第二章【食虫 ―はみむし―】
一
あの雷雨より七日が過ぎていた。
まるで埋め合わせでもするように気持ちの良い快晴が続き、ここのところは、そろそろ秋も終わりだというのに、学生服の厚みが少々疎ましく思えるほどの暖かさである。地がぽかぽかと温まっているのが、ちょっと外を歩くだけで感じて取れる。
放課後、とうに乾ききった日之台中学校のグラウンド隅、校門近くのひっそりとした植え込みにしゃがみ込んでいる白衣の背後に小走りで歩み寄り、大輝は声をかけた。
「白鳥先生」
「ん――」
白衣の生物教師、白鳥泰三はしゃがんだまま振り返る。声をかけるまで、近づく足音にも全く気付かなかったらしい。わずかながら驚いたような様子だった。
「殿山君か」
「また昆虫採集ですか」
「うん、まあね」
白鳥は、どっこらせ、と小柄な体を立ち上がらせる。
まだ二十台の半ばということらしいが、妙に疲れた印象の教師である。ピンセットとフィルムケースを片手にしょっちゅう外をウロウロしている割には青白い顔、冗談のような丸眼鏡に、その奥の眠たそうな目。よれよれの白衣も手伝って、お世辞にも快活とはいえない風貌のため、生徒たちから特に好かれるということもないが、人格に棘や毒気が無いので嫌われるということもない。ただ、悪い言い方をすれば、少々ナメられがちな人間である。
しかし大輝はこの教師が嫌いではなかった。教師としてそれが良いことなのかは分からないが、人のすることにさして構わず、自分の世界を大事に生きている者とはなぜか話し易い。もしかすると大輝の内面にも案外そうしたところがあって、知らず知らず共感しているのかも知れない。
白鳥は腰を叩き、ちょっと首を左右に動かしながら、大輝の学生鞄を見る。
「もう帰りかい」
「放課後ですからね。今日は何捕ってたんですか」
「いや、蟻を補充しようと思って来たんだけどさ」
多分、理科室の隅に置かれている、土が詰まった水槽の中にいる蟻のことだろう。無論、巣を観察するためのものだが、生物部ですら大して熱心に観察していないと聞いたことがある。
「たまたま少し面白いのを見つけたんだ。ほら、これ」
白鳥は、蓋にいくつか針穴の開いた、透明なフィルムケースを大輝に見せた。
覗きこみ、大輝は首をかしげる。
「ハエですか」
それにしては、ほんのわずか、大きいように思うが。
白鳥は、それっぽいんだけどね、とケースを日の光に透かす。
「僕はこれ、見たことないんだなぁ。いや、他のところは君の言う通り、ただのハエと変わらないんだけど、足の先がね、少し違うんだよ。普通はハエの足って、物に張り付くために……って、これは前にも君には言ったよね」
「はあ」
言われたような言われなかったような。少なくとも細かい内容は記憶に無い。
白鳥は勝手に続ける。
「ただの奇形とも思えないし、もしかしたらちょっとした拾い物かも知れないよ」
「新発見ですか」
「さあねえ」
白鳥は他人事のような、そっけない面持ちで首をかしげる。
「ま、家に持って帰って調べてみるけどね。君も早く帰ったほうがいいよ」
「はい?」
「聞いていないかい。一昨日くらいかな。隣街で中学生が一人、変死体で発見された話」
「ああ」
聞いている。
というより、今日もその話題で、昼休み中クラスメイトと喋りあっていた。
額に穴を開けられ、中身――つまり脳を、滅茶苦茶にかき回されて死んでいたという男子中学生の話である。
猟奇的かつ無残で、悲しむべき事件であるが、ここのところ全国で立て続けに不気味な殺人事件が起きているため、テレビなどではある種の流行のひとつであるように、少々下世話に報じられていた。つまり、他とひとまとめのワイドショー扱いである。
白鳥はフィルムケースを白衣のポケットに入れる。
「犯罪も変なのばかりになってきたねぇ……気をつけて帰るんだよ」
独り言のように言いながら、校舎のほうへ、ひょこひょこと歩いていってしまった。
大輝はその背中に、さようなら、と声をかけ、しばらくぼんやりと見送ってから、校門を出た。
帰り道、少し遠回りをして駅前の百円均一の店に寄った。それなりに大きな店で、ペットフードなども、種類は少ないながら置かれている。
大輝は幼犬用の缶詰を四つほどカゴに放り込み、自分のためのスポーツドリンクも二缶選んで入れて、レジへと向かう途中、壁際にある棚のところで立ち止まった。気になるものを見つけたのだ。
「――これ……」
ふと、ある光景を想像し、大輝はそれの内から赤色を選んでカゴに入れた。
自覚はしていなかったが、大輝はこの一週間、ずいぶん急ぎ足で帰宅するようになっていた。寄り道をした今日とて義姉より早く家に着いたほどである。
玄関でいそいそと靴を脱ぎ、二階への階段を上りながら、大輝は毎回不安に思う。
……いなくなっているのではないか。
窓は閉めているし、ドアだってノブを回さねば開かない。だからそんなわけもないのだが、なぜだかいつも、こうして扉を開くたび、忽然といなくなってしまっているのではないかと、――いや。
今日もそれはちゃんと、ベッドの上にくるりと丸まり、眠っていた。
大輝は自然、顔をほころばせて呼ぶ。
