第十五章【大跨 ―おおまたぎ―】前篇
一
つい先月まで物置部屋と化していた一階の和室だったが、大輝たちの手で片づけられた今は、すっかり「コタツの間」と化していた。
中央に巨大なコタツ、奥に十四型テレビが置かれただけの中途半端な広さの空間は、出来上がってみると思いのほか重宝したもので、例えば食後にゴロゴロしてみたり、休日にゴロゴロしてみたり、隙あらばゴロゴロしてみたりと――まあ、具体的な用途を並べれば有意義には聞こえないまでも、少なくとも大輝や石楠花にとって、無くて困るような部屋ではなかった。
とかく居心地だけは良いのだ。
今まで用の見つからなかった和室が、コタツという家具一つでここまで居心地の良い空間に生まれ変わるものか……。今日も夕食を食べ終えて寝転がり、さほど面白くもないバラエティ番組をながめながら、大輝はひとり感心していた。
すらりと左手の襖が開き、洗い物を終えたらしいシロが半身を突っ込んでくる。
「大輝、しろも入ってよいか?」
「あ、はい。どうぞ」
大輝はあわてて体を起こす。ここは事実上シロの新しい寝室でもあるのに、いちいち馬鹿丁寧に入って来るから、その都度反応に困ってしまう。
シロは和室へ入ってくると、隅に積まれた座布団の一枚をつまみ上げ、大輝のすぐ隣にそれを敷いて、よいしょと座り込んだ。
コタツへ両足を突っ込み、体を震わせる。
「ふうぅ」
組み上げたコタツを目にした時は、「これは本当に必要なものか」と眉をひそめていたシロだったが、いざ使い始めた途端、あっという間に虜の一人と化した。分かりやすいものである。
シロは老人のように背を丸め、テレビをながめつつ呟く。
「つくづく心地良いものじゃな」
「お気に入りですね」
「このこたつとやらもそうじゃが」
脇へ目を落とし、シロは指先で畳の溝をなぞる。
「畳というのもどうして落ち着くものじゃ。そういえば紅猫鬼のやつ、日本人は畳が一番などと言うておったが、なるほど、ここへこうしておると不思議に気が休まるわい」
「シロさんたちって、どっちかというと中国人じゃ……。まあいいけど」
大輝はコタツの中央に手を伸ばし、ミカンをひとつ拾い上げる。
「しかし、畳が好みに合うって分かってたら、もっと早いうちにこの部屋片付けて、今みたいにシロさんの寝室にしてたんですけどね」
もちろん、時たまそういう話も持ち上がらないでは無かったのだが、シロが「ソファで十分」と言ってきかなかったので、長いこと実行には至らなかったのだ。
シロは苦笑いするばかりで何も言わない。
大輝はその横顔を見ながらミカンの皮をむく。
「いつまでも遠慮しすぎなんですよ、シロさんは。居候だなんて誰も思ってないんだから、あれがしたいとか、これが欲しいとか、もう少し言ってもいいのに」
コタツの上、既に折り重なっている黄色い皮の山に、むいた一枚をまた重ねる。
「服だって、いつまでもパーカーとかジーパンばっかりじゃないですか」
「ん――む」
狐であるだけに狐目なので分かりづらいが、シロはわずかに困ったような顔を見せた。
「しろにはあまり欲が無いでな」
「でも――」
そうだ、ちょうどいい。この流れで仕掛けることにしよう。
大輝はさり気なさを装って問いかけてみる。
「でも、さしあたって、欲しい物とか一つくらいあるでしょう」
「今のところは無いのう。ふらいぱんも義父上が買い直してくれたばかりじゃし、切らしておった醤油も買い足したばかりじゃ」
「そういうんじゃなくて、シロさんが個人的に欲しいと思う物とか……。遠慮なく言うとしたら」
「すぐに思い当たらぬということは、まあ、無いのじゃろうな」
「本当に一つもないんですか?」
「ふむ?」
シロの眉がわずかに動く。
しまった――。少々しつこく問い詰めすぎたか。もしかして感づかれたかもしれない。
大輝は慌てて次の言葉を選別しようとしたが、どうやら杞憂であったらしく、シロはテレビに視線を戻しながら、穏やかに言葉を返してきた。
「そうじゃのう、強いて言えば、おぬしらが日々何事もなく過ごすことが、しろの願いじゃな」
「……。そう……ですか」
大輝は肩を落とす。
何ともシロらしい答えだ。
この質素なところがシロの長所だということは十分承知しているが、しかし、今の大輝が求めているのは、もっと具体的な回答であった。
そう――例えば――例えば、何だろう。シロのことになると全く予測がつかないけれど、とにかく、現時点で貯まっている一万二千円におさまるくらいの現実的な物欲を示してもらえれば、それが一番分かりやすくて有難かったのだが。
シロはこちらの気も知らず、のんびりとリモコンに手を伸ばしているところだった。
