表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/35

第十七章【手 ―て―】


 今晩はキリストが生まれた有難い夜だという話だが、悲しいかな、そんな聖夜にも生理現象はあるものだ。

 薄い小便が便器の中をどぼどぼと鳴らし、冷えきったトイレに湯気を漂わせる。耳を澄ますと、半ばまで開いた小窓の外から、どこぞの家から漏れた楽しげな笑い声が、わずかな風に乗って聞こえてきた。

 その声に目を細めながら、大輝は体を揺らして小便を切り、しっかりとファスナーを上げて水を流す。笑い声はパワフルな水音にかき消された。

 洗面所で手を洗い、静かな廊下を歩いて居間へ戻ると、めいめいに啄ばんだクリスマス料理の残骸を囲んで、酔っぱらいどもが言い争っているところであった。隅の方で頑張っているテレビの声など何処吹く風である。

 大輝が入って来たことにも気づかぬ様子で、真っ赤な顔をしたシロがテーブルを叩く。

「まっこと捻くれた連中の集まりじゃ!」

空になったビールの缶が危うげに弾む。

「人が常日頃美味いと思うて食うておるものを……、誰もかれも、一度も口へ入れぬうちに好き放題言いおって!」

「だからさあ、ドッグフードなんて美味しいわけないじゃんか」

隣の石楠花が呆れ顔でシャンメリーのグラスを置く。

 どうやら食べ物のことで言い争っているらしい。大輝がトイレに立つ前は紅猫鬼の下手なモノマネで盛り上がっていたはずだが、どういう経緯でこんな話になったのだろうか。

 小梅らと共に向こうのソファに座っている紅猫鬼が、口の横に手を添えて、わざとらしく挑発する。

「任氏ったらまだまだ動物レベルよねぇ。私はキャットフードなんて食べないしぃ」

「当たり前じゃ馬鹿たれ! 猫の餌など食えるか!」

わざわざ挑発する紅猫鬼も紅猫鬼だが、シロの反論も理に適っていない。しかも眉間にしわを寄せながら、和室の奥から持ってきたらしい成犬用ドライフードの袋をあさり始めた。

「これなど腹に軽うて食い易いのじゃぞ。四の五の言わずに食うてみよ。ほれ」

「な、なんでわしなんだ」

鼻先にドライフード、通称カリカリを突き付けられ、向かいの石之助は椅子ごと仰け反った。

 ソファの隅に座った父が、ピザで汚れた手をナプキンで拭きつつ、突っ立ったままの大輝に無責任な言葉をかけてくる。

「大輝、ちょっと食べてみなさい」

「何を真顔で……」

 呆れていると、シロがシャンパンを片手にふわふわと飛んできた。

「大輝はまだ一滴も飲んでおらぬな」

「え? はい」

もう話が変わったのか。

 シロは鳶が旋回するようにして大輝の背後に回り、そのまま覆いかぶさってきた。

 頭の上に、ずしりと胸が乗る。

「口移しで飲ませてやろうか」

「それは――」

酔って無遠慮さが増しているせいか、いつも以上に接触面積が広い。正直言って悪くない心地だが、全身から発散される酒臭さはいただけなかった。

「それはまた、別の機会にお願いします」

「つれん子じゃのう」

かぷり。

悪戯に耳を噛まれ、大輝は情けない悲鳴を上げる。

 一方、脚を組んでソファに座る夜々は、のんびりとした様子でグラスを揺らしていた。

「大輝くん」普段より幾許か緩んだ顔を向けてくる。「その酔っぱらいには気をつけた方がいいよ。油断をしていたら押し倒されかねない」

「無理に押し倒さずとも、今宵は大輝がしろの寝所へ来てくれるわい。のう大輝?」

「え」

「くりすますには夜這いをするのが礼儀と聞いておる。今の世には有難い日があるものよ」

「えーと」息をかけられた頬が引きつる。「なんか思い違いしてませんか」

また妙な雑誌に妙な形で影響されたのだろうか。

 長い脚を見せつけるように組み直し、紅猫鬼があっけらかんとした声で訊いてくる。

「ねえねえ、ぶっちゃけた話、大輝くんは任氏のこと好きなの?」

「!」

不意を突いた剛速球である。

 返答に困るこちらの表情は瞬時に解析されたらしく、紅猫鬼は「ふうん」と頷いた。

「なるなる。そんな感じか」

恐らく、はじき出された解析結果はそう的外れなものでもあるまい。長く人間社会の中で培われた功は侮れないものだ。

 紅猫鬼は煙草に火をつけた。

「ずいぶんノンビリしてるのね」またこちらを見る。「さっさと手ぇ出しちゃえばいいのに」

「はい?」

「周りのこと気にするのもいいけど、据え膳は食えるうちに食っといた方がいいわよ。しゃくちゃんや夜々ちゃんはともかく、任氏なんて妖怪なんだし、いつ居なくなっちゃうか分かんないんだから」

「そんな、居なくなるなんて」

大輝は笑う。

 しかしシロは何も言わず、ただ後ろから抱きしめる力だけが、わずかに強くなった。

 ……? 何だ。

 顔を動かそうにも動かせない。

 夜々と石之助の呆れ顔、父の無表情、グラスを握りしめてぼんやりしている小梅、それから――怒ったような顔で唇を尖らせる石楠花の顔。

 なぜだろうか。大輝は酒など飲んでいないのに、ほんの少し足元がぐらついた気がした。

 紅猫鬼は隣の小梅に寄りかかりながら、うっすらと笑っていた。

「思い出はねえ、作っておくに越したこと無いもんよ。いざ会えなくなった時、ちっちゃいことも大っきなことも、みーんな宝物になるから。これは私の経験からくるアドバイスね」

頬を膨らまし、ぽん、と煙の塊を吐く。

 小梅がその煙と紅猫鬼の顔を見比べて、酒に緩んだ口を開く。

「経験って旦那さんとのことですか?」

「まぁねん」小梅の首に腕を回し、頬に頬をすりつける。「あー、小梅ちゃんのほっぺ気持ちいいわ。癖になっちゃう」

「ど、どんな思い出があるんですか?」

「む」

紅猫鬼はすっと頬を離し、小梅の目を見つめる。

「……聞きたい?」

「聞いて良いんですか?」

「うーん」

小梅の髪をいじりながら、紅猫鬼は考え込む。

 シロは大輝の背へ寄りかかったまま、「勿体ぶるほど大した話でもあるまい」と舌打ちした。












 十七章【手――て――】











 一


 なに、任氏の言う通り、大した話でも無いのだ。人に聞かせたら驚かれるようなドラマがあったわけでもないし、泣かせるような別れがあったわけでもない。そもそも出会いからしてドラマティックなものではなかった。

 あれは正確には、今から何百と何十年前だったか。紅猫鬼がこの国へ渡ってきてから、そう経たぬ頃だったと憶えている。

 たしか秋の夜であった。

 途方もない目的を持って日本まで来てみたはいいが、元来の高慢な気質が災いして土地の妖怪どもと対立し、それが瞬く間にこじれたもので、しばらく人間に化けて身を隠そうか、などと思っていた矢先のこと――紅猫鬼は、人里近くの小川で夜な夜な水を飲んでいるところを、川底に潜んでいた追手の化物に襲いかかられた。

 その化物は他愛もない魚の変化であったから、紅猫鬼の一撃で呆気なく河原の汚れと散ったのだが、毛皮についた返り血を払いつつ振り返ってみると、すぐそばの木の陰に、ぼうっと突っ立ってこちらを見ている、牛のような図体の男があった。

 それが茂平であった。

 見られたか――。目を合わせながら紅猫鬼は思案した。

 さて、どうしたものか。

 今の紅猫鬼は人に化けていない。五体の形や立ち姿こそ人と大差ないものの、肌の代わりに紅い毛皮、首から上には猫の顔があって、おまけに尻尾まで生えている。化け猫そのままだ。

 まあ正体を見られたからといって困ることも無いとは思うが、こいつを生かしておいて得をすることも無いだろう。

 念のために殺しておくか。

 紅猫鬼はゆらりと一歩近づいた。

そして二歩、三歩。足の裏の肉球に踏みしめられ、河原の石がじゃりじゃりと鳴る。

 はて、どうしてこの男は悲鳴一つ上げないのだろう。それに背中を見せて逃げようともしない。

 怯えているようにも見えないが。

 紅猫鬼は妙に思って、まだ少し離れたところで立ち止まり、「おい」と声を掛けてみた。

 すると男は、のらりと背を向け、人里の方へと歩き出した。何も言わずにである。走って逃げるでもなく、ただ、のそのそと向こうへ歩いてゆく。

 予想外の行動に紅猫鬼は呆気に取られたが、すぐ我に返って追いかけた。

「ちょっと、あんた」

背中に声をかけても、男は立ち止まろうとしない。

 自分は無視されているのか。

 肩の肉でも掴んで止めるか、さもなくば後ろから殺してしまってもよかったのだが、どういうわけか、あの時の紅猫鬼はそれをしなかった。今にして思えば、もう茂平に毒気を抜かれていたのかもしれない。

 大股で三歩ほどの距離を保って茂平の背中を追いかけながら、待てったらとか、耳が聞こえないのかなどと言いながら、とうとう村はずれの掘っ立て小屋にまでついて行ってしまった。

 茂平は何も言わぬまま、真っ暗な小屋の中へ入って行った。

 紅猫鬼は自分が何をしているのか分からなくなっていたが、もはや意地であった。茂平を追いかけて家の中へ入り、腹の中から呪い刻みの翡翠を吐き出して、足元でそれを光らせた。

 ほのかな光が小屋の中を照らしても、茂平は驚かなかった。驚かないどころか筵に転がって眠ろうとしたのだから、紅猫鬼が驚いたほどだ。

 さすがに少し大きな声が出た。

「おいッ」

こちらにも長く生きてきた妖怪としての気位がある。人間に、それもこんな鈍そうな男に馬鹿にされているのだとしたら、我慢ならなかった。

 茂平は億劫そうに体を起こし、やっとこちらを向いた。翡翠に照らされたその顔は、遠目に見たよりも幾分か若かったが、どこからどう見ても牛であった。しかも駄目な牛だ。草と間違えて自分の糞を食ってしまう類の牛である。

 仁王立ちの紅猫鬼が顔の毛皮をきしませ、髯をぴくぴくとさせながら見下ろしていると、茂平は聞き取りづらい声で、ぼそりと言った。

「なんだ」

「な――」

何だ?