「シロ」
呼ばれた途端、仔犬――シロは目を覚まして跳ねるように起き上がり、ベッドを跳び下りて、大輝の足元に駆け寄った。
大輝は部屋の入り口でしゃがんで、後ろ手にドアを閉め、その背中や頭を撫でてやる。
「いい子にしてたか、シロ? まあお前、寝てばっかだけどな」
白いからシロ。安易だが、わざわざ凝った名前など考える大輝ではない。
大輝は百円ショップのビニール袋からドッグフードを一缶出して、ベッドの横の大皿に開けてやる。ちなみに石楠花が「皿が一枚ない」とぼやいていたのは六日ほど前のことだ。
シロは長い尻尾を振り振り、それにかぶりついた。
大輝はベッドに腰を下ろし、シロの姿を眺めながら呟く。
「……元気になってよかったな」
今さらだが、一晩めは危ない状態だったと思う。
体を拭いたあと少しずつ動きが鈍くなってきて、温かなミルクを与えても、体はどんどん冷えてゆく一方だった。
なりふり構わず義姉に助けを求めようかとも思ったが、動物嫌いの石楠花が大輝より犬に詳しいわけも無いし、もっと状況が悪くなる可能性のほうが大きかったので、その案は自主的に却下。かといってあの時間では、もう獣医も開いていなかった。
仕方がないから大輝は自分の胸にシロを抱き、共に布団に入って、一晩中小さな体を温め続けた。
そうした努力の甲斐あってかシロは元気を取り戻し、それどころかここ数日は、餌をやったあと、大輝の膝に乗って甘えるまでに懐いている。
今もその通りだ。
大輝は微笑んでその背をくすぐる。
「なんか最近俺、家に帰るのが楽しみになってきたよ。こんなの初めてなんだけど、これってお前がいるからだよな」
大輝は、皿の中身を平らげたシロの体をひょいと持ち上げ、胸に抱く。
シロは心地良さそうに目を閉じた。
「お前かわいいもんなあ。人間だったら美人だよ、絶対」
たった七日で、大輝はもう親バカになりかけている。
しかし、事実、シロは美しかった。柔らかで長い、銀沢を帯びた白い毛。しなやかな体。目は切れ長で鋭いが、細めの顔立ちによく似合っている。
「俺と結婚するか? ん?」
にこにこ顔で頬ずりする。
こんな大輝の姿をクラスメイトが見たら、何と言うだろうか。
シロは大事にされているのが分かるのか、満足そうに、くう、と鳴いた。
そうだ、と大輝は思い出し、シロを膝の上に戻し、傍らに置いていたビニール袋から、さっき餌と共に買ったものを取り出した。
真っ赤なリボンである。大輝は枕もとのペン立てにあったハサミで、ちょうどいい長さにそれを切る。
「お前が嫌がったら外すけど。……これ付けてりゃ、もし一人で外に出ちゃっても、保健所に連れて行かれたりしないだろ」
言いながらシロの首にリボンを巻き、蝶結びできゅっと留める。
「よし――おっ、似合う似合う。やっぱり赤にしてよかったな」
シロはきょとんとした面持ちで大輝の顔を見つめる。
大輝はその頭を撫でながら言う。
「お前が俺んちの……」
いや、それは追々の話で、今はまだ違うか。
「まあ、俺と一緒にいる子だって証拠だよ」
シロはまだちょっと首をかしげていたが、やがて大輝に抱きつくように寄りかかり、かりかりと腹を引っかいた。
「分かった分かった」
またシロを膝から持ち上げて抱っこしてやる。
シロは大輝の胸に横顔を寄せ、再び静かに目を閉じた。
二
学校からの帰り道、石楠花は同級生の歩美と共に、コンビニで買ったアイスをかじりながら歩いていた。まあ、模範的な女子中学生の行動とは言えないが、こうも暖かいとアイスの一つでも食べたくなるのが乙女たちの人情である。
歩美と帰る時の話題というか議題は、専ら「我々も何とかして彼氏を作れぬものか」であるが、二人が友人と呼べる関係になってから一年と半年、これといった進展がないのが悲しいところだ。
まあ厳密には、本気で彼氏を欲しがっているのは歩美だけで、石楠花の方はそんなに切実な感情を抱いているわけではない。
歩美はぬるい風に幼き髪をなびかせ、今日も空を仰いでため息をつく。
「出会い、無いわね……学校なんて半分は男だっていうのに、どうしてこうも素敵な出会いが無いのかしら」
素敵な出会いなどというものを求めることが間違いなのだ――と少女が気付くのは、少女でなくなる頃なので、歩美の夢見がちな呟きも、今は無碍に笑い飛ばせるものではない。
石楠花は歩美のとろとろした足取りに合わせながら、そうだねえ、と苦笑う。
「ま、高校入ったら何とかなるんじゃないかな? お互い」
「あたし中学に入る前もそれと同じこと思ってたわ……」
「ふぇーっ?」
石楠花はアイスをひと齧りしつつ、歩美の顔を覗き込む。
「あんらひょうかっこふのとひから」
「何言ってるのか分かんないわよ」
「ん――ぐ」
石楠花はアイスを咀嚼し、飲み込んでから言い直す。
「――あんた、小学校のときから男が欲しいと思ってたのかい?」
「そんな言い方しないでよ! 彼氏が欲しい、って言いなさい……っていうか、この時代に何言ってんの。しゃくの小学校って遅れてたのねえ。うちじゃ六年生くらいからもう、付き合ってる子たちっていたわよ」
「世も末だなあ」
「同い年の発言とは思えないわね」