「大輝、ちゃんねるを替えてもよいか? しろのような年寄りには、こうした番組は喧しいばかりで面白うない」
「あ……どうぞ。俺も別にバラエティ好きじゃないし」
「他には何をやっておるかの」
両手で包みこむようにリモコンを持ち、丁寧にボタンを押してチャンネルを回す。なぜかシロはリモコンを片手で扱おうとしないのだ。この仕草を見るたびに妙に可愛らしいと思うのだが、もちろん口に出したことは無い。
ぽち、ぽち、と一定のリズムでチャンネルを替えながら、シロは口を尖らせる。
「この頃合いになると、いつも同じような番組ばかりじゃな。これではてれび局が幾つもある意味が無かろうに……。にゅうす番組のひとつでもやっておれば良いのじゃが」
「夜のニュースはもうちょっと遅くになってからですね」
大輝は言いながら欠伸する。体育がマラソンだったせいか、それともコタツの魔力のせいかは知らないが、いつもよりも早く眠気が襲ってきた。
すべてのチャンネルをチェックし終えると、シロは「ふん」と鼻を鳴らしつつテレビの電源を切って、コタツの上にリモコンを放り出す。
「駄目じゃ。点けておかぬほうがましじゃな」
「ですねぇ――あ、そうだ」
ニュース番組で思い出した。大輝は眠気に俯きかけていた顔を上げる。
「シロさん、あれ知ってます?」
「あれとは何じゃ。いやらしいことか」
「いやらしいことじゃないです。今日学校の奴らから聞いたんですけど、うちの近所で変なことが起きてるらしいですよ」
「ふむ?」
シロはミカンの横に置かれていた袋に手を伸ばし、引き寄せる。
「どうしたことが起きておる」
「いや、なんか、連続で何人も行方不明になってるとかで。聞いてません?」
「ゆくえ――ふめい?」
シロは袋の中から成犬用のドライフードをつまみ出し、ぽり、と齧る。
大輝は頷いて続ける。
「俺も人づての話なんでよく分かんないんですけど、この近所で、冬に入ってから何人も姿を消してるらしいんですよ。しかも若い人ばっかり……みんな夜に出歩いてるときに消えちゃったって話です」
「ほう」
シロは二粒めのドッグフードを指先で弄んでいる。
「なるほどのう」
それから口に放り込み、噛み砕く。ぽりぽりという美味しそうな音には惹かれるものの、実のところ美味いのか不味いのか、食べてみたことのない大輝には想像もつかない。
租借したものを飲みこんで、シロはそろえた指先で口元を拭いた。
「人攫いならば物騒なことじゃな。大輝も気を付けよ」
「っていうか、なんか怪しくありません?」
「……のう」横目でこちらを見てくる。「先刻より見ておると、大輝は剥いた蜜柑をいじくり回しておるばかりで、一向に食おうとせぬのじゃな」
「へ? あ、いや、食べますけど」
剥き終えていたミカンを二つに割り、片われを丸ごと口に放り込む。
シロはふうむと頬杖をついた。
「まあ、大輝の考えておることは分かるがな。しかし妙なことを全て化け物の仕業と決めてかかるのも早計じゃろう」
「べふに……」ミカンを飲みこむ。「……別に、決めてかかってるわけじゃないですけど」
「眠り石が壊れたとはいえ、比べるべくもなく、人は化け物などより遥かに多い。にゅうす番組を見よ。人が死んだの攫われたのと四六時中騒いでおるが、どれもこれも人のしでかしておることじゃ」
シロはまたドッグフードを齧り、うっすらと複雑な笑みを浮かべる。
「いつの時代、どの地もそうであった。人は人同士で勝手に害し合っておるものよ」
「ですかねえ。……ですね」
確かに、言われてみればもっともなことである。シロとの出会いに始まり、食み虫、下がり腕、それから石落や宮琵など、立て続けに人外のものと接してきたせいで、大輝の感覚がおかしくなっているのかもしれない。
深い考えも無しに余計なことを言うのではなかった。大輝は残りのミカンを口に突っ込み、もぐもぐと噛みながら、両手をコタツの中に突っ込む。
と、不意にシロが険しい顔をした。
「んんっ?」
細い目が一瞬だけ見開かれ、丸まっていた背筋がぐねりと波うつ。
大輝は横から顔を覗き込む。
「どうしました」
「ど――」驚いたような顔がこちらを向く。「どうした――じゃと?」
「え」
「おぬし一体……ああ、そうじゃったか、すまぬ」
シロは言いながら表情を緩ませ、それから肩に寄りかかってきた。
「大輝は口下手じゃからな。よい、よい。言葉にせずともよい。やっとその気になってくれたか」
「はあ?」
「突然のことで驚いたが、男は不意にさかるものじゃからな」
生ぬるい吐息が、ふう、と耳にかかる。
何が何だか分からない。
戸惑うこちらの反応をよそに、シロはそわそわと勝手に盛り上がっている。
「さて、どうしたものか――まずは明かりを消さんとな」
「いやいやいや」一体何の話をしているのか。「どうして消すんですか」
