第十三章【初代来訪 ―しょだいらいほう―】
一
シロは映画が好きらしく、よく大輝の借りるDVDを一緒に見ている。
しかしシロが好む映画のジャンルというものが、大輝にはまだ、今ひとつ分からない。
例の「地獄マシーン」みたいな映画で喜んでいるかと思えば、玄人しか喜ばないような古典の名作を絶賛することもある。
ひょっとして映画なら何でも喜ぶのではないかと思ったこともあるが、やはりそういうわけでもないらしく、先月に借りた「ミシシッピ地獄通り」については、見るに堪えない最低な映画だと酷評していた。ちなみに大輝と石楠花は、その映画と「地獄マシーン」との違いがよく分からなかった。
さて、いったい何を借りればいいのか。
迷いながらレンタル店の中をうろついているうち、とうとう任侠映画の棚にたどり着いてしまった。
「……。これはさすがに無いよなあ」
剣呑なタイトルの並ぶ棚を眺めていると、なぜか薄ら笑いが浮かんでくる。
背後で聞きなれた声がした。
「学校帰りですか、大輝坊ちゃん」
「え」振り返る。「ああ、小梅さん」
「あれえ? 大輝坊ちゃんって、こういうのが好きなんですね。意外な事実が判明」
小梅はいつものとぼけた顔で、任侠映画の棚を見つめる。
大輝は笑って首を振った。
「違いますよ。これはただ、シロさんに借りていってあげようと思って」
「シロさんが見るんですか? やくざの映画」
「いや、そういうわけでもなくて」大輝は頭をかく。「えっと……この間、裏のお婆さんが亡くなったじゃないですか」
「ああ、ハルさんでしたっけ」
「あれから一週間になるけど、シロさんずっと元気ないんですよ。元気付けてあげたいけど、何してあげたらいいか見当もつかないし、俺って金も無いし」言いながら手に持った財布を振ってみせる。「せめてシロさんの喜ぶような映画でも借りて帰って、気を紛らわせてあげようかなって。……でもどんな映画がいいのか分かんなくて、迷ってたら、いつの間にかこんな棚の前に」
「そっかあ」小梅は頷く。「シロさん、やっぱり引きずってるんですね、あのお婆ちゃんのこと」
「けっこう仲良かったみたいですから」
頷き返しながら、ハルが死んだ日の夜を思い出す。
大輝自身はハルとさほど面識があったわけではないが、一階から聞こえてくるシロの泣き声があまりにも悲しくて、あの夜は大輝まで眠ることができなかった。
ハルが死んだのは、風邪を急にこじらせたせいらしい。
もちろん人間が風邪をひいただけで死ぬわけもない。実際はほとんど寿命に近い状態で、風邪はただ、最後のきっかけに過ぎなかったという話である。
つまり、大輝が時を戻したところで運命は変わらないということだ。
本来ならば人の死など修正できなくて当然の事柄なのに、なまじ余計な力を持ってしまったせいで、どうにも出来ないことがもどかしい。今日こうして映画を選んでいるのも、ただシロの気を紛らわせてやりたいという気持ちだけではなく、そうしたもどかしさに動かされているのかもしれない。
小梅が、そうだ、と手を叩く。
「そういうことならオススメがありますよ。こっちこっち」
小梅はとことこと歩き出す。
連れられて辿り着いた棚は、アジア映画の棚だった。
小梅はしゃがみ込んで「ええと、ええと」と目を走らせ、やがて一本のDVDを抜き出した。
「あった!」
元気よく立ち上がり、手渡してくる。
「これです。あのね、その女優さん、すごく素敵なんですよ。ビクトリア・ウー。坊ちゃんも知ってます?」
「ああ」大輝はパッケージの写真を見て頷く。「最近ハリウッド進出した人でしたっけ。確か、ティンダロスの猟犬とかいうアクション映画で」
この間見た深夜番組で「注目の若手」と紹介されていた女優だ。経歴などにはあまり触れられていなかったが、アジア人である割に派手な顔立ちが印象深かったので覚えている。
小梅はこくこくと首を振る。
「そうそう。香港や台湾が拠点だった頃は恋愛映画が多かったし、いきなりアクションなんてどうなるんだろって思ったら、もうメチャクチャ格好よくて。綺麗だし、スタイルいいし。ほんと憧れちゃいます」
「はあ」
要するに小梅はこの女優の古株ファンなのか。
しかし大輝はどの主演映画も見ていないので何とも言えず、曖昧な返事を返すしかない。
取りあえず、手元のパッケージに再び目を落とす。
タイトルは、「百年の愛」――。
裏側を見る前に、すかさず小梅の解説が入った。
「それはビクトリア・ウーがハリウッド進出前に主演した映画なんですよ。街の片隅で出会った若い男女が恋に落ちるんですけど、すっごくいろんな邪魔が入って、なかなかうまくいかないんです。でも最後にはちゃんとハッピーエンドで、幸せな気持ちになれるお話なんです」
小さな顔でにっこりと笑う。
「それ見たら、きっとシロさん元気出ます。一緒に見てあげてください」
大輝はパッケージを見つめていた。
「……百年の愛、ですか」
改めて見たビクトリア・ウーの顔は、身近な誰かに似ている気がしたが、それが誰なのかは分からなかった。
二
居間のソファに座ってウトウトしていると、不意にインターホンが鳴った。
えいこらしょと立ち上がり、シロは壁際の受話器を取る。
「……誰じゃ」
このところ気が沈んでいるせいか、自然と不機嫌な口調になっていた。
だがインターホン越しに聞こえてきた声は、そちらの気分など知った事かと言わんばかりに軽快であった。
「きゃあ、嘘、その声って本当に任氏よね? あんたマジで人間と一緒に住んでるわけ? やだやだ、信じらんない! すっごく変よそれ!」
「なっ……その声は」
シロは受話器を落としそうになる。
まさか――いや、馬鹿な。
声はけたけたと笑っていた。
「あんたが人間とねえ。変われば変わるもんだわね。ぷぷっ」
「もしや貴様は……」
「シィ。ニィワンジィラウォダシェンインマ?」
笑いをこらえた声で、その声は肯定した。
シロは反射的に怒鳴っていた。