呆れ顔の石楠花に対し、歩美の方も呆れ顔である。
石楠花は、今度は少しだけアイスを齧り、うーんと考え込む。
「だって六年生っていったら、うちの大輝よりひとつ下だぞ」
「あら、大輝くんだってそろそろ彼女くらいいてもおかしくないんじゃない?」
「それはダメだよ!」
石楠花はけたたましく否定する。口からアイスの欠片が飛んだ。
歩美は過剰な反応に目を丸くしつつ、語る。
「な……何よ大声で。だってそうでしょ? C組の大下君とBの熊本さんだって、秘密にしてただけで、中一の頃から付き合ってたっていうし……ほら、夕子の彼も寺山中の一年生なんでしょ? 大輝くんが誰かと付き合い始めてもおかしくないわよ」
「それは――まあ、そういう時代なのかもしれないけどさ、でも」
石楠花は断固たる口調で宣言する。
「大輝をそこらへんの女に、簡単に預けるわけにはいかないな」
「はあ?」
「いや、だから! その……」
石楠花は最後のアイスを棒から舐めとる。
「少なくとも、あたしの眼鏡にかなうような女以外は、認めない」
「何よそれ。しゃくったら、大輝くんの彼女の面接官でもやるつもり?」
「当然。あいつが誰のお陰で赤点とらないと思ってるんだい。それだけじゃないよ。あいつの朝ごはんも弁当も夕飯もあたしが作ってるし、あいつのパンツだってあたしが洗ってるんだ。それにねえ」
「はいはい、可愛がってる大事な義弟なのね」
「そ、そうだよ」
石楠花はアイスの棒を口にくわえる。
「だから……」
「じゃあ、しゃくを納得させられるような子って、どんな子なの?」
「……うーん……」
石楠花は考え考えに答える。
「まず……料理は出来ないとダメだね。それと勉強も。体の頑丈さなんかは……生まれつきのものだから仕方ないとして、でも健康なら健康なほどいいね。マメできれい好きで、早寝早起きで、髪は染めてなくて、そう、スカートの丈を詰めたりもダメだ。あとは、そうだね――委員会は図書委員で、髪は短めで、やたらと動物を飼ったりしないで――それと」
「ねえ、しゃく?」
今度は歩美が石楠花の顔を覗き込む。
「……それ、あんたじゃない?」
「え」
「はあ――」歩美のため息。「なるほどね。そういうわけじゃ仕方ないわ」
「な、何だよ」
石楠花はアイスの棒をくわえたまま、微かに頬を紅に染める。
歩美はにんまり笑う。
「何だよじゃないでしょ、赤くなっちゃって。どっかで自覚はあるんじゃない」
「そ――そんなんじゃないっ!」
「私は何も言ってないわよ。そんなんって、どんなん?」
「歩美っ!」
石楠花はカバンで歩美の背を叩く。
歩美は飛び上がり、くるっと振り返って手を振った。
「あいたた。――それじゃね、しゃく。また明日」
「へ?」
横を見ると、「殿山」と書かれた自宅の表札があった。
歩美は、「まあ頑張りなさいな」と楽しそうに言い残し、たったと小走りで去っていってしまった。
残された石楠花は門の前で、もはや真っ赤になって唸る。
「うう」
本当に、そんなのじゃないのに。――心中で呟く。
そんなんじゃないさ。
そうだよ、そんなわけないだろうに。笑っちゃうよ。
だって今さら、ねえ。
あたしはただ、他の女の子に取られちゃうのが嫌なだけで――って。
「……あれ……?」
ってことは、そういうことに――
「――なっちゃうじゃないかあ!」
がしがしと頭をかきむしる。
「もおお、変なこと言うなよなあっ!」
近所の男の子が一人、立ち止まって見ている。
石楠花は怪訝な視線に気付いてぴたりと止まり、「……ははっ」と無意味な愛想笑いをして、門の中に引っ込んだ。
玄関を開けると、そこにはもう大輝の靴があった。
「おや」
ずいぶん早い。
そういえば最近、やけに帰りが早い気がする。どうした心境の変化だろうか。
――大輝くんだってそろそろ彼女くらいいても――
つい今しがた歩美が発した言葉が蘇り、靴を脱ぎかけのまま、ぴたりと静止する。
「……。いや、そりゃ違うだろ。落ち着けあたし」
再び動き出す。
彼女が出来て帰りが遅くなるならまだしも、早く帰るようになるなんて聞いたこともない。
無意味に敏感になりすぎているようだ。石楠花は深呼吸する。
玄関を上がり、階段を上りつつ、声をかける。
「たいきー? もう帰ってるんだろー?」
ちょっと遅れて返事があった。
「帰ってるよ。お帰りー」
「ただいま」大輝の部屋のドアの前に立つ。「ちょっといいかな」
「あ、えーと……待って」
ごそごそと何かが聞こえて。
「――い、いいよ、入って」
「? うん」
かちゃりとノブを回し、ドアを開けて入室する。
大輝は学生服のまま、テレビを見るでもなく、漫画を読むでもなく、デスクで勉強するでもなく、ただベッドに腰掛けていた。
違和感。
部屋の中ごろまで進み、石楠花は大輝を見下ろして眉をひそめる。
「……何してたんだい」
「いや、ちょっと考え事。しゃくネエこそ何?」
「え――」
何だっけ。
なんでもなかったような気が。
ええとねと視線を泳がせ、半笑いで考えながら、石楠花は――
どくん。
「……あ?」
心臓が跳ねた。
息が止まる。視界が揺れる。何か――歪んでいる?