ええと、何だろう。そういえば何だったか。

 戸惑った紅猫鬼の口から出てきたのは、間抜けな質問だった。

「お、お前、どうしてこんな夜遅くに、あんなところへ居たんだい」

「……」茂平はふて腐れたような顔で目をそらした。「小便だ」

「そんなもん、家の裏でひりゃいいだろう」

ああ、どうでもいい。自分はなんてどうでもいい話をしているんだ。そう思いつつ紅猫鬼は座り込む。

 茂平は首を振った。

「おれは川の近くで小便ひるのが、すきだ」

「……」

ああ、そう。

 河原で小便をするのが好き。まさかこのときは自分の旦那になるなどとは思いもしなかったが、ともかくそれが、紅猫鬼が最初に知った夫の横顔だった。ひどい話である。

 話が続かなくなったので、紅猫鬼はきょろきょろと小屋の中を見回した。

ろくに家具らしき物も無く、土間の隅にぼろぼろの筵が敷かれているだけの、いかにも貧乏くさい、小さな小屋である。壁に立て掛けられている鍬や鋤がこの男の仕事道具か。

 寂しい住家だ。

 紅猫鬼は黒い鼻をくんとさせ、なんとなく舌打ちをしてから訊いてみた。

「あんた、一人で暮らしてんのかい」

「ひとりだ」

「親は」

「最初っからいねえ」

「ふうん」

よく分からないが一人らしい。まあ、いかにも一人といった雰囲気の男ではある。

 紅猫鬼が小屋の隅に転がった鍋を眺めていると、茂平はまたごろりと寝転がり、馬鹿でかい背中をこちらへ向けて、やはりふて腐れたような口調で言った。

「用がねぇなら帰れ」

「な――何だい、失礼な奴だね」

たしかに元々用があるわけでもなし、とっととこいつを殺して帰ってもいいのだが、帰れと言われると気にさわる。

 茂平は続けてこう言った。

「おれは」大きな体を縮める。「おれは女が、だめだからな」

「はああ?」

紅猫鬼は耳を疑った。

 女は駄目――女――おんな、だと?

 いや、そりゃあ確かに自分は女怪だが、その前に何かあるだろう。その全身の毛皮は何だとか、その爪は何だとか、どうして尻尾が生えてるんだとか、どうして人間の顔をしてないんだとか。

こいつにとって問題なのは、化け猫だということよりも、性別が女だということなのか。

 紅猫鬼は呆れてあごが外れそうになった。

「あ……んた」

まさか。

「あんた、じゃあ、さっき知らんぷりしてたのも、あたしが女だからなのかい」

「……」

返事は返ってこない。どうやらその通りらしい。では何か?

「ひょっとして」毛に包まれた自らの乳房を見下ろす。「あんまりこっちを向かないのも、あたしが着物を着てないから、恥ずかしがってんのかい」

「ちげえ」

ぼそりと否定された。

「女につらを見られるの、いやだからだ」

「……ふうん」

紅猫鬼は頷いた。

 何だか殺す気が失せていた。

 あぐらをかいて座り込み、うす汚れた丸い背中を眺めながら、紅猫鬼は尾を揺らした。

「なんでそんなに女が駄目なのさ」

「……」

返事は返ってこない。

 紅猫鬼は土に手をついて片足を伸ばし、爪を引っ込めたつま先で、つんと背を突く。

「なあ、うんとかすんとか言わないとバラバラにしちまうよ。村の女に馬鹿にされんのかい?」

「……」こんどは返事が返ってきた。「そうだ」

「餓鬼の頃からかい」

「そうだ。なんもしなくても、いろいろ言われんだ」

「そうかい」

まあ、不細工だからな。

 あまり頭も良さそうではない。もごもごして言葉も聞き取りづらいし、がんばって聞き取ってみても、言っている内容はくそ面白くもない。これでは馬鹿にされても当たり前である。