「……? どうしてもこうしてもあるまいに」
シロは不思議そうに言葉を止めたが、やがて、くすりと笑った。
「ほう。なるほど、そうか」
頷いているのか何なのか、頭に頬をすり寄せてくる。
「大輝は初めてじゃから、女の体がどうなっておるか気になるのじゃな」
「はい?」
「ならば明かりは消さずとも良いが、このような鍵も掛からぬ部屋では、ゆるりと眺めておる暇は無いぞ。どれ、義父上や石楠花でも入って来ぬうちに……と」
「ちょ――えっ?」
股間に手が入ってきた。慌てて膝を閉じ、その手を挟み込む。
「いきなり何してるんですか!」
「大輝がしろにしておるのと同じことじゃろうが。ほれ、膝を開かぬか」
「俺は何もしてませんって!」
「しておらぬじゃと?」
「だって、ほら」
大輝は反則行為を否定するサッカー選手のように両手を挙げてみせる。
それを見たシロは我に返った顔となり、素早くコタツから両足を抜いて、遠い間合いで座り直した。
「な……ならばこの手は――」
右手をコタツに突っ込み、何かを掴んで引っ張り出す。
「何者じゃ!」
ずるり。
怪力によって引きずり出されたのは、なんと、石楠花の上半身であった。
シロと大輝は同時に仰け反る。
「うおう!」
「しゃ、しゃくネエ!」
「んん?」
仰向けでシロに手首を掴まれたまま、石楠花は眠そうな目を瞬かせた。
「……あれ? あんたたち何してんの?」
「そ――それはこちとらの台詞じゃ、大馬鹿者!」
シロは石楠花の腕を真っ直ぐになるまで引っ張り、長い両脚を使って肘関節を極める。テレビで覚えたのか偶然かは知らないが、大変見事な腕ひしぎ逆十字固めである。
一秒と経たず、和室に悲鳴がこだまする。
「いっ、たぁい!」
「こたつに潜って眠ってはならぬと、幾度も幾度も言うたろうが! その上に紛らわしい寝呆け方をしおって!」
「何、何? 折れるってば! あ、折れる折れる折れる!」
石楠花の左手が必死に畳を叩くが、シロは技を解こうとしない。ゴツゴツとコタツの底が鳴っているのは、恐らく、もがく足がぶつかっているのだろう。
大輝はいつものごとく壁際に退避し、呆然とその光景を見守るしかなかった。
やがて石楠花の悲鳴が弱々しくなり、その目じりに涙が滲みはじめてきた頃、シロはようやく関節技を解いた。
「全く――二度とこたつの中で眠るでないぞ」
パーカーの襟を直しながら座り直す。
石楠花は反撃する気力すら削り取られたようで、腕が自由になった後も、力なく仰向けに横たわっていた。
「ひ、ひ、肘の感覚が……」
「大袈裟にするでない。加減はしたわい」
シロは呆れ顔でそう言ったが、妖怪の力で手加減をしなければ、今頃石楠花の腕は物凄い状態になっていたことであろう。
石楠花はシロを睨みながら、ようやく体を起こす。
「あいたた」痛めつけられた肘に手をやって。「んだよお……仕方ないじゃんか。ご先祖様が猫だったせいか知らないけど、コタツに入ると勝手にああなっちゃうんだから。だいたい今日に限ってどうしてそんなに怒るんだよ」
「寝呆け方が悪いのじゃ、寝呆け方が。一体しろの股ぐらを何と間違えたのやら」
シロは舌打ちし、ちらり、と大輝の方に視線を向けてくる。
「ようやく大輝がその気になったのかと思ったが、とんだ糠喜びじゃったわい」
「あははは」
愉快でなくとも笑うしかない。
それにしても感心に値するのは石楠花の寝相である。いくらコタツが大きいとはいえ、大輝たちの脚に触れることもなく、よくも器用に全身をおさめていたものだ。一体どういうポーズで寝ていたのか想像もつかない。
石楠花はまだ何の事だか理解できていない様子で、両の拳を使って顔をこすっている。どうでもいいことだが、宮琵の一件以来仕草が猫じみてきたのは、やはり先祖返りの力に目覚めたからなのだろうか。
シロはその背を軽く叩く。
「ほれ。目が覚めたなら、とっとと風呂へ入ってこい。義父上はもう上がったぞ」
「ん――小梅さんたちは?」
「とぼけたことを言うておる。とうに帰って行ったわい」
「あ、そう」
小梅は頷いてから、ぱたりと倒れた。
「でもあと五分待って」言いながらモゾモゾとうつ伏せになる。「起きたばっかりでお風呂入るの辛い。動けない」
「仕方のない娘じゃ」
「じゃあ俺が先に入っちゃいますよ」
大輝は立ち上がる。
シロはうむと頷いてコタツに足を入れ直した。
「寝冷えせぬよう、しっかりと浸かるのじゃぞ」
「はい」
「嫌でなければ背を流してやるが」
「あ、お構いなく」
決して嫌ではないですけど。
大輝は心中でそう付け加えつつ、誤魔化し笑いで和室を後にした。
二
大輝が部屋を出て行ったあと、石楠花はコタツの中で寝返りをうち、顔のすぐ隣にあるシロの尻をつついてみた。
