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第十八章【大跨 ―おおまたぎ―】後篇


 小学校時代は取り立てて辛いこともなかった。クラスの中央からは常に遠いところにいたが、乱暴な子から意地悪をされるようなことは無かったし、自分と似たようなタイプの友人と寄り集まって、それなりに楽しくやっていた記憶がある。

 所謂いじめが始まったのは、中学校に入学してからだ。

 これといったきっかけも、対象が孝道である理由も特に無かったと思う。きっとあのポジションの適格者は何人かいて、その中からたまたま孝道が選出されただけだったのだろう。

 いじめていた連中があれらの仕打ちをいじめと認識していたかは怪しいもので、ただの度を超えた悪ふざけのつもりだったのかもしれないが、少なくとも孝道は、あの時期にあったことを思い出したくもない。嘲笑と暴力に段々と尊厳を砕かれてゆく日々は、思春期の少年にとって地獄と等しかった。

 やがて二年生に上がって、クラスのメンバーが入れ替わっても同じ生活が続くことを知ったとき、失望した孝道は学校へ行くのをあきらめた。一日に十時間以上眠り、起きている間は違法ダウンロードした漫画や映画を見て時間をつぶし、両親が寝静まった夜中に風呂を浴びる単調な生活は、その頃に始まったものである。

 学校へ行かなくなったことで学力の発達も止まってしまい、高校受験はしなかった。というより、そんな時期は知らぬうちに過ぎていたのだ。何もせぬ閉ざされた生活は、恐ろしいほど速く過ぎてゆく。狭く暗い部屋の中で、孝道の肉体は、いつの間にか大人になっていた。

 そうなってくると、かつては理解を示していてくれた両親も、「このままでいいのか」とか「せめてアルバイトくらいはしたほうが良い」などというようなことを、ちくちくと言ってくるようになった。

 孝道にしてみれば百も承知の事柄である。閉じこもっているよりも外へ出たほうが良いし、働かぬより働いたほうが良い。そんなことが分からないほど、孝道だって馬鹿ではない。

 しかし数年にわたって広がり続けていた外界との溝は、あまりにも深く、巨大に育っていたのだ。今となっては他人との話し方や顔の作り方すら分からぬようになっており、もはや人並みに働くなど夢のまた夢である。

 また、努力しようにも納得がいかないのは、「なぜ他人のせいで出来てしまった状況を、孝道が何とかせねばならないのか」という点であった。

 孝道だって好き好んで人を怖がり、こんな狭い部屋に引っ込んだわけではない。このような境遇の人間を、おそらく世間は引きこもりという名で一括りにしたがるのだろうが、少なくとも、孝道の場合は部屋へ「追い込まれた」に等しい。閉じこもることを選んだのは決して能動的な選択ではなかった。

 勝手に仲間はずれにしておいて、時が経ったから戻って来いというのならば、部屋の外の人間どもはあまりに理不尽ではないか。

 孝道は完全な被害者なのだ。

 なのになぜ、孝道が割を食うのか。

 答えの出ぬ問いと、今の状況に自分を追い込んだ者たちへの恨みに悶々としながら、孝道はただひたすら、外へ出るきっかけが来るのを待っていた。

 そうした日々の中で現れたのがクロだった。

 大雨の晩に窓から転がり込んできたクロは、まるで天からの使いだった。不思議な力と綺麗な瞳を持ち、悪意というものをまるで持たぬ突然の存在は、当たり前のように孝道の全てを肯定し、また、やはりそれが当然であるかのように、あらゆるものを与えてくれた。

