Extra chapter【無形 ―Baldanders―】
どうしよう。うまく喋れないの。
こんな時なのに。
言いたいことが、本当はたくさんあるのに――。
まだ、素直な言葉が出てこないよ。
一
フゥリィは毛布をはね上げて体を起こした。
「――っ!」
途端、ずきん、と頭の奥が痛み、思わず顔をしかめる。
「あ痛だだ――なに今の夢……誰の声?」
聞いたことも無い声だったが、どこか懐かしいような気もする。
誰の声だろうか。いや、それ以前に、何と言っていただろうか。どうにも思い出せない。なぜ夢というのは起きた途端に忘れてしまうのだろう。
考えながら寝ぼけた目をこすると、やけに指が滑った。
「……ん」
生温い水――涙か。
「……。なんで私泣いてんの?」
それに、いきなり飛び起きたりして。
誰も見ていないとはいえ少々恥ずかしい。
寝間着の袖で目元を拭い、フゥリィはベッドから立ち上がる。
アパートの地下十三階に位置しているこの部屋は、家賃を払えなくなる心配をしなくてもいい代わりに、外気や自然光など、贅沢な類のものは一切望めない。まったく、自分のように若く可憐な女には似合わない環境だとフゥリィは思う。
もっともこのウェストベジンの町では、どんなに望んだところで、一部の富裕層やリーベンレン以外はまともな家に住むことなどかなわないのだが。
切れかけのライトに照らされた、今どき温度調節機能も無いアルミ製のベッドや、しょっちゅう狂っては飲み物を凍らせる冷蔵庫を眺めながら、フゥリィはまた顔をしかめた。
まだ頭が痛い。昨日の晩はアルコール系飲料も飲んでいないのに。もしかして、この間交換した脳接端末のせいだろうか。
「DDのやつ……まさか粗悪品埋め込んだんじゃないだろうなあ。あいつったら信用ならないんだから」
頭を抱え、ぶつぶつと呟きながらバスルームへ向かう。
鏡の前で寝間着を脱ぎ、目の前に映った自分の上半身を見て、フゥリィは一人で微笑む。
「――。うん、よしよし」
大丈夫。頭痛は美貌に影響していないようだ。
真ん丸な目に、少し褐色の混じった、つやつやの肌。短く切った金色の髪も活発に光を放っている。まあ、毎度ながら、背の低さと谷間の無さには目を瞑るとして。
「ひとっ風呂浴びますかね」
ぱん、と自らの尻を叩く。何かにつけて独りごとを言ってしまうのは、独身女の悲しい癖である。
今日はSMクラブ受付の仕事も休みだ。
ゆっくり湯船につかり、地下リニアで隣の駅まで行って新しい下着を買い、それから――医院に寄って、DDのやつを問いただしてやろう。
予定を決めたフゥリィは、バスルームのカーテンを無駄に勢いよく開け放った。
二
ウェストベジンのスラムに位置する地下雑居ビルの最下層、しかもエレベータから最も遠い、ビル使用者共同トイレの隣。
DDがここで個人医院を開いてから五年と半年になるが、指定手術機材のバージョンが更新されるたびに出費のあるこの商売では、そうそう移転のための資金など貯まるはずもない。女や酒をできる限り我慢して生活しても、あと十年は、この薄汚れた手術室で、得体の知れない客どもの脳味噌に端末を埋め込む生活が続く計算になる。今はつぶしの効くDDもその頃になれば四十過ぎである。
今日四人目の客を見送ったDDは、早いところこんな商売から足を洗うべきだろうか、などと弱気なことを考えながら、問診用デスクの丸椅子に腰を下ろして息をついた。
大して体に負担のかかる仕事ではないものの、人間の頭蓋骨を開ける作業はやはり神経を使う。客の血管を気にしすぎて、こっちの血管が切れてしまうのではないかと真剣に心配してしまうくらいだ。こんな時に助手でもいれば茶の一杯も出してもらえるのだが、イーストベジンの地上ビルに移転して金持ちの相手をする身分にでもならない限り、それすら夢のまた夢である。
ばん、と扉が開き、女が飛び込んできた。
「ちょっとDD! ドクトル・ドン! 確かめたいことがあるんだけど!」