「……ねえ」
「どうした、二度寝しておるのではなかったのか」
シロは石楠花の顔を見下ろそうともせず、かといってテレビもつけずに、ぽりぽりとドッグフードを食べている。
石楠花はもう一度尻をつつく。
「ねえったら」
「だからどうしたのじゃ」
ようやくこちらを見た。何度見ても真っ白な顔である。
石楠花は笑った。
「あんたのお尻ってさあ、近くで見るとでっかいね」
「何を言うかと思えば」
「触るとぷよぷよしてるし、ここだけ見るとカッコ悪いよ」
「ち」シロは舌打ちしながら顔をそむける。「やかましい。大輝はすたいるが良いと言うてくれたわ」
「……よく平気だよね」
「む」
「あたしだったら無理だな。絶対無理」
「貴様――」シロの顔がけわしくなる。「久々に真正面から喧嘩を挑んできおったか。よかろう、表へ出よ」
「違うよ」
石楠花は顔をそむける。
「あんたの態度のこと。よく平気でいられるねって話」
「……」
返事は返ってこない。
石楠花は寝がえりをうち、座っているシロに背を向ける。
「あたしなら無理だよ。大輝にも何も言わないで――さっきみたく、今まで通りの態度でいるなんて。そんなに割り切って演じられない」
「……」ぽつりと。「責めておるのか」
「違う」
そうじゃない。
責められるわけがない。人間として生まれて育ってきた自分に、何かを言う資格なんて無いのだ。でも。
「でも、さ」
「……。大輝はまだ幼い」
シロの声は悲しいほど穏やかだった。
「今は綺麗なものだけを見ておればよい年頃じゃのに、成り行きとはいえ、やれ死ぬの殺すのと、随分と嫌なものを見せてしもうた」
「だったら」
「なれど、今となってはしろの定めも変えられぬ。今のしろに出来ることといえば、せめて、大輝が全てを知るまで今までの通りに振る舞うことくらいじゃ」
シロは多分笑っていた。
「わずかでも長く、な。勝手を言えば、しろもそのほうが良い。大輝にどう思われるかも今はまだ考えとうない」
「……ホントに勝手だね」
「うむ――」
「悪いね」
「何がじゃ」
「べつに……」コタツの中で猫のように丸まる。「あたし、もう少し寝るよ。大輝がお風呂出たら起こして」
そして石楠花は目を閉じた。
今は眠ってしまおう。考えても、話しても、どうせ何も変えられないのだから。
石楠花に出来ることは、ただ黙っていることだけなのだから。
――ああ――。
何かが背を撫でている。
柔らかい。シロの手だ。
本当に、この期に及んで、どうしてこんなことが出来てしまうのだろう。
この手も、この優しさも――。
温かで罪深い感触に導かれ、石楠花は再び眠りに落ちた。
三
その日の夜中、大輝が目を覚ましたのは、ほんの偶然であった。
小便に起きたわけでもなければ、喉が乾いたわけでもない。ただ、ふと目が覚めた。自分でもはっきりとした理由は分からないけれど、大方、枕の位置がしっくりこなかったとか、そうしたところだろう。よくあることである。
目覚まし時計を見ると、午前一時半だった。
大輝の部屋の暑さ寒さは、角部屋である石楠花の部屋ほどではないものの、外の空気に左右されやすい。要するに冬の夜は寒いのだ。今も頬や鼻の頭はすっかりと冷えており、ためしに深く息をすると、薄闇が喉の奥に入り込んで鼻の穴へと抜けた。
これは堪らない。両手で布団を少し引き上げ、顔を隠す。
――と、階下から音がした。
誰かが廊下を歩く音。玄関の開く音、そして閉じる音。いずれも、どこか人の耳を忍ぶような気配の物音であった。
重たい布団を持ち上げ、体を起こして窓のカーテンをずらすと、家の前の細い道を、厚着をした女性が歩いてゆく姿が見えた。
「……ん」
あれは。
「シロさん……?」
早足に歩く後ろ姿が、曲がり角の向こうへと消えてゆく。
こんな時間に何の用だろうか。
無人になった景色を見下ろしながら、眠い頭で思考を廻らせようとしたが、それらしい結論が出る前に、冷えた背筋がぶるりと震えた。
慌てて布団にもぐり直し、目を閉じて考える。
まあ、普通に考えて、あれだろう。多分、買い物だろう。以前にも、夜のうちに切らしたはずの牛乳が、朝には冷蔵庫の中に存在していたことがあった。
シロは本当に気を使い過ぎる。……思いながら寝返りをうつ。いい姿勢ができた。これで朝まで安眠だ。
よし、明日になったらシロに言おう。妙に照れくさくて、言いながらどんな顔をしていいのか分からなくて、それでももう何度目かになる、あの台詞を。
――あなたが。
あなたがこの家に居てくれるだけで、俺たちは嬉しいんですから。
四
八月八日生まれの十三歳。
性別は女。生まれた頃から病弱。
岩手県で育ったが、今年の初めに両親を亡くし、今は遠縁の親戚のもとに身を寄せている。