無条件の隷属を。無償の献身を。言葉を、視線を、体温を――そして復讐の恍惚を。

「クロ」

唯一の理解者なのだ。やっと現れてくれた、唯一の、本当の味方なのだ。

だから、

「クロ、起きてよ」

閉じられたシャッターの並ぶ、真夜中の商店街。半透明の穹窿に月明かりも阻まれて、抱きかかえたクロの顔すら明瞭には見えない。

 クロは座り込んだ孝道の腕の中で、薄目を開けて笑った。

「大丈夫ですな」震える唇から白い声が漏れる。「痛いけど心配しない」

「……本当に?」

「おなか痛いのは、血がでてる? クロこわくて見られませんな」

「うん。出てる」小さな頭を抱きしめる。「でも、少しだけだよ」

嘘だった。

あの赤い化け物に爪を立てられたクロの腹部には、どす黒い染みが大きく広がっている。こんなに大きな怪我を目の当たりにしたのは初めてで、どの程度深い傷なのかも分からない。

 怖くて、孝道はそこから目をそらした。

 クロの頭を抱き直しながら。

「ねえ……ねえクロ、歩ける?」

「どこに歩くがいい?」

弱々しい声でクロは問い返してくる。

「血が出てるの痛いとき、行くはどこだろう。クロしりません」

「え、と」

腕から伝わってくる細かな震えが、孝道の頭を焦らせる。

 こういう場合はどこへ行くのだろう。

 病院か? クロは人間ではないが、そんなことを言っている場合ではないだろう。とにかく手当が――病院とはこんな時間に開いているものなのか? 救急病院?

そうだ、電話だ。

 救急車を呼ばないと。

「ええと」

携帯など持っていない。公衆電話を探さなければ。

「ちょっ、と、待ってて」

立ち上がろうとする孝道の体に、クロがしがみ付いてくる。

「行くはやめて」

「……クロ?」

「あのひと」

はっ、はっ、とクロの息が切れる。

「あのひと、追いかけてくるのことは、怖いので。お怪我はがまんすれば治りますので、ひとりぼっちのほうが、たくさん怖いので」声が震えている。「クロここで待つは、やめてほしいと思う。お願いです」

「でも」

そんなことを言ったって、ここのままでは――

 いや。

 孝道は出てきそうになった言葉を飲み込んで、頷いた。

「わかったよ。行かない」

そしてまたクロを抱きしめる。

きっと、明るいところで見れば、二人の体は血で真っ赤に汚れているのだろう。

 どうして突然こんなことになってしまったのだ。全部うまくいっていたはずなのに。

「クロ」

 冷えた風がアーケードを通り抜け、並んだシャッターを一様に揺らす。

 その音におびえるように、クロは腕の中で身を縮めた。













 十八章【大跨――おおまたぎ――】後篇











 一


 予感というものの正体は何なのだろう、と小梅は考える。

 夜々の予感は感心するほどよく当たるが、あの子の言うことに限っては、見神の血を引いているからだと説明がつく。なにせ入神家には未来を「予見」してしまう人すらいるそうだから、夜々がそれと似た力を持っていても不思議な話ではない。

 しかし、神獣の血などいう立派なものが身に流れていなくても、虫の知らせだとか、是々こんな予感がするとかは誰でも口にするものだし、しかもそれが思いのほか的中したりもする。その説明は一体どう付けたらよいのだろう。

 微細な情報の数々を潜在意識が何となく形にしたものなのか。それとも、人間、妖怪を含めたあらゆる生き物には僅かながら第六感的な力があって、ふとした時、気まぐれに発現するようになっているのか。

 実際のところはどうなのか知れないが、少なくとも今、小梅はその「予感」に突き動かされて食卓を抜けだし、冷たい夜道を一人歩いていた。

 そう――

 紅猫鬼が笑みを残して出て行ってから十数分後、根拠の欠落した嫌な予感が、不意に小梅の背中を撫で上げたのだ。

 物騒な妖気を感じたわけでもないし、悲鳴が聞こえたわけでもない。ただ、なんとなく嫌なことが起きてしまうような気がして、小梅は半ば突き動かされるように席を立ち、さっきのシロではないが「ちょっと酔いを醒ましてくる」と夜々たちに言い残した上で、ふらふらと殿山家の玄関を後にした。

