。
「大輝はそのようなことを気にするほど小さな男ではない。さっき、しろを好きと言うてくれたわ。しろは身が溶ける思いじゃった」
「な……大輝っ?」
「あ、いやその」
大輝は目を泳がせる。
「それは――何というか」
「それにしろは大輝の嫁ぞ。嫁が夫を慕い、身に触れたとて、一体何の悪いことがある」
「はい?」
「ええ?」
大輝と石楠花は同時に目を丸くした。
シロは自慢げに言う。
「ほかならぬ大輝がしろに言うたのじゃ。嫁に来ぬかとの。しろは大輝が好きじゃから断らぬ。しろは大輝の嫁になり、尽くし添い遂げるつもりじゃ」
「え――え?」
大輝は記憶をたどり、あらゆる自分の発言を検索する。
さっき。言ってない。
学校。言ってない。言ってない。
「え――と?」
出合った頃。出合った頃は……シロは仔狐だった。
仔狐の頃――
「……あ」
思い当たる。
――俺と結婚するか? ん?
大輝はうつむく。
「もしかして……言ったかも……」
「た、大輝、あんたっ?」
「あ! いや、それはでもシロさんがこんなアレだって知るわけなかったから!」
「ほうれ見よ」
シロは勝ち誇った目で石楠花を見る。
「しろと大輝の仲が分かったか、小便くさい小娘め。分かれば横恋慕で二人の仲にちゃちゃを入れるでない。しっ、しっ」
「な――あ、あ」
石楠花はみるみる顔を真っ赤にする。
「だ、だ、誰が、よ……横恋慕……」
「顔に書いてあるわ。しろを化け物のくせに大人のくせにと罵りながら、自分は姉の身で大輝を狙うておるではないか。ようまあ人のことをとやかく」
「うるさい! 別に血が繋がってるわけじゃないんだ!」
「ほう、開き直ったか」
「え……あ、れ?」
石楠花は不自然な半笑いで硬直する。
「あれ……あ、あたし今……え?」
大輝も呆然とする。
「――しゃくネエ?」
横でころころとシロは笑う。
「どうあれ大輝はしろの夫じゃ。よろしく頼むぞ義姉上よ」
「ふ……ふざけんなあっ!」
もはや石楠花は半泣きであった。
結局その晩、疲れきった姉弟の夕餉は、レトルトカレーとレンジ調理の白米。それと同じ席でシロがお気に入りのドッグフードをスプーンですくって食べるという、さもしくも異様な晩餐となった。
食事の後、シロは大輝と一緒に風呂へ入ろうとしたり、いつもの如く大輝と同じベッドで寝ようとしたのだが、石楠花の金切り声と羽交い絞めで阻止された。
シロ曰く、「器量無しの嫉妬深さは昔も今も変わらぬものじゃ」。
ともかくシロの寝床は居間のソファーという形で落ち着いた。
かくして――まだ心の熟さぬ中学一年生と、道ならぬ恋に気づき始めた中学三年生と、遅すぎる初恋に目覚めた化け物との、いつまで続くかも知れぬ同居生活は幕を開けたのである。