少し口下手で引っ込み思案。
――学校ではそういうことになっている。どれもこれもでたらめばかりで、嘘でないのは入神夜々という名前くらいだ。
引っ込み思案という設定は、無論、生徒たちの間で目立たぬためである。
下手に目立って交友関係が広がれば、そのぶんボロの出る可能性も高まってくる。かごの鳥とはいえそれなりに長くは生きてきたし、別段不器用な人間であるつもりも無いが、無茶な環境に身を置いているのだから、そうした杖をついておくに越したことは無い。適度な人間関係をこなしつつ、教室の隅で大人しくしているのが、夜々にとって最善の学校生活法なのだ。
しかし、生まれ持った容姿ばかりはどうしようもなかった。
小梅は夜々を「世界一可愛い子」と言って育ててくれたけれど、それは親の欲目というやつだろうし、真に受けていてはいつか大恥をかくと思い、半ば冗談を言われているような感覚で聞き流してきた。
しかし、だからといって、自分の容姿が十人並みでもないということを、夜々はこの学校に来て自覚した。どうやら夜々の顔は端正に出来ているらしい。どの程度かといえば、学年で少し目立ってしまう程度にだ。
林の中の象を真似るように、静かに、静かに学校生活を営んでいても、ろくに話したこともなく、夜々の好きな本すら知らないはずの少年たちが、次々に好意をしめしてくる。
悪い気こそしないものの、正直言って有難迷惑であった。
だから夜々は――今回も、静かに目を伏せて答える。
「すまないね」
これで四人目になる。それでも慣れないものだ。
少年の肩が、がっくりと落ちるのが目に見えた。
彼は苦笑いしていた。
「……だよね、やっぱり」
「やっぱりということはないさ」
夜々は首を振る。
「少なくとも、君から嫌な感じを受けるということはない。私とはたまたま縁が無かっただけだよ」
この程度のことしか言ってやれないのだから、もしかして自分は本当に口下手なのかもしれない、と夜々は思う。
夜々を校舎裏に呼び出した少年は、廊下などで幾度か言葉を交わしたことのある、丸々と太った同学年の子だった。
取り立てて男前に育ちそうな顔でもない。
告白には勇気が要っただろう。事実、さっきまで顔が真っ赤で、可哀そうなくらいだった。
所在なさそうな苦笑いに、しくりと胸が痛む。
薄暗く湿った校舎裏で、迷いながら紡いだ夜々の言葉は、ほとんど呟きのようにしか響かなかった。
「これからは憎んでくれて構わないよ。私は君のことを何も知ろうとせず、勝手な理由で交際を断ったのだから」
「……」少年は不思議そうに夜々の顔を見る。「……勝手な理由?」
「うん――」
夜々は頷く。
少年は問いを続けてくる。
「それって、好きな人がいる、とか」
小さな声だった。
「そういう……こと?」
「――。うん――」
夜々は曖昧に頷く。
少年は、そっか、と笑った。
「そうだったんだ」
「ごめんよ」
「いや、こっちこそごめん。困らせて」
少年は申し訳なさげに五分刈りの頭をかく。
――どうして。
どうして謝るのだろう。彼は何も悪いことなどしていないのに。
胸が痛む。
少年は続けた。
「今日のこと気にしないでいいよ。伝えられただけで満足だから」
「……」
「なんていうか、こうやって来てくれただけでも嬉しいし。名前も覚えてくれてたみたいだし」
「……」
「ええと」
少年はまた頭をかき、最後にもう一度笑った。
「じゃ、俺、部活があるから、あの……体育館に」
「うん」
「それじゃ」
そして少年はくるりと背中を向け、まるで逃げるような早足で歩いて行った。
夜々は一人――残された。
校舎の壁に寄りかかる。
「……ふう」
見上げると灰色の空があった。
振ってしまった。
彼は今、どんな気持ちだろうか。
恋破れるのがどれほど悲しいことなのか、空しいことなのか。失恋などしたこともない夜々には分からない。
考えるだけ無駄なのだろうか。
動かぬ雲をながめているうち、革靴の中で、つま先がじわじわと冷えだした。
寄り掛かっていた背をコンクリートから離し、何だか虚ろな心持のままに校舎裏を出ると、ちょうど、昇降口から出てきた大輝と鉢合わせた。
大輝はこちらと目を合わせつつ、あ、どうも、と頭を下げてくる。彼もまた一人であった。
どういう顔をしたものか――いや、いつも通りで良いのか。
「その会釈はやめてほしいね」苦笑いしてみせる。「同級生にする態度ではないよ」
「はあ、すみません」
「敬語もなかなか直らないな。まあいいか。これから用事はあるのかい」
「あ、いや、特には」
「では帰ろうか」