 もちろん出てきたところで当てどもなく、マフラーの中で酒くさい息をしながら、小梅はただ、千鳥足の向くままに夜道を歩いてゆく。

「赤いりんごに唇よせてぇ、黙って見ていた青い空ぁ」

人気が無くて怖いので、昔流行っていた歌を口ずさんでみる。

「りんごはなんにも知らないけれど……ええと、りんごの気持ちは、よーく分かるぅ」

うろ覚えの歌をつっかえつっかえ歌っていると、次第に自分のしたいことが分からなくなってきた。

 今さらながら希薄な動機で行動してしまったものだ。

希薄というか、無いに等しいというか。このまま歩いて行って、自分は何をするつもりなのだろう。

 さっき通り過ぎた自動販売機で飲み物でも買って、大人しく帰ろうか。

 いや、だめだ。殿山家に戻れば、まだ酒から何からがごまんと残っているのだった。この上余計なものを仕入れて戻った日には、多分、石之助に大馬鹿と言われてしまう。会うたびに馬鹿とは言われているが、大馬鹿は少し辛いので言われたくない。どうしようか。

「……あれ?」

待てよ。

 飲み物を買うのがだめなら、手ぶらで帰ればいいのでは?

 そうだ、それが良いだろう。単なる酔い覚ましのために出てきたことになっているのだし、何も買わなくたって全く不自然ではない。そもそもどうして飲み物など買おうと思ったのだろう。

ううむ、これはどうやら――

「ふう」

何もないところで立ち止まる。

 これはどうやら、思いのほか酔っているようだ。思考回路が滅茶苦茶になっている。

 なるほど、自分は酔っ払っているのだ。

 それを自覚してみると、さっき感じた嫌な予感も、単なる酔っ払いの妄想だったような気がしてきた。というか、普通に考えればそうだろう。土台、鈍い小梅に虫の知らせなど聞こえるわけもないし、あのシロをして「息の根を止めようとすれば相当に手こずる」とまで言わせしめる紅猫鬼が、そうそう危険に行きあたるはずもない。