 どうしてこんな男が生まれてしまったものか。紅猫鬼は哀れに思いながら座り直した。

「男どもとはうまくやれてんのかい」

「うまかねえ」

「うまかねえかい」

「……けど、女ほどひどかねえ」

「ふうん」髯を撫ぜる。「そうかい」

顔を横へ向け、壁際の農具を見る。古いなりによく手入れされているところをみると、真面目に仕事をする男らしい。村の男から邪魔にされる理由は無いわけだ。

しかし、それでも「うまかねえ」ということは、友として付き合ってくれる人間はいないということだろう。ますますつまらない男とみえる。

 紅猫鬼は溜息をついた。

「なあ、あんたさあ、生きてても面白くなさそうだねえ」

「……」牛がもぞりと動く。「わかんねえ」

「寂しかないのかい」

「……わかんねえ」

だんだん声が小さくなってくる。

 薄い板壁の隙間から風が吹き込んできた。

 紅猫鬼はふと思い立って立ち上がった。

「なあ、おい」

尾を揺らしながら近づき、寝転がった体を跨いで、無理やり顔を覗き込む。

「いいことがあるよ。外の畑にある芋くれたらさ、いやな奴ら、あたしが殺してやるよ」

「殺す」

低い鼻の上で、小さな目が不思議そうに開く。

「だれを殺すんだ」

「だから、意地悪言ってくる女どもをさ。あいつとあいつって教えてくれたら、そいつらぶっ殺して川に放り込んでやるよ」

「だ、だめだ」

茂平は焦った様子で体を起こした。

 紅猫鬼は慌てて飛び退く。

「ちょっと、急に起きるんじゃないよ。転んじまうじゃないか」

「なんで殺すんだ」

茂平は紅猫鬼の顔を見上げ、回らない口で早口に言った。

「なんもしてねえのに、こ、殺したら、か、かわいそうじゃねえか」

「あんたに意地の悪いこと言うんだろ」

「お、おれはいいんだ。おれはいいんだっ」

また背を向けて寝転がる。

「やっぱり違った。馬鹿にされてるってのは、おれの気のせいだった。意地悪言う女なんかねえ。殺す相手なんかねえ」

「はあ……」

せっかく、滅多にしない親切をしてやろうというのに。

 紅猫鬼は改めて呆れ直した。

 この男、人をかばうときだけはよく喋るようだ。しかも下手な嘘までつく。自分をからかう連中に対してここまでとは、悲しくなるほど損な人間だ。

 紅猫鬼はしゃがみ込み、はいはい分かったよう、と笑った。

「嘘だよ。そんなおっかないことしやしないよ。変なこと言って悪かったねえ」

「おれ誰も嫌っちゃねえんだ」

「分ったよ、分かったよ」

よっこいせと立ちあがる。

「なんだか邪魔したね」尖った耳にかかる髪を払う。「あたしゃ山に帰るけど、今晩のことは誰にも言うんじゃないよ」

「……、……」

牛の背中が、ぼそぼそと何か言った。

 えっと聞き返す。

「なんだい」

「帰るんだったら、そこに、こもがあるから持ってけ」

「ん?」

小屋を見回すと、確かに、隅の方へ筵が丸められていた。

「どうしてだい」

「山は冷えるからだ。風邪ひいちゃならねえからだ。芋も、ほしかったら勝手に引っこ抜いて持ってけばいい」

「……あたしは毛があるから平気だよ。芋も今はいらないよ」

「そうか」茂平は言う。「ならいいか」

「うん、いいよ」

こっくりと頷く。

 もう茂平は何も言わなかった。

 紅猫鬼は指を鳴らして翡翠の明かりを消し、それから小屋の出口まで歩いて、ちらりと振り返ってみた。

 真っ暗な中、一人ぼっちの男が寝ている。

 静かな小屋だ。外から聞こえてくる虫の声のほかは、何の音も無い。

 涼しい静寂の中で、紅猫鬼は、あ――と口を開いた。というよりは、勝手に開いていた。

「あのさ」

爪の先で鼻をかく。

「あたし化けもんだから長生きしてるんだ。それに、海の向こうに住んでたから、面白いこと沢山知ってんだよ」

「……」

「今度来た時に色々話してやるよ。そしたらあんた、村で一番の物知りになるよ」

「……。おれは」

茂平はもごもごと応えた。

「おれは頭が悪いから、きっと全部は憶えられねえ」

「――あはは」

そりゃあ違いない。

 紅猫鬼は笑いながら小屋を出た。

 枯れ野の上に月が輝いていた。


 二


 シロは紅猫鬼の頬を、ぴしゃりと叩いた。

「これ」

「ん」

「何を黙って呆けておる」

「……ん? ああ」

紅猫鬼は間抜け面で頭をかいた。

「私ぼーっとしちゃってた?」

「いつにも増してひどい面じゃったぞ」シロは腕組みをしてみせる。「おぬし酔い過ぎておるのではないか」

「昔のこと思い出してただけよ」

紅猫鬼は頬をさすり、ソファに深く背をもたれる。

 隣の小梅がフライドチキンを片手に問う。

「茂平さんってどんな人だったんですか? こないだは、なんていうか、あんまりカッコいいこと聞かなかったですけど」

「え。この間って、どんな話したっけ」

「好き放題言ってたじゃんか」口をはさんだのは石楠花である。「のろまだとか、口下手だとか、頭が悪いとか、女の子に馬鹿にされてたとか」

「ああ――そうだっけ?」

紅猫鬼は苦笑う。


 三


 茂平は現実、その通りの男であった。

 初めて会った次の日から、紅猫鬼は子猫に化けて茂平の周りをうろつくことにした。時に民家の屋根へ、時に高い木へ上り、茂平の姿をのぞき見て暇を潰したのである。

 そうして見た茂平の昼間の生活は、それはもう情けないものだった。

 本人の言っていた通り、村の若い女や女房たちは、遠くから茂平を見ては、くすくすと笑う。ひどい女などは「やい、茂平やい、うちの雌牛がかわいくたって突っ込むでねえぞ。おめぇ相手じゃ牛も可哀そうだからなあ」などと、面と向かって野次を飛ばす有様であった。

 しかし、もう慣れているのか気が弱いのか、少なくとも紅猫鬼の見る限り、茂平は下を向くばかりで言い返すことをしなかった。

 悪事もせぬのにこの仕打ちでは、女のことも苦手になろう。無理からぬことかと納得しながら、紅猫鬼は苛々とその光景を眺めていた。

 して男どもはというと、目が合えばまともに挨拶するが、誰も彼もそれだけである。嫌味を言うでもなく、仲良くするでもなく、ただ少し馬鹿にしたような目で茂平を見て、歩き過ぎてゆく。これは単純に、茂平の社交力が欠如していたからだと思われる。何を言ったって「うん」くらいしか返ってこなければ、話しかける気も失せようというものだ。茂平が悪い。

茂平が悪いのだが、ずっと眺めている紅猫鬼には、それもなんだか面白くなかった。

男も女も茂平を下に見て悦に入っているように思え、「きのうの晩にそいつが庇わなければ、お前らのうちの何人かは今頃魚の餌だぞ」と、木の上で顔をしかめたものだ。

 ただ、例外もいた。

 いたとはいっても、きよという娘がたった一人だけである。田舎の百姓にしては見られた顔で、よく働く明るい娘だった。

 村の若い女たちの中でも、その娘だけは、どういうわけか茂平に優しかった。いや、どういうわけも無く気立ての良い子だったのだが、その娘に話しかけられる時も、茂平はろくに喋らなかった。

今日もよく働いているねえ。――うん。芋が育ってきたねえ。――うん。

やはり、何を言っても「うん」だけだ。

 しかし、きよに対する「うん」は、他の者への「うん」とは少し違っていた。まごまごと目をそらし、あっちを見たり、こっちを見たり。

きよと話すとき、茂平はどうやら照れていたのである。紅猫鬼はその姿を見て、茂平がきよを好いていることを直感した。

 だが、そんな気立てのよい娘に良い仲の相手がおらぬはずもなく、きよは、茂平の小屋の隣に住む右六という男と好き合っていた。

 まだ男と女という感じではないものの、きよが右六を好き、右六がきよを好いていることは瞭然としていて、村の者たちが「あいつらはいつくっ付くか」と話しているのも度々聞いた。また、そうした話を盗み聞くに、二人の仲が未だ決定的でないのは、どうも、きよの女心が年の割に幼いせいであるらしかった。言いかえれば、きよが要らぬ照れを捨てるだけで、二人は男と女になるという具合である。時間の問題とはこのことだ。

茂平は見事な横恋慕。誰も茂平の気持ちに気づいていないのは、幸いだったのかもしれない。

 そんな調子で三日ほど村を眺め、四日目の夜深く、紅猫鬼は再び茂平の小屋へ忍び込んだ。今度も正体のままである。一度見られてしまったものを隠すのも馬鹿馬鹿しいし、万一他の者に小屋を覗かれたとしても、綺麗な人間の女に化けた紅猫鬼と話している茂平より、化け物と話している茂平を目撃した方が、かえってその者の驚きも小さかろうという考えだ。ひどい考えをしていたものである。

 茂平にとっては暗いほうが話しやすいかと思い、今度は明かりの術は使わず、ただ寝床へ忍び寄って茂平を揺り起こした。

「なあ、また来たよ」

「……」目を覚ました茂平は顔を手でこすった。「おめえか」

闇の中、薄く開いた目が明後日を見ている。無理もない。夜目のきく猫と違い、茂平はただの人間である。

 もそりと体を起こした茂平の傍らにあぐらをかき、紅猫鬼は土産の魚を置いた。

「おめえじゃないよ、紅猫鬼ってんだよ。魚の余ったのをやりに来たんだ。でも、いきなりこんなものがあったら怪しまれるから、明日の夜まで取っておいてこっそり食いな。なあに、今は涼しいし腐りゃしないよ」

「……ん」

声でようやく位置が分かったらしく、茂平はこちらへ顔を向けた。

「うん」魚の臭いを感じてか、くんと鼻を動かす。「ありがてえ」

「そうだよ、有難く食いなよ」

紅猫鬼は両膝を立てて座り直す。どうせ見えてはいないのだが、男相手に股ぐらを開いて座るのは、考えてみれば恥ずかしい話だ。

 茂平はここでようやく名乗った。

「俺あ、茂平だ」

「知ってるさ。村のもんがそう呼んでたからね」

「ん……どっから見てた」

茂平は首を傾げ、ぼりぼりと頭を掻いた。

 紅猫鬼はそのとぼけた顔を見て笑った。

「みいんな見てたのさ。おまえが汗水たらして土ほっくり返してるのも、性根の悪い娘っこらに嫌なこと言われてるのもね。きよちゃん相手に赤くなってるのも見たよ」

「う」茂平はどきりと硬直した。「おれは、赤くなってたか」

「嘘だよ。あんたったら本当、牛みたいに顔が変わらないよ。きよちゃんと話してる時も同じ顔だったよ」

「……そうか」

茂平はそう言って、ずんぐりした体を弛緩させた。

 紅猫鬼は尾の先でその頬をつつく。

「ねえ、お前、あの娘が好きなんだろ」

「……」茂平は下を向く。「わからねえ」

「分らないことないよ。あたしゃ長生きしてるって言ったろ? あんたが惚れてるのは丸分かりさ」

「……。なら……」小さな声で。「そうかもしれねえが」

茂平はますます下を向く。

「意味がねえな」

うっすらとだが、珍しく茂平は笑った。

 紅猫鬼は尾を引っ込める。

「そりゃ右六がいるからかい?」

そう訊くと茂平は下を向き、小さく首を振った。

「関係ねえな」

「……そう、かい」

せっかく初めて見た茂平の笑い顔は、少しも笑っていない。

なんだかつまらなかった。

 虫の声が不意に止む。

 紅猫鬼は、そうだ、と小さく手を叩き、話を無理やりに変えた。

「あたし面白いことを沢山知ってるって言ったろ。今晩は茂平が眠たくなるまで話してやるよ」

「もう眠たかったから、おれ寝てたんだけどもな」

「かあ、うるさいねえ。ぐだぐだ言わずに寝っころがって聞いてゃいいんだよ。いいかい、まずは馬鹿な化け狐の話さ」

紅猫鬼は茂平を寝かせ、ひそひそと語り始めた。

 任氏という間抜けな化け物を酔わせて悪戯した話。自分が生んだ三つ子の顔を見分けられず、全員の額に一、二、三と入れ墨をして、長じた子供たちに死ぬまで愚痴を言われた女の話。酔っぱらって描いた時の絵が普段より上手く出来たもので、それから毎日酒を飲みながら絵を描くようになり、とうとう体を壊して死んでしまった絵師の話――。特に面白おかしい類の話を選び、ろくに相槌もうたない茂平を相手にして、紅猫鬼は語れるだけ語ってやった。

 そうして一刻が過ぎ、ひと通り話し終えたところで、紅猫鬼は茂平の頬をつついた。

「なあ、どうだい。面白いかい」

「ん」

茂平は仰向けで返事をした。

「おもしれえ」

「そうかい、そうかい」

頷く紅猫鬼の長い尾は、知らず知らず、左右にゆらゆらと揺れていた。

 茂平は言った。

「むこうは色々あるんだな」

「そうだよ。それに広いんだ」

「おめえは」

闇に目が慣れたのだろうか。こちらに視線を向けてくる。

「おめえは、なんでこっちに来たんだ」

「え、あたしかい」紅猫鬼は自らの鼻っ面を指す。「そりゃあ……あんた、そうだねえ」

舌先で牙を舐めて考える。

 紅猫鬼も気まぐれでこの国まで来たわけではない。それなりの理由というものが、もちろんあった。だが人に話そうとすれば、その話は、紅猫鬼が猫から妖猫となって、やっと物心のついてきた頃にまで遡ってしまう。

