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第十四章【細切想 ―こまぎれのおもい―】



 朝の八時十二分、池上カレンに届いたメールの内容は、「ごめん」の三文字だけだった。

これ以上ないほど簡潔で、まるで答えにもなっていないのに、全ての答えになっている。彼にはきっと詩か俳句の才能でもあるのだろう。

 カレンが衝動的に投げた携帯電話は、時速三百キロで叩きつけてやりたい気持ちとは裏腹に、情けないほどゆるやかな弧を描いた揚句、目がけた街路樹に届くことなく落下した。

 突然の行動に、バス停に並んでいる者たちがこちらを見る。

 どうでもよかった。

あんたたちは、今日も楽しく大学へ行くがいい。

私はもうそんな気分じゃない。いや、もう行く意味が無いのだ。たった今それが無くなったのだ。

 カレンは並ぶはずだったいつものバス停に背を向け、たった今おりてきた駅の方へと、再び歩き出す。

 滲んできた涙を拳で拭う。

 ふざけるな。

 何が「ごめん」だ。謝るくらいなら開き直れ。

高校の頃から、四年間も私を騙してきたんだろう。そんな悪党が今更「ごめん」とはなんだ。いっそ、「気付かなかったお前が悪いんだ」くらいのことは言ってみせろ。

 ああ、くそう、畜生。

せめてその女の顔を見せろ。たった五秒でいいから私に会わせろ。

その五秒の間にこう言ってやる。「あんたが本命だったってさ。おめでとう!」と。

 カレンは胸の中で、何度も悪態を繰り返した。

 歩きながら唇を噛む。きっと今、自分の顔は般若のように歪んでいることだろう。――だがそれでいい。悔しさに怒っているうちは、まだ立っていられる。

夜までは、せめて今日の夜までは、この怒りを持続させよう。泣くのはそれからだ。

 そう自分に言い聞かせながら、カレンはきつく唇を噛みなおし、駅の階段を上り始める。

 三段目で、ずるり、と靴が滑った。

 転びながら、反射的に手をつく。

 肩にかけていたカバンが落ちた。中から教科書が流れ出して散らばり、階段を下りてきた者たちの視線が、ぶざまな背中に突き刺さる。

 こらえきれなくなってカレンは泣いた。

 汚れた階段に突っ伏して、カレンは大声で泣き叫んだ。











 一


 いくら日曜日で予定も無いからといって、まさか昼まで寝てしまうとは、石楠花自身も思わなかった。

 外から聞こえてくるのは、どこかへ出かけてゆく家族連れの賑やかな話し声と、車の走り過ぎる音。鳥の鳴き声は聞こえない。

枕もとの目覚まし時計は――ああ、そういえば電池が切れかけていたのだった。

 まあいいか。

 とにかく起きなくては。このまま二度寝をしてしまったら、いくらなんでも生活ペースが崩れてしまう。

 部屋の空気は窓からの日差しで程よく温まっていたので、寝床から這い出すのも、いつもの起床に比べれば大した仕事ではなかった。

 あくびをしながら一階へ降りると、居間のテレビはもう主婦向けのワイドショーを流しており、とうに掃除を終えたらしいシロは、ソファに座って、何やら熱心に針仕事をしているところだった。