「よし」車道の真ん中に突っ立ったまま、ずずっ、と鼻水をすする。「帰ろっかな」

それが賢明だ。

「りーんごぉ、可愛や――あれ?」

ところが、歌の続きを口ずさみながらきびすを返すと、向こうの小さな十字路を、ちょうど紅猫鬼が横切ろうとしているのが目に入った。

「あー」馬鹿のような声が出る。「見つけちゃった」

「ん」

紅猫鬼はその声に歩みを止め、ポケットに手を入れたまま、ゆっくりとこちらを向く。

「あらあ? 小梅ちゃんじゃない。何しに出てきたの?」

「あ……ええと」

さて、どうしよう。そういえば紅猫鬼を見つけてからどうするかを決めていなかった。

嫌な予感云々を語って理解してもらえるとも思えないし、咄嗟に別の理由をでっちあげるのも、こういう性格の小梅には無理な所業である。

何だか恥ずかしくなってしまい、その場に立ちすくんだまま言葉に詰まる。

 不思議そうに言葉を待つ紅猫鬼。

 小梅は下を向いて、ただ赤くなった。

「ええと」小さな声しか出ない。「企業ひみつです」

「なあに、それ」

紅猫鬼は笑いながら歩いてくる。

「コンビニでお買いもの? 寒いから早く戻ったほうがいいわよ。私ももう少ししたら戻るから」

「あ」

はい。

そう頷こうとするのと、紅猫鬼が小梅の左側を通り過ぎるのは同時だった。

 いつもの紅猫鬼なら何かしらのアクションがあるはずだった。頭に手を置いてくれるとか、頬にキスをしてくれるとか。

だが紅猫鬼は何もしなかった。目すら合わせず、ただ、通り過ぎた。

だから小梅は気付いたのだ。

「あれ?」

香水と髪の香りに混じった、微かだが真新しい血の臭いに。

「ビクトリアさ、」

振り返る。

 紅猫鬼は立ち止まり、肩越しにこちらを見ていた。

 緑色の瞳が小梅を黙らせる。

「ね。早く帰りなさい」

「……」

何も言えなかった。

 金縛りにあった小梅に視線の余韻を残し、紅猫鬼は冷えた闇へと消えていった。


 二


 孝道の腕の中でクロの身が震えはじめる。胸に押しつけられた顔と、力いっぱいに上着の裾を握りしめる指とが、それが寒さのせいではないことを物語っていた。

 背中の方から近づいてくる足音。商店街の高い屋根に、わずかばかり反響する。

「……クロ、大丈夫だよ」

気休めにならないことは知っている。

 足音は孝道のすぐ後ろ、ぬるい気配が伝わりそうなほど近くで、ゆっくりと止まった。

 頭の上で声がする。

「――大跨ぎか?」

「え……」

あの化け物の声ではない。

 クロを抱きしめたまま見上げると、透き通った銀の髪が揺れていた。

「手負いのようじゃが」

銀髪の女はクロをちらりと見てから、孝道に問うてくる。

「小僧は誰じゃ」

「あ……ぼ」

僕は。

 目を合わせたまま何も言えないでいると、クロがもぞりと動いた。

「じんし?」

クロは女を横目で見る。

 女の視線は孝道に定められたままである。

「大跨ぎは賢うないゆえ、語らせどいずれ要領を得ぬ。これは一体どうしたことか、おぬしが答えてみせよ」

「これは」唾を呑む。「これは、あの」

「ん――」

女の視線がふっと外れ、孝道たちの上を通り過ぎる。

「何じゃ、ますますわけがわからぬ。ここでおぬしが出てきおるか」

「任氏か。面倒なことになったわね」

かつり、かつり。

ヒールの音を従えて歩いてくるのは、あの女であった。ほんの先ほど獣と化して襲いかかってきたはずの女が、それを忘れさせるほどに当たり前の姿と面持ちで、一歩、一歩と近づいてくる。

「ちょっとの間、何も聞かないで目を閉じててくれない? って言っても――」

立ち止まった。

「ダメよね?」

困った顔で笑う。

 空気が変わった。

 何だろうか、風の流れが止まったようだ。

 任氏と呼ばれた女が舌打ちした。

「嫌な臭いの結界じゃな」

「商店街を丸ごと包ませてもらったわ。私が術を解くか死なない限り、この中では誰も、発生した事象に疑問を持てず、当たり前の出来事として受け止める。たとえ悲鳴が聞こえようと死体が視界に入ろうと、今ここにいる私たち以外はね」

「大跨ぎに深手を負わせたのは貴様か、紅猫鬼」

「そうよ」

「何ゆえじゃ」白い女は眉をひそめる。「貴様にも分かろうが、これな小妖は哀れなほどに清い。誰ぞに仇なしたでもあるまい」

「良い子だってことくらい、見れば分かるわ」

紅猫鬼という名であるらしい襲撃者は、ちらりとこちらを見た。まるで何百年もの時を生きてきたような、圧倒的な知性を持つ瞳で――クロではなく孝道を。

「だから、この子なりの良いことをしてたのよ。きっと教えられた良し悪しに従って、一生懸命やってただけなのよね」

任氏に視線を移し、皮肉っぽく言う。

「多分、私が茂平の肩を揉んであげてたのとか、あんたが夜な夜な大輝くんの服を繕うのと同じ。しょせん違う生き物だから、人間の価値観なんてよく分からなくて――でも、目の前にいる好きな人に、偉いな、かわいいなって思ってほしいから」大きな目を細める。「そう思ってもらえそうなことを、せっせと頑張ってただけ」