 というのも――

 紅猫鬼は、ある大陸の術師に育てられたのだ。術師は老いた男で、名をユウシィ――于石といった。日本の読み方では、うせき、といったところか。道術や仙術よりは呪術に近いような術を研究しており、もとは都の人間だったくせにわざわざ山奥へ引っこんで、朝から晩まで実験をしてみたり、その成果を書物にしてみたりの日々を送っている男だった。傍から見れば、役に立たない術を目的もなく研究していた変人である。

 しかし于石は、まだ人間に化けるすべも分からぬ未熟な紅猫鬼を拾い、研究に使うこともせず、ただ一緒の小屋へ住まわせてくれた。于石自身の研究が忙しいために教育などの方はそこそこだったが、少なくとも、食い物と寝床の世話はしてくれたのだから、やはり育ての親に違いない。毛についた蚤を取ってくれたこともあるし、幾度かは一緒に森の中を歩いたこともある。

 当然紅猫鬼は于石に懐いており、屋根の上で昼寝をしている時以外は、できもしない手伝いをしようと、いつも于石の後ろをうろうろと付いて回っていた。あのときはまだ小さくて、二つ足で歩けるようになって間もなかったから、しょっちゅう転んでは立たせてもらっていたものだ。

 二人きりの生活は五年と少し、紅猫鬼が今と同じくらいの背丈になって、于石が老衰で他界するまで続いた。

 彼が居なくなった後には、ぼろぼろの小屋と蔵と、それから術の研究成果だけが残り、紅猫鬼は更に十年ほどの間、同じ場所で于石の形見を玩具にして暮らした。その頃になっては人化の術も身に付けていたため、山を下りて人に紛れてもよかったのだが、于石と過ごした家を離れる気がなかなか起らなかったのである。

 于石が残した書物の中には、術書のほかに、わずかながら手記のようなものも含まれていて、そこには紅猫鬼のことも書かれていた。口数の少ない于石らしく淡々とした言葉づかいでありながら、今日はあの子が初めて言葉を発したとか、今日は自分のために桃をもいできてくれたとか、そのような出来事を記したあとに、必ず「可愛らしいものだ」との言葉があって、蔵の中で一人読む紅猫鬼を涙させた。

 化生の中でも賢い類の化生である紅猫鬼は、ほどなく于石の研究成果を全て頭に入れ、その術式を使いこなすようになった。無論それらの術は人間の限界にしばられたものであったが、紅猫鬼には于石と違って妖力があったので、于石の代には理論だけで体現不能だった術も完成させることができ、また、于石の理論を基礎に、新たな術式までも多く生み出した。たかが猫鬼の紅猫鬼が他を震え上がらす力を持っているのも、それらの術による自己強化があればこそである。

 やがてある決心をした紅猫鬼は山を降り、人の世に新たな知恵を求めた。

集める知識は仙道でも何でもよかった。時に人に化けて道士に取り入り、時に化け物の姿で脅かして書物を奪い、貪欲に新たな術の研究材料とした。

 紅猫鬼のした決心とは、己が手で反魂術を完成させるというものである。死人を現世に蘇らせる術を編み出し、その術をもって、あの優しい于石にまた会いたかったのだ。それがかなうなら、手段を選ぶつもりは無かった。

 はたして幸いというべきか、ほとんど于石と二人で暮らしていた紅猫鬼は、于石以外の命を尊ぶような教えを受けていなかった。だから女の血が必要となれば女を殺して身を搾ったし、赤子の肝が必要と聞けば、赤子をさらってきてその腹を裂いた。

 だがそのような生贄を払っても、于石の反魂はかなわなかった。人間たちの間に伝えられる生き返りの法は、どれもこれも根拠のない空想に過ぎず、いくら手を加えてみたところで、画餅に筆を加えたがごとき空しい結果が残るのみだった。

 それでも諦めずに大陸中をまわって試行錯誤を続け、やがて幾百年の後に行き詰まった紅猫鬼は、とうとう海の向こうに目を向けたというわけだ。

 そして初めに目指したのが、この島国である。大陸より文明は遅れているものの、ここには独特の文化や呪い、そして何よりも、他の土地とは比べ物にならぬほど多くの神が息づいていると聞いていた。

 紅猫鬼の考えでは、恐らくこの島国は、向こう側に最も近い土地なのだ。向こう側とはつまり、仙界、天界、地獄などと、土地や教えによって様々に名を変える、時と離れた向こう側のことである。もしこの島国がその世と近いのならば、何かしら得るものがあるかも知れぬと紅猫鬼は考えた。むろん、絶対にそうだという確証があったわけでもないのだが。

 そして海を渡って来てみたところ、この国の妖怪どもに他所者として警戒され、あまつさえちょっかいを出され、しかもそれを力で黙らせようとしたものだから、あっという間に悪者になってしまった。冷静になって考えてみれば、ちょっと下手に出て敵意が無いことを示せばよかったのかも知れないが、「大陸ではそれなりに名の通っていた自分が、たかが田舎の化け物どもに気を使った挨拶などしていられるか」という思いが先に立って、どうしても大人しい態度に出られなかった。弱い連中でもまとめて敵に回せば厄介だということも忘れ、馬鹿なやり方をしたものである。

 ――さて。

 茂平の問いに答えるなら、以上のようなことを、茂平の頭と知識に合わせて噛み砕き、長々と説いて聞かせねばならなくなる。正直いって面倒くさい。

 だから紅猫鬼は、「まあ、ちょっとした気まぐれさ」とだけ言って、赤い毛の生えた手を、ただ茂平の肩に置いた。

「もう今晩の話はお終いだよ。あたしゃ山へ帰るからね」

「ん」

茂平は鼻息で返事をして、何事か言いたげに、もごもごと口を動かした。

 紅猫鬼はその肩をさすりつつ首をかしげる。

「どうかしたかい」

「……ん」

茂平は少し黙ってから、今まで発した中でも一番小さな声で、ぽつりと言った。

「手」

「て?」紅猫鬼は手を止める。「手がどうかしたかい」

「あったけえ」

ぼんやりとした顔をして茂平は言った。

「さわってもらうの、いいもんだ」目を細める。「ありがてえな」

「……茂平」

なぜか指先が震える。

 馬鹿だねえ。有難がるようなことじゃないんだよ。

 そう言うかわりに、ぽん、ぽん、と肩を叩き、「また来るよ」とだけ耳打ちして、紅猫鬼は小屋を出た。

 河原を歩きながら嗅いでみた手のひらは、畑の土の臭いがした。


 四


 大輝が止めようとしたときにはもう遅く、きれいなフォームで振り下ろされた手のひらが、紅猫鬼の脳天に炸裂していた。

「苛々する奴じゃ!」

叩いたのはもちろんシロである。両手を腰にあて、紅猫鬼の顔にぐいと鼻を近づける。

「さっきから何を呆けておる? もしや目を開けて眠っておるのでは、きゃあっ!」

ジーンズの股を蹴り上げられ、シロはその場で飛び跳ねた。

 紅猫鬼は蹴った足をぶらぶらさせながら、痛たた、と頭に手をやる。

「そんなに気安く叩くんじゃないわよ、もう」

「き、き、貴様」シロは両手で股をおさえて後ずさる。「何というところを……男なら動けぬようになっておるところじゃぞ」

「女に生まれた喜びを実感なさいな。で、どこまで話したっけ?」

「ひとつも話しておらぬわ!」

「まあまあシロさん」

こういうときに人を落ち付けるのはいつも小梅だ。世の人間が皆小梅のような者だったら、戦争どころか喧嘩も起こるまい。

 紅猫鬼はそりゃ失礼と笑い、脚を組み直して考え込む。

「んー、でもねえ。茂平のことで、話して面白いことなんか無いのよねえ。これといったエピソードも」

そこで天井を見る。

「ま、無いこともないけどさ」


 五


 それは突然といえば突然の出来事であった。茂平と初めて会ってからひと月ほどが経ち、夜な夜な小屋へ遊びに行くのも習慣になってきた頃のことである。

 よく晴れた日の真昼間、紅猫鬼はいつものように子猫の姿となり、妖気を隠して村の周りを徘徊していた。

 といっても、その日はあまりに日差しが暖かかったもので、散歩のほうは早々に切り上げて、近くの山へと続く小道の傍、枯れているのかいないのか判然としないような寂れ木に上り、その細い枝の上にうずくまって、ぬくぬくと紅い背を温めていた。

 身をひそめる生活は退屈といえば退屈だが、旅の途中のひと休みと考えれば、そう悪くもない。背に日差し、髯にそよ風を受けていると、徐々に瞼が重くなってきた。

 しかしその瞼を、いきなりの金切り声が開かせた。

 きよの声であった。

 何事かと思い木の下を見れば、どういうわけか、きよが大きな山犬一匹に襲われていた。

 はて、きよがこの道を歩いているのは茸狩りへ行く途中と想像がつくが、いくら山側の村外れとはいえ、ここまで獣が下りてくることも珍しい。

 ためしに鼻をひくつかせると、わずかに妖気の香りがする。なるほど――恵まれた山でむやみに年を経たか、それとも妙な水でも飲んでみたか。いずれにせよ化生となりかけている。