フゥリィだった。顔を眺めていればそれなりに目の保養になるが、疲れているときは間違っても歓迎できない客である。
DDは煙草に火をつけた。
「何だ騒々しい。イチモツでも骨折したか?」
「私ゃ女だ! って……え?」フゥリィは顔をきょとんとさせる。「男のアレって骨が入ってたの?」
「入ってるわけねえだろ。何の用だ?」
「そうだった!」
フゥリィは人差し指で自分のこめかみを指す。
「これ! 先週交換してもらったやつ、本当にリーベン製? まさか粗悪品じやないよね!」
「うるせえから声落とせ」舌打ちする。「安心しな、お前さんに埋め込んだのは、ちゃんとメイド・イン・リーベンの型落ちもんだ。卸屋がインチキしてない限りはな。何か不具合でもあったか」
「不具合ってんじゃないけどさ」
とんとん、と頭を叩きながらフゥリィは口を尖らせる。
「今日の朝、起きた途端に頭が痛くなったんだよ。今まで頭痛なんてほとんど無かったのに。端末がまともなら、あんた何か手抜きしなかった?」
「さあなあ。手抜きはいつものことだからな」
「ちょっと!」
「いきり立つなよ」
DDは苦笑しながら煙草の灰を落とし、パックのコーヒーを開ける。
フゥリィはぶすくれた顔で睨んできた。
「からかわないでよね。私この歳で脳死なんてしたくないよ」
「そういえばお前さん幾つだっけか」
「三十六」
「うごほ――っ!」
飲み込もうとしていたコーヒーが気管に入り、DDは胸を叩く。
「さ……げほ……」まじまじとフゥリィの顔を見る。「さ、さ、三十六だあ?」
「あんたって客の身分証にもちゃんと目を通してないわけ? やっぱり信用できないなあ。本気で医者変えようかな」
「三十六ったらお前、俺より年上じゃねえか!」
DDは白衣で口元を拭い、フゥリィの顔を指す。
「どのサロンで維持処理を受けたらそんなガキみたいな若さを保てるんだ? ただのうるさい女だと思ってたが、うるさい上に気味の悪い女だな、お前は!」
「なんか知らないけど老けないんだよね、私って。そんなことより、先週の手術はホントに問題なかったの?」
「そんなことってお前……自分で疑問に思わないのがすげえな」
呆れつつ座りなおし、煙草の煙で気を落ち着ける。
「手術に問題なんか無ぇよ。単なる目の疲れか何かだろ」
全くこのフゥリィというやつは、何かにつけて変わった女だ。例の特技といい何といい、ひょっとして宇宙人ではなかろうか。
あのう、と声がして、二人は入口に顔を向ける。
そこにはいつの間にか一人の女が立っていた。フゥリィのような特異体質でないことを前提に外見で判断すれば、だいたい二十歳過ぎといったところだろう。小太りなその女は、入口に立ったまま、遠慮がちに口を開いた
「端末の交換をお願いしたいんですが、どれくらい待ちますか?」
「ん――? ああ、いや、このパツキン女はね、別に手術を受けに来たわけじゃないんだ。今すぐ始められるから入って、入って」
「やめといたほうがいいよ。DDってヤブだから」
「うるせぇんだよお前は!」
「し……失礼します」
女はおずおずと入室してくる。
せっかく新規で来た客を逃がさないためには、フゥリィにさっさと帰ってもらうのが望ましい。DDは、しっ、しっ、と追い払う仕草をしてみせる。
「ほれ帰った帰った。俺はこれから仕事だからな」
「お茶も出してくれないわけ?」
「この医院が大きくなって助手か受付嬢でも雇えたら、そいつらの誰かが出してくれるだろうさ」
「じゃあ永遠にお茶は出てこないね」
「なんか言ったかフゥリィ」
「別に」
「フゥリィ、さん?」
黙って二人のやり取りを聞いていた女が、不意に口を開く。
「もしかしてあなた、フゥリィ・ゴールドさんですか?」
「へ? うん。そうだけど」
「超能力者の?」
「あちゃあ」フゥリィは金色の頭をかく。「噂はけっこう広がるもんだね」
「お前も有名人になってきたじゃねえか」