言いながらクロを見る。

「そうでしょ?」

「う……?」

クロは孝道にしがみ付いたまま、怯えた顔で紅猫鬼を見上げる。

 紅猫鬼は人差し指の先で、とん、とん、と米噛みを叩いた。

「今日あなたの同級生を訪ねて、記憶の一部をここにコピーしたの。主観とノイズが混じるからあまり正確じゃないけど、大体のことは把握できたわ」

「話が読めぬが」任氏は腕組みをする。「このまま大跨ぎを手にかけようとでもいうならば、しろはきっと止めに入ろう。しろと貴様が悶着を起こせば物騒なことになる」

「でしょうね。ああ、複雑だわ」

「話し聞かせよ」

「参ったわね」

紅猫鬼は乱暴な仕草で頭をかいた。

「あー。つまりね、人間を何人か――殺してるのよ、その子」

「大跨ぎが?」任氏の眉に皺が寄る。「こやつは人など食わぬはずじゃ。そうじゃろう」

頷きを促すような視線がクロに送られた。

 クロはただ、縮こまる。

 代わりに応えたのは紅猫鬼であった。

「たとえば、大輝くんが他の人間たちに苛められました。目に涙をにじませて彼は言います、あいつとあいつとあいつとあいつを、あなたの力で殺してください――殺すのを手伝ってください、かもしれないわね。もしそう頼まれたら、あんた、どうする?」

「ふむ」

任氏の鼻がひくりと動く。

「ようやく話は見えたが……。だからといって何に目くじらを立てておるのじゃ。人の世の役人でもあるまいに」

「ちょっと、あってね」

「小梅あたりか」

「ノーコメント。殿山一家に危険があるかもしれないから、って理由じゃダメ?」

「お主はいつも話にならぬ――」

やれやれと任氏は首を振り、また孝道のほうに視線を向けてきた。

「もうすべて済んだのか」

「……え」

「お主を虐げた者どもは、すべて殺し終えたのかと問うておる」

「あ――」

殺した。

 クロの不思議な力。紅猫鬼には通用しなかったが、目を合わせただけで、相手の体を親指ほどに小さくしてしまう力。あの力で縮めて攫った「あいつら」を、孝道はペンで串刺しにしたり、コップの水に沈めて嬲り殺した。そしてトイレに流した。一人残らず。

 だが、はい終わりました、などと答えるのは怖かった。孝道はただ一度、曖昧に頷く。

 任氏はふんと鼻を鳴らし、今度は紅猫鬼に問う。

「お主の方はどうじゃ。どうしてもこ奴らの首が要るのか」

「ん」

「大跨ぎは化生とはいえ悪しきものではない。どうしても首が要るとあればさもあるまいが、これより先に人が死なねば、わざわざ殺すこともあるまい。よいか小僧」

赤い眼を向けてくる。口元には牙が見え隠れていた。

「もう大跨ぎに悪さをさせるな。言うておることは解るな?」

「う――」

孝道は咄嗟に、尿意と足の痺れをもよおした。

「は、い」

またクロに誰かを殺させた時には、孝道はこの人に殺されるということだろう。そしてこの人はどうやら、孝道とは比べものにならないほど、命を奪うことに慣れている。口応えする理由も勇気もなかった。