 肉を求めて人里に下りてくるとは、半端に知恵をつけたものだ。紅猫鬼はやれやれと思いつつ、きよと山犬の姿を眺めた。

 きよは腰を抜かして座りこみ、唸りながら睨む山犬を見つめて、ただ悲鳴を上げていた。

 ああ、これは放っておけば食われるな。

 紅猫鬼は子猫の姿のまま欠伸する。

 さあて、助けてやろうか、やるまいか。このまま喧しい声で叫ばれ続けるのも迷惑なことだが――。

 考える紅猫鬼の脳裏に、ふと、茂平の顔がよみがえる。きよと相対す時の照れた顔。紅猫鬼には向けぬ顔だ。

「……」

体を丸め直す。

「ふん」

まあ、これといった義理もないのに助けることもあるまい。

 きよは喉が破れそうなほどの声で助けを求めていたが、山犬が大口を開けてひとつ吠えた途端、ころりと気を失った。妖気をぶつけられたわけでもなく、ただ驚いて肝が潰れただけである。人間の女などは土台その程度だ。

 紅猫鬼の眺める下で、動かなくなった獲物に山犬が歩み寄り、いよいよ首筋へ食らい付きにかかった。

 だがその時、村の方から走ってくる者があった。

 それは鍬を担いだ茂平だった。紅猫鬼は枝の上で立ち上がる。

 茂平はぜえぜえと息をしながら駆けてきて、「きよから離れろ」と叫びながら、山犬に鍬を振り下ろす。

 山犬はとんと飛び上がって身を翻し、かわしざまに茂平の顔を蹴った。並の獣ならせぬ動きである。茂平の体はぐらりと傾ぎ、土の上にすっ転ぶ。

 紅猫鬼は小さく呟いた。

「ああ、馬鹿だね」

風に乗ったきよの声を耳にして駆け付けたのだろうが、相手が悪い。不完全とはいえ化生は化生――たかが人の手に負えるものではないというのに。

 しかし茂平は果敢であった。すぐに起き上がり、傍らに転がった鍬を拾って、大きな体で振り回す。当たらねど、当たらねど、山犬めがけ、がむしゃらに鍬を振る。

 山犬も茂平の勢いには困惑した様子で、しばらく避けながら様子を窺っていたが、やがて茂平の息が切れ、振り下ろした鍬が土に食い込んだところで、その足首を狙って咬みついた。

 茂平はうっと背を丸め、また土の上に尻餅をつく。

 それを見た紅猫鬼は飛び降りていた。

 ふたつ回りながら身を変じ、正体となって地に降り立つ。

 そして山犬の意識がこちらに向く前に、大きく飛びかかって腕を振り上げ、斜めに思いきり振り下ろした。

 もげた山犬の首が、茂平の足を離れて飛ぶ。

 茂平がこちらを見た。

 紅猫鬼はその頬を叩いて言った。

「馬鹿ッ」

なぜ自分が怒っているのかは分からなかった。

「あんた死ぬところだったよ!」

「……おめえ」

地べたに座り込んだまま、きょとんとした顔で茂平は瞬く。

「いなかったのに、どっから出てきたんだ」

「んなこたどうでもいいんだよ。今のは物の化だよ、化け物だよ。あんたの手に負えるようなもんじゃないんだよ」

「……ん。すまねえ」

「全く――怪我までしちゃってさ」

「そんなにえれえ怪我じゃねえ」

茂平は血の流れるほうの足で軽く地を叩いてから、むっくりと立ち上がる。

 それから遠くに落ちた犬の首を見た。

「ありゃ化けもんか」

「だからそう言ってるじゃないか。あたしと同じで化け物だよ。並の動きじゃなかったろ」

「よくわかんねえ」今度は倒れたきよに顔を向ける。「きよに怪我はねえかな」

「知ったことかい。そんなもん放っぽっときゃ良かったんだ」

紅猫鬼は割れた唇で唾を吐き捨ててから、宙返りして再び子猫に化ける。

 茂平は目をぱちくりとさせた。

「……猫になっちまった」

「あたしゃ元々猫だからね。誰かに見られたら面倒だから、この辺りじゃ――」

足音に耳をぴくりと動かし、村の方角を見る。

「ほら、言ってるそばから誰か来たろ」

「ん」

茂平も同じ方を見る。

 今さらになって走ってきたのは、右六であった。

 茂平と同じく鍬をかついだ右六は、首をきょろきょろとさせながらこちらへ向かって来たが、やがて茂平の姿を見つけ、「おおい」と声をかけてきた。

「茂平、どっかにきよがいなかったか。後吉のやつがただならねえ声聞いたってんで、探してるんだがよお」

「……ん」

茂平は黙って、木のもとに倒れたきよを指す。

 右六はそれでようやくきよに気付き、大慌てでこちらへ駆けてきた。

「お、お前、茂平、こいつはどうしたんだ」

走ってくるなり鍬を放り捨て、ぶつかるような勢いで茂平の襟を掴んで、右六は早口に問いただしてくる。

「そこに死んでるのは山犬か? きよはそいつに襲われたのか? ――お、おい」

茂平の襟をぱっと離して、今度はきよの傍へ膝をつく。

「きよ、きよ」

右六が体を抱えて揺さぶると、きよはようやく目を覚ました。

「右六……?」

「目ぇ覚ましたか、きよッ!」

「あ――」

きよは虚ろな目で周りを見回し、その目がはっきりすると共に、右六の体を抱き返した。

「右六!」

「きよ、怪我はねえか? どっか咬まれちゃねえか?」

「うん。うん」

きよは右六の肩に顔をうずめ、それからこう言った。

「右六、助けてくれてありがとうね」

「え――?」

「本当にありがとうね。あんたが山犬から助けてくれたんだろ」

「いや……俺あ」

「そうだ」

横で頷いたのは茂平だった。

 紅猫鬼は茂平の顔を見上げた。

 茂平は笑っていた。

「おれは足が遅いから間に合わなかったんだ」

笑顔のまま、右六に重い声で言う。

「そうだな」

「あ……?」右六は気圧された面持ちで頷いた。「……ああ」

だが後に言葉は続かない。当然のことである。右六にしてみれば、いわれなき手柄をただ放り投げられて、呆気に取られるばかりであろう。

 きよは右六にすがりついて、ただ泣いている。

 言いえぬ沈黙があった。

 紅猫鬼が小さな口で舌打ちし、茂平は――

「……ん」

ぼりぼりと頭をかく。

「それじゃあ、俺は戻るからよ」

あとは二人を見向きもせずに、村の方へと歩き出した。

 ほんとに損な男だよ。

 そう小さく呟いて、紅猫鬼は前足で顔を洗った。


 六


 またしばらく考え込むような顔をみせた後、紅猫鬼はぽつりと言った。

「こうして思い出してみると」

目を細めて煙草を口に運ぶ。

「何の間違いか、私の方から気にするようになってたのね」

「知らぬわ」

シロは飽き飽きした様子で浮き上がり、ドアの方へ飛んでゆく。

 残ったピザに手を伸ばしながら石楠花が声をかけた。

「どこ行くの?」

「このまま猫の置物に付き合っておっても馬鹿馬鹿しいだけじゃ」ちらりと壁の時計を見る。「しろは夜風にあたり酔いを醒ましてくる」

「あ、そう」

「醒ますほど酔っているようにも――見えなかったけれどねえ」

妙にそそくさと居間を出て行くシロを横目で見送り、夜々はシャンパンを注ぎなおす。

 大輝はようやく空いた椅子に腰かけた。思えばトイレから戻って四、五分は立ちっぱなしである。

 コマーシャルが始まり、テレビの音が急に大きくなったところで、上のそらの紅猫鬼がまた口を開く。

「けど私も昔は臆病だったわ。人を愛することに憶病な、可愛い可愛い子猫ちゃん――実際可愛かったわよ私ってば。写真が無いのが残念なくらい」

「わあ、そんなに可愛かったんですか?」

「可愛くなかったわ」

「え? ええと」紅猫鬼の言葉に翻弄され、小梅は首をかしげる。「どっちですか?」

「全然可愛くなかったのよ。ひねくれててさ」

頬を酒の朱に染めた紅猫鬼は、遠くを睨むように目を細めた。


 七


 もちろん紅猫鬼は気付いていた。目を覚ましたきよが辺りを見回した時、その目が、茂平の足の傷をちらりと見ていたこと――それなのに右六に抱きつき、わざわざ名指しで礼を言ったこと。

 茂平もまた気づいていたのか、それは分からない。ただ、その晩に小屋を訪ねた紅猫鬼が「いずれ猫の妖怪が助けたなどと言えるはずもないが、どうせ嘘をつくならば、なぜ自分の手柄にしなかったのか」と問うと、茂平は例の薄っぺらな笑い顔で、「あれで全部うまくいったじゃねえか」とだけ言った。

