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第十二章【変化性 ―へんげのさが―】



 一


 シロの細い指が呼び鈴を押すと、一呼吸置いてから、はあい、とハルの声がした。しわがれた小さな声――今年で九十歳になるとか言っていたか。もちろんシロからみれば大した年齢でもないが、人間で九十といったら、もう立派な年寄りである。

 そんな老人がテキパキと歩いてきて戸を開けられるわけもなく、シロはいつも、この玄関前で突っ立って待つことになる。

 小さな庭を見回してみても、いつものことだが、特に見るものもない。手入れされた庭木があるわけでもなし、花が咲いているわけでもなし。ただ土色の淋しげな空間があるだけだ。

 やがて鍵を開ける音がして、戸が開いた。

 ハルの皺くちゃな笑顔が迎えてくれた。もっとも、いつものような元気は無い。

「ああ、シロちゃん、ありがとうね。すまないわね」

「ついでのことじゃし、隣近所のよしみじゃ。いちいち気にするでない。それよりも此度は案外と安くついたぞ」

シロは左手に提げた買い物袋たちを揺らしてみせる。二つのビニール袋がこすれ合ってガサガサと鳴った。

片方は言うまでもなく殿山家の食料だが、もう片方は、ついでに頼まれたハルの買い物だ。

 シロは釣銭と袋を渡しながら、いつもと同じことを言ってみる。

「はるの頼む食い物はいつも少ない。こればかりしか食わなんだら精がつかんのではないか」

「ええ……。でも、もう年だから。食べようと思ってもね、お腹に入らないの。調子の良くないときは余計にね。これでも頑張って食べているのよ」

返ってきた答えも、やはり、いつもと同じだった。

 ハルが風邪気味になってからこちら、このやり取りが毎日のように続いている。

 夫に先立たれて子供も無いハルには、体を壊しても、代わりに買い物へ行ってくれる家族はいない。だから茶飲み友達のシロが、こうして必要なものを買って来ているのだ。

 ハルは袋を片手に、シロを奥へと誘う。

「上がっていって。お茶を出すから」

「ああ、これ、気を使うでない。今も横になっておったのであろう。またおぬしの具合が良うなったら、ゆるりと邪魔するわ」

「そう……? ごめんなさいね」

「良い、良い。大事にせよ」

シロは笑んでみせ、くたびれた玄関を後にした。

 ハルの家は殿山家と隣接しているが、背中合わせに位置しているから、帰るには通りをぐるりと回らなければいけない。

 買い物袋片手に細い道を歩きながら、シロは考える。

 昨日作ってやった粥や煮物をハルはちゃんと食べたのだろうか。

 早く元気になってくれなければ昼間が退屈で仕方ない。少し前に石楠花が風邪をひいたときは、無理矢理飯を食わせて布団に叩き込んでおいたら一晩で治ってしまったのに、ハルときたら、もう一週間以上も寝たきりだ。

 縁側に並んで座り、他愛ないことを話しながら茶をすすっていたのが、何だかずいぶんと昔のことのように感じられる。

 曲がり角で立ち止まって息をつくと、鼻の頭が冷えていることに気付いた。

 そう――今はもう冬だった。


 二


 チーズバーガーの包みを慣れぬ手つきで開けながら、夜々はぽつりと呟く。

「こういう店は久しぶりだ」

「あ」大輝はポテトをかじる。「もしかして嫌いでした? ハンバーガー屋とか」

 夜々は小さく首を振る。

「そういうわけではないけれど、私も母様もこういうところへ来る習慣が無くてね」

「はあ」

大輝はストローに口を付け、コーラをすする。

 暖房でよく暖まった二階の客席は時間帯の割に多くが埋まっていたが、わざわざ通学路から大きく外れた国道沿いまで来た甲斐あって、大輝たちと同じ制服は見当たらない。もっとも、万一級友たちが入ってきても、二人の座る席はちょうど観葉植物の陰になっているから、注視されない限りは気づかれまい。

 夜々は包みから出てきた中身を、いつもの涼しい瞳で眺める。

「同じ系列の店舗には十年くらい前に来たことがあるが」小さな口がハンバーガーの端をかじる。「……。ふうん、こんな味だったかな。まあ、小銭で食べられるものにしては上等か」