いつ頃からか大輝と家が向かい合わせであることが学年に広まったので、時たま一緒に帰るようなことをしても、変に勘繰られる心配は無くなっていた。むしろ、普段わざわざ帰る時間をずらす方が不自然に思われるかもしれないのだが、そのあたりは調節の難しいところだ。
校門のほうへ歩き出すと、同時に向かい風が頬を撫でた。
「寒いな――」歩きながら顔をしかめる。「もう十二月も半ばを過ぎたか。ここのところ登下校が難儀だね」
「ですねえ」
後ろを付いてくる大輝は、情けない声を出していた。
「今年は特にキツいですよ。早く春にならないかなあ」
「今はまだ日があるからましだが、夜になってからは本当に大変だね。外に出る用事があったって、とても出歩けたものじゃない」
「あ、そういえば」
大輝が大股で追い付いてきた。
「シロさんったら昨日、クソ寒い夜中に一人で出かけて行っちゃったんですよ」
「おやおや」
「前からよくあったんですけどね。牛乳の買い忘れとかで、わざわざ夜に出かけてくのは……。昨日も多分そんなことだったんだろうと思いますけど、今はさすがに寒いじゃないですか」
「まあねえ」
「妖怪も風邪とかひくらしいし、そこまで神経質になって家のことやらなくてもいいって、いつも言ってるんですけど」
「そうだねえ」
相槌を打ちながら、無理からぬことだと夜々は思っていた。
あれはあまりに不器用な化け物だ。馬鹿ともいえる。恩に報いたい、好かれたいと思えば、ただひたすらに尽くしてしまうのだ。やり過ぎればかえって重荷になるかもしれないとか、そんなことも心のどこかでは理解しているのだろうが、かといって他の手段を工夫できるほどの頭は無い。困ったものである。
――いや待てよ。
ああ、そうか。なるほど。
その運びになったということか。
「大輝くん」
「はい」
「そうした件については、任氏の勝手にさせておくといい。と言うより、何も言わない方がいい」
「え――どうしてです?」
「任氏のためだ。いずれ分かる」
とだけ言っておくことにしよう。
大輝は納得のいかぬ顔で、こちらの横顔を見つめている。
だが、これ以上は夜々の口からも言うことはできない。少なくとも――現時点では。
「難儀なことだよ」
「え?」
「いや……」
夜々は首を振る。
「こちらの話さ」
五
魚なら魚屋、野菜なら八百屋。
食材はそれぞれの店を回って買った方が割安になる。夕刻に商店街を回るようになってから、シロが最初に覚えた事柄である。
しかし、醤油や味噌に限っては、大きな店で買うのが一番安い。
文字通りに人間離れした腕力がある以上、荷物の重さに関しては心配しなくとも良いが、かさばらない品から順に買って行った方が動きやすいのは当然のことであって、細々とした物が買い出しリストに入っている時は、まず、商店街の外れにあるスーパーから回るのが習慣となっていた。
今日は豚と白菜を土鍋で煮込むつもりだから、ポン酢醤油と鷹の爪が入用だ。千切りにする生姜は、白菜と共に八百屋で買えばいいだろう。
頭の中で確認しながらガラス扉を押し開け、買い物カゴをひとつ手に取って、カートの前を通り過ぎる。
それから真っ直ぐに調味料売り場に向かい、瓶の並ぶ棚に目を走らせていると、傍らから、「シロちゃん?」と声をかける女がいた。
曲げた腰を戻して横を見れば、立っていたのは――、はて、この小太りな中年女は誰だったか。顔には何となく覚えがあるが、どんな者だったかも、自分とどうした間柄であったかも思い出せない。
「……おう」
取りあえず挨拶をしながら思い出す。
ああ、そうだ。元々顔しか知らないのだ。
こんなふうに一方的に名を覚えられていることが多いのは、シロが目立つせいだろうか。あまり愛らしすぎるのも考えものである。
シロは買い物カゴを持ち直す。
「おぬしも買い出しか」
「そうよお」女は頷く。「他に出歩く用事なんて無いわよ。犬の散歩は娘がしてくれるし」
「犬を飼うておるのか」
「まあねえ。全然言うこと聞かなくて可愛くないけどねえ」
「左様か」
この女、用事があるわけでもないのだろうか。シロは棚に目を戻す。
そうそう、と女は勝手に続けた。
「例の話、知ってるでしょ。行方不明の話」
「――ああ」ポン酢醤油を手に取る。「少しは聞いておるが」
「怖いわよねえ、もう何人も攫われてるんでしょ? 気をつけないとさあ」
「人攫いとも限らぬわい」
「え? ああ、それもそうだけどね」
「間もおかずに幾人も姿を消しておるのじゃから、用心しておくに越したことも無かろうがな。おぬしもせいぜい気を付けておくとよい」
「あら……ありがと」
女は調子を奪われたような様子で頷いた。
シロはその顔を横目に、瓶をカゴに寝かせて入れる。
「さて――それではな」
「もう行くの?」
「これと鷹の爪を買うて終いじゃ。他は余所で求めるつもりでおる」
「あ……そう」