茂平がそうした男と分かっていたから、きよもあのような知らぬ振りが通ると踏んだのであろう。どうにも面白くない話である。

 真っ暗な小屋の中、不器用に巻きつけられたぼろ布をほどいてやりながら、紅猫鬼は悪態づいた。

「あんた大馬鹿だよ。鈍いくせして無茶するから、こんな怪我しちまってさ。それであいつらのくっ付くきっかけまで作ってるんだから、世話が無いよ」

「……ん」

「薬塗るからね。沁みても喚くんじゃないよ」

「ん」

「全く――」

紅猫鬼は住処から抱えてきた瓶に手を突っ込み、中の軟膏を指先にちょいと付けて、茂平の傷口に塗ってやる。

「まあ、これでも塗っときゃ二、三日で治るさ」

「おめえが作ったんか」

「薬かい? まあね」腿の毛で指を拭う。「年くってると色々出来るようになるんだよ」

「ふうん」

「はいお終い」

亀の蓋をしめ、紅猫鬼は座りなおした。

「もう下手に布なんぞ巻かなくたっていいからね。かえって悪くなっちまうからさ」

「ん。ありがてえ」

「いいよ、礼なんて――」紅猫鬼は両膝を抱える。「そんなもん要らないよ」

これで誰もいたわってやらなかったら、あんた、本当に馬鹿みたいじゃないか。

胸の中でそう呟く。

 今日の夕方、右六が自分の小屋にきよを連れ込むのを、紅猫鬼は横目で眺めていた。

 同じころの茂平はといえば、一人こっそりと川原へ行き、黙って傷を洗っていた。

 もちろん仕方ないといえば仕方ないことだ。きよはもともと右六に惚れていたのである。二人がくっ付くのは自然なことだし、茂平が一人ぼっちでいることも、あの連中には関係のない話だろう。

 それでも――

「……なんか、さ」

紅猫鬼には面白くなかった。

「つまらないねえ」

「ん?」

「あたしねえ、人に化けられるんだよ。けっこう綺麗なもんさ」

「……? 何いってんだ」

「でも――茂平にとっちゃ、この姿でも女に変わりないんだっけか」立ち上がる。「それだったら、このままでもいいかね。あたしもそのほうが嬉しいしさ」

「いいって、何がだ」

「こういうことさ」

紅猫鬼は茂平の正面に膝をつき、両腕を伸ばす。

「ほら、乳でも何でも触っていいよ」肩に手をのせて笑う。「毛皮が邪魔かもしれないけど、ちゃんと柔っこくて気持ちが良いから」

「おめえ、」

「怖いかい?」

正面から崩れ込むように身を預け、茂平の頬を舐めてやる。

「――ん」一度口を離し、「ほら、口開けな」

「お、おめえ、なんで」

「黙ってな」

わずかに開いた唇に口を押しつけ、舌を滑り込ませる。

 茂平は驚いたような手つきで肩を押し返そうとしてきたが、紅猫鬼はそれに構わなかった。

「……、ふふ」

髯の生えた口を離す。

「どうだい。あたしの体は良い匂いがするだろ? こいつを嗅ぐと、男は嫌でもおっ立つんだ」耳元で囁く。「あんた得したねえ。化けもんの体は人間よりいいよ。匂いだけじゃなくて、あそこのところの具合だって、きよなんかよりずうっといいんだよ」

抱きつくように体をこすらせ、柔らかな毛皮に包まれた乳房を押しつけてやりながら、紅猫鬼は手を下の方へ這わせた。

「大きくなってきたね。良かった良かった」布の上からそこを撫ぜる。「ほら、いつまでも壁に寄っかかってないで横になりなよ。あたしが色々やったげるからさ」

「お、おめえは」

茂平は怯えたような声で問うてくる。

「おめえは、どうして、こんなことすんだ」

「決まってらあね。せめて気持ち良くしてやらなきゃ可哀そうだからだよ」紅猫鬼は笑った。「あんたみたいな男、あんまり惨め過ぎて、見ちゃいられないじゃないか。だから」

「う――」

茂平は紅猫鬼の肩に手をかけ、ぐいと押し返してきた。

 今度は人間なりに本気の力であった。思わず体を離し、紅猫鬼は瞬く。

「何だい、どうしたんだい」

「う、……うっ」

茂平は壁に背を押しつけ、下を向いていた。

 紅猫鬼は戸惑った。

「どうしたのさ。やっぱり猫のつらじゃ気味が悪いかい? 人に化けた方が良いなら、そう言っていいんだよ」

「おれは」茂平は唸るように言った。「おれは、みじめか」

「え――」

「なんもみじめったらしいことなんか、しちゃいねえのに」

濡れた眼が睨んだ。

「どうして、おめえは……おめえまで、そんなこと、おれに思うんだ」

「あ――」どきりと胸が鳴る。「ち、違うよ茂平、あたしは」

「おれはおめえがすきだ。気が優しいからすきだ。声も、やわこい手もすきだ。けども」

茂平はまた下を向いた。

「けども、そんなこと言われんのは、いやだ」

「――、っ!」

紅猫鬼は立ち上がり、足元に唾を吐いた。

「ちぇっ、何だい何だいッ」

薬の瓶を蹴り飛ばす。

「せっかく親切にしてやってんのに、わけの分からないこと言いやがって。当たり前じゃないか。可哀そうだと思わなかったら、誰があんたみたいな男を相手にするもんか。馬鹿みたいに思い上がってんじゃないよッ」

「……う」

茂平は何も言わずに唇を噛む。

 胸が――

「だいたい誰の気が優しいって?」

きりきりと痛い。

「思い違いもいい加減にしな。あたしはね、あんたがあんまり情けないから、つい哀れに思っただけだよ。ほんの気まぐれの、ほどこしみたいなもんさ。本当なら初めて会った時にぶち殺しても良かったんだ」

ごめんよ。

「あんたが惨めかだって? 決まってるじゃないか、そこいらの虫けらよりよっぽど惨めだよ。誰にもまともに相手されないで、何言われたって言い返せないような奴の、どこが惨めじゃないっていうのかね」

ねえ、さっきあたしを好きと言ったね。どういう意味で言ってくれたんだい。

「それをお情けで抱かせてやるってのに、あんたの言い草ときたら、まるで一丁前の男気取りだ。恥ずかしくって聞いちゃいられないよ。あたしが化け物だから、ひょっとしたらとでも思ったのかい? 馬鹿にされたもんだ。女だったら人間でも化けもんでも、あんたを見て思うことは同じさ!」

ああ、どうしてだろう。

「あんたみたいな奴、気持ち悪いったらありゃしない!」

心と言葉が交わらない。

 茂平は紅猫鬼に言われるまま、寂しそうに項垂れていた。

 紅猫鬼の荒い息と、吐き出してしまった言葉がゆらゆらと漂っている。

 もう駄目だった。紅猫鬼は耐えきれなくなり、「二度と来ないよ!」と言い捨てて、小屋を飛び出した。

 外の風は冷たかった。

 やけに大きな月の下、四つ足を使って冷えた地を駆け、川を跳び越え、山へ向かってひとっ飛びに疾走る。

 なぜあんなことを言った?

 風を切りながら自問する。

 的外れなことを言っていたのは自分の方だ。あの男は惨めなことなど何もしていないじゃないか。罵る相手を恨みもせず、悪口も言わず、誰のことも傷つけずに、黙って真面目に働いてきたんじゃないか。誰かに恥じることなんて、一つもしていないじゃないか。

 どこかで狼が鳴いた。紅猫鬼は薄野の中で歩みを止め、その場にすとんと座り込む。

 ――。

 ああ、そうだ。

 揺れる葉の先で蟋蟀が跳ねた。

 それが、あの木偶の坊の誇りだったのだ。どんなに馬鹿にされても、本当に惨めになってしまうような、曲がったことだけは絶対にしない。それがあの男の、たった一つ持っている誇りだったのだ。そんな人間だから紅猫鬼も好きに――好き?

「……、あはは」

いつの間にか零れた涙が、頬の毛を濡らしていた。

 そうか、自分はあの男に惚れていたのか。

 おかしな話だ。惚れているくせに、どうしてあんな言い方しか出来なかったのだろう。

素直に「あたしはあんたが好きだよ」と言えばよかったのに、なぜ惨めだから哀れだからと、くだらない理屈を付けてみたのだろう。

「だって……」

背を丸めて涙を拭く。

「だって、ねえ」

考えないように、頭の中で言葉にならないようにしてきただけで、本当はその答えも分かっている。

 好いたって、どうせ、すぐに死んでしまうからだ。

 茂平はただの人間だ。どんなに仲良くなったところで、于石のように、あっという間に死んでしまう。そしてまた紅猫鬼は思い出を抱えて残されるのだ。

 反魂の法など、もしかしたら永遠に手に入らないかもしれない。諦めなくてはならなくなった時、胸に思い出が多ければ、そのぶん苦しみが増えるだけだ。

 だから一度体を重ねて、それっきり。

 それで満足するのが一番いいではないか。

 ほんとに?

 だって、どうせ于石と同じように消えてしまうなら、最初から何も始まらない方がいい。また冷たい亡骸にすがって泣くくらいなら、いっそここですれ違った方がいい。別れるのはもう嫌だ。置いて行かれるのはもう嫌だ。

 じゃあ、

 誰だ。幼い声で誰かが問いかけてくる。

 じゃあ、おじいちゃんと過ごしたあの時間も、無いほうがよかった?

「……」顔を拭う。「そんなわけ」

あなたは後悔してるの?

「そんなわけ無いだろう」

忘れられるなら、みんな忘れてしまいたい?