「俺もあんまりジャンクフードって食べないんですけどね」

「お互い手料理に不自由しない環境で有り難いことだ――ところで」

夜々はぺろりと唇のケチャップを舐める。

「相談したいこととは何だい。入神家への婿入りの話ならば、こちらの準備はとうに出来ているよ」

「いえ、申し訳無いんですけど、その話じゃないんです」

大輝は苦笑いする。

「何ていうか、その……俺の母さんの話なんですけど」

「淋さんの?」

「はい」頷く。「最初は一緒に晩メシ食うときにでも相談しようかと思ってたんですけど、母さんの話って、親父にとっても……しゃくネエにとっても、ちょっとデリケートな話だから。だからって学校でも話せないし」

「淋さんをこちらへ再び呼ぶにはどうすればいいのか。そういう相談かい」

夜々はさすがに察しが良かった。

 大輝は黙って頷く。

 夜々は――ソファに背をもたれた。

「いつかそうした相談を受けるとは思っていた」食べかけのチーズバーガーを見つめながら。「だが、残念ながら……それは難しいね」

「やっぱりそうなんでしょうか」

「君と淋さんは完全な神獣であるという点で同じだ。しかし、君が今現世に存在しているのは、この三次元世界を再構築する際に起源点として必要だったからだ。君が現世と常世を行き来することは可能かも知れないが――いや」言いながら首を振る。「それも危険な行為か。完全な神獣と化してしまった今となっては、一度行ったきり、常世に帰還したと見なされてシステムの一部に還元されてしまう」

「……えっと」

複雑すぎて分からなくなってきた。

 それを察したらしく、夜々は補足してくれた。

「つまり君が向こうに行くことは出来るが、淋さんを連れてくることは不可能で、それどころか君まで帰って来られなくなるだろうということさ」

「――。そう――ですか」

大輝はうなだれる。

 薄々分かってはいた。それでも、冗談を言わない人間からはっきり言われるとこたえるものだ。母に「もう一度呼び戻す」などと豪語してはみたが、やはり――楽観的すぎたのだろうか。

 夜々はうなだれる大輝をしばらく見つめていたが、

「まあ、そう落胆しないでくれ」

と、ぎこちない笑顔を作った。

「副産物的な現象だったとはいえ、石落の手で一度は出来たことだ。紅猫鬼とかいう妖怪の子孫であるという点では石之助君や石楠花も同じであるわけだし……特に石楠花は先祖返りの体質だから、石落よりも素質はある。天才では無さそうだけれど」

「石落が作り上げた術の使い方が分かれば、何とかなるんですかね」

「というよりは、それだけが問題だな」夜々は頷く。「渡りの術――この現世と、常世の中に構成した限定的な三次元空間とを自由に行き来し、同時に常世と現世の境界に亀裂を作る術……かなり複雑な術式とみて間違いあるまい。何かヒントでも残されていればいいんだが。石之助君にはもう相談したのかい」

「一応。やっぱり何も分からないみたいですけど」

「そう――か」

「……あの、すみませんでした」

大輝は頭を下げる。

「無茶な相談でしたよね、こんなの。あんまり気にしないで下さい」

「いや、私こそ力になれなくて済まない」

夜々も静かに目を伏せた。

 結局話はそれで終わってしまい、あとはトレイに残った飲み物やハンバーガーを片付けつつ、これといって実も無い話をするだけの時間となった。担任教師についてどう思うとか、最近寒くなって学校の行き帰りがつらいとか。夜々の言葉数が普段に比べて多かったのは、大輝の気が沈まぬよう気遣ってくれたからなのだろう。その優しさは素直に嬉しくもあったが、やはり余計に申し訳ないような気にもなった。