 おはようと声をかけるまでもなく、白い顔がこちらへ向く。

「どうした、今日はばかに遅いではないか」

「ちょっと夜更かししちゃってさ」目をこすりながら椅子に腰かける。「大輝とお義父さんは?」

「つい先刻、こたつとやらを求めに行った。そこかしこを回って吟味するゆえ、帰りは遅くなるそうじゃ」

「コタツ?」

「よう知らぬが便利なものらしい。何でも、それに脚を入れて蜜柑を食えば、天に上るほど心地が良いとか」

「どこに置くつもりなんだろ」

それに、そんなものを買う予定なんて昨日までは無かったはずだ。男たちの買い物は何かにつけて衝動的で困る。

 シロは視線を手元に戻し、ちくちくと針を動かしながら言う。

「そのようなことよりも、あまり根を詰めるでないぞ。合格とやらがどれほど意味のあることか知らぬが、体を壊しては元も子もなかろう」

「へ? ああ、違う違う」石楠花は苦笑いする。「昨日はゲームしてただけだよ。勉強は早めに切り上げちゃった」

「何じゃ、遊んでおったのか」

「実はけっこう余裕なんだ、高校受験。あたし高望みしてないからさ。先生たちはもっと上狙えって言ってくるけど」

「よう分からぬが……」

「っていうか、さっきから何縫ってんの?」

「これか」

シロは手を止めて、針を通していたものを広げてみせる。

 それは大輝の体操着であった。

 石楠花は、ああ――と片肘をつく。

「また破けてたんだ」

「此度は袖が解れておったに過ぎぬ。もう繕い終えるわい」

「最近しょっちゅうだね」

「大輝の体が日々育っておる証じゃ」また針を通し始める。「今はまだ石楠花よりも背丈が低いが、さして間も無く追い越してしまうであろう」

「想像できないけど、そうなんだろうね」

石楠花は寝ぐせで逆立った前髪をいじり、くすりと笑う。

「何年かしたら、シロも追い越されちゃうかもよ」

「……」シロの横顔が陰る。「……。そうじゃな」

「どしたの?」

「いや――」

不意に、また顔をあげる。

「そういえばおぬし、以前に煮物のこしらえ方を訊ねてきたな」

「何だよいきなり。確かに訊いたけどさ」

石楠花はその時のことを思い出し、少しむくれてみせる。

「意地悪ばっかり言って、全然教えてくれなかったじゃないか。大輝のことをあきらめたら教えてやるとか、裸になって庭先で踊らなきゃダメだとか」

「そろそろ教えてやってもよい」

「え?」

「どれ。ちょうど繕いを終えたところじゃ」

余った糸を噛み切り、体操着を畳んでシロは立ち上がる。

「不細工な顔を洗って着物をかえてこい」

「誰が不細工……って、ちょっと」

「しろの気の変わらぬうちに仕度せよ」

シロはすたすたとキッチンのほうへ歩いてゆく。

 いったい――どういう風の吹きまわしか。石楠花は寝ぐせの頭を掻いた。


 二


 この行為は、ひょっとして、根本的なところで間違っているのではないか。

 だいたい自分たちは肉食動物ではない。

 忘れがちだが、人間は植物だけを食べていても立派に生きていけるのだ。人が他の生き物を食べるのは、あくまでも、その味によって心を満足させる目的があるからに過ぎない。

 ここが不毛の土地で、手近な生き物……たとえばこの魚くらいしか栄養源が手に入らないのであれば話は別なのだろうが、ここは天下の日本国である。食べ物も、それを手に入れる手段も溢れている。げんに、傍らでモーターを唸らせている冷蔵庫の中には、キャベツや人参など、平和的に調理できる食材が何種類も入っているではないか。