部屋の中の空間が、歪んで石楠花を包んでゆく。
「な……、何……」
あのときシャワーで感じた何か。あれから何度か、いや……わずかながら慢性的に続いていた感覚が、意識を揺らがすほど強烈に。
視界がマーブルに溶ける。
大輝の声。
「どうしたの、しゃくネエ? しゃくネエ……おい、どうしたんだよ!」
石楠花は膝をつく寸前で、意識を持ち直した。
「あ――」
立ち上がった大輝の顔があった。
「何でも、な……あっ」
ぐらりと体が傾ぐ。
とっさに抱きとめようとした大輝の体ごと、ベッドに倒れこむ。
幾ばくか、ひょっとしたら三秒にも満たない短い沈黙があり、石楠花は、ううんと唸りながら体を起こす。
「――あ、ごめ……」
「いや、いいけど」
大輝は気まずそうに目をそらした。
石楠花は大輝の上に、覆いかぶさるようにして倒れていた。
慌てて横へ退き、ふらつく頭をぎりぎりで制御しつつ、石楠花はベッドの隅に座る。
「ふう――」
「……大丈夫? しゃくネエ」
「ああ、もう平気」
正直まだ少しくらくらするが。
「貧血――かな。ちょっとすれば治るよ」
「珍しいね」
自分も体を起こし、石楠花の隣に座りなおしながら、大輝は言う。
石楠花は頷いた。
「まあね」
それから、ぽつりと。
「……まだ胸板は薄いんだ」
「え?」
「な――何でもない何でもない」
ははは、と自覚できるほどぎこちなく石楠花は笑顔を作る。
大輝はちょっと黙って首をかしげ、そういえば、と口を開く。
「何の用?」
「え」
「だから、しゃくネエ、何か用があって入ってきたんだろ」
「あー……」
石楠花はもじもじと膝をこすり合わせて考えたが、特に何も浮かばなかった。また半笑いで誤魔化す。
「……忘れちゃった」
「はあ?」
「いや、でもさ」
石楠花は誤魔化しの延長で、きょろきょろと部屋の中を見回す。
「あたし、大輝の部屋に入るのって久しぶりだよ」
「そうかな」
「そうさ。だって小学校の高学年になる頃から、何となく入れてくれなくなったじゃないか。勉強教えるのも居間だし……、っ」
「どしたの」
「あ、な――なんでもない」
ふと横を見たら意外と顔が近かったから動揺した、などと言えるわけもない。
落ち着け。相手は義理とはいえ弟。しかもまだ中一ときたものだ。歩美に変なこと言われたばかりだからって、意識しすぎだ。意識しすぎ、意識しすぎ。何考えてるんだ。
石楠花は自分に言い聞かせる。
ふと、妙な匂いに気が付いた。
「あれ……何これ、お香?」
「何が」
「匂いだよ。大輝、あんたお香焚いたかい」
「いや。するかな、そんな匂い」
「あたしの気のせいかな。なんか中国のお香みたいな」
その瞬間。
石楠花の頭上で、かちゃりと何かが外れる音がした。
「? ――わ!」
見上げれば、壁にかかっていた丸い時計が、前に大きく傾き、今にも落下を始めるところだった。
とっさに頭をかばう。
重ねた腕に、ばしん、と衝撃。
横の大輝も声を上げた。
「うおっ? って……へ……平気?」
「う――ん――」
石楠花はそろそろと下げた右腕をさする。
痛みはさほどでもないが、突然だったので驚いた。もっとも「落ちますよ」と時計に宣告されてもそれはそれで驚愕するけれど。
大輝は落ちてきた時計を手に取り、立ち上がって壁の金具と見比べる。
「突然どうして落ちたんだ? いや――違うよな。ごめん、しゃくネエ、俺がもっとちゃんと付けてりゃ」
「いいよいいよ、平気だから。でも危ないし、確かに念入りに固定しといた方がいいかもね」
石楠花もベッドから立ち上がった。
「それじゃあたし、宿題しなきゃいけないから」
「あ? ……ああ」
「じゃあ後でね」
ドアノブに手をかけながら、石楠花は床の隅に落ちたものに気付いた。
赤いリボン? 使いかけのようだが。
硬直している石楠花を、大輝が怪訝な面持ちで見ている。
石楠花は我に返り、「じゃ」とまた片手を上げ、部屋を出た。
三
大輝は深くため息をついた。
「ふう……」
色々と疲れる数分間だった。
義姉の調子はおかしいわ、時計は落ちてくるわ。
それに――微かに感じた、ひかえめな胸の感触。
「……しゃくネエ」
わざとではないが、正面から手でつかんでしまったのに義姉は気付いただろうか。
と、それどころではない。
心が疲れた一番の原因を開放してやるため、大輝はクローゼットを開けた。
待っていたとばかりにシロが飛び出してくる。
それから、文句でも言うように、かりかりと片手で大輝の足をひっかいた。
大輝はしゃがみ込み、謝罪する。
「ごめんごめん、邪険にしたわけじゃないんだ。見つかったら捨てて来いってうるさいに決まってるからさ――ああ、分かった分かった」
シロを抱き上げ、よしよしと背をさする。
「悪かったよ、ほんとに」
四
リボンか。
ラッピング用――かな、あれは。
誰かに何か送るのかな。最近早く帰ってくるのは、何かそれと関係していたりして。
いや、考えすぎだよな。
分かってるさ。うん。そうだよ。大輝に限ってそんなことはないさ。あたしは大輝を信じて……って何考えてんだあたしゃ。それじゃまるで――
「ああ」
あごをデスクに乗せる。
自室の勉強机につき、意味もなく広げたノートに意味もない落書きをしながら、石楠花は取り止めも無く考えていた。
まあ――忘れよう。取りあえず。今の自分はどうかしているのだ。多分、ここのところ続いている陽気で。
脈絡もなくそう決める。
にゃあ、と声がする。
窓を見やると、隣家の屋根の雨どいに黒猫がいて、こちらをじっと見ていた。
背筋に電流が走り、石楠花は跳ね起きる。
「うわわ、猫っ!」
猫は、にゃああ、とまた鳴く。挨拶でもするように。
大急ぎで窓を閉め、ガラス越しに、手で追っ払うような仕草をしてみせる。
「あっち、あっち! お願い、早くあっち行って!」
なぜか手で片耳を塞ぎ、内緒話のように落とした声で言う。
猫はしばらくそんな石楠花を眺めていたが、やがて飽きたようにぷいと顔を背け、悠々とした足取りで歩いていってしまった。
石楠花は肩を落とす。特大の安堵と疲れが全身に広がる。背中からは冷汗がふき出していた。
「ダメなんだよなぁ……」
動物が苦手なのだ。
嫌いなのではない。苦手なのである。いや、やっぱり両方か。
そうなるきっかけは忘れてしまったが、今となってはもう理由など関係がなくて、石楠花という個人限定の本能みたいなものである。
犬や猫、最近ではハムスターなどもその対象になっているが、見るだけで、えもいわれぬ不快感というか悪寒というか、とにかくそういう嫌なものが全身を駆け抜け、反射的に悲鳴を上げさせる。たぶん一生治るまい。
悪寒といえば。
「なんだったんだろ、さっきの……」
あの豪雨の夜から続く、警告のような、妙な感覚。
「ん」
考えながら自分の手元を見る。
ノートには無意識に「へのへのもへじ」や元素記号などが、いかにも落書き然とした配置で書きなぐられていたが、その中に一つ――日本語でもなければ中国語でもない、意味はあるようだが読み取れない、珍奇な漢字の羅列があった。
「ありゃ懐かしい」
懐かしいも何も、今自分で書いたのだが。
「……よく憶えてたなぁ、あたし」
まじまじとその文字列を見る。
これは母が再婚する少し以前に、母方の祖父から習ったお呪いのひとつだ。そう。その頃、石楠花は祖父の家に住んでいた。
「これを書いたものはみんなお守りになる」と祖父は言っていたが、当時の石楠花は、何のかんのと理由をつけた、単なる字の勉強だと思っていた。
今思えば、小学校中学年の子によくこんな難しい字ばかり教えようという気になったものだ。石楠花が勉強好きで、極端に覚えの良い子だったので何とか書けるようになったものの、普通ならば見ただけで諦めてもおかしくない。
「おまじない、か」
――しばらく忘れていた、遠い日の、祖父との会話が蘇る。
じいちゃんはどうしてこんなのをたくさんしってるの?