 任氏はふむと頷き、紅猫鬼に言った。

「これで良かろう」

「うーん」

何ともいえぬ反応であった。紅猫鬼は暫し、眉を動かしたり口を曲げたりしながら考え込んで、それからやっと、いかにも譲歩するといったような口調で答えた。

「まあ、私の完璧主義には反するけど、これで良いことにしとくか」

「されば結界を解け。先刻より尻の穴がむずむずしてかなわん」

「お尻がむずむずする結界なんて張ってないわよ」小指で唇を撫でる。「解くけどさ」

空気が動き出した。

 空間が世界と連結し、時間が巡るのを肌で感じる。今までがどれだけ異常な状態だったのか、孝道はこの瞬間にやっと理解した。

 紅猫鬼はパン、パン、と手を叩く。

「じゃあこれにて御開きよ。見逃してあげるから帰った帰った」

「大跨ぎの傷はどうする」

「あ。そうだった」

紅猫鬼はポケットに手を突っ込み、コンパクトのようなものを孝道に放ってくる。

「中に膏薬が入ってるわ。そんなに深い傷じゃないし、ちょこっと塗っとけば十分くらいで治るわよ」

「え――?」

「人間なら死んでるケガだけどね。あたしらにとっちゃ大したことないの、それくらい」

「……はい」

頷く。声の震えは止まらない。

 これは、もしかして助かったのか。

 クロはまだ不安げに孝道を見ている。

 任氏が笑った。

「何を呆けておる。はよう逃げねば、この性悪猫が気を変えぬとも限らぬぞ」その目は優しかった。「家の者も心配しておろう。逃げよ、逃げよ」

「は……はい」

クロの肩を抱き、立ち上がる。

「い、行こう」耳打つ。「クスリ、部屋で塗ってあげるから」

「うん」

頷くクロの足元はおぼつかないが、肩を貸したままなら何とか歩けそうだった。

 孝道は任氏に会釈し、まだ納得のいかぬ顔をした紅猫鬼を警戒しながら、ゆっくりと歩き出す。

「……痛くない?」

「はい」

クロも、どうやら助かったらしいことを理解したようだ。少しだけ声に落ち着きが戻っている。

「こわいから早く帰りたいですな」

「そうだね」一歩、二歩と歩みながら孝道は肩を抱き直す。「母さんは俺が何とか誤魔化すから、今日は特別に玄関から入ろうか。こんな怪我してちゃ、窓からは大変だしさ」

「特別は嬉しいですな。ありがとうございます。でもお母さんは大丈夫ですな」

「大丈夫? 何で?」

立ち止まる。

 クロは得意げに笑った。

「それはお母さんもういませんので」

その顔は、孝道からの褒め言葉を待つ、いつもの笑顔だった。

「よく踏んでトイレにポイしました。ちゃんとお水も流した。もういませんので大丈夫」

「え――」

すっ、と全身が冷える。

 腕の力が抜けた。

 支えを失ったクロが尻もちをつく。

「んあ」

「いや、ちょっと待って、なんで」

目眩がする。視界が狭くなってゆく。顔が、指が痺れる。孝道はその場でぐるりと回りながら、揺れる両目で見回した。

「なんで……?」

真っ暗な商店街、数メートル後ろに立っている二人の異形。

紅猫鬼のため息。哀しげに目を伏せる任氏。揺らぐ。

 孝道は。

「なんでだよ」

クロのきょとんとした顔を見下ろし、生まれて初めての金切り声を上げた。

「なんで、だよッ!」

「え――」

「どうすんだよ……ああ、どうすんだよ、お前ェッ!」

髪を掻き毟り、地団太を踏む。視界が白み、今にも気絶しそうだった。

「あ――ああ、くそ!」

家に走って行く? 行ってどうする。下水管。流しちゃったのかよ。畜生、どうするんだ。よく踏んで? いつの間に。いつの間にそんなこと。

「ちっくしょお……」

頭を抱える。

 怯えたような顔でクロが何か言った。

「……い」

「は?」何だ。「何だよッ!」

「ごめんなさい」

声が震えていた。

「クロ何か間違えましたな? ごめんなさいと思います。もうしませんので、クロ嫌いに思うはやめてください」

「ふ――」

孝道はその顔を張り倒した。

「ふざっ、けんなッ!」

倒れたクロを、爪先で何度も蹴る。

「何てこと――何てことしてくれたんだよッ!」止まらない。「分かってんのか? どうすんだよ、どうすんだ、どうしてくれんだよ! オイ!」

「やめよ」

ぐん、と強い力で後ろに引っ張られる。

 任氏が後ろ襟を掴んでいた。