 なのに――どうして、この魚を切り刻んで食べる必要があるのだろう。

 夜々がそうした考えを告げると、小梅は黙って首を振った。

「夜々ちゃん」

重々しくまな板を指す。

「変な理屈言ってないで、早くお料理しなさい」

「でも母様」

夜々は青ざめていることを自覚しつつ、指さされた方向を横目で見る。

 そこには、スーパーで買ってきたハタハタが、でろりと横たわっていた。

死んだ魚のようなとはよく出来た比喩である。実際、この曇った目は不気味きわまりない。

こんな生々しい屍を手で掴み、ぐっさりと包丁を突き立てるなど、とても――とても、並の神経では――。

「う……」

涙腺が緩みかける。ああ、何だろうか。ただ気持ちが悪いのとは違う。悲しくなってきた。

「無理だよ」口をおさえる。「こんなことは、私には、やっぱり」

「夜々ちゃん!」

小梅は厳しい声とともに背中を叩き、顔を近づけて問うてくる。

「石楠花お嬢ちゃんやシロさんたちに負けちゃってもいいの? お魚に包丁も入れられないんじゃ、この先ずっと野菜料理しか作れないよ?」

「しかしね、野菜や米だけでも、十分に美味しいものは」

「いいから包丁を持ちなさい!」

「……はい」

夜々はとうとう小梅の迫力に負け、まな板の横の包丁を手に取った。

 厳しい声は続く。

「じゃあ教えた通りにやってみて」

「その前にヘアバンドを取ってきてもいいかな。いや、長めのタオルでもいいんだけれど」

「どうして?」

「目隠しをすれば少しは――」

「だめっ! 怪我するから!」

「……。分かったよ」

覚悟を決めるしかなさそうだ。このまま駄々をこね続けて小梅を怒らせ、子供の頃のように尻を叩かれてはかなわない。

 包丁を握り直し、息を整える。

「では、いくよ」

「頑張って。じゃがいもやキュウリと一緒だと思えば怖くないはずだよ」

「うん……」

落ち着いて息を整える。

魚の目は見ない。

軽い目眩が――いや、耐えなくては。大丈夫。出来るはずだ。

 息を止め、夜々はハタハタの解剖に取り掛かった。


 三


 半分ほど食べていったん箸を置いたシロは、まずは何も言わず、静かに茶を口に運んだ。

 のんびりと一口。

 そして湯呑みをテーブルに置き、ようやく、呟くように言った。

「まあまあじゃな」

「ほんと?」

てっきり嫌味を言われるかと思ったが。石楠花は思わず、向かいの席から身を乗り出しそうになった。

 シロは頷いて続ける。

「しろが横へ付いておったゆえ、当然のことなれど」

紅い眼が芋の煮付けを指す。

「肝心の味加減、火加減はよう出来ておる。ただ――」

「ただ?」

「切り方が、いかにもおぬしらしい」

「どういうことさ」

「雑に過ぎるということじゃ」

シロは再び箸を取り、大鉢から醤油色の芋を一つ拾い上げて、小皿へ乗せる。

「ただ見目を整えろということではない。上手く切るということは、味の染みようや、口の中でのさわりの良さにも関わってくるのじゃ。おぬしの包丁は速いが、そうしたことを考えておらぬ。何をこしらえるかによって、切り方もその都度変えねばならぬ」

「ん……」

シロに言われるとつい反論したくなるが、それは確かに、言えている。

石楠花は今まで、炒飯や麻婆豆腐など、スピードや手際を重視した料理を得意とし、そればかり作ってきた。そういう料理には短時間で出来上がるものが多いので、石楠花自身のせっかちな性格によく合っていたのである。