うちは石字縛師の家系だからな。俺も親父から餓鬼の頃に教え込まれたんだよ。
しゃく、じ、ばくし……? ……なにそれ。
簡単に言やぁ、裏側のもの――お化けの相手をする仕事の人だ。
おばけなんていないよ。ママもいってたよ。
あいつは頑としてそういう考えの人間だからなぁ。
ほんとはいるの、おばけ?
まあ、今のご時世にゃほとんど居ねぇがな。居ても弱いのばっかりだ。
みえる?
感じるんだよ。俺やお前はな。お前の母ちゃんだって、時々は感じてるはずだぜ。認めたくねえから気付かないようにしてるんだろ。
じいちゃんにもみえないの?
ああ。でもそりゃ、連中のほとんどが姿をうまく消してるからだ。あいつらが姿を現せば誰にでも見えるよ。人間に化けて暮らしてる奴だっているから、そういう奴はずっとみんなの目に見えてることになるな。だから俺らの家系が特別なのは、そうとう上手く隠れてる奴でもない限り、何となくその存在を感じられる、ってことだけだ。あとはまあ、どういうわけか術を使える体質なんだな。個人差はあるが。
むずかしいね。
細かいことは分からなくてもいいさ。これからもっと連中の数は減ってくるだろうから、会うことも、まず無ぇだろう。でも、ま、一応、石字文句だけは覚えとけ。
しゃくじもんくって、このおまじない?
ああそうだ。お前がもし、裏側の気配を感じたり、襲われたりしたときのためにな。
――石楠花はデスクに肘をつき、ふうむ、と一人唸った。
「御守り、か」
祖父なりの冗談だったのだろうか。少なくともサンタクロースよりは夢の無い話だ。
まあ、何にしても、信じられるような内容ではない。
信じられるような内容では――ない――けど。
石楠花はふと思い立ち、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、中一の頃に使っていた参考書を本棚から抜いて、カバーの裏にペンをはしらせた。
五
真夜中。あるアパートの一室。
真っ暗で狭い部屋の中、テーブルの上に置かれた水槽の中で、それは思い出したように動き出した。
かりかりかり――ガラスの壁を掻く。音は、点けっぱなしになっていたテレビの砂嵐でかき消された。
すぐに、通れるだけの穴が開いた。
眠れる男はそれに気づかない。
それは抜け出した。
だが男は眠ったまま気付かない。
気付けなかった。
男は、それに気づけなかったのだ。
だからそれは、耳の穴から入り込んでしまった。
男の体はびくりと跳ねた。
そして寝たままぐねぐねと、壊れた傀儡のように布団の上で踊った。
止まった。
それだけだった。
六
真夜中、同じ頃。
大輝はベッドの中で目を開けた。
「ん――」
かすんだ視界。
闇と常夜灯の橙が混ざり合った曖昧な世界。
穏やかな微笑がそこにはあった。
面長であごの尖った、白すぎる顔。
細い目。長い睫毛。左目の下に、ぽっつりと泣きぼくろがひとつ。
そんな女性の顔が、互いの息がかかるほど間近で微笑んでいる。
髪は――混じりけの無い白銀。それが常夜灯でオレンジに染まっている。
きれいだな。
大輝は思う。
いい夢だ。
柔らかく、暖かい。
女性は大輝の腕の中にいた。
大輝よりも、ずっと背が高いことが分かる。
甘い、中国香の匂い。
細い腕が大輝の背にまわる。
……たいき……。
女は笑い囁く。
唇の端から、八重歯と呼ぶには鋭すぎるような――、
大輝は再び目を閉じた。
今度こそ深い眠りに落ちたか、そこから夢は見なかった。
――やがて月が落ち、日が昇り、窓からの光が曖昧な時を消し去る頃に、目覚ましの音が鳴り響く。
ごろりと寝返って、半開きの目で、布団ごと体を起こす。
大輝にとっては時間がすっ飛んでいた。
「っ、ああ……っ」
まぶたを開いた途端、さんさんと痛い光が両目を圧迫したので、大輝は顔をしかめた。
手探りで目覚ましを叩き、黙らせる。
「んむ……」
目をこする。
夢。何か夢を見たような。
「なんか……いい夢だったな……」
一人で呟く。
何の夢だったか。
幼い頃に死んだ母の夢だっただろうか。どうにもそんな気がするが、全然違うような気もする。
「ま、いいか。――ありゃ」
傍らで、大輝の顔を見上げている存在に気付く。
「お前、またベッドに入ってきちゃったんだ」
シロがそこにはいた。
大輝と同じく眠たそうな目をショボショボとさせながら、大輝の体に擦り寄ってくる。
大輝は微笑んだ。
「タオルケットあげたのになぁ。夜、そんなに寒いか?」
シロは大輝の目を見返すばかりで答えなかった。まあ当然だが。
大輝は小さな頭をひと撫でしてからベッドを出て、部屋の隅の水皿にまだ水がたっぷり残っているのを確認して、「朝飯食って着替えたら、またちょっとお別れだな」とシロに言い残し、部屋を出た。
朝食はいつもの通りであった。
殿山家の食卓にトーストやコーヒーが並ぶことはない。おかずが何であれ、白米と緑茶が基本である。
玉子焼きを口に運びながら、大輝は石楠花の顔をじっと見る。
義姉はその視線に気付き、顔を上げた。
「何だい、じろじろ見て」
「いや、もう平気なのかと思って。きのう倒れたから」
「ああ――」
石楠花は、ずず、と茶をすする。
「もう何てことないよ。それより大輝」
「何」
「納豆、ちゃんと食べな」
「……はい」
目ざとい義姉だ。
それからそれぞれに支度を済ませ、いつものごとく二人は揃って家を出た。
仲良く歩いてゆく二人の後ろ姿を、シロが窓から見送っていたことには気付かなかった。
七
一時限目、生物教師の白鳥がいくら待っても来ないもので、三年A組の教室内は、早すぎる休み時間の様相を呈していた。
まともに自席についている者はほとんどいない。女子生徒は五、六人ずつに固まって談笑し、男子はといえば――もはや頭数が半分くらいになっている。どこかへキャッチボールでもしに行ってしまったのだろうか。恐ろしいことに、一限目だというのに早弁をしている者までいる。
石楠花は窓際の席で持参の推理小説に目を落としていたが、机をくっつけてきた右隣の歩美に「ねえねえ」と声をかけられて顔を向ける。
「――何だい」
「しゃく、今日も大輝くんとご登校だったねえ」
「歩美……」