「帰れ! おぬしの声など覚えておらん!」
「んなっ――ちょっとあんた、久しぶりに訪ねてきた知り合いに向かってあんまりじゃない? せっかくお土産だって持ってきたのに」
「れずびあんの知り合いなどおらぬ!」
「あんた、しばらく会わないうちに変な言葉覚えたわねえ」声は呆れたようだった。「でも使い方を間違ってるわよ。私はレズビアンじゃなくてバイセクシュアル。まあ、旦那が死んでからは男とも女とも寝てないけどね」
「やかましい! 何であれ敷居は跨がせるものか!」
叩きつけるように受話器を戻す。
しかし声は続けて玄関の方から聞こえてきた。
「ちょっとこら、カギ開けなさいよ任氏!」
どんどん、と戸を叩く音も聞こえる。
「襲いに来たわけじゃないんだから、せめて顔くらい見せなさいって! ちょっと、聞いてるの? ねえ任氏ったら!」
「……ああ」
シロは再びソファに腰を下ろし、縮こまって耳をふさぐ。
「何ゆえあやつが今頃になって……どうしてここを突き止めおった」
背中一面に鳥肌が立っているのが分かる。
本当に、なぜ今頃になって。
「後生じゃから大人しう帰ってくれ……」
シロは眩暈をおぼえつつ頭を抱えた。
三
その不審人物は殿山家のドアにかじり付き、地団太を踏みながら、物騒極まる怒鳴り声を上げていた。
「開けろ、こら任氏! 私ゃ気の長いほうじゃないのよ! 家ごと吹っ飛ばされたくなかったら大人しく出てきなさい!」
後ろ姿だから顔こそ見えないものの、少なくとも、その格好は景色にそぐわぬ派手なものである。
いや、ただ派手なのではなく、いかにも金のかかっていそうな雰囲気を匂わせている。金目の物に疎い大輝には何の毛皮か分からないが、とにかく庶民ならば一生縁のなさそうなふかふかのコートを着込み、丁寧なパーマが施された栗色の長い髪は、ドアを叩くリズムに合わせてゴージャスに揺れている。
やがて女は、ちいっ、と大きく舌打ちし、傍らに立ててあったスーツケースに腰をかけた。
「あんの馬鹿、マジで籠城しやがって……ん?」
ようやく大輝と小梅に気付き、優雅に手を振る。
「あら、この家の子? お帰りなさい」
上品で美しい笑み。化粧は濃いが、声の印象よりも若い女だった。
それにしても、どこか見覚えがある。
大輝が気づくより先に、隣の小梅が、「あっ!」と指差した。
「び、び、び――」裏返った声で叫ぶ。「ビクトリア・ウーだ!」
「え? あ」
大輝もようやく気付いた。
女は微笑んで頷いた。
「お嬢ちゃん、私のこと知ってんの? 嬉しいわあ。まだ日本じゃそんなに有名じゃないと思ってた」
「ど、どうしてこんなところに……日本語だし……え、夢? これ夢ですか?」
「落ち着きなさいな、お嬢ちゃん」
ビクトリアはくすくすと肩を揺らし、それから小梅の顔を覗き込む。
「ん――? あんた妖怪だわね。ちょっと妖気が漏れてるわ」
「はい! 妖怪です! す、好きなものは夜々ちゃんです!」
「よよちゃん?」
「う、うちの子です!」
小梅は興奮のあまり錯乱し、ビクトリアの発言の意味するところに全く気づいていない。
対して大輝の頭は、これほど奇異な状況であるにも関わらず、妙に落ち着きを保つことが出来ていた。小梅に先を越されて動揺のタイミングを逸しただけかもしれない。
ともかく、突っ込まざるを得ないところには突っ込んでみることにした。
「あの」
「なあに、少年」
「その――小梅さんの力に気付いたってことは、妖怪の血を引いてる方、ですよね?」
「私は純度百パーの妖怪よ。任氏から聞いてない? 漢の頃の中国に綺麗な妖猫がいたって」
しゃきん、と右手の爪を伸ばしてみせる。鋭い爪先が毒々しく光った。
大輝はまじまじとビクトリアの顔を見た。
「シロさんの……お知り合いですか?」
「シロ? ああ、今あの子はそう名乗ってるの?」
「あ――ええと、はい」
「ふうん」
ビクトリアは興味深げに頷き、それから悪戯な笑みを浮かべた。
「ま、知り合いっていうか、ある意味深い関係なのよね。だって私ったら、あの子のホクロの位置や性感帯まで知ってるんだから」
「せ……え?」
大輝は仰け反る。
「え? それって……はい?」
頭の回転が付いて行かない。今、なんて言ったんだ、この人は。
ビクトリアは楽しそうにハイヒールの片足を揺らす。
「あの子って面白いのよ。足の指とか腋の下とか、変なところで感じるの。普通、そんなところ触られたって、くすぐったいだけでしょ? それにね――」
「やめんか馬鹿者っ!」
突然凄まじい勢いでドアが開き、裸足のシロが飛び出してきた。
「さっきから聞いておれば好き勝手に語りおって!」
トマトのように真っ赤な顔で人差し指を突き付ける。
「だいたい何が深い仲じゃ! 会うたばかりのしろを騙して住処へ招き、酒に酔わせて押し倒したのであろうが!」
「あんた気付いてなかったの? ただのお酒じゃなかったのよ、あれ」
「や――」
シロは敷石を蹴って掴みかかった。
「やはり良からぬ薬を盛っておったか!」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。ただアルコールが吸収されやすいように細工してただけだってば」
ビクトリアは立ち上がってシロの手を避けつつ、大輝に微笑みかける。
「可愛かったのよ、あのときの任氏。切なそうに小指噛んじゃってさ。子犬みたいに、キューン、キューンって」
「わああ! 聞くな大輝!」
「あんなに気持ち良くしてあげたのに、起きてみたら姿が消えてるんだもん」
ビクトリアは懐かしそうに語りながら、シロの手が繰り出す続けざまの斬撃を、流れるような体さばきでかわしてゆく。
「ねえ任氏」
シロの腕をぱしりと掴み、引き寄せた。
「どうして、たった一晩で逃げちゃったの?」
「に……逃げぬ女が」
シロはポニーテールをざわめかせ――
「どこへおるか!」
怒号と共に、ビクトリアの顔面に頭突きを見舞った。