DDは笑おうとしたが、次の瞬間、ぎょっとして表情を固めた。
女が、フゥリィの足元に突然跪いたのである。
「お願いです」切羽詰まった声で。「お願いですフゥリィさん。どうか、あなたの力を貸してください!」
「ちょ、え? ちょっと待ってよ」
あわわ、とフゥリィがうろたえる。
「どういうこと? ねえDD、どういうことだろ?」
「お、俺に聞くなよ。ちょっとお嬢さん、よく分からんが、取りあえず立ちな。フゥリィはそんなに下から見上げなきゃいけないほど大した女じゃねえんだからよ」
「そうだよ。って、何か引っかかるけど――取りあえず椅子に座ろう? ね?」
「……」
女はフゥリィの差し伸べた手を取り、黙って立ちあがった。
とにかくデスク脇の丸椅子に座らせ、フゥリィは腕組みする。
「で、どういう話? 私の力を借りたいってのは」
「……はい」
女はうつむいて語り始める。
「実は人探しに力を貸していただきたいんです」
「人探し?」
「失踪した私の親友です。ベガといって――この子なんですが」
女は鞄から一枚のピクチャフィルムを取り出した。
フゥリィは受け取ったそれを見て、はああ、と溜息をつく。
「可愛い子だねえ」
「どれどれ?」DDも横から覗き込む。「おお、こりゃいい女だな。上玉だ」
「ちょっと、下品な言い方やめようよ」
「すまんすまん」
「先月に突然姿を消してしまって、連絡も取れないんです」
渡し返されたフィルムをしまいながら、女は続ける。
「彼女のご両親が公安にも届けを出したそうなんですが」
「公安ねえ。こう言っちゃなんだが、ウェストベジンじゃ若い女の失踪なんざ珍しくもねえ。まともに調べちゃくれねえだろう」
「……ええ。だから、私、自分なりに調べていたんです。けれど――」
「ははん」DDは頷く。「それで脳接端末の交換に来たわけか。新型のセブンスCPUなら、街頭映像記録を高速で洗っても、見つけたいデータをピックアップできるからな」
「でも、他のところならともかく、この町の街頭カメラなんてほとんど故障してて役に立たないよ? ネットでの情報収集じゃ人探しなんて無理だと思うけど」
「だからお前さんの超能力にすがってるんだろうよ」
「あ、そうか。けど……」フゥリィは口ごもる。「私、超能力者っていっても、そういう器用なのじゃないんだよね」
「ま、そうだよな」
DDは頷いてから女のほうへ向きなおる。
「なあお客さん。あんたが超能力者と聞きかじってどんなエスパーを想像してたかは知らんが、このパツキンの特異能力は物凄く物理的で大雑把なんだぜ」
「……物理的?」
女は顔を上げて首をかしげる。
フゥリィは少し迷ったが、手っ取り早く見せてしまうことにした。
「DD、この受付室って感熱セキュリティ付いてる?」
「あるわけがねぇ」
「じゃあ平気か。一度しかやらないから、よく見ててね。ええと――」
「チェリルです」女は慌てて名乗る。「チェリル・ウォーカー」
「よく見ててねチェリルさん。いくよ……」
フゥリィはDDが使っているガラス製の灰皿を指差し、うん、と気合を入れる。
すると、軽い爆発音音とともに、積もっていた吸殻が燃え上がった。
チェリルは驚きの声とともに肩を縮める。
「きゃ――」
「分かった? これが私の力」
フゥリィは手をひらひらと動かしてみせる。
DDは苦笑いを浮かべる。
「近くの物を燃やしちまうんだぜ? 笑っちまうよなあ。分かり易すぎてよ」
「す……」チェリルは炎を見つめて呆然としている。「すごい……」
「すごいって言ってもさ」
フゥリィが指を鳴らすと、灰皿の火は力を失い始める。
「こんな能力で出来ることなんて、せいぜい、夜道で襲いかかってくる男どもの服を燃やして驚かしてやるくらいだからね。人探しに役立つような力じゃないんだよ。だから――その、さ」
申し訳なさそうにフゥリィは言う。
「ごめんね、力になれなくて」
「そう……でしたか」