石楠花は目じりをひくつかせる。
こいつ、見ていたのに声をかけなかったな。
心中でこのやろうと呟きつつ、ふんと鼻を鳴らしてみせる。
「そりゃ姉弟だからね」
「フツーは毎日姉弟で登校しないと思うけど?」
「うちはするんだよ」
「ふうん?」
「……もう」耐え切れなくなって本を閉じた。「勘弁してよ。あんまり変なこと言われると、あたし大輝とギクシャクしちゃうじゃないか」
「ごめんごめん」
悪びれる様子もなく歩美は笑う。
それにしても、と石楠花はすかさず話題を変える。
「ずいぶん遅いね、白鳥先生」
「あの人のことだから、珍しいチョウチョでも見つけて虫取り網振り回してるんじゃない? 仕事忘れてさ」
「そんな――」想像する。「……有りえるかもね」
「でしょ?」
歩美は、きしし、とまた笑う。
石楠花も笑いながら、ふと窓の外を見る。
遠く、向かいの校舎の屋上に、小さな白い人影があった。
フェンス越しに見える、長身の――女?
白い着物、白い髪。
手に赤い紐のようなものを持って、それを長い髪と共に、風になびかせている。
石楠花は瞬時に目を奪われ、そして息を呑む。
何だろう、あれ――怖い。普通じゃない。
次の瞬間、また、きた。
例の感覚だ。ぞくぞくと背が波打ち、重い何かが肩にのし掛かる。
石楠花は丸くなって机に額をつけた。
「う……」
「どうしたの、しゃく?」
歩美が覗き込んでくる。
石楠花は重圧の中で声を絞り出す。
「変なのがいる……。窓――向かいの屋上……」
「何? 屋上って……誰もいないよ?」
「え……?」
石楠花は横目で窓を見る。
女はいなくなっていた。
重圧が解けた。
「あ――」
恐る恐る身を起こす。
歩美は心配そうに、石楠花の肩に手を置く。
「平気? 顔色悪いよ」
「うん――大丈夫――」
前髪をかき上げる。
「なんか……最近、なんかちょっと変なんだ……」
そう。あの雷雨の夜から。
石楠花は、遅れて滲んだ全身の冷汗に身震いした。
誰かが、あっ雨だ、と声を上げる。
再び窓を見ると、確かに、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
歩美が呟く。
「雨? おかしいわね、空は晴れてるのに」
「うん――」
こういうの、何て言うんだっけ。
石楠花は頭の中の辞書をぱらぱらとめくった。……思い出せなかった。
雨はチャイムが鳴る頃には上がったが、白鳥は結局、教室に現れなかった。
八
大輝の学校生活は平凡である。
不良ではないから余計な悪さはしないし、優等生ではないから余分な勉強もしない。
授業中は、寝られるときに寝て、私語のできる時にはして、そうでない時には、そこそこにノートを取って誤魔化す。
昼休みになれば外へ出てキャッチボールに興じるか、廊下で同級生たちと談笑。あまり元気が無ければ、自分の席に座つき、ジャージの上着を肩にかけて、ipodから流れるパンクロックを子守唄に、机に突っ伏し眠る。
午後の授業はあくびをしながら。
今日もそうした一日であった。
ただひとつ異常を挙げるなら、昨日言葉を交わしたばかりの白鳥が無断欠勤したらしいということを、クラスメートの一人から聞いたことくらいである。
帰りのホームルームが終わった後、大輝はミニバスケと中古CD店回りを断り、さっさと上履きを下駄箱に突っ込んで昇降口を出た。無論、部屋で帰りを待つシロが気になるからである。
大輝の担任は少々年配の体育教師なのだが、何事も億劫がる性格で、おかげで一年C組のホームルームは、全校でも群を抜いて短いことで有名だった。そのクラスでも一番に校舎から飛び出した大輝はほとんどフライング状態である。
その上、今日、大輝はあまり多くの生徒が使わない裏門を使おうとしていた。それは単なる気まぐれだったのだが、ともかく足早に裏庭を歩く大輝の周囲には、他に誰の姿も見当たらなかった。
化学実験室や家庭科室など、特殊教室がまとめて入れられた三階建ての校舎、通称「実験棟」の裏手に存在する、観葉植物と若手教員のバイクが並ぶだけの薄暗い裏庭を抜け、裏門近くに出たところで、大輝は右手に意外な人影を見つけて立ち止まった。
小柄な体に、よれよれの白衣。白鳥である。
今日は欠勤したはずではなかったか。大輝は片手を口に添え、名を呼ぶ。
「白鳥先生」
しかし白鳥は振り向きもしなかった。
ふらふらと、実験棟の中へ消えてゆく。
そう近くもないが、声が聞こえないほど遠くもなかったはずだ。
怪訝に思い、大輝はつい、その後をつける。
しかし実験棟の入り口で、足元に赤黒い斑点を見つけて立ち止まった。
「……何だ――?」
コンクリートの上に落ちてはじけた――血。そう、血液に見える。
怪我でもしているのか。
昇降口の中に目を向けると、白鳥の姿はもう無かった。
六限までの授業が全て終わったので、もう明かりは消され、少ない窓から明かりが弱く差し込むばかりの、古びた校舎。ひんやりとしたコンクリートの巨大な箱。
大輝は、背に何か寒いものを感じながらも、その暗がりの中へ踏み込んだ。
靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて、ぺたりぺたりと一階の廊下を歩く。
実験棟の中は、妙に静かである。この時間には基本的に誰もいないはずなので、当然といえば当然だが――少々不気味だ。
それにしても、いるはずの白鳥の気配も無い。
突き当たりの階段の前で歩みを止めてみると、そこの床にも血痕らしきものがあった。
大輝は階段を見上げる。
「上……?」
暫し立ち尽くす。
これは――追いかけてよいものか。
誰かに知らせた方が良いのではないか。
そんなことも思ったが、大輝の足は、考えている間に、もう階段にかかっていた。
無論、心配より興味がそうさせていた。
若さゆえ普段なら触りもしない手すりを、今はしっかりと握り、二階へと、一段一段ゆっくりと上る。
物理実験室や視聴覚室など、主に理科の授業で使う教室の並ぶ二階。
その廊下を大輝は歩く。
いつの間にか、その気もなく足音を消していた。
歩きながら耳を澄ます。
物音が聞こえる。
水音だ。
ごぱごぱと……。
――この中、か?