ビクトリアは「んぎゃ!」と鳴いて仰向けに倒れる。
肩で息をしながら、シロはその腹を踏みつけた。
「寝首を掻かれなかっただけ有り難く思え、紅猫鬼!」
「え?」大輝はようやく口を開く。「ほ……紅猫鬼? って」
その名前は、確か。
小梅の声が大輝の言葉を遮る。
「あの、ビクトリアさん!」
「な……エホッ」
シロの足に腹部を踏まれたまま、苦しそうにビクトリア――いや、紅猫鬼と呼ばれた妖怪は、小梅の顔を見上げる。
「な、なあに、お嬢ちゃん」
「サイン下さい!」
「へ?」
「あなたのファンです! 小梅ちゃんへって書いて下さい!」
「サイン……うーん、このタイミングでそうきたか」
紅猫鬼は顔を引きつらせた。
「あんた面白い子ね。何なら一緒に写真も撮ろっか?」
四
思えば、シロと出会ってからというもの、石楠花は異常な出来事を続けざまに経験してきた。映画館で腕の群れと格闘してみたり、異次元の牢獄に連れて行かれたり、自分自身が化け猫になってみたり。よく今日まで気が狂うことなく生きていられるものだと、我が事ながら感心するのもしばしばである。
だが、この夕食会で、石楠花のキャパシティはとうとう限界を迎えようとしていた。
「つまりどういうこと?」
テーブルに並んだ出前の寿司を前にしても、食欲など全くわいてこない。
「あたしのご先祖様はビクトリア・ウーで、ビクトリア・ウーは妖怪で……」
頭が痛くなり始めた。
「しかも……変態……?」
「変態とは失礼だわね」
向かい側の紅猫鬼は、寿司桶からマグロの寿司をつまみ上げ、ちょいちょいと醤油に付ける。
「もうちょっと先祖を敬いなさいな。私が日本に住んでた時に子供こさえてなきゃ、あんたも存在しないのよ?」寿司を口に放り込む。「――ん。これも美味しい。やっぱり寿司は日本で食べるに限るわね。シャリに対する姿勢が違うっていうのかしら」
そして満面の笑みで茶をすすり、面持ちをとろかせる。
「はあ、お茶がまた最高。しかし猫相手に魚を選ぶあたり、礼司さんは分かってるわあ」
「喜んでいただけて幸いですよ」
義父は紅猫鬼の隣で、同じく湯呑みを口に運ぶ。いつもの如く異常な落ち着きである。そろそろ神経を疑いたくなってくるほどだ。
シロは紅猫鬼を睨みながら呟いた。
「……こやつと夕餉を共にすることになろうとは」
大輝の椅子に自分の椅子をぴったりと付けて、先ほどから片時も離れようとしない。まるで敵と相対するかのように警戒心を強めていることは、全身から放たれる激しい妖気からよく分かる。この妖気も石楠花の頭痛の原因かもしれない。
紅猫鬼は呆れ顔で、あんたねえ、と割り箸を振った。
「そんなに警戒しなくてもいいって言ってるでしょ? 私ゃ死んだ連れ合いに操立ててる身なんだから、もう襲いやしないわよ」
「まことかどうか知れぬ」
シロは大輝の袖を掴み、恐ろしそうに身を縮める。
キッチン側の食卓に入り切れず、夜々と共に向こうのテーブルで寿司桶をつついていた小梅が声を投げてきた。
「あのお、ビクトリアさんのご主人って日本人だったんですよね。どんな方だったんですか?」
「うちの旦那? 話して面白いような男でもなかったわよ」
紅猫鬼は箸の先で生姜を拾い、口に運ぶ。少し噛んで顔をしかめた。
「ん、酸っぱいわね。ガリって久々に食べたわ」
「そんなこと言わないで教えて下さいよ」今日の小梅はミーハー丸出しである。「やっぱり素敵な方だったんでしょ? 格好良いお侍さんとか」
「あっはは」
湯呑み片手に腹をかかえ、紅猫鬼は豪快に笑った。
「それ全然ハズレ。あの男ったら、いっつも全身泥だらけにした小汚い貧乏百姓でね。しかも図体ばっかり大きくて、頭の回転スピードは猪並み。顔なんてカバかセイウチみたいだったわ。のろまで口下手で、おまけに不細工で、まるでウドの大木かゴリラ人間って感じ。村の女の子たちにも馬鹿にされっぱなしだったっけ」
湯呑みを置いて肘をつく。
「だいたい名前からして間抜けなの。茂平よ、モヘイ。いかにも鈍そうな名前でしょ? ぴったりすぎて今思い出しても笑えちゃう」
「ひっどい言い草……そんなに文句言うくらいなら、どうして結婚したのさ」
石楠花はようやく割り箸を抜く。紅猫鬼があまり美味そうに食べるもので、つられて食欲が出てきてしまった。
紅猫鬼は、うーん、と斜め上を見る。
「そうねえ。あいつ親兄弟いなくて苦労してたし、人づきあい出来ないから村でも独りぼっちだったし――私の一生って半永久でしょ? たかが何十年かそこら、女房として過ごしてやってもいいかなあ、なんて思っちゃったわけよ」華奢な肩をすくめる。「言ってみりゃボランティアみたいなもんかしら」
「そして子供まで生んで、今日まで操を立てている、かい?」
黙々と寿司を食べていた夜々がこちらに顔を向けた。
「馬鹿にするわけではないが、見上げたボランティア精神だな」
「ちょっとちょっと、バカ正直に受け止めないで頂戴な。恥ずかしいからこんな言い方してるだけに決まってるじゃないの」
「あ。やっぱり愛してたんですね?」
「まあね」小梅の言葉に苦笑いで頷いてみせる。「少なくとも私の目から見れば、そんなに捨てたもんでもない人間だったのよ。――でも、もう新しい相手を作らないって決めてるのは、やっぱり……憐れみみたいなもん、かな」
出汁巻卵をつまみ、一口齧る。
「茂平ったら、私っていう女房の他に、自慢できるものなんて一つも無かったんだから。せめて私くらい、あいつのものでいてあげないと可哀そうな気がしてね」
「これからもずっと――ですか?」
シロにしがみ付かれて気まずそうにしていた大輝も、やっと口を開いた。
紅猫鬼は笑った。
「ずっとよ。私に惚れる男はみんな、あのウドの大木に敗北してゆくの。茂平本人がそんなこと望んでたとも思わないけど、そういう不毛な愛があってもいいと思わない?」
「はあ……」