チェリルは肩を落とし、また下を向く。そのまま黙ってしまった。
どんよりと重い沈黙が受付室に充満する。
無言の時間は長く続いた。フゥリィが「辛い物の次に苦手」と常々語っている、気まずい沈黙というやつが。
案の定、フゥリィは音を上げて金髪をかきむしった。
「んん……ああもう、分かったよお! 手伝ってあげるから落ち込まないで!」
「えっ?」
「ただし私なんて人脈も無いしお金も無いし、超能力もこんなだし、ただ頭数が一つ増えるだけだからね。それでいいなら、まあ、空いた時間くらいは付き合ってあげるよ」
「いいんですか?」
「いいんだよ。こいつはお人よしなんだ」
DDは二本めの煙草に火をつける。
「それも底抜けのな。しょっちゅう他人の世話で四苦八苦してやがる。ウェストベジンに住んでるくせしてこんな性格じゃあ、十中八九長生きしねえよ」
「それ褒めてんの?」
「どうとでも」
「た、助かります! ありがとうございます!」
チェリルは深々と頭を下げる。
DDとフゥリィは顔を見合わせ、一緒に肩をすくめた。
三
これといった取り柄も無いチェリルにとって、ベガは幼馴染の親友であると同時に、憧れの対象でもあった。
彼女は、小太りで顔立ちも地味なチェリルとは違い、綺麗な上に性格も明るく、幼い頃からいつも皆の中心にいた。何をしても人並み以上に出来る子だった。生まれ育ったのが同じアパートでなかったら、そもそも親しくなることも無かっただろう。
けれど、引っ込み思案なチェリルのことを、ベガだけが、いつも気にかけていてくれた。
友人の輪に入れてくれたのもベガだったし、悩んでいるときに話を聞いてくれたのも、チェリルに恋人ができた時、自分のことのように喜んでくれたのもベガだった。もしもベガがいなかったら、チェリルの人生はどれだけ寂しいものになっていたか、想像することもできない。
お互い大人になった今、ベガはイーストベジンの売れっ子ダンサーに成り上がり、チェリルはウェストベジンの片隅にある冷凍食品屋の店員に落ち着いていたが、それでもベガは、時々チェリルの部屋へ遊びに来ては、「元気にしてる?」とか、「彼氏とはうまくいってるの?」などと、気さくに声をかけてくれた。
ベガはこの世で一番大切な友人だった。恩人といっても過言ではないかもしれない。
だから――
「心配なんです」
そこまで話し、チェリルはうなだれる。
「もしかして……事件にでも巻き込まれているんじゃないかと」
カクテルグラスがカウンターの上で寂しげに佇んでいる。せっかくフゥリィがおごってくれた酒だったが、あまり口をつける気が起きない。
小ぢんまりとした静かな酒場だった。
黙って話を聞いてくれていたフゥリィは、ようやく口を開いた。
「ううん」
しかし、出てきたのは、唸りとも溜息ともつかないような声だった。
「今のでベガちゃんがいい子だってのは分ったけど、もっとこう、手がかりになるような話は無いかなあ? 例えばほら、何か悩んでたとか、何かに脅えてたとか」
「……いえ」思い出そうにも心当たりがない。「そんなことは無かったと思います」
「参ったなぁ。それじゃ本当に足を使って探し回るしかないよ。こんな――アリの巣みたいにゴチャゴチャな街を。イーストベジンならまだ探しやすいけど」
フゥリィは難しい顔をしてグラスを揺らす。
「こっち側は建物の半分が地下建造物だし、しかも二割以上が違法建築で、他と繋がってなかったりするもんねえ」
「……はい」
「まあ、彼女の仕事場がイーストベジンだったなら、さっきDDに入れてもらった脳接端末で、あっち側の街頭記録映像をスキャンしてみるのが取りあえずの手段だよね」
「実は――さっきから、このバーのオープンルータ越しに実行しています」
「あ、そうなんだ」
「でも、覚醒時だと、やっぱり進行が遅くて。今晩の睡眠中に優先順位を高めて再実行してみるつもりです」
「それがいいね」