しかし、それゆえに、丁寧な包丁使いや繊細な味付けにはあまり慣れてこなかった。

 シロは穏やかに付け加える。

「この国の料理は手際よりも細やかな気の配りが肝要じゃ」

「はあい……」

「では冷めぬうちに食うてしまうか。続きはまた明日としよう」

シロは小皿の芋に箸を入れる。

 だが石楠花には、食べる前に聞いておきたいことがあった。

「あのさ」

「何じゃ」

「どうして急に、料理なんて教えてくれる気になったんだい」

「ん――」

シロの箸が、ぴたりと止まる。

「何ゆえそのようなことを訊く」

「なんか変だなあと思って」

「どうしてという事もありはせぬ。ただ、ふとそのような気に――」

シロはそこまで言って、やれやれと首を振り笑った。

「――いや、おぬし一人くらいには話しておくか」

「話すって何を?」

「朗報じゃ。大輝と義父上には内緒にしておくのじゃぞ」

シロはそして、飄々とした顔のまま、石楠花に語り始めた。


 四


 今、あのハタハタは煮物となって、小さなテーブルの中央に鎮座していた。あれほど生臭くグロテスクだった魚も、こうなってしまえばただの料理である。

 夜々はテーブルにつき、生姜と味噌の香りの中で、小さくため息をついた。

「ふう」

それから苦笑いする。

「一時はどうなる事かとも思ったけれど、なかなか美味しそうに出来上がったね」

「そうだね」

しかし返ってきた声は重い。

 夜々は上目づかいに母の顔を見る。

 珍しく、小梅は眉間にしわを寄せていた。

「一応、お料理は出来上がったよね。結果だけ見たら、確かに出来上がってるよね」

「いや、その、ね」言葉に困る。「もちろん母様の言いたいことは分かるよ。私の方は何と言っていいか分からないけど。……ともかく、迷惑を掛けてしまったことは」

「いいよ。仕方ないよ。初めてだったんだもんね」

「……。うん」

「でも、まさか切ってる途中で気絶しちゃうとは思わなかった」

「……うん」

夜々は自らの情けなさに赤面した。

 そう――夜々は魚に包丁を入れ始めたばかりのところで、貧血を起こして倒れたらしいのだ。

記憶はそこから飛んでいて、寝室で目を覚ましたのは、小梅の手によって料理が完成した後だった。

 今度は小梅が溜め息をつく番だった。

「切り始めちゃったものをそのまま放っとくのもアレだから、今回はママが仕上げちゃったけど」

夜々の目をちらりとのぞき込んでくる。

「どうする? お魚の料理はもう諦める?」

「……。ううん」

夜々は首を振った。

「もう少し頑張るよ。まだ始めたばかりだから」

「ん。夜々ちゃん偉い」

小梅は微笑んでくれた。

「だんだん慣れていけばいいよ。時間はあるんだからね」


 五


 ――嘘だ。

 石楠花の口から出てきたのは、己が意に反して攻撃的な文句だった。

「そんなの嘘だ」

唇が麻痺していた。テーブルの上で拳を握る。

「そんな、こと」

「何を怒っておる」シロはくすくすと笑っていた。「頭を冷やして考えれば悪い話ではなかろう。ただ労せず待っておるだけで、今より上手い具合に事が運ぶのじゃからな。ただ、わずかばかりの間、しろと紅猫鬼のすることに目を瞑っておれば」

「んだよ、それ!」

テーブルを叩く。

湯呑みが倒れ、残っていた茶がこぼれた。

「そんなの……どうしてそんな、今さら!」

どう思っていいのかが分からない。ただ、声だけが勝手に大きくなってゆく。

 シロは笑みを絶やさぬまま、穏やかな口調で答えた。

「殺して食らうは、この世に生きる全ての化生の理ではない。じゃが――しろの理はそうであった。なれば」

「嫌だ、聞きたくない!」

石楠花は立ち上がる。声は自分でも耳が痛いほどの金切り声になっていた。

「大体あんた約束したじゃないか!」

なぜだ。

「来てくれるって言ったよね? 卒業式とか、高校の入学式だって」

「……」シロは目をそらす。「それは」

「言ったよ、確かに言った! あの時約束したよ!」

力いっぱいテーブルを叩く。痛みを感じない。頭が焼けそうに熱くなっている。言葉が止まらない。

「嘘だったのかよ、あれは!」

違う。どうしてだ。

「全部口から出まかせの、嘘っぱちだったのかよ!」

あたしは――こんなことを言いたいんじゃないのに。

 うつむいたシロの唇が動いた。

「……すまぬな。しかし」

澄んだ紅の眼が、石楠花を射抜く。

「所詮人は人、人食いは人食いであったということじゃ」

「ふ、ざけんなよ」

石楠花の声がかすれる。

胸が苦しい。もう喋れそうになかった。

「あんた……そうやって、結局いつも血みどろなんだ」

最後にそれだけ絞り出すと、握りしめた拳の上に、悔しさの雫が落ちて弾けた。


 六


 コタツは来週の中ごろに宅配サービスで届くことになった。

代金はもう父が払ったので、あとは届いた際に判を捺すだけだ。家にはいつもシロがいるから、受取人不在で再配達などとゴタゴタする心配も無いだろう。

 昼食をとり、新しく出来たショッピングセンターを見物してから家に帰ると、暖房で温まった我が家の匂いと共に、エプロン姿のシロが出迎えてくれた。

「よう帰ったな二人とも」刺繍の入った裾で濡れた手を拭く。「外は冷えておったろう。風邪などひいておるまいな」

「寒かったけれど、行き帰りともバスを使ったから、そんなに苦ではなかったよ」

父はこげ茶色の上着を脱いで、コートハンガーに引っかける。

「石楠花は?」

「ん――」

シロは少し言い淀む。

「石楠花は……上で寝ておる。夕飯は要らぬそうじゃ」

「どこか具合でも悪いのかな」

首を傾げる父に、シロは言う。

「そっとしておいた方が良い。それよりも」

くるり身を返して居間へと誘う。

「早う中へ入って茶でも飲め。きのう小梅のやつが昆布茶とやらを分けてくれたから、あれを出そう――ほれ、大輝」

「え」

「何をぼさっとしておる。上着を脱がぬか」

「あ、はい」

大輝は見上げていた階段から視線を戻し、頷いた。


 七


 町も寝静まった夜深く、小梅は眠っている夜々を部屋に残し、一人コンビニへと走った。小用のために起きた際、トイレットペーパーが切れていることに気付いたのだ。コンビニで売られているものはロールも少なく割高だし、外が冷え込んでいるので出るのも億劫だったが、明日の朝に夜々が困ってはいけない。