感心しつつも良くは分からないような面持ちで、大輝は曖昧な返事を返す。
紅猫鬼は残りの出汁巻を口へ放り込んでから、「それにしても」と話を変えた。
「私ゃ色々びっくりだわよ。まさかこんなところで自分の子孫に会うとは思わなかったしさ」
石楠花の顔をじろじろと見てくる。
「それも任氏と男の子を取り合ってるなんてねえ」
「な、何だよう」
「我が子孫ながら大した度胸だと思っただけよ。任氏に盾突くなんて、そこそこの大妖でもビビって出来ないことよ? こいつったら」言いながらシロを見る。「私と違って凶暴な上に、コテコテの人食いなんだから。よく今日まで殺されなかったもんだわ」
「安心せい。しろはもう人なぞ殺さぬ」
「え」
紅猫鬼はぴたりと固まって、シロの言葉に目を丸くする。
「今……なんつったの、あんた?」
「もう人は殺めぬと言うておる」
「はああ? あんたがあ?」
せっかくの美形が跡形もなくなるほど大きく口を開け、紅猫鬼は身を乗り出す。
補足したのは大輝だった。
「あの、言い忘れてましたけど、最初に会った頃、シロさん約束してくれたんですよ。もう人は食べないって」
「あ――ああ、なるほどね」
紅猫鬼は座りなおした。
「要するに、好きな子の言いつけを守って我慢してるわけだ。その従順さにもびっくりだけどさ」
「何を決めつけておる」
「は?」
「しろはもう、人を食いたいなどとは毛頭思っておらぬ」
「……? 食べたく……ない?」
紅猫鬼は再び固まった。
いや、今度は紅猫鬼だけではない。
この居間にいる全員が硬直していた。
小梅の箸から、イカの寿司がぽろりと落ちる。
シロは仏頂面で付け加える。
「もっとも、そうなったのは最近のことじゃがな。思えば、この家で暮らすようになってから幾度も分かりかけたようなことはあったが――ここのところ、ようやくはっきりと分かるようになった。今までのしろは愚かじゃった」
「あんたそれ……マジで言ってるわけ?」
紅猫鬼はシロの顔を覗き込み、口元を引きつらせる。
シロはふんと鼻を鳴らした。
「なんじゃ紅猫鬼。しろが人を食わぬのはそんなにおかしいか」
「食べないことじゃなくて、食べたくないって言ってることに驚いてるのよ」
「何の驚くことがある」
「ど、どうしちゃったんですかシロさん?」
小梅が大きな目を白黒させ、向かいの夜々も首をかしげる。
「一体何があった、任氏? 遊び半分に人間を八つ裂きにしていたという妖怪の台詞とは思えないぞ。まさか頭でも打ったのでは」
「やかましい!」
シロはテーブルを叩いて立ち上がった。
「どう心変わりしようとしろの勝手じゃ! 人の肉を食らわねば死ぬわけでもあるまいし、いちいち騒ぐようなことではなかろうが!」
吠えるような声で怒鳴り、舌打ちしてドアの方へ歩き出す。
小梅が恐る恐るの様子で問う。
「あ、あの、どこへ……ひいっ!」
睨みとともに殺気混じりの妖気を叩きつけられ、小梅は縮みあがる。
「な、何でもないです。ごめんなさい、ごめんなさい」
「辛子を――」
「へ?」
「辛子を切らしておったのを思い出した。こんびにえんすで買うてくる」
「え……あ……はい」
小梅は縮こまったまま、こくり、と頷く。
そしてシロは居間をあとにし、そのまま外へ出て行ってしまった。
残された者たちは、開けっ放しのドアの見つめたまま呆然とするしかない。
小梅は魂の抜けたような顔で、夜々は眉をひそめ、そして紅猫鬼は目を瞬かせながら、ただ言葉を失っていた。
奇妙な沈黙を静かに解いたのは礼司だった。
「シロさんも変わったね。彼女からああした言葉が出てくるとは……」ずずりと茶をすする。「ん……。まあ、思わなかったわけでもないけれど、実際聞いてみると、正直言って驚くものだ」
「本気で言ってた――んだよね、あれ」
石楠花はまだ信じられないでいた。
シロが。あのシロが、あんなことを言うなんて。つい一週間前にも似たような調子で居間を飛び出したが、あの時とは、言うことがまるで逆ではないか。
皆が唖然としている中、大輝がそろそろと立ち上がる。
「あの、俺もちょっとコンビニ行ってくる。修正液無くしちゃったから、買っとかないと」
誰とも目を合わせずにそれだけ言い残し、やけに早い足取りで居間を出て行った。
これで残ったのは五人になった。
礼司はふむと頷き、そういえば――と紅猫鬼に問う。
「今更だが、あなたはどういう用件で御越しになったのかな」
「ん? あ、ああ」紅猫鬼は我に返ったように姿勢を直す。「用事なんて無かったんだけどね。ただ、しばらく消えてた任氏の妖気を久しぶりに感じたもんで、あいつまだ生きてたんだあ、懐かしいなあ、って思ってさ。新作の撮影とかプロモーションがあったからなかなか来られなかったんだけど、二日だけ暇ができたから、ちょっと顔でも見るかと思って来てみたわけ」
栗色の髪を撫でながら、よいしょと脚を組みなおす。
「しっかしまあ――ここら歩いてる人たちに、糸目で銀髪のデカい女はいないかって聞き込んで、その人なら殿山さんちに居候してますよ、って言われた時には仰天したわよ。まさかあの任氏が人と同居してるなんて考えられなかったもの」
「一度しか会ったことのない知り合いの顔を見るためだけに、わざわざ海を越えてやって来たんですか?」
「ん、ひょっとして礼司さん、私のこと警戒してる?」
「別にそういうわけではありませんが」
「本当に? ――あっ、こら石楠花ちゃん、どうしてネタだけ取るの! シャリも食べなさい!」
「べ、別々に食べるのが好きなんだよ」
口やかましい先祖もいたものだ。
こちらのやり取りをよそに煙草を取り出し、夜々がぽつりと呟いた。
「……。人を食いたがらない人食い狐、か」
暗くなったガラス戸の外を見ながら、くすりと笑う。
「まあ、もともと大輝君の言いつけで殺生は控えていたわけだから、そうなったところで何かが変わるわけではないがね」
くわえた煙草に火をつける。
夜々の言葉に、紅猫鬼の眉がわずかに動いたように見えた。