 店を出てしばらく歩き、本来の通学路へと戻る途中の歩道橋の上で、前を進んでいた夜々は不意に立ち止まった。

「そうだ」

「はい?」

 つられて立ち止まった大輝に、夜々は振り返りながら笑みを送ってくる。

「最近ね、母様から料理を習っているんだ」

「誰がです?」

「喋っているのは私自身だから主語は必要ないと思ったんだが」

「ってことは……夜々さんが?」

「そんな顔をするほど意外なことかい」

「あ、いえ」

大輝は口元を隠す。

 夜々はその仕草をじろじろと見て続ける。

「昔から簡単な料理ならば出来ないではなかったんだがね。本格的に習うのは初めてなもので、少々苦労しているよ」

「はあ……。でも、いきなりどうして」

「この歳になっても心境の変化はあるものさ」

また歩き出す。

「ところで君の好物は何だったかな」

「好物? 好物ですか」納豆以外は何でも美味いと思って生きているけど。「強いて言うなら中華料理ですかね。麻婆豆腐とか炒飯とか」

「なるほど――中華か」

「しゃくネエの作る炒飯がまた美味いんですよ。手際がいいから、こう、ご飯粒がパラパラしてて」

「……中華以外では?」

「へ? ああ、ええと――そうだなあ、オーソドックスな煮物とかも、中華と同じくらい好きですね」

「煮物というと、和風の煮物かい」

「はい。あ、特にシロさんの煮物が絶品で。あの人のは出汁の取り方がこう、何というか」

「……煮物もやめにしよう」

「?」

何だ一体。

 歩道橋を渡りきったところで夜々はちらりと振り返る。

「あまり見透かされても恥ずかしいから嫌だが、君は本当に勘ぐるということを知らないんだね」

「勘ぐる?」

「まあいいさ」

笑いながら右へ進路を変えた夜々のスカートが、くるりと舞った。

「少し急ぐとしようか。早く帰らないと母様たちが心配してしまう」

夜々らしい淡々とした足取りで階段を下り始める。

 大輝は首を傾げつつその背を追いかける。

 ――はて。馬鹿にされたような、怒られたような。

 理由を考えても分からないし、夜々の後ろ姿は何も語ってくれない。煮物などという漠然とした答えを返したのがまずかったのだろうか。もっと具体的に、大根の煮物とか、魚の煮付けとか……いや、そういうわけでもないような。

 微妙な沈黙を保ったまま二人がちょうど階段を下りきったその時、けたたましい急ブレーキの音が景色を震わせた。

そして、それを断ち切るような、何かがぶつかる鈍い音。

 突然だった。

「なんだ?」

大輝は耳をおさえ、音のしたほうへ視線を向ける。

 反対側の階段を下りた先、太い柱の向こう側で、女子高校生の二人組が悲鳴を上げて座り込むところが見えた。彼女たちの正面には青いワゴン車が停車している。ブレーキ音は、あの車が停まったときに発したものか。

 夜々が呟く。

「何事だろうか」

「さあ……って、あ、夜々さん」

「ちょっと見てくるよ」

止める間も無く、夜々はすたすたとあちらへ歩いてゆく。

 と思ったら、今度は駆け足で戻ってきた。

「――行こう」

「え」手を掴まれた。「あの」

「見るようなものじゃない」

手を引っぱってこの場を去ろうとする夜々の声は、静かに動揺していた。

 大輝は飼い主に逆らう犬のように、強引に留まる。

「ちょっと、どうしたんですか?」

「……。思ったより酷い」

仕方なく立ち止まった夜々は、心なしか青ざめた顔で首を横に振る。

「小さな男の子が……たぶん男の子だろう。車道に出て撥ねられたらしい」

「え――」

「あの状態では即死だ」

「そんな」

大輝は振り返る。

 歩道橋の階段やワゴンの向こうに、座り込んだ女子高校生たちと、車から降りてきた運転手らしい男が、どうしたらいいか分からない様子で立ち尽くしている様子が垣間見える。男の子の亡骸はワゴンの陰にすっぽりと隠れているらしく、ここからは見えない。

 騒ぎというほどでもない。

 例えるなら、嵐の前の静けさのような。

 ひとつの死があまりにも呆気なさすぎて、まだ景色が反応しきれていないような、奇妙な空気だった。

 ワゴンの停まった車線を避け、何台かの車が次々に通り過ぎてゆく。彼らは子供の亡骸に気付いただろうか。あのスピードではよく見えないだろうか。

 向こう岸の歩道では、こちらの様子に気づいていない主婦が、のんびりと自転車をこいでいる。

 呆然とする大輝の手を握ったまま、夜々が口惜しそうに呟く。

「――。階段を――」

「え?」

「こんなことを考えても仕方ないのは分かっているんだが」恨めしげに歩道橋を見上げる。「何かがほんの少し違えばね……例えば、向こうにあるコンビニエンスストアに寄るために、私たちが反対側の階段を下りていたとしたら、あの子に声をかけて止めることが出来たかもしれない、などと」

きゅっ――と、握る手の力が強くなる。

「そんなことを思うと……無意味なことだけれど」

夜々はゆっくりと俯いた。

「……。少々、悔しいね」

小さな声だった。

 大輝は夜々の手を軽く握り返し、分かりました、と頷く。

「やってみましょうか、それ」

「――? やってみる……というと?」


 三


 歩道橋を渡りきったところで夜々はちらりと振り返る。

「あまり見透かされても恥ずかしいから嫌だが、君は本当に勘ぐるということを知らないんだね」

このタイミングで好物を訊いた理由も分からないとは、一体どれほど鈍感なのだろうか。夜々が単なる趣味で料理を始めたとでも思っているらしい。

 本当に――全く、この子は。

「……。まあいいさ」

呆れつつ右へ曲がろうとする。

 だが、大輝はなぜか反対側の階段を全速力で駆け下り始めていた。

 あまりに唐突な行動に、夜々は面食らった。

「大輝くん? おい、ちょっと、どうしたんだい」

とにかく後を追って、急ぎ足で階段を下りる。

 階段を下りきったところでは、大輝が、見たこともない男の子に話しかけていた。

「……き、君」少し上がった息で。「何それ、ボール?」

「? うん」

両手でゴムボールを持った小さな男の子は、そのボールを、ポン、とその場でバウンドさせ、キャッチしてみせる。

 大輝は――大輝なりに怖い表情を作っているつもりなのだろう。顔をしかめて声を落とす。

「駄目だぞ、こんなところでボール遊びなんかしてちゃ」

「だってお母さん買い物してるんだもん」

子供は後ろのコンビニを指差した。ガラスの向こうでは、この子の母親らしき女性がカゴを片手に飲み物を物色している。

 青いワゴンが車道を走り過ぎ、コンビニから出てきた女子高校生たちが、談笑しながら歩道橋の階段を上ってゆく。……なぜかそれを横目で確認してから、大輝は首を振る。

「いくら退屈でも、車の通ってる横で遊ぶのはダメなんだよ。例えばそのボールが、こっちの、車の走ってるところに出たとするだろ?」

「うん」

「そしたら君はどうする?」

「取る」

「そこに車が来たら?」

「……」男の子は少し考えてから答えた。「ひかれる」

「轢かれたらどうなると思う?」

「けがする」

「死ぬんだよ」

大輝はわずかに声を大きくして言った。

「人間って簡単に死ぬんだ。気をつけないと簡単に死ぬ。死ぬっていう出来事は、いつも、すぐ隣にあるんだよ」

「……」

男の子はうつむいた。

 大輝は少し口調を和らげて問う。

「嫌だろ? 死ぬの。大人になれないの」

「……やだ」

「じゃあどうする?」

「道で遊ばない」

「そういうこと」

大輝は男の子の頭を軽く撫で、ようやく夜々のほうを向いた。

「よし。それじゃ行きましょっか、夜々さん」

「え、あ……ああ」

夜々は何とか頷いた。

 何の説明もせぬまま大輝は歩き出し、夜々もそれに続く。

 二人はしばらく会話もせずに帰路を縮めていたが、商店街の入り口を通り過ぎたところで、夜々はようやく思い当たって口を開いた。

「あ――大輝くん、もしかして、さっきのは」

「はい、ちょっとだけ戻しました。それでもけっこう疲れましたね」大輝は歩きながら苦笑いする。「むやみに力を使っちゃダメとかは言いっこ無しですよ。あの子が死んじゃったとき、もし階段を反対に下りてればって言い出したのは夜々さんなんですから」

「……。そんなことを言った憶えは無いよ」

「あ、ずるいですよ。そりゃ確かに言ってないといえば言ってないですけど」

大輝は口を尖らせる。

 その顔を横目で見てから、夜々はやれやれと首を振る。

「そこまで自由に権限を行使できるようになっていたとは驚いた。まさかとは思うが、度々実験していたわけではあるまいね」

「まさか。宮琵のときに使った以来です。だから……実を言うと、上手くできるか不安でした」

「不安だった、か」

夜々はまた横目で大輝を見る。

「まあ、上手くいってくれて良かったよ」

 大輝は気まずそうに目をそらした。

「いや、その……一応反省はしてるんですよ? 体質が変わったからって、因果の逆流――でしたっけ。それが失敗したら、どっちにしろ三次元が云々って話はこの間聞いたばっかりだったし……でも、あの」

「違うよ」夜々はわずかに笑う。「今はただ結果について言っているんだ。君が私のことをどんな人種だと思っているかは知らないが、私だって、子供が死ぬのを何とも思わないほど薄情ではない」

「え」

大輝はきょとんとした顔をする。

 二人の足下を野良猫が通りすぎた。

 それから――彼も、優しく笑った。

「あ……はは」

小さく頷いて。

「はい。知ってます」


 四


 家のドアを開けると、シロが嬉しそうな顔で居間から飛び出してきた。

「遅かったではないか大輝! しろはもう大輝の帰るのが待ち遠しくて」

「あたしだバカ」

「なんじゃ石楠花か」

シロは瞬時に真顔に戻る。

 石楠花は舌打ちしつつ靴を脱ぐ。

「ったく、あんたって本当に露骨な女だよね」

「その露骨な女の作ったぷりんが冷蔵庫の中で出来上がっておる」

「あ、食べる食べる」

「しかし石楠花も帰るのが遅かったの」

「うん」脱いだコートを玄関のハンガーに掛ける。「委員会があったから。色々面倒くさいんだ。あ――裏のおばあちゃん大丈夫だった?」

「大丈夫は大丈夫じゃが、なかなか良うならん。昼間の空いた時間がつまらぬわ」

シロは本当につまらなそうに言いながら引っ込んでゆく。

 いったん階段を上がって部屋に鞄とコートを置き、居間へ入ると、もうシロがプリンを用意していた。

 石楠花は早速テーブルについてスプーンを取る。

「いただきます」

「せいぜい肥えぬよう気をつけて食うがよい」

台所から余計なひと言が聞こえてくる。

 一体どうやって気をつけろというのか――しかしプリンはよく冷えていて美味しかった。

「ん。おいしいじゃんか」

「小梅から習った通りに作ったまでじゃ」

シロが濡れた手を拭きながら戻ってきた。

「あれは抜けた女なれど、今の世の食い物をよう知っておる」

向こうのソファに腰掛ける。

 石楠花は横目で壁の時計を見る。

「それにしても大輝はまだ帰ってないんだね」

「まさか夜々のやつめに誑かされておるのでは無かろうな」シロも細い目で時計を睨む。「ここのところ、あやつの態度は何やら妙じゃからな。どうにも油断ならん」

「夜々は前から変だよ。あんたよりちょっとマシな程度」

「そうではない。以前に比べて、あやつの大輝を見る目が、こう――何というべきか。鈍い小娘には分からんじゃろうが」

「誰のどこが鈍いって?」

「おぬしの頭じゃ」

「頭が鈍いのはあんたも同じだろバカ」

「同じじゃと? ふん。同じ馬鹿でもしろにはこれがある」

シロはソファーからふわりと浮き上がり、プリンを食べている石楠花の隣に飛んできた。

 停止した位置がやたらと近いが、石楠花は敢えてそちらを向かない。

「……」目を合わせぬまま。「何だよ」

「我ながら十五の小娘とは比べ物にならぬ体つきじゃ。ほれ、ほれ、よく見て己との差を思い知り、存分に羨むがよい」

「また巨乳自慢か。誰が羨ましがるもんか、そんな邪魔なもの」

「男にとっては邪魔ではないぞ」

「ちっ」

腹が立つので徹底的に無視を決め込もうとしたが、厚手のセーターに包まれてなお異常な存在感を放つ膨らみが、視界に無理矢理侵食してくる。

 しかも、シロは石楠花の舌打ちを聞いて調子に乗ったか、手まで使ってそれをアピールし始めた。

「どうじゃ。おぬしと違って大きいぞ、柔らかいぞ。少し触ってみるか? ほうれ、ほれ」

「寄せるな、揺らすな、持ち上げるな――ああもう、押し付けるなっ!」とうとうスプーンを置いて立ち上がる。「その無駄な巨乳をどけろよ、鬱陶しい!」

「ほっほ、まな板娘が怒りおった。腹を出っ張らせておる暇があれば、少しは出るべきところが出るよう精進すれば良いものを」

「うるさい! 何だい、こんなもん!」

「あ、きゃ、な――何をする! あわわ」

石楠花が正面から両の胸を鷲掴みにすると、シロは慌ててその手を払いのけた。

 それから牙をむき出しにして吠える。

「痛いではないか! 乳がもげたらどうするつもりじゃ!」

「もげたら右のオッパイは縁の下に、左のオッパイは屋根の上にでも放ってやるよ!」

「な、なんたることを」

「だいたいオッパイってのは赤ちゃんを育てるための物だろ? そうじゃない時にあっても無駄なんだよ、無駄! 捨てちまえっ!」

「出鱈目なことを! そんなに乳を無駄と思うておるなら、おぬしの貧相な乳はしろが取り払ってくれる!」

シロが猛然と襲い掛かってくる。

 石楠花は身構えたがもう遅く、瞬時に背後へ移動したシロの両手に、小