「あら?」
チェリルの脳接端末に一件のメッセージが届いた。
ちびり、とフゥリィはラムを飲む。
「誰かからメッセージ?」
「はい。――あら、彼からだわ」
共有暗号システムで解読処理を開始する。一秒もたたぬうちに終わった。さすがセブンスCPUだ。
送られてきた内容は言語データではなく、リアルタイム通話の承認請求だった。国外ネチズンによる犯罪が急増した四年前から、正規品の端末では、これを承認する手続きを踏まなくてはリアルタイムの直接通話ができなくなった。どうせ気休めにしかならないというのに面倒なことである。
承認すると、彼の声が届いた。
――やあ、今どこだい。
――雨山正路の「トトメス」というバーよ。
――珍しいね、君がアルコールに手を出すなんて。
――一緒にベガを探してくれるっていう、親切な人と知り合ったの。その人と話をしているところ。
――本当かい? 実を言うと、ちょうど僕も雨山正路で夕飯を食べていたところなんだ。今から行くよ。
――待ってるわ。
通話を終了する。
フゥリィはグラスを口に付けたまま、こっちを見ていた。
「終わった?」
「はい。私の彼からで……今からこちらへ来るそうです」
「ふうん」
フゥリィはグラスを置き、口をへの字に曲げる。
「恋人かあ。いいなぁ、私なんてもう何年も独りぼっちだよ」
「そうなんですか?」
「意外だと思う?」
「はい。だって素敵な方だから」
「ありがと」
苦笑いしながら、フゥリィはカウンターに肘をついた。
「まあモテないってわけじゃないんだけど、誰と付き合ってもピンとこなくってさ。すぐ上手くいかなくなっちゃうの。そんなわけで最長記録二か月……ガキみたいだよね」ラムをまた一口飲む。「それで? チェリルちゃんはその彼とどれくらい続いてるの?」
「ええと」指を折って数えてみる。「そうですね、ちょうど半年くらいでしょうか」
「もしかして初めての彼ってやつ?」
「どうして分かるんですか?」
「チェリルちゃんの雰囲気でね」
フゥリィは悪戯っぽく笑った。
「純情で初々しい恋の匂いがプンプンしてるよ。孤独なお姉さんは羨ましくて仕方ないです」
「そんな……」
顔が熱くなる。
やあ、と背後で声がした。
二人は振り返る。
噂をすれば何とやらだった。
「お待たせ、チェリル」
「ギータ」
「こちらが協力してくれるという人かい?」
ギータはフゥリィの方へ顔を向ける。
フゥリィはぽりぽりと金色の頭をかいた。
「ま、そういう成り行きになっちゃったのよね。フゥリィ・ゴールド。よろしく」
「ギータ・ミヤモトです」
「その名字ってリーベン系? 珍しいね、リーベンレンがこんなところをウロついてるなんて」
「いえ」ギータは笑う。「蒼林小路のミヤモト孤児院の出身なので、そう名乗っているだけです。実の親は知れません」
「ありゃ御免。……それにしても」
フゥリィはまじまじとギータの顔を見る。
「ずいぶん男前なんだねえ。あたしなんかには目の毒だよ」
それから、つん、とチェリルを肘で突いてきた。
「いいの掴まえたじゃない、コノコノ」
「そんな――」
また顔が熱くなる。
ギータは、はたと首をかしげる。
「しかしフゥリィ・ゴールドっていうと、確か」
「あちゃあ」フゥリィは額に手をやる。「あなたも知ってるの?」
「やっぱりそうですか。最近噂になっている超能力者の方ですよね」
「あなたにも言っとくけどね、あたしは千里眼のエスパーじゃなくて、単なる発火能力者だよ。あんまり期待しちゃダメだからね」
ちっちっち、とフゥリィは人差し指を振る。
ギータの眉がぴくりと動く。
「発火能力?」
「フゥリィさんは念じるだけで近くにある物に火をつけることが出来るのよ。私もさっき見せてもらったわ」
代わりにチェリルが付け加える。
ギータはほんの刹那フゥリィの瞳を見つめ――
それから、へえ、と頷いた。
「それはすごいですね」
「褒めないでよ。ベガさん探しの役には立てないんだからさ」