五
思った以上に外の空気は冷たくなっており、急いだせいでパーカー一枚しか羽織ってこなかったことを、大輝はすぐに後悔した。
夜道に人の気配は無い。温かい時期の同じ時間帯には、煙草を買いに出る人などの姿も見受けられるのだが、こう寒くては誰も出不精になって当然だろう。
丸めて抱えたロングコートを持ち直し、足取りをはやめる。
小走りで駆けて一つめの角を曲がったところで、背の高い後姿がとぼとぼと歩いてゆくのを見つけ、大輝は声をかけた。
「シロさん」
「――む」
シロは自販機の前で立ち止まり、仏頂面を振り向かせて、不機嫌そうな声を返してくる。
「……。大輝か。どうした」
「コート忘れてますよ。その格好じゃ寒いでしょ」
大輝は歩み寄ってベージュ色のコートを手渡す。話す息が白くなった。
おずおずと両手で受け取り、シロはうつむく。
「……すまぬ」
紅い眼は手元だけをじっと見つめている。
そのまま黙ってしまったので――大輝はまず、笑ってみせた。
「いつの間にか寒くなりましたよね」パーカーのポケットに手を突っ込む。「そのコートって丈が長いから引きずっちゃいそうでしたよ。っていうか、ちょっと引きずっちゃったかも。汚れてません?」
「……」
シロはうつむいたまま何も言わない。
大輝は首をかしげてみる。
「どうしたんですか? 早く着ないと風邪ひいちゃいますよ」
「……しろは」
薄桃色の唇が動く。
「しろは、この頭なりに考えて……」
コートの生地に指先が食い込む。
「人を殺めるが悪しきこととは、考えた末に心より思ったのじゃ。さんざん人を食い散らかした身で、今更になって厚かましいことを言うておるとも、己で重々分かっておる。……じゃが」
「いやいや」大輝は笑ってみせる。「今さら厚かましいなんて、誰も思ってませんって。いきなりだったから皆驚いただけですよ」
「……」
シロは口をつぐむ。
大輝は、ええと、と目を泳がせてから、軽く肩で促してみる。
「取りあえず歩きません?」
「……ん」
頷いたシロはようやくコートを羽織った。
歩き出した二人の間には、わずかな距離があった。
ポケットに手を突っ込んだまま猫背で歩みを進める大輝と、後ろからついてくるシロ。
冷たい夜風を頬に受けながら、大輝は振り返らずに声をかける。
「言葉を交わせる相手が死んじゃうのは悲しいことだって、シロさんも思うようになったんですよね」
寒さのせいで唇がうまく動かない。
背後から返事は返ってこない。ただ、足音だけがついてくる。
大輝は続ける。
「俺も石乃さん――しゃくネエのお母さんが死んじゃったとき、しゃくネエといっしょに泣きました。もう二度と会えないって思ったら、悲しくて空しくて……でも、泣いてもどうにもならなくて、それがまた苦しくて。シロさんも、裏のお婆さんが亡くなった時、同じ気持ちだったんですよね」
「……。心の裂ける思いじゃった」今度は小さな声が返ってきた。「もう会えぬ悲しさばかりではない。この世の景色を見ることも、笑うことも、二度と出来ぬようになってしもうたはるが不憫で、胸が裂けるように痛かった。あのような思いをしたのは初めてじゃ」
「うん――」
乾いた唇を舐めて頷く。
「この世から命が無くなることの悲しさって、身近な人の死を味わってみないと、案外分からないもんなのかも知れないですね。しかもシロさんは人を食べて生きてきた妖怪だし、今までそういうことを具体的に想像できなかったのは、夜々さんの言ってた通り、当たり前だったんだと思います」
「……。何ゆえそのようなことを言う」
「だってシロさん、昔の自分まで責めちゃってるんでしょ」
歩きながら足もとの小石を蹴飛ばしてみる。
「取り返しがつかないことをしてたのかも知れないとか、自分は悪い奴なのかとか、ここ何日か、そんなことばっかり考えてるんでしょ?」
「……、どうして……それを」
「それも何となく分かっちゃって」
首が冷えるのに耐えかねて、大輝は肩を縮める。
「でも、昔のことまで考えることないですよ。今更考えても仕方ないし、きっとただ潰れちゃうだけです」
言いながら鼻をすする。
シロの足音が聞こえなくなった。
歩みを止めて振り返ってみると、数歩遅れたところで、シロはまた下を向いて立ちつくしていた。
大輝は首をかしげてその顔を覗き込む。
「シロさん――?」
「今更仕方ない……か。大輝はそのように優しいが」
白面が自嘲的な笑みに歪んでいた。
「しろが義父上や石楠花を食ろうておっても、はたして同じ言葉をかけてくれたじゃろうか」
「え……?」
「ああ、すまぬ」片手で顔を隠す。「気にせんでくれ。ひねくれたことを言うつもりは無かった――少し気が参っておるようじゃな。いかん、いかん」
軽く頭を振り、自らの頬を二度ほど叩いて、シロは顔を上げる。
「よし、早う行くとするか」
跳ねるように追い付いてきたかと思うと、おもむろに両手を伸ばし、大輝の頬を挟み込んでくる。
大輝は数日ぶりの急なスキンシップに戸惑った。
「ちょ、っと、シロさん?」
「肌が冷えておるな」
呟きながら手を引っ込めて、何やらモゾモゾと身をよじり始める。
「暫し待て。今――えいしょ」
白い指がコートの片裾を持ち上げると、その下から巨大な毛虫のような物体があらわれて、辺りを見回すように蠢いた。
大輝は一瞬ぎょっとしたが、わずかな月明かりにきらめくその物体は、久々に見たシロの尾であった。
大人の背丈ほどはあろうかという長い尾をこちらへ伸ばしながら、シロは微笑む。
「この暗さならば傍目には襟巻に見えぬことも無かろうし、血が通っておる分、紅猫鬼のやつめがしておったようなものよりも温かかろう」
そう言って大輝の首にくるりと巻きつけてくる。
首周りが急に温かくなり、大輝は思わず身震いした。
シロの体の一部だと思うと妙な背徳感があるが、これは確かに心地いいし、それに、ちょっとした懐かしさも感じる。この感触は拾ってきたばかりのシロを撫でていた時と同じ感触だ。