「ではな」
「あ、ちょっと待って」
去ろうとするシロの袖をつまみ、女は強引に引き止める。厚かましいというか無作法というか、ろくに話したことも無い相手に馴れ馴れしいものである。
さすがのシロも、これには少しばかり閉口した。
「何じゃ一体」
「あのね」
袖から離した手を口元に添え、女は低く声を落とす。
「あの人いるでしょう? 池上さん。シロちゃんも会ったことあるじゃない」
「んむ? ううむ」
この女と同じくどこかの女房の話であろうが、誰の事やら分からないので頷くに頷けない。
女は勝手に続ける。
「あの人のところの娘さんもね、居なくなっちゃったらしいのよ」
「娘?」
「そう。大学生のね、娘さん」こくこくと大袈裟に何度も頷く。「ちょっと前の日曜日だって言ってたかしら。日曜日っていったら学校はお休みだけど、大学生って何だか色々あるでしょ? それで、その日も学校に出かけて行って――、それっきり帰ってこなかったんだって。夜まではこのへんウロウロしてたっていう話もあるんだけどね」
「……日曜日」
顔が一つ、脳裏によぎる。
女は妙に興奮しているような様子で、しかし声だけは落としたままに、こちらが訊いてもいない話を続ける。
「私は一度だけ見たことあるんだけどさ、お洒落な感じの子だったわよ。髪の毛茶色に染めてて、爪はほら、ネイルアートっていうの? ちょっと違うかしら。でも、こう――長く伸ばして、色んなマニキュアみたいなの付けてさ」
カレンちゃんっていう子なんだけどね、と女は付け加える。
シロは――
「……それは」
目をそらしていた。
「それは……大事じゃな」
「でしょう? 他人ごとじゃないのよねえ。うちの子にも遅くには出歩かないように言ってるんだけど、やっぱり心配でさあ」
「そうじゃな」
シロは頷き、笑顔を作る。
「世話になっておる家の子らにも、よう言いきかせておくとしよう」
「そうよお。そうしたほうがいいわよ」
「然らば、しろは次の買い物があるゆえ」
「あ、やだ、ごめんなさいね、時間取らせちゃって」
それじゃまたねと愛想笑いを残し、女は自分から先にどこぞの売り場へと消えて行った。
静かになった棚の前、シロは歩き出す前に息をつく。
「……」短く。「ふ」
笑いが漏れたのか、それともただの溜息なのか、シロ自身にも分からない。
店内には能天気な音楽が流れている。
――。まあいい。
さっさと済ませて次の店を回らねば。
シロは顔を上げ、また改めてカゴを持ち直した。
六
自動販売機から少し離れたところで、石楠花は思案していた。
このまま立ち止まっているべきか、歩き過ぎるべきか、それとも声をかけてみるべきか。目当てにしている缶の汁粉があるのは、近くではこの販売機だけなのだが。
視線の先には若い女がいた。
女はこちらに気づいていない。さっきから自動販売機の足元に這いつくばり、下に手を突っ込んで、何やらごそごそとやっている。
「……ん、くっ」
声が出ている。苦戦しているらしい。
左右を見ても、石楠花のほかに通行人は見当たらない。
夕日が狭い道を照らしていた。
このまま突っ立っていても汁粉は買えないだろうし、こんなに分かりやすく困っている者を無視してしまうのも気持ちが悪いので、石楠花は結局、後ろから声をかけることにした。
「あの――」歩み寄る。「どうしたんですか?」
「ん!」
女は自販機の下から腕を抜き、這いつくばったままこちらの顔を見上げてくる。
「お前だれだ!」
「え」
予想外の反応に石楠花は後ずさる。
女はバッタのように跳ねて立ち上がり、ぱんぱんとジーンズのひざを叩いた。
「名前いえ。クロ、お前だれか知らないから。初めて見たから」
こちらを警戒するような瞳。やたらと長い前髪が顔の半分を隠しているが、やや面長で、いわゆる綺麗顔であることは窺える。大雑把に括ればシロと同じような系統の輪郭だ。背丈のほうも、もちろんシロほどではないが、すらりと高い。つややかな長い髪をした、妙な迫力のある女だった。
石楠花は瞬時に気圧された。
「え……と」
とにかく答えるしかあるまい。
「私はその……殿山石楠花、ですけど」
「それすごく長すぎる」女は口をへの字に曲げる。「覚えるは難しいだろ」
「あ、石楠花でいいです」
「それだな」
女は頷き、自販機の足元を指す。
「あのな石楠花、ここにな、さっき五百円落っこちた。転がった。クロが悪いんだけど、これだとコーラ買えないになるだろう」
ジェスチャーをまじえて説明してくる。
これは――外国人だろうか。言っていることが理不尽に難解だ。
「コーラ……クロ?」
「タカミチはコーラ好きだからお使いに来た。クロは名前。タカミチつけた。もらった」
「たかみち?」
――ぞくり。
「……あ」