「忘れたくない」

どうして?

「……大事だから」

幼い自らの声に応えながら、紅猫鬼は傍らの草を千切り、握りしめた。

「あのとき、幸せだったからだよ――」

涙がぼろぼろと零れた。

 愚かだ。

本当は好きなのに、別れるのが怖いからと、自分から遠ざかるなんて。そんなのは馬鹿な話だ。本当に愚かなことだ。

 早く茂平に謝って、本当の気持ちを伝えなければ。

 でも、あんなにひどいことを言った自分の言葉を、果たして信じてくれるだろうか。信じてくれたとして、許してくれるだろうか。

 分からない。

 けれど、

「……やり直さなきゃ」

そうだ。せめて、悔いの残らないようにしなければ。


 八


 紅猫鬼の目が懐かしそうに細められるのを、小梅はじっと見つめていた。

 綺麗な横顔、その唇が開く。

「よかったわ」

「え?」

「やり直そうと思えて」

腕組みして笑う。

「おかげで後悔せずにすんだもの。もしあのとき躊躇っちゃって、今ここに石楠花ちゃんや石之助ちゃんがいなかったらと思うと、ゾッとするわね」

「んー、と?」

小梅は反応に困って皆の顔を見比べたが、誰も呆れたような顔をして紅猫鬼を見ていた。

 いったい何の話かと言わんばかりの冷めた視線と、夜々の「たまに口を開いたかと思えば意味不明な」という呟きを無視し、紅猫鬼は一人、くすくすと笑った。

「それにしても、女からプロポーズってのは決まりの悪い話よね」


 九


 次の晩、紅猫鬼は茂平のところを訪ねた。

「茂平、いる?」

もはや勝手知ったるはずの小屋の中に、おそるおそる足を踏み入れる。

 いないはずもない。

 茂平は仰向けにしていた体を起こし、「ん」とこちらを見た。

「いる」

「き、昨日はごめんよ」

暗い小屋の真ん中に立ったまま、紅猫鬼はまず謝った。

「あたし、あんなこと言ってさ。怒ってんだろ」

座り込むことは躊躇われるものの、どんな姿勢で立っていればいいのか分からない。尾が落ち着きなく揺れ、手の指先がもじもじと動く。何か掴むものが欲しかった。

 茂平はゆっくりと首を振った。

「おれ怒っちゃねえ」

「……。ほんとに?」

「ん」牛の目が瞬く。「あとで考えたら、あんときは、おれのほうが悪かったんだ」

「どうして?」

「わからねえが、おれは頭が悪いからよ」

決まり悪そうに頭をかく。

「だから、きっと、おれが悪いんだな。怒らしちまってわるかった」

「違うよ」

紅猫鬼は苦笑した。

「あたしが嘘ばかり言ったのがいけないんだよ」

「うそ?」

「つまりさ――どう言ったらいいか、わかんないんだけど」

「ん」

茂平はのったりと座り直し、首をかしげる。

「どうした」

「好きって言ったら、驚くかな」

「なにがだ」

「だから、あたしが」

自分を指差し、

「あんたを、好き」

茂平を指す。

 しかし、茂平は今ひとつ理解できていない様子であった。

「……ん?」

「化生が人間の女に化けるとね」

紅猫鬼は一歩ずつ後ろへ下がり、薄い壁に寄りかかる。

「そこいらの女より、ずっと見ったくれのいいのが出来上がるんだよ。滅多にないことだけど、そういうのを嫁にすると、他の連中から羨ましがられるんだ。……でも」

下を向いて肩をすくめる。

「年をとらないから、そのうち、周りに化けもんだと知れちまう。だからどっかの山奥に引っ込むか、何年か経つたびに住みかを変えなきゃならない。面倒なもんさ」

ゆらり、ゆらり。

尾がせわしなく揺れるのは恥ずかしさのせいか、それとも断られることへの不安からなのか。好いた気持ちを打ち明けるなどいうことは初めてなので、分からない。

 ともかく――

 息を深く吸って吐き、紅猫鬼は続けた。

「だけどね。もし、それでもよかったら」

茂平の顔に視線を合わせ、小さな声で言いきる。

「あんた、あたしを女房にしてみないかね」

少しくらい風の音でも聞こえていればいいのに、こんな時に限って音というものが一つも無い。そのせいで、紅猫鬼の声は、はっきりと小屋の中に広がってしまった。これではもう取り返しがつかない。

 さて、どうなるか。断られた時のことなど考えていないが、考えておいた方が良かっただろうか。

 緊張する紅猫鬼とは裏腹に、茂平はのんびりと首をかしげた。

「おめえ、おれんところへ嫁に来てもいいってのか」

「ん、まあ、来てもいいというか」尾を股にはさむ。「なんというか」

「なんでだ」

「さっき言ったろ。惚れてるからだよ」

「惚れてる?」

「嫌かい」

「いやってこと、ねえけどよ」心配そうな調子で茂平は言う。「やめといたほうがいいんじゃねえか。なんも得がねえし」

滅多に動かぬ眉をへの字にする。

「おれみたいなもんのとこへいたら、おめえまで意地悪言われっかもしれねえ」

「へんなこと気にしないでいいよ。そんなこた良いから、嫁にするのかしないのか、それだけはっきりしてくれないかね」

「そりゃ、おめえがいいなら、おれは嬉しいけども」

「じゃあ決まりだね」よし、よし。「これから邪魔するよ。あんた今、確かにいいと言ったからね。あたしここへ住むからね」

「ん。でもよ」

座り込んだ紅猫鬼に茂平は問うてくる。

「おれを好きっていうのが、わからねえ。そんなこたねえと思うんだが……なんか、間違ってんじゃねえのか」

「あんたねえ」

呆れて思わず肩が落ちたが、尖った耳の裏をかき、やれやれと溜息をついてみると、少しずつ笑いがこみ上げてきた。

「ったく――」笑いながら寝転がる。「まあ、いくら短いといったって、何十年かあるんだ。その間にあたしが分からせてやるさ」

「ん……?」

茂平はやはり、不思議そうに首を傾げるのみだった。

 さて、面白かったのは次の朝である。

 人に化けた紅猫鬼が茂平に連れ添って小屋を出ると、村の者たちは皆一様に目を白黒とさせ、何を訪ねていいのか分からぬといった顔で、案山子のように立ちつくした。中には持っている物を取り落とした男もいたほどだ。

 誰も彼もこちらを見ながら、ぽかんとして声をかけてこない。異様な雰囲気であった。

 ためしに近いところへ立っていた娘と目を合わせ、紅猫鬼が「何見てんだい」と言ってみれば、その娘はなぜか一歩後ずさってから、妙な引きつり笑いで問い返してきた。

「あの、あんた、いったい何もんかね」

「見りゃ分かんだろ、こいつの女だよ。変な目でじろじろ見てんじゃないよ」

「なっ」

「文句あっかい」

着物の袖をまくり上げ、軽く睨んでやる。

 娘は慌てて目をそらし、いそいそと向こうへ去って行った。無理もあるまい、可憐な姿に化けてはいても、中身は立派な化け物だ。言葉づかいに腹が立ったところで、魔物の威圧を押し返して文句を言う胆力など、並の人間には到底持ち得ぬものである。

 娘の代わりに、おっかなびっくり近寄って来たのは、右六であった。

「お、おい、茂平」

「ん」

茂平はぼんやり顔で返事をする。昨晩はことが終わった後も長く喋っていたので、寝不足なのだろう。

 紅猫鬼の顔をちらりと見てから、茂平の脇へ来て肘でつつく。

「おめえ、いつの間にこんな別嬪の娘っこと出来てたんだ?」

「ん?」

「思ってたより隅に置けねぇじゃねえか。なあ、名はなんてぇんだよ、おい」

「ん……」

「べに、ってんだ」紅猫鬼が割って入る。「昨日の晩、河原で行き倒れてるところを、小便に出てきたこの人が見つけてくれてね。気が付くまで小屋で介抱してもらったのさ。いやあ、親切な男に巡り合ったもんだよ。この世も捨てたもんじゃないと思ったさ」

細かいところに突っ込まれぬよう、早口にまくし立てる。

「冷たい土地柄で育ったせいか、あたしゃこういう男に弱くてねえ。聞けば独り身だっていうんで嫁にしてくれと頼んだんだけど、この人が二つ返事で応えてくれたから、とんとん拍子に話が進んだよ。あたしも天涯孤独の身の上から、晴れて人の女房ってわけだ。ありがたい話だよ本当に」

「おめえ、よくそんなに嘘が思いつくなあ」

「おっと!」余計なことを言う茂平の尻を引っ叩く。「お前さん、蠅がとまってたよ。気付かないなんて鈍いじゃないか」

「ん。いてえ」

茂平はのんびりと尻をさする。全くとぼけた男である。

 ぽかんとする右六の肩越しに、恐る恐るこちらを眺めるきよの姿も見えたが、今更きよ相手に思うことも言うことも無い。紅猫鬼は知らぬふりをして、「さあお前さん、水くみに行こうか」と茂平の袖を引っぱった。