不思議な気分で呆けていると、綺麗な顔がのぞき込んできた。
「毛の先がこそばゆくはないか」
「あ……いえ」我に返る。「別に平気です」
「そうか。――んっ」
シロは不意に顔をしかめる。
「もっと近う寄れぬか大輝。引かれて尾の根が痛い」
「え、あ、すみません」
慌ててシロの方へ身を寄せる。
そうした途端、素早く肩に手が回り、長いコートの中に抱き寄せられた。
「うあ――?」
「ふふ」
長い両腕と尾で大輝を抱きしめ、シロは嬉しそうに言う。
「捕まえた、捕まえた」
「し……シロさん?」
「謀ったわけではないぞ。容易く手の届くところだったゆえ、つい抱きよせてしもうただけじゃ」
「いや――そういうことじゃなくて」
言い表せぬほどの温もりに揺さぶられた心臓が、どくどくと音を立て始める。
ことり、と頭のてっぺんに何かが乗った。シロのあご先か、それとも額だろうか。
呟く声が伝わってくる。
「有難うな、大輝」
「何が……ですか?」
「色々じゃ」優しい声だった。「今のしろが在るのは大輝のお陰じゃ。感謝しておる」
「そんな」
「歩む前に暫しの間、このまま抱かせておくれ」
二本の腕が大輝の体を抱き直す。
また風の吹く音がした。
今度は冷たくない。大輝は何も言わずに目を閉じた。
六
まだテーブルの上の寿司は半分ほど残っていたが、礼司は「持ち帰ってきた仕事を片付ける」と言って、ひとり居間を出て行った。
のんびりとした足音が二階へ消えていったのを確認し、小梅がソファから立ち上がる。
「あのう」
上目使いの眼差しが紅猫鬼に向けられる。
「もしご迷惑じゃなかったら、私もそっちに座っていいですか?」
「ん」紅猫鬼は微笑む。「いいわよ。いらっしゃいな」
「やたっ」
手招きされるが早いか、嬉しそうな足取りで跳ね、礼司の座っていた椅子へ腰掛ける。
紅猫鬼と同じテーブルにつく隙をずっと窺っていたのだろう。最初から言い出さぬあたりが遠慮深い義母らしい――などと思いつつ、夜々は二本めの煙草に火をつけた。
大輝と礼司が席を外し、四人だけになった居間。
夜々は煙を吐き、さて、と座りなおす。
「紅猫鬼さん」
実は、夜々にも切り出すタイミングを窺っていた話があった。
「一つ相談があるんだが」
「あなたもこっちに座りたい?」
「いや。常世に干渉する術について何か知っていれば、教えてもらえないだろうか」
「常世――?」
紅猫鬼は隣の小梅の頭を撫でながら、きょとんとした顔をする。
「そんなこと聞いてどうすんのよ」
「ある神獣を天下らせたい」
「はあ?」
「石楠花が貴女の末裔であること、同じく末裔であった石落という男に任氏が封印され、ごく最近になって落雷により逃れたこと、それから、私が神獣の血を引く一族の先祖返りであること……。食事前に話したのはそこまでだが、他にも一つ珍奇な事実がある。大輝君の母上が、石落が特殊な術を使用した際に現世へ紛れ込んでしまった神獣、麒麟だったという事実だ」
脚を組み直し、灰皿に煙草の灰を落とす。
「彼女は淋と名乗り、長い時をこちらで過ごしたが、数年前にあちらへ戻ったという。いや、戻らざるを得なかったというべきか。彼女自身は泡沫の揺らぎが終わったためだと――」
「ちょ、ちょっと待って」頭を抱えた紅猫鬼がストップをかけてくる。「えっと、どういうこと? あのお坊ちゃんって上位神獣とのハーフなわけ? 単なる神獣の混じり者じゃなくて?」
「ああ」
もっとも、現在の大輝はオリジナルと同格の権限すら手に入れているわけだが、そのことについての説明は保留しておくことにした。
「まあ大輝君自身のことはともかく、彼の母上をもう一度こちらへ呼びたいわけだ。そのために石字縛師の開祖たる貴女の知恵が欲しい」
紅猫鬼は溜息のような声を吐き出す。
「なーるほどねえ」
ポリポリと鼻の頭をかく。
「石落って子は渡りの術を実行してたのね。ってことは任氏を封印してたのもそれか」複雑そうな顔をする。「がっかりしたけど、まあ合点がいったわ。あの任氏が並の封印で抑えられるわけないもんね」
「? ちょっと待ってくれないか」
今度は夜々がストップをかける番だった。
紅猫鬼は目をぱちくりとさせる。
「何よ」
「今――渡りの術、と?」
「あら、違ってたかしら」
紅猫鬼は首をかしげる。
横から石楠花が割り込んでくる。
「どうして術の名前を知ってるんだよ。渡りの術って石落が作った術じゃなかったの?」
「何言ってんのあんたって子は」
紅猫鬼は鼻で笑った。
「あんたら子孫が使ってる術なんて、最初っから全部私が作っといてやったのよ? 単なる妖力のプロテクト解除から、応用効かせるための高等術式までね。もっとも後者は私の趣味の産物だけどさ」
「でも渡りの術なんて、お爺ちゃんもやり方は知らないって――」
「あれは禁呪として口伝だけにしといたから、どっかで途絶えちゃったのかもね」栗色の髪を撫でる。「もしかして石落って子が、オリジナルの術だってことにして、一人占めにしたのかも。渡りの術なんかを実行しちゃうくらいだから、ひどいエゴイストだったんだろうし」
「……? 言ってる意味がわかんないんだけど」
「さっき私、がっかりしたって言ったでしょ」軽く肩をすくめる。「渡りの術ってそういう術なのよ。つまり、実行すれば先祖が嘆くような類の術ってこと。私だって理論と術式を完成させただけで現実に実行はしてないわ」
「まさか――」
夜々は気付き、煙草を口に運ぶ手を硬直させる。
紅猫鬼はこちらを向いて苦笑いした。
「人間の言葉には因果応報なんてのがあるけど、自分の目的のために行うのは、制裁でもなけりゃ正義でもないわよねえ」
「……。そう、か」
ソファに深く背を預け、夜々は天井を見る。――何ということだ。
「そういう理屈だったか、渡りの術とは」