 体が冷えぬように小走りで駆ける夜道は、やはり通る者がなく、心細かった。

 妖怪とはいえ小心者の小梅である。物陰からおかしな者でも飛び出しては来ないだろうか、などと怯えながら店へと辿り着き、まずはトイレを借りてから、ほかほかと温まったおでんや肉まんを横目で見つつ、二巻きセットのトイレットペーパーを買って、再びアパートへと駆けた。

 走りながらビニール袋が鳴るのが何となく嫌だったので、公園の横に差し掛かったあたりで一旦立ち止まり、胸へ抱えるように持ち直す。

 月明かりが弱い。

 見上げてみると、別段空が曇っているわけでもなく、そもそも月が細かった。あれでは暗いわけだ。

 はあ、と白い息を真上に向けて吐き出したその時、不意に、何かが月のわきを横切って飛ぶのが見えた。

 目を細めてみる。

 ゆっくりと飛ぶその影は、見間違いでなければ――

「……? シロさん?」

どうしてこんな夜中に。シロも何か急ぎの買物だろうか。

それにしたって、あんなに堂々と空を飛んで移動するなんて。

 考えながら小首を傾げている間に、シロはどんどん空を飛び、遠くの闇へと消えて行った。

 足元を冷たい空気が通り過ぎ、飛び去ったシロが残したのであろう、心なしかいつもよりも生臭いような妖気が、ふわりと降り注いで頬を撫でた。


 八


 さして運がいいわけでもない二十と一年を生きてきた池上カレンだったが、「死にたい」と心から思ったのは、これが初めてのことである。

 もう、何もかもが嫌だった。

 あんな男とキャンパスライフを共にしたいがために、わざわざ一ランク下の大学を選んでしまった馬鹿な自分も嫌だったし、これからもあの男と同じ大学で、同じ空気を吸わなくてはいけないのも嫌だった。

あの男に繰り返し抱かれた体が嫌だった。

それを幸せに思っていた自分の愚かさが嫌だった。

少しでもあの男に可愛らしく見られようと、友達の真似をして、着慣れないアプレジュールのコートを着ている自分も嫌だった。茶色く染めた髪も、伸ばした爪も、あの男と初めて会ったときに褒められた、カレンなどという外国人じみた名前も嫌だった。

本当に、もう、何もかもが嫌だった。

 誰もいない夜の公園は冷蔵庫の中にいるように寒く、腰を下ろしてみたベンチも、もしかして氷で出来ているのではないかと思うほど冷たかったが、それも今は有難かった。

 冷えてしまえ。いっそ、この心臓が止まるまで冷えきってしまえ。小さな頃に好きだった冷凍ミカンみたいに、芯の芯まで凍りついて、そのまま砕け散ってしまえ。

「ちくしょう」

死にたい。死んでしまいたい。

「……死にたい」

とうとう言葉となって、それは出た。

「もう死にたい」

もう止まらない。

「死にたい、死にたい……死にたい」

たった一人、冷えきった手で冷えきった顔を覆って、カレンは駄々っ子のように繰り返した。

 そのとき、正面に何かの落ちる音がした。

 カレンは顔を上げる。

 ボールでもない、鳥でもない。

 そこには、長身の女が立っていた。

「これは一体どうした縁のめぐり合わせか」

銀色の長い髪を頭頂より少し後ろで束ねたその女は、何ともいえない皮肉な笑みを浮かべて、カレンを見下ろしていた。

「死を欲する者が今こうして現れるとは、はたして……運命とやらがしろに放った、止めの一矢といったところか」

ざわざわと、女の髪はざわめいていた。

「のう娘。おぬしは今、死にたいと呟いておったな」

「――え」

「ならば大人しく受け入れるがよい」

細い月を背にした女の手が、獣の鉤爪のような形をもって、高々と構えられる。

「今、おぬしの望む死をくれてやろう」

その手が振り下ろされる。

 池上カレンは、声すら上げられなかった。


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