「でも、超能力者が味方に付いているなんて、なんだか心強いですよ。今度僕にも見せてください」
にこりと笑う。
その笑顔を受けたフゥリィの顔が、唐突に曇った。
「――?」ギータの顔を覗き込む。「あんたって……」
「そうだ」
ギータはくるりとチェリルの方へ顔を向ける。
「もうアドレスの交換はしたのかい?」
「ああ、そうね。まだだったわ」
チェリルは右耳の下からファイバーケーブルを引き出す。
「フゥリィさん、もし良かったら、アドレスと共有暗号を交換させてくださいませんか」
「え? あ、うん」
フゥリィは我に返ったように頷いて先端のプラグを受け取り、それを耳の下の差し込み口にセットしながら、目を合わせずに訊いてくる。
「あのさ、ついでにギータくんのも送ってもらっていいかな」
「そうするつもりです。彼もベガを探してくれているし、連絡は取りやすい方がいいですから」
「……ありがと」
ちらりとフゥリィはギータを見る。
ギータは相変わらず微笑んでいた。
その不思議な視線のやり取りに首をかしげつつ、チェリルはアドレス情報の送信を始めた。
四
まさかとは思ったが、あの女は、こちらの放った微弱なエネルギーに反応していた。おかげで余計な疑いを抱かせてしまったようだ。
試してみるべきではなかったか。
ただの人間を装ったままやり過ごすべきだったか。
いや――違う。これでいいのだ。
接触してしまった以上、いつ、どのような形で発覚するかは分からない。
ならば早い段階で排除してしまった方がいい。向こうから接触してくれば好都合だ。
小さなベッドの中、チェリルのふくよかな体を抱きよせて「ギータ・ミヤモト」は微笑む。
そう。誰にも邪魔をさせるべきではない。
自分のためにも、チェリルのためにも。
チェリルは「ギータ・ミヤモト」の腕の中で、ぽつりと呟いた。
「……水槽が空っぽだわ」
「え?」
「亀さんがいないと、ただの水が入った箱ね」
壁際の水槽を見つめるチェリルの声は、寂しげだった。
「ベガがいなくなって、亀さんが死んで……あなただけはどこへも行かないでね、ギータ」
「ああ」
チェリルの髪を優しく撫でる。
「僕はどこへも行かないよ。亀はまたどこかで買ってこよう。ベガだって――」
そして嘘をつく。
「ベガだって、やがて見つかるさ」
「うん……」
「今日はもう寝た方がいい。イーストベジンの映像記録をオートスキャンするんだろう?」
「そうね」
チェリルは「ギータ・ミヤモト」の頬にキスをする。
「もう寝るわ。それじゃ、おやすみなさい――」
「ああ、お休み」
耳元でささやいてキスを返す。
脳接端末のノンレム誘導機能を使ったのだろう。チェリルはすぐに寝息を立て始めた。
その寝顔を眺めながら「ギータ・ミヤモト」は呟く。
「愛しているよ、チェリル」
そして静かにベッドから出る。
オレンジの発光ダイオードに照らされた、小さな部屋。
その中央に立ち、「ギータ・ミヤモト」は笑っていた。
彼の脳接端末には一件のメッセージが届いている。それは言語データだった。フゥリィ・ゴールドからの呼び出しである。
思ったよりも早いが。
「好都合だ――俺と同じ紛い物よ」
特別な感慨など無い。最愛の心清き者のために、綺麗さっぱりとご退場願おう。
五
どこもかしこも得体の知れない者どもで溢れているウェストベジンだが、午前三時の地下リニアステーション改札前となると、さすがに誰の姿も見当たらない。
金属とハードアクリルで作り上げられた殺風景な空間に、一人、フゥリィは立っていた。
煙草を口にくわえ、指を鳴らして火をつける。
ひと呼吸。
湿気を帯びた空間に紫煙が溶ける。
「……」ちらりと。「遅かったね」
「チェリルを寝かしつけるのに時間を食ってしまいました」
地上からの階段を下りてきたのはギータだった。真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。