もしかして、この人は。
女は怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたか」
「あ、いえ」
何でもありませんと首を振って、石楠花は道の隅に目をはしらせる。
全体的な話の流れを理解するのは諦めるとして、要するに、さっきの行動から半ば察していた通り、小銭を自販機の下に落としてしまったということらしい。
すぐそこにあるブロック塀の前に、ちょうど長めの枝が落ちていた。せり出したイチョウの枝が風で落ちたのか。
「えっと――これを使えば」
それを手に自販機の前に這いつくばり、奥の方に見える銀色の物体をかき出しにかかる。
五百円玉は、ものの三十秒も苦心せぬうち、枯れた落ち葉やらと一緒くたになって、夕日のもとに飛び出してきた。
クロと名乗った女は歓声をあげた。
「すごい、取ってもらった! 石楠花はクロより頭いいと思う!」
再会した硬貨を拾い上げ、嬉しそうに飛び跳ねる。
石楠花は枝を片手に苦笑いした。変だけれど――何というか、かわいい人だ。
「良かったですね」
「うん! これでコーラ買えてしまう!」
クロは意気揚々と自販機の前に立ち、叩きこむように硬貨を入れて、コーラのボタンもぶっ叩く。壊すつもりかと問いたくなる勢いだったが、幸いと自販機のシステムは正常に動作した。
出てきた缶を取り出し口から引っこ抜き、うん、と満足げに頷く。
「お使いできた。帰るまでがお使いだけど、半分できた。石楠花はありがとうございますな」
「いえいえ」
深々と頭を下げられたので、石楠花も負けじと頭を下げる。
耳慣れた声がした。
「何をしておるのじゃ、石楠花」
「あ、シロ」
顔を上げて横へ向けると、買い物袋を提げた細長いシルエットが近づいてくるのが見えた。
シロは二人のところまで歩いてきて立ち止まり、クロの顔をじろじろと見る。
「なんじゃ、おぬしは石楠花の知り合いか? 見かけぬ面じゃが」
「石楠花は今お知り合い。でもな」
クロはシロの鼻先に人差し指を突き付ける。
「おまえ知ってるのは最初からだろう」
「何じゃと?」
「クロとおまえ会ったことある。暗いとこで、ずっと長く、だいたいのとき別々にいた。おまえよく泣いてたな。クロもいっぱい泣いたけど、おまえの泣くの声よく聞いたぞ」
「む――」
シロの片眼がぎょろりと見開かれる。
「おぬしは――そうか、あの時の大跨ぎか」
「いまはクロ。任氏はお久しぶりですな。でもあんまり知りあいじゃないから、喋ることあんまり無くて、クロはコーラ持っていくだろう? だからまたこんど、ばいばい」
笑いながらそう言って、クロは殿山家と逆の方向へ歩き出す。
シロは呼び止めようと思ったのか、わずかに口を開きかけたが――結局、声をかけることはしなかった。
楽しげに遠ざかるクロの後姿を見送りつつ、石楠花はシロに問う。
「おお……またぎ?」
「眠り石が壊れたからな。あやつも出てきたのじゃろう」
「あ、やっぱり妖怪なんだ」
「しろと同じ石落の囲い女よ。もっとも、あれは木の実を食うことしか知らぬ大人しい化け物じゃったが」シロの声は微笑っていた。「あのように笑む女であったか」
「なんか、面白い人だよね」
「賢うないのじゃ。人を食うことを求めぬゆえ、人と触れずに生きておった類のものでな。もとの頭が悪いわけでもなかろうが、語ることや行いは森の猿などとさして変わらぬ。まあ、そのぶん害が無いとも言えようが」
「ふうん」
そうなのか。世の中には色んな人外がいるものだ。……自分も含めて。
やがて、クロの後姿が曲がり角の向こうに消える。
ふと横を見ると、シロの姿も消えていた。
「あれ」
「何をいつまでも呆けておる。早う帰るぞ」
声は背後から聞こえた。
石楠花は慌てて追いかける。
「ちょ、ちょっと、黙って行くなよ! まだお汁粉買ってないのに!」
「五月蠅い奴じゃのう……。汁粉なぞ後でこしらえてやるわい」
「あれ」追い付いて買い物袋を覗き込む。「今晩は鍋物?」
「白菜と豚を重ねて煮るつもりでおる。あとは――そうじゃな、冷蔵庫の中に残っておる寒鰤を照焼にでもするかの。胡瓜の糠漬けも出来ておる頃じゃろうし」
「やった。あたしが好きなのばっかり」
「では違う物にするか」
「ちょ――だから、どうしてそういう意地悪を!」
「ほほ」
石楠花が振り回した鞄を軽やかに避け、シロは小走りに駆ける。
「ほれほれ、置いていってしまうぞ」
「待てったら……ああ、前見ろシロ!」
「ん? ぎゃ!」
電柱に正面から激突し、シロは跳ね返って仰向けに倒れる。
石楠花はその衝撃映像に暫し絶句したが、すかさず立ち上がって電柱に平手を食らわせるシロを見て、腹からこみ上げてきた笑いを吐き出した。