「だから申し訳ないけど助力も出来ないわね。諦めるか、そうじゃなければ」紅猫鬼は意地悪に笑う。「調度いい奴にでも頼んでみる?」
「悪い冗談だな」
夜々も仰向いたまま笑った。笑うしかなかった。
「それは本当に悪い冗談だ……。もう結構だよ、今の話は忘れてくれ。こちらも何も聞かなかったことにしよう」
言いながら小梅と石楠花の顔を見る。
二人は一体何の話かといった顔できょとんとしていたが、こういう場合に限っては、下手に察しが良いよりも鈍い方が助かる。
向こうで玄関の開く音がして、大輝の「ただいま」という声が聞こえてきた。
七
布団の上にごろりと寝転がり、紅猫鬼は気持ちよさそうに伸びをする。
「畳に布団! やっぱりこれよねえ。ベッドなんかより、こっちのほうが百倍落ち着くわ」
「その豪勢なネグリジェには合わない台詞だね」
夜々は流し場の前に小梅と並び、のんびりと就寝前の歯磨きをしていた。この安アパートの部屋には、洗面台など存在しないのである。
部屋が狭いために隙間なく並べられた布団の上で、紅猫鬼は楽しそうに、何度も寝がえりを繰り返している。
「日本暮らしが一番長かったんだもん。――しっかし申し訳ないわねえ」
ぐい、と細長い上半身を起き上がらせる。シルクの寝装束がさらりとはだけ、白い肩があらわになった。
「いきなりで泊めてもらっちゃってさ」
「仕方が無いだろう。貴女を礼司くんの家に泊まらせるのは、任氏にとって少々酷だ」
「あはは。あいつったらまだ警戒してるんだもんねえ」
「ごく自然なことだと思うが……」
「でも私、夢みたいです」
小梅が歯ブラシを片手に首を振りかえらせる。
「憧れのビクトリア・ウーさんが私たちの部屋にお泊まりしてくれるなんて」
「ありがと。小梅ちゃんみたいなファンが日本にもいてくれて、私も夢みたいよ」
「ねえ、どうでもいいけどさ」
石楠花は窓際の壁に寄りかかって座り、ただ眉間にしわを寄せていた。
「どうしてあたしまでこっちで寝なきゃいけないんだい? さっきから理由らしい理由が見つからないんだけど」
「大人しく付いてきたくせに、今更何言ってんのよ」
「あんたが勢いに任せて強引に引っ張ってきたんだろ。おかげで明日の朝はパジャマで向こうに戻らなきゃいけないし――」
横目で窓の外を見る。殿山家の二階、大輝の部屋の明かりは、まだ点いているようだ。
「――他にも心配事があって、あたし気が気じゃないんだから」
「心配? ああ、任氏と大輝くんのことね」
紅猫鬼はまた寝転がり、長い脚を組む。
「たった一晩くらいでどうなるもんでもないわよ。私の子孫ならそれらしく、どっしりと構えてなさいな」
「平気かなあ」
「へーきへーき。それより、どうして私があんたのこと引っ張ってきたのか、本当に分からない?」
「ただの気まぐれだろ」石楠花はため息をつく。「いい迷惑だよ全く」
「やだ、頭悪いのねえ」
「な――っ!」
「何代先でも可愛いもんなのよ、自分の子孫って。あんたから見たら、突然現れた他人にしか見えないのかも知れないけど」
紅猫鬼は微笑むように目を細めた。
「今日こうして会えた運命には、けっこう感謝してるの」
「……ちぇっ」
石楠花は口を尖らせ、近くの紅猫鬼にだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「私が会う妖怪ってみんなこうだよ。とぼけたことばっかり言ってると思ったら、いきなり大人になっちゃうんだ」
「長生きしちゃってるからね」紅猫鬼は苦笑いする。「まだ眠るような時間じゃないし、よかったら聞かせてくれる? あなたのお母さんや、お爺さんのことも」
向けられた瞳――カラーコンタクトを外した生の瞳は、エメラルドよりも澄んだ緑色だった。
石楠花は抱えていたひざを伸ばし、目をそらしながら頷いた。
八
あくる日の朝、夜々や石楠花が登校したのを見届けてから、紅猫鬼は殿山家へ戻って荷物をまとめ直した。
まとめ直すといっても、昨日トランクから引っ張り出した荷物は、土産のクッキーをのぞけば下着や靴下くらいのものだったので、時間らしい時間はかからなかった。
居間のソファで最後の茶を飲みながら、紅猫鬼は肩を回す。
「一晩だけだったけど、何年かぶりの日本は楽しかったわ。仕事がひと段落ついたらまた来るから、その時もよろしくね」
「うざいのう……」
「あんた悪い言葉ばっかり覚えてるわねえ」
食器を片づけているシロを睨んでから、向かいに座った礼司に、スターらしく洗練されたウィンクを送る。
「礼司さん、昨日の晩はありがとね。石楠花ちゃんと大輝君にもよろしく伝えといて」
それから隣でうつむいている熱心なファンに、やはりウィンクをひとつ。
「夜々ちゃんにもよろしくね、小梅ちゃん」
「もう帰っちゃうんですね」小梅はしょんぼりとした顔で言う。「あっという間だったなあ」
「あと何日かは居たいところだけど、けっこう忙しいからね、私」
「う――」
「?」
「う、う……ええ」
小梅は突然泣き出した。
紅猫鬼はぎょっとして茶を落としそうになった。
「ちょっ――こ、小梅ちゃん?」
慌てて湯呑みをテーブルに置き、よしよしとピンク色の頭をさする。
「どしたの、いきなり泣いたりして? 私何か悪いこと言っちゃった?」
「おぬしの顔が恐ろしかったのじゃ」
「任氏は黙ってなさいな!」
「……たし」
小梅は紅猫鬼の胸ぐらにしがみ付く。
「わたし、も、もっと」ぐすりと鼻を鳴らす。「もっと、ビクトリアさんと、お話とか」
そこから先は嗚咽に変わり、言葉にはならなかった。
紅猫鬼は呆気にとられてシロたちと顔を見合わせていたが、やがて小梅の背に、できるだけ優しく手を回してやった。
「ありがとね小梅ちゃん」小さな肩にあご先を乗せる。「小梅ちゃんの作ってくれた朝ごはん、美味しかったよ」
「……うええ」
「ごめんね。私ったら、いつの間にか石楠花ちゃんたちとばかり話してたね。本当は小梅ちゃんが一番、私とお喋りしたかったのに。ぜんぜん足りなかったよね」
