Extra chapter【夜獣 ―BEAST―】
ウェストベジンの裏通りに巣食うならず者たちは、大金の稼ぎ方は知らないまでも、浅ましい日銭の稼ぎ方くらいは心得ていた。
ある物を集めればいいのだ。貴金属よりも簡単に手に入れることができて、情報より確実に換金できるもの――すなわち人体である。
内臓、網膜、指、骨、若ければ肌や性器。
移植技術が発達したこの時代では、およそ脳以外のあらゆる部位に需要があった。
また、イーストベジンに住む成金には、やたらと「丸ごと」の死体を欲しがる輩がいる。
そういう連中が如何な理由で人体を集めているのかは、供給する側にとってはどうでもいいことだが、一つ確かなことは、「丸ごと」はバラ売りに比べて格段に割高になり、しかも若い女ほどよく売れるということだ。
だから。
袋小路に積み上げられたゴミ山の陰で震えながら、シィホンは考える。
だから、決して油断すべきではなかった。
仕事帰りに、珍しく酒場に立ち寄ってみたのが数時間前。
親切なジュウピンに「最近は悪い連中が増えてきたから、若い女の子が一人で帰るのは危ないよ」と言われ、一緒に酒場を出たのが二十分前。
ああ、あの時、どうして疑わなかったのだろう。
どうして――ジュウピン自身がその「悪い連中」の一人だと気付くことができなかったのだろう。
いかに親切そうな顔をした者だろうと、今日知り合ったばかりの男など、この街では信用できない。それくらい分かり切っていたはずなのに。
後悔に嗚咽が漏れそうになったその瞬間、積み上げられたゴミ袋が、音を立てて崩れた。
隠れる壁を失い、ただ無防備にうずくまるだけになったシィホンを見下ろしていたのは、今や狩人となったジュウピンだった。
「見ぃつけた」
蹴り足を戻しながら楽しそうに言う彼の顔は、さっき酒場で見せていた柔和な好青年のそれではなく、ある種の純粋すら感じられるほどの邪悪さを帯びて、まるで化け物のように醜く歪んでいた。
「バカだねえ。どんどん人気の無い路地に逃げ込んでゆくんだもの。まあ……この辺りじゃ、人通りなんて、あっても無くても変わらないけどね」
両手を上着のポケットに突っ込み、ジュウピンはくすくすと笑う。
シィホンは咄嗟に立ち上がりながら駆けだした。
いや――正確には、駆けだそうとした。
後ろに逃げられない以上、ジュウピンの横をすり抜けるしかない。彼が油断している今は、最後のチャンスだと思った。
だが、この薄汚い路地はあまりにも狭すぎたのだ。
細いシィホンの腕はいとも簡単に掴まれて、その身は地に突き倒された。
ジュウピンの声には少しの焦りも混じらなかった。
「意外と元気だねえ」
容赦無い力で、掴んだままの腕をねじり上げてくる。
体験したことのない痛みに驚き、足を立たせるどころか、悲鳴すら上げられない。
ジュウピンは空いた方の手で、ポケットから何かを取り出しているようだった。
「お注射するけど、じっとしてなよ。ちょっとチクリとするだけさ」
彼は慣れていた。手際も、口調も、ぞっとするほど慣れきっていた。
「君は苦しまないし、無粋な傷も無くて買い手も喜ぶ。いいやり方だろ?」
「良いも悪いも無ぇんだよ、ボケ」
「? 誰だ」
ジュウピンは振り返り、そして吹っ飛んだ。
掴まれてた腕が急に自由になり、シィホンは思わず「あ?」と間抜けな声を上げる。
いったい何が起きたのだ。
冷たい地面に手をついて見上げると、そこには、ぼろを纏った巨大な男が立っていた。
若者なのか、それとも三十を過ぎているのか。歳の分からぬ異様な男であった。
獣のような力を宿していることが一目で分かる、引きしまった巨躯。ざんばらの髪に狼のような顔――その顔がシィホンを見下ろす。
「怪我は無ェか」
虎が唸るような低い声。
呆然と頷くしかなかった。
「……はい」
「そうか」
男は落ちた注射器をブーツのかかとで踏み潰し、ジュウピンの方へ視線を戻す。
ジュウピンは既に立ち上がっていた。
「びっくりしたな。いきなり殴られるなんて思わなかったよ」両手をぶらぶらとさせる。「しかもすごい力だしさ。馬鹿でかい図体して、いつの間に近づいたの?」
「今の拳を防いでたか」
男はしかし、動揺もせずに言う。
ジュウピンは笑っていた。
「君、その女の知り合い? 兄弟? それとも彼氏か旦那さんかな?」
「他人だ」
「じゃあ他人のために死ぬわけだ。御苦労さま」
言葉と同時にジュウピンは踏みこんだ。
電光石火とはこういうことを言うのだろうか。三歩はあったはずの間合いが一瞬で無くなり、不精髭の生えた巨漢の顎へ向かって、真っ直ぐに掌底が突き上げられる。
それは直撃した。
男は微動だにしなかった。
「……。北派武術だな」
「バカな」
「生憎と鍛え方が違うんだ」
男はジュウピンの襟を取って自由を奪い、その下腹に巨大な掌を叩きこんだ。
鈍い音と短い声が路地に響く。
男が手を離すと、ジュウピンはその場に崩れて何も言わなくなった。
風が――
湿った風が、あたかも思い出したかのように、暗い路地に入り込んでくる。
あまりにも短い出来事だった。動かないジュウピンから目を離せぬまま、シィホンはやっと声を絞り出す。
「……、こ……」
体がガクガクと震えていた。
「殺し、た……んですか……?」
「下半身不随にしただけだ。気絶もしてるみてぇだが」
男は再びこちらに顔を向ける。
シィホンは慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます、助けていただいて――あの」
「礼は要らん」男は低い声で言う。「その代わり、聞きたいことがある」
「……聞きたいこと?」
「そうだ」
ぼりぼりと髭の生えた顎をかく。
「この街のどこかに、一人、変わった力を持った奴がいるらしい。そいつについて何か知ってるか」
「変わった……力」
「生来的な特異能力だ」
男の眼は鈍く光っていた。
雷鳴が轟き、ぽつり、ぽつり――と雨粒が落ち始める。
それが大雨に変わるまで、数秒とかからなかった。