大輝は生物室の入り口で立ち止まる。
「白鳥――先生?」
返事は無い。
ドアは中途半端に開いていた。
「失礼します……」
大輝は中へ一歩踏み込み、そして後ずさった。
「え――」
まばらにカーテンの閉まった、明るいのか暗いのか分からない、それでいて確かに薄暗い、危うい光陰に満ちた部屋。
白鳥は奥の壁際にいた。
後ろ向きに背を丸め、長テーブルに置かれた熱帯魚の水槽に両手をかけ、その中に顔を突っ込んでいた。
ごぱごぱ――。
水音だけが静かに、木霊するでもなく聞こえている。
動かない後ろ姿。
大輝は静かに、躊躇いながら、一歩一歩、近づいていく。
「……白鳥先生……です、よね?」
水を飲んでいるのか。
こんな水槽から?
なぜ振り向かない。聞こえないのか。
よれよれの白衣が妙に青白く見える。
大輝は応えぬ白鳥の背後で立ちすくむ。
かすかに身が震える。
足が……尿意もする。怖い。
そう、怖い。何だこれは。
白鳥先生。
白鳥の両耳から血が流れている。
あの床の跡は、ここから落ちた血か。
よく見れば、白衣の所々に赤黒い斑点がある。
大輝は意を決して、白鳥の肩に手をかける。
「先生」
白鳥はがばりと振り向いた。
ずれた眼鏡の奥、真っ白にふやけた両眼。
大輝は悲鳴を――上げられなかった。
白鳥の手が大輝の髪を掴んだ。
大輝は驚きに呼吸すら奪われ、とっさにその場にうずくまろうとするが、それすらかなわなかった。
抗えぬ力で振り回され、頭を水槽に叩きつけられた。ごしゃりと水槽が割れ、水と熱帯魚が床にばら撒かれる。熱い激痛が走った。
白鳥は、痛みに顔をゆがめる大輝の髪を掴んだまま、片手で高々と持ち上げる。
大輝の足の裏が当たり前のように地面の感触を失った。
そして投げ放たれる。
数メートル宙を飛び、大輝は黒板に背中から叩きつけられて、チョークの粉で汚れた教壇にどさりと落ちる。
「……あ……っ」
痛い。全身が痛い。息ができない。
教壇から転がり、床に。
上を見ると、消えた蛍光灯を背に、白鳥が見下ろしていた。
その手は椅子を一つ掴んでいる。
白濁した眼球はどこを見ているのか分からない。ただ、顔は真っ直ぐに大輝を見下ろしている。
大輝は目を見開く。
「うわ――」
椅子が振り下ろされた。
避ける間もない。とっさに顔をかばった大輝の腕に椅子がぶつかって、ごつんと恐ろしげな音を立てる。
「い、ぎっ――」
続けざまに椅子が振り下ろされる。
大輝はその度に悲鳴を上げる。
腕が。腹が。
一瞬でも間違えれば殺されてしまう。
白鳥は椅子を捨て、今度は大輝の腹を、どかり、どかりと規則正しく蹴りはじめた。
やはり小柄な男の力ではない。凄まじい衝撃が大輝を壊してゆく。
何の迷いもない、恐ろしく明確な攻撃の意思。
大輝の意識が遠のいてゆく。
痛みで抵抗が出来なくなってゆく。
「あ……」
助けて。
殺される。
死んじゃうよ。
涙が溢れる。
まるで突然の悪夢だった。
この薄暗く静かな生物室だけが、外の世界と切り離されてしまったようだった。
誰も助けてくれない。ここはどこか、別の場所だ。
みんな遠くにいる。
誰も助けてくれない。
大輝は腹をおさえたまま動けなくなった。
白鳥はぴたりと動きを止め、しばらく白い眼で大輝の姿を見つめていたが、やがて、その血に塗れた耳から、もぞもぞと黒い何かが這い出してきた。
虫。
親指ほどもある、大きな蝿――のようだった。
いや違う。
ずるり、ずるりと。
蝿のような上半身に続き、異常に長くぷっくりと膨れた、メスのカマキリの腹のような部分が、中ごろまで抜け出してくる。
ぬめった血液で暗く光るその虫は、白鳥の耳から頬にかけて生々しく張り付き、六本の足を蠢かせる。
白鳥は膝をつき、四つんばいになって、大輝の顔に顔を近づけてくる。
大輝は抗えなかった。
虫が――蠢いている。
蠢きながら、大輝の頬に。
誰かの声がした。
「嫌じゃのう、食み虫かえ」
妙に甲高く、色気のある、それでいて玲瓏な女の声。
「よりによって餌を間違えおって」
声色が冷たくなる。
白鳥はぐんと立ち上がった。
虫が、ビデオの巻き戻し映像のように、再び耳の中へ戻ってゆく。
大輝は曖昧な意識の中で、白鳥と対峙するその姿を見た。
いつの間にかそこにいたのは、背の高い――異様な女だった。
年の頃は見た目にして二十四、五だろうか。銀沢を帯びた白い髪。長く、おびただしいボリュームのあるその髪が、頭頂より少し後ろで一つに束ねられ、わっさりと巨大なポニーテールを作っている。
百八十センチほどの細い長身に纏っているのは、浴衣のような着物のような、白い衣である。