その際にちらりと茂平の顔を見上げてみると、茂平もこちらの顔を覗き込もうとしていたところであった。

「ん」瞬く。「どうした」

「何でもないよ」

袖をつまんだまま歩き出す。不思議と笑んでしまったのは何のせいだろうか。

 この間抜けな朝が新しい生活の始まりだった。

 とはいっても、村にいたのはそれから一年足らずの間で、二人はすぐに遠い山の奥へと引っ込んだ。理由はいくつかあったが、最も大きかったのは、紅猫鬼にちょっかいを出してくる男の多かったことである。始めのうちは紅猫鬼自身が上手い具合にかわしていたものの、そのうち血迷った一人者たちが「早く女房と別れろ」とか「お前には勿体ない女だ」などと茂平に嫌なことを言うようになり、夫婦ともども面倒臭くなったのである。だから周りに別れも告げぬ、夜逃げのような引っ越しとなった。

 紅猫鬼はその百人力と知恵を用い、山中へ瞬く間に石造りの家を建て、周囲の土を耕し、近くに温泉を掘り当てて風呂とした。

 麓へ下りて何かを仕入れる時は、山で採った草や木の根から薬を成し、それを売った金で買い求めた。茂平と一年暮らす間に、いつの間にか、手頃な人間を殺して奪おうなどという考えをしないようになっていたのだ。四六時中顔をつき合せていると色々なことがうつって面白いものである。

 初めのうちこそ土地の化け物が襲ってくるようなこともあったが、紅猫鬼がその都度大いに脅かして帰したもので、だんだんそのようなことも無くなった。

 邪魔もなく、変わりもなく、一年、二年、三年と、月日は実に穏やかに、幸せに過ぎた。

 しかしその間、ただひとつ心にあった引っかかりは、反魂の法のことだった。

茂平との限られた時間を大切に過ごそうとつとめる間、于石を蘇らせるという願いは止まったままになっている。それが紅猫鬼の心に、時折、ふっと暗い影を落としたのだ。

 だがその影もやがて、ある夏の日に茂平が発した言葉によって、笑ってしまうほど突然に溶けて消えた。

 あれは夫婦となってから六年が経ったころか。出会った頃より、茂平は少し老けていた気がする。照りつける陽の下で畑仕事をする茂平に、麓から帰ってきた紅猫鬼が桃を放ってやった時のことだ。

「ほら、お前さん、食べなよ」

「ん」茂平は胸のあたりで受け取った。「桃か」

「塩を買って帰るついでに、下のほうの木からもいで来たのさ。よく熟れてるからきっと甘いよ」

「ん……」

茂平は桃をじっと見つめ、ぼんやりと口を開いた。

「ありゃ、いつだったかなあ」

「何だい?」

「いつだったか、おめえ」茂平は手の中の桃を見つめた。「今日みたく、俺に桃をもいできてくれたかな」

「はあ? 気のせいじゃないのかい。あたしゃ一度だって――そんな――ことは」

かちり。

突然に心の中で何かが噛み合った。

 その瞬間、紅猫鬼は思わず尾を立たせ、天を仰いだ。

 やけに透き通った空。風と雲が嘲笑っている。

「……ああ」

深い息と共に尾が緩む。

「なるほどねえ」苦笑せずにはいられなかった。「この馬鹿馬鹿しいのが答えかい?」

だとすれば、ずいぶん滑稽な真似をさせられたものだ。得体の知れぬ連中め、何を思ってこのようにしたかは知らないが、味なことをしてくれる。

 紅猫鬼は一度だけ舌打ちし、雲を見つめながら言った。

「ねえ茂平」

「ん」

「あたしの相手はお前さんだけだよ。お前さんが死んじまった後も、ずうっとね」

小さな声でそう誓い、紅猫鬼は叶わぬ望みから解き放たれた。


 十


 紅猫鬼は急に大輝の方を向き、呟いた。

「忘れないでね、大輝くん」

「え……?」

「向こう側の作ったシステムは決して完全じゃない」栗色の髪が揺れる。「だから、ひとつでも多く憶えていることが次への希望になるわ。昨日のこと、今日のこと、明日のこと、全部。いつ終わるか分からないから、何でもないことでも、しっかりと胸に刻みつけておいて」

強い視線と静かな声が、大輝の目から頭に入り込んでくる。

「妖怪の存在は曖昧よ。例えるなら三次元が犯したミスのようなものかしら。見落とされたままなら、永遠にそのまま。だけど場合によっては正されるか、自らを正してしまう。本当に――あなたたちが思っているよりずっと、曖昧な生き物なの。特に化生はね」

「……?」

「こんなこと話しても分からないか」

紅猫鬼は細い肩をすくめる。

「要するに、今を精いっぱい大事にしてね、ってことよ。オーケー?」

「……。はあ」

全然オーケーではないものの、問い返してもまともな言葉をもらえるとは思えない。大輝は一応頷いた。

 さとて、と紅猫鬼は立ち上がる。

「意外と早かったわね。鳴子に小鳥ちゃんが掛かったみたい」

「どうしたんですか」

「ごめん小梅ちゃん、ちょっくら用事ができちゃった。すぐ戻って来るから良い子で待っててね」

「? はあい」

小梅が片手を上げ、笑顔で頷いた紅猫鬼は、コートハンガーの上着をひょいと取る。

「そいじゃ失礼」

そのまま居間を出て行ってしまった。あっという間である。

 何が何だかわからない。

 部屋にいる面々の顔を見比べてみると、一様にぽかんとした顔を晒している皆の中で、やはり石楠花だけが、つまらなそうに下を向いていた。


 十一


 夜の公園は寒かったが、この寒さのおかげで邪魔が来ないのだと思えば、どうということもないどころか有難い。まったく他人の視線ほど鬱陶しいものは無いのだ。

 弱々しく光を放つ古い街灯の下、孝道はポケットからゴムボールを取り出し、足元で弾ませた。

「ねえクロ、寒くない?」

「だいじょうぶですから、気にするな」

公園の真ん中でクロが手を振る。暗くて顔はよく見えないが、どうやら平気そうだった。

 じゃ、いくよ――と孝道はボールを放る。

毎度のことながら、全力であさっての方向へ。これが人間どうしのキャッチボールなら大暴投である。

 しかし、クロは地を蹴って横へすっ跳び、難なくキャッチしてみせた。瞬く間に十メートルを移動するこの身体能力を見た時は、孝道も度肝を抜かれたものだ。妖怪とは皆こうなのだろうか。

 ボールを振り振りクロは言う。

「とった。ほめろタカミチ!」

「クロはすごいなあ」

「うれしいですな。つぎはタカミチとれな。とったらクロがほめますけど、それはおかえしではなく、ちゃんとえらいからほめるやつです」

「うん。オッケー」

と片手を上げてみせたその時、しゃり、と音がした。

 砂を踏む足音だ。孝道は中途半端に手を上げたまま、そちらを見る。

 貴そうなコートを着た女が一人、公園の入り口に立っていた。

「見つけたわ」

妙に派手派手しく、そして妖しげな顔立ちだった。

「あなたが相沢くんね」

「え……」

「人さらいの相沢孝道くん、でしょ?」

女は小首を傾げてみせる。

 馬鹿な。孝道はクロを見た。

 クロは――

「だれだあ?」

向こうの方で、ぽかんと口を開けていた。

「おーい、おまえをクロは知りませんが、タカミチのお知り合いですか? よろしくおねがいします」

「あなたクロちゃんっていうの?」

女はクロのほうを向いて微笑む。

「可愛い声ね。それに目が綺麗。気が弱くて素直な子なんだって、一目で分かっちゃった」そして悲しげに呟く。「ちょっと辛いなあ」

こんなに暗く、しかも孝道よりも距離が離れているのに、クロの顔が見えているらしい。

 孝道は問うた。

「あ――なた、は?」

「この町で消えた若い子の大半は、中学時代、キミを不登校に追い込んだクラスメートたちなのよね。卒業生のひとりが話してくれたわ」

女は再び孝道に視線を向けてくる。

「今日、あなたの家の近くまで行ったの。でも親戚の住んでる近所で真昼間から騒ぎを起こしたくなかったから、取りあえず漂っていた微弱な妖気をサンプルとして採取して――それから町中に鳴子を仕掛けておいたのよ。同じパターンの妖気に反応した時、私に知らせが来るように。夜中まで反応しなかったところをみると、あなた昼間は一日じゅう引きこもってるのね」

「……え? ……と」

まるでこちらに理解させようとしていない、投げやりな話し方だ。どうしてこんなに投げやりなのだろう。ほとんど何も伝わってこない。

 ただ、それでも、一つだけ分かることは――

「あなたは、みんな」

「分ってるわ。だから来たのよ」

「だ、誰」唾を飲む。「なん、ですか」

「そうねえ」

女はポケットに両手を突っ込んだまま、うーんと上を見る。

「キミを裁きに来た正義の味方、じゃないわねえ。大義名分はあるにせよ、可愛がってる子のために来ただけだし。個人的な事情ってやつよ」

「え……」

「あ、あっ――タカミチにげろ!」急にクロが叫ぶ。「その人、タカミチとクロのこと、ころしにきたんだっ!」

「殺す?」

「カンの良い子ね」

女はコートのポケットから右手を抜く。

紅い毛の生えた手。

 クロが弾けるように動いた。

 飛びかかってくる女の唇が言葉を紡ぐ――「ごめんね」。

 割って入るクロ。

 身じろぎひとつ出来ない孝道の目の前で、二体の化け物はぶつかり合った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