「雨が降りそうですよ。ここ最近は雨ばかりだ。もっとも」
不自然に離れたところで立ち止まる。
「地下暮らしをしている僕らのような者には――無関係ですけどね。フゥリィ・ゴールドさん」
例の端正な顔が微笑みを作っていた。
フゥリィの質問は率直だった。
「あんた何者なの?」
「気づいているんでしょう。大雑把に言えばあなたと同じ種類のモノですよ」
「同じ?」
「――まさか」
ギータはわずかに驚いた様子を見せた。
「全く自覚が無いまま生きていたのか」
「自覚……って?」
「さっき、バーで僕の放った力に気づいたんでしょう?」
「気づいたよ。初めての感じだった」
フゥリィは煙草の灰を落とす。
「何なの? あの感覚――気味の悪い感じ」
「あなたはただそれを訊くためだけに来たんですか?」
「そうだけど」
「何てことだ」ギータは口元に手をやる。「これは予想外だった。僕は完全に藪蛇をつついたらしい」
「――?」
フゥリィはわずかに身構えた。
場の空気が変わったのが分かった。ギータの気配が揺らいでいる――なぜそんなものを感じ取れるのかは分からないが。
ギータはコートのポケットに手を入れる。気配とともに口調も変わっていた。
「不用意に人前で力を使っている時点で気付くべきだったか。……こうなっては仕方がない。悪いな、フゥリィ・ゴールド。チェリルの幸福に水を差すような可能性は、例外なく排除しなくてはいけないんだ。彼女自身が親友と思っていた相手だろうと、恋人と思っていた相手だろうと、無関係のお人よしだろうとな」
「あんた、ベガさんの失踪に関わってるの?」
「ああ。この際だから教えてやるが、その通りだ。俺が殺したんだよ。殺して切り刻み、八番街のゴミ処理場に捨てた」
冷たい瞳で付け加える。
「本物のギータ・ミヤモトも、今はもうこの世にいない」
「ちょ――ちょっと待ってよ、どういうこと?」フゥリィは頭を抱える。「じゃあ、あんたは何者なわけ?」
「俺は常に他の何かとして生きる者だ。力を持たない代わりに自由な身でね」
ギータは穏やかに語り始める。
「少し前まではイーストベジンに住む老人だった。というより、老人になるまでその体を使っていたんだ。それが失敗でね」肩をすくめる。「ウェストベジンに比べたら治安のいいイーストベジンでも、老人は強盗どもの格好の的になる。財布を奪うついでに腹を撃たれて、下水道に放り込まれたのさ」
「何の話――?」
「完全に死んでしまう前に別の肉体を探さねばならなかったが、生憎と、下水道を泳ぎながら生活しているような物好きはいない。だから仕方なくその場にいた亀と同化した。亀の肉体で地上に這い上がるのは大変だったけれど――アダム・シュエ・カンパニービルの裏手でチェリルに拾い上げられたときは、しめたと思った。女の体と同化するのは好きではないが、人間であるぶん、亀よりはずっと行動がしやすいからな。隙を見て彼女の体と同化し、また手頃な肉体を探そうと考えた。しかし」
ふう、と息をつく。
「考えが変わってね」
「あんた、人間じゃないの……?」
フゥリィは後ずさる。
背筋が寒い。
何かを感じる。バーで会った時と同じように、ギータの全身から何かが発せられている。これは何だ。
「あんたは、一体」
「チェリルの心は澄んでいた。彼女が水槽の中の俺に語りかける全ての言葉も、例外なく澄み切っていた。彼女が部屋に一人でいる時には、色々なことを語りかけてきたよ。ベガという友人を尊敬していること、生まれて初めてできた、ギータという恋人を本当に愛していること――俺の目には、ギータ・ミヤモトが、ただ寝床欲しさに転がり込んだ流れ者だということは一目で分かったが、少なくとも、疑うということを知らないチェリルは幸せそうだった。彼女が幸せならばそれでいいと、俺も思っていた。……あの日までは」
ギータ――いや、名も無き異形は舌打ちする。