ぞっとするような白面。切れ長の、笑っているように細い目。長い睫毛。
その目が、わずか大きく開かれる。
「知恵の無い虫変化は哀れじゃの。わらわのことも分かるまいて」
血のように赤い瞳と――その下の泣きぼくろ。
白鳥の体が回る。
回りながら、女に襲い掛かる。
女は避けもしなかった。
「ほんに哀れよ」
たおやかな細腕がうなる。
肉を叩く音が響き渡り、白鳥は冗談のように弾き飛ばされた。
そして窓枠に叩きつけられ、弾み、そのままの勢いで再び襲い掛かる。
荒々しく繰り出された手をばしりと掴み、白い女は微笑んだ。
「この者の脆い手で、如何にするつもりじゃ? わらわを殺すか?」
女は微動だにしない。
白鳥も、手首をつかまれたまま、動けずにいる。さっきまで――いや、きっと今も人外の怪力を持っているはずの白鳥が、当たり前のように力で押さえ込まれている。
女は空いた右腕で、白鳥の横顔を撫ぜるように打った。
ぼきん。
呆気なく首が折れたことは、寒気のする音で大輝にも分かった。
白鳥は、糸の切れた操り人形のように、床に崩れ落ちた。
女はその傍らに片膝をつき、白鳥の耳から這い出してきた虫の頭をつまんで、ずるずると引き出す。
「全く厭らしい虫よ。わらわはこれが大嫌いじゃ」
立ち上がりつつ床に落とし、憎々しげに草履で踏みつける。
そして白魚のような指を水槽の一つでゆすぎ、ゆっくりとこちらを向いた。
「災難じゃったの。この虫は食み虫といってな、人間の頭の中へ入り込んでは、中身を食らって育つものじゃ。まあ栗や芋の中にいる虫と同じじゃな。抜け殻になった体を操り、次の人間を襲って乗り移り、また脳味噌を食らい……それを続けるうちどんどんと大きくなり、やがて子を産み増える。つまらぬものなれど、一応変化じゃ。大方あの者が――」
女は、あの者、と言う間だけ、少し眉をひそめた。
「――わらわと同じく眠り石に封じておったのであろう。滅ぼしてしまえばよかったものを……また何か妙なことでも図っておったか」
言いながら、大輝のほうへ歩み寄る。体重があるのか無いのか、どこか不思議な足取りである。
「可哀想に。怖かったか、大輝」
腰を落とし、顔を近づけてくる。
ふわり香る中国香。
大輝は気付く。
夢で見た、あの人だ。
夢――? そう、確か夢だったはずだ、あれは。
ではこれは?
女は大輝を、優しく抱き起こす。
大輝は女の柔らかな胸に抱かれて、踏みつけられた腹の痛みに耐えつつ、絞り出す声で問うた。
「……あなたは誰ですか」
「何を言う。もう幾日も共に暮らす仲ではないか。――おお、このように怪我をして」
「え……?」
俺、こんな人と暮らしてたっけ。
大輝はまだ落ち着かない意識の中で考える。
いや――やっぱり違う。うちは親父としゃくネエと俺の三人暮らしだ。
でもこの人、どうして俺の名前を。
「あの……」
大輝が口を開いたと同時に、
「――何奴じゃ」
女は突然顔を横へ向け、低く刺すように言った。
女の視線は、教室の隅の暗がりに向けられていた。
暗がりは妙に濃厚で、そして揺らめいていた。
口々に囁きあう声が聞こえる。
任氏が出たぞ。
力が戻っているぞ。
任氏。大陸の女狐よ。
哀れな慰み女が。
しっ。よせ、よせ。
かなわぬぞ。任氏は強いぞ。
引き裂かれるぞ。
――女は、ぎり、と歯噛みした。
「消し飛ばされたいか、雑魚どもめが。ひとつ瞬く間に失せるがよいわ」
黒い気配の群れは、返事も無く、ばらばらと散り、消えた。
そして沈黙。
大輝は口を開いた。
「……じんし?」
「その名は嫌いじゃ。色々と思い出すでな」
「え――」
女は大輝を抱きなおし、また優しげな笑みに戻った。
「いつもに同じく、大輝の付けた名で呼ぶがよい。わらわはあの名が気に入っておる。おぬしの手も、匂いも」
吸い込まれるような赤い瞳。
「わらわは、人の腕に抱かれるがあれほどに心地よいとは初めて知った。幾千年の年月を生きたが、あれほど優しく抱かれたのは初めてじゃ。食らう前に男を惑わせ、戯れに体を重ねた夜は数あれど、心安らいだことは一度も無かった。それに……」
美しい白銀の髪。束ねているのは――赤いリボン?
「あの忌まわしき者がわらわの血肉に刻んだ痛みも、おぬしの胸の中でだけは、忘れられる」
女の声が、刹那、悲しみに歪んだ。
大輝は目を見開いた。
「あ――」
分かる。
そうか、この人は。
「……シロ?」
「そう、その名じゃ」
女は表情をゆるめた。
「その名がよい。わらわはしろじゃ」
シロは大輝の手を握る。やわらかで、温かだった。
「おぬしに助けられた濡れ狐じゃ」
なぜか安心した。
大輝はそのまま、視界の暗転を受け入れた。