泣きやまない小梅を抱きしめ、その背をさする。
「また絶対遊びに来るから。今度はあなたに会うために来るからね。そのときは、ずうっと二人だけでお話しようね。約束するわ。だからもう泣かないで?」
耳元で、子供にするように語りかける。
向こうの椅子に腰をかけつつ、呆れ顔のシロが口を開く。
「分からぬ。泣くほどのこととも思えぬが……。小梅には女色の気でもあったか」
「憧れという感情には男も女も無いのさ」代わりに答えたのは礼司だった。「しかも小梅さんは、かなり前から紅猫鬼さんのファンだったらしいからね」
「そういうものか」
シロは腑に落ちぬ顔で腕組みする。
無言の二人に見つめられながら、紅猫鬼は、よしよし、よしよし、と小梅の背をさすり続けた。
九
紅猫鬼が小梅をあやしているところなど見ていても、面白くも何ともない。シロは一人勝手に庭に出て、ほうきを片手に、散らばった落ち葉を集めていた。
やたらと土が乾いており、地べたを掃くたびに埃が舞う。
軽く顔をしかめたところで玄関のドアが開いた。
出てきたのは、トランクを片手に下げた紅猫鬼であった。
「じゃあ任氏、私ゃそろそろ帰るかんね」
「帰れ帰れ」
シロは口をへの字に曲げてみせる。
紅猫鬼は肩をすくめる。
「ホントはまだ少し時間あるんだけど、礼司さん昼から仕事だっていうし、いつまでもお邪魔してちゃ悪いからさ」
「小梅は空港とやらへはついて行かぬのか」
「よけい悲しくなるから見送りはしないって。――ああ、そうそう」
紅猫鬼はトランクを足元に置いたかと思うと、突然に地を蹴ってシロの方へ跳んできた。
シロは反射的に後退したが、紅猫鬼の方が速かった。
細い腕が伸び、さらりとなびいたシロの髪が一本、つまんで引き抜かれる。
シロは声を上げた。
「痛っ――」
「よし、と」
紅猫鬼はハイヒールの片足で着地し、銀色の毛髪が己が指につままれていることを確認して、にこりと笑う。
「悪いわね。これもらってくわ」
「何じゃ一体……」
「内緒」
笑いながら玄関前まで戻り、トランクを持ち直す。
「また今度も――楽しい形で会えることを願ってるわ」
「しろはもう会いとう無いわい」
「あはは。じゃあね」
優雅に手を振り、紅猫鬼は去っていった。
毛の抜かれたところをさすりながら、シロは一人、首をかしげた。
十
その電話がかかってきたのは三日後の夕方過ぎだった。
居間の受話器を取ったのは、ソファに寝そべって食事ができるのを待っていた大輝である。石楠花と父はまだ帰っていなかった。
「はい、殿山です」
「ニィハオマ? 私よん」
まだ記憶に新しい声――紅猫鬼からであった。
「任氏はいるかしら」
「あ、はい」
キッチンに声を飛ばす。
「シロさん、紅猫鬼さんから電話ですよ」
「紅猫鬼からじゃと?」シロがひょっこりと顔を出す。「そんなものは切ってしまえば良かろうが」
「いや……そういうわけにも……」
「面倒じゃのう」
シロはエプロンで手を拭きながら渋々とキッチンから出てきて、嫌そうに受話器を受け取った。
「何じゃ紅猫鬼、おぬしが置き忘れて行った靴下ならば、一応洗濯機にかけて――、ん? 何じゃと?」
話しながら、シロはちらりと大輝の顔を見てくる。
「うむ。まだここへおるが――いや、聞こえてはおらぬ。それがどうした」
十一
紅猫鬼はホテルのベッドに座り、携帯電話に話していた。
「まずいことになってるのよ」
「早う申せ」シロの声はいかにも面倒くさそうだった。「まだ味噌汁の具を切り終えておらぬ」
「真面目に聞いて」
紅猫鬼は静かにため息をつく。
「今から私が言うことは、冗談でも何でもないわ。きっと驚くと思う。でも――」目を閉じる。「決して取り乱さないで」
「何のことじゃ」
「次に会うときは、みんなで楽しく晩ごはんってわけにはいかないかもしれない」
もう一度息をつく。話すにも勇気のいる話だった。
「……選ぶ時が来てるの。あんたも、そして、あんたの周りの子たちもね」
十二
手洗いから戻ると、シロが受話器を置いているところだった。
後ろから声をかける。
「シロさん」
「あ――」青ざめた顔を振り向かせる。「大輝か」
「さっきから俺しかいませんよ。何の話だったんですか?」
「いや……」
あからさまに目をそらしてくる。
「つまらぬ話じゃ」
「なんか顔色悪くありません?」
大輝はシロの顔を覗き込もうとした。
しかしシロは目を合わせぬまま、無言で大輝の脇をすり抜けて、そそくさとキッチンへと引っこんで行った。
はて……。また紅猫鬼から妙なからかいでも受けたのだろうか。そんな悪戯のために国際電話をかけてくるなんて普通ならば考えられないが、土台、ろくに親しくもない相手と会うために海を越えて来てしまうような人だから、それくらいしてもおかしくはないかもしれない。
勝手に納得して再びソファに寝転がろうとしたところで、シロの短い声が聞こえた。
「いたっ――」
「どうしました?」
ソファにつきかけていた手を弾ませ、キッチンへと向かう。
まな板の前で、シロは左手を押さえていた。
赤いしずくが生白い腕をつたい、肘へと流れている。――血か。
大輝は歩み寄る。
「手、切っちゃったんですか」
「ん……うむ」シロは恥ずかしげに笑んだ。「慣れておってもしくじりはあるものじゃな」
「けっこう深いんじゃないですか? 救急箱持ってきますよ」
「手をかけてすまぬ」
蛇口から水を出し、傷口を洗い始める。
「これでは石楠花に笑われてしまうな」
そう呟くシロの笑顔は、どこか瀬戸物じみた不気味さを帯びていた。
大輝の足は暫しその違和感に硬直させられたが、ざあざあと耳にやまかましい水の音と、まな板の上に散った赤い模様に動かされて、結局は無言でその場を後にした。
キッチンを出るまで、シロが自分の姿を見つめ続けていることには気づいていた。
なのに――
どうしてか、その顔をもう一度見ることはできなかった。