「ひどい話だ。ギータはやはり、見た目の良い女に言い寄られれば簡単に心を動かされるような、価値の無い男だった。ベガという女もだ。あの女はチェリルに親切にしているように見えて、その実、自分よりも格下の相手を傍に置いておくことで、自尊心を満たしているだけだった。俺は長いこと人間の世の中に混じり、人間を見てきたから分かる。ベガは、自分よりも格下でいなければならないはずのチェリルが、一人前に恋人を――恋人という装飾品を手に入れたのが気に食わなかったんだろう。生意気だと、そう思ったのさ。だから取り上げようとした。チェリルが仕事に行っている間に」
平坦な口調で語る面持ちは、しかし、静かな怒りに満ちていた。
頭上で雨音が聞こえる。やはり雨が降り始めたのか。
続いて届いたのは――雷鳴だった。
異形は呼応するように語気を荒げた。
「ギータ・ミヤモトは、訪ねてきたベガを間抜けな笑顔で招き入れ、そして誘われるままに抱いた。チェリルのベッドでだ。許せると思うか? あんなに素直な女の……心からの信頼を、全て、奴らは踏みにじったんだ」
「だから――」
理解できないままにフゥリィは問う。
「殺した?」
「あんな連中をチェリルの傍に居させておけば、いずれ彼女が傷つくことになる。俺は間抜けに腰を振っていたギータの肉体に乗り移って同化し、ベガの首を絞めて殺した。あとは簡単なものだったさ。この街ほど死体を処理しやすい環境は無い」ギータは笑う。「同化した時点でギータ・ミヤモトの意識は消滅して、記憶だけが俺の意識に取り込まれた」
自らの眉間を指して問うてくる。
「なあフゥリィ・ゴールド、お前も――これで良かったとは思わないか? もう素直なチェリルを冒涜する友人も、裏切る恋人もいない。彼女のことを愛している者が、彼女の愛する者として存在している。この平穏を乱すべきではないと、お前も思わないか?」
そう言いながらポケットの手を抜く。
「なあ、思うだろう」
銃が握られていた。
――いけない。
フゥリィは意識を集中し、発火を試みる。だが距離が遠かった。
銃声が響く。
フゥリィの上体は意志を離れて揺らいだ。
「あ……」
胸が熱い。
「あ、れ……?」
「すまないな」
「え?」笑う。「嘘でしょ、そんな――」
がっくりと膝をつき、そのまま崩れるように倒れる。
呼吸ができない。
撃たれた。こんなに呆気なく。
淡々と語る声が聞こえる。
「お前まで殺すことになったのは俺の不手際だが、その程度の力しか持たない自分自身も呪うといい。仮にも人間以外でありながら、たかが銃弾で致命傷を負い、しかも他の肉体に乗り移ることもできない、脆弱な存在であることを」
「ちょっと……タンマ」
「悪いな。お前に恨みは無かった」
「あ」
立て続けに引き金を引く指をフゥリィは見た。
その一瞬、DDの声が蘇る。
――ウェストベジンに住んでるくせしてこんな性格じゃあ、十中八九長生きしねえよ。
本当だ。
でも、ちょっとこれはひどすぎない?
苦笑する間もなく、フゥリィの全身を鉛の玉が貫いていた。
六
念入りに全弾を叩きこみ、フゥリィ・ゴールドの絶命を確認してから、「ギータ・ミヤモト」は銃を捨てた。
銃声の余韻が漂う中、穴だらけになった無残な死骸を中心に、赤い水たまりが広がり始める。血の色が鮮やかでやけに美しい。
それを見つめながら呟く。
「リニアステーションの改札前に女の死体が転がっている、か」
珍しくもない話だ。少なくとも、この街では。
「なあフゥリィ・ゴールド。お前はさっき、人間なのかと俺に訊いたな」
亡骸は答えない。
「俺も――これからは人間さ」
コートを翻し、「ギータ・ミヤモト」は階段へと歩き出す。
そう。これからは人間だ。チェリルが幸せなまま老いて天に召されるまで、人として寄り添い続けるのが「ギータ・ミヤモト」の使命だ。
本当の名前など無くても構わない。
地上の雨音が、拍手のように彼を迎えていた。