「やめよ、大跨ぎはただ――」

「はなせ!」

振り払おうとするが、手は離れない。

「くそ……どうして、くそッ!」

涙が流れる。

「ごめんで済むことじゃねえだろ! 戻せよ! 母さん生き返らせろよ! 生き返らせろよ!」

「やめよ小僧」

「この、クソ知恵遅れ!」

這いつくばって何も言わないクロに罵声を浴びせる。

「死ね! 死ね! 死ねッ!」

「う……う」

頬をおさえ、クロは顔を上げる。その顔には、何も理解していない、ただ困惑するだけの瞳があった。

 そしてクロは、よろよろと孝道の足元に這い寄って、恐る恐るの手つきでファスナーに指をかけてくる。

 孝道の頭が熱くなった。

「何してんだよ!」

痙攣的に顔を蹴り上げる。

 クロの身が力なく転がり、任氏の手が、孝道を後ろへ引き倒す。

「やめぬか愚か者!」

「――、ッ」

背中から地面に叩きつけられ、孝道の息が止まる。

 その時、横にあった洋品店のシャッターが上がった。

 ガラガラガラと錆びた金属音が木霊して、中から寝間着姿の中年女が姿を現す。

「ちょっと、何の騒ぎなの?」

女は訝しげな面持ちで四人の姿を見比べたが、クロが血を流しているのに気付くと、やだ、と口に手をやった。

「そこの子、血が出てない? ちょっとやだ、救急車呼ぶ?」

「う――う」

クロが犬のように、四つん這いで体を起こす。

そして女を睨みつけ、跳ねるように飛びかかった。

「うああっ!」

「え?」女は身を縮める。「きゃあ!」

「馬鹿者!」

任氏が動く。

 それはまるでスローモーションのようだった。

 見たこともない、クロの長く伸びた牙。

 獣のように変化しながら伸ばされる任氏の手。

 その手がクロに届く前に――

 クロの上半身と下半身が、離れ離れになってどさりと落ちた。

「あ」

孝道はそれしか言えなかった。

 紅猫鬼は回りながら着地し、爪を引っ込める。

「――、ちっ」

舌打ちする。

「こんなことになるなんて」

「……クロ」

孝道は電柱の脇と、マンホールの上に落ちたクロを見比べる。

「クロ?」

返事は無い。

 洋品店の女は腰を抜かしていた。

「何よ――これ、こ、こんな」

「夢よ」

紅猫鬼が歩み寄り、女の頭に手を乗せる。

「忘れなさい」

「え? あ……」

女はくるりと白目をむき、そのまま倒れた。

 クロの上半身は、電柱にもたれるように落ちていた。

 孝道は呆然と歩み寄る。

「クロ――」

「……ん」

クロは目を開ける。

「タカミチ」

それだけ言って、ぴたり、と止まる。

ぴたりと。

彼女がもう二度と動かないことは、その止まり方で分かった。

 孝道はそれ以上近づくこともできず、ただ自らの両膝が地面に落ちたことだけに気付く。

 口が勝手に開いた。

「あー……」

頭の中が働くことを放棄している。

何だっけか。何だったっけな。

ただモヤモヤとした煙のようなものが、頭蓋の中に充満している。

 背後で紅猫鬼の声が聞こえた。

「……一応、また結界は張ったわ。でも、いつまでもこうしてるわけにはいかない」

「そうじゃな――」

「言いたいことは分かるわよ」深いため息の音。「あんたの言いたいことは分かる」

「うむ」

任氏のついた息は、紅猫鬼よりなお深かった。

「思わずにはおれぬ。もしも――」

「過去の出会いにもしもは無いわ」

紅猫鬼は冷たく言った。

「あの子がこうするしか無かったように……。だから、これで終わりなの」

歩きだす音。

「殺した。嫌われた。だから自分を殺させた。あんたは躊躇って、私は躊躇わなかった。今夜はこうして終わりなのよ」

足音が、かつりかつりと去ってゆく。

 任氏は暫く黙して立っていたが、やがて何も言わぬまま、紅猫鬼と同じ方向へ去って行った。

 孝道は振り返ることもできなかった。

 残されたのは、生きている自分と、死んだクロ。

 もしこの数分間が――

「夢ならいいのに」

ぼんやりと呟く。

 そう、夢ならいいのに。

 それだけを思った。

 冷たい風がクロの亡骸を、小さなイタチの死体に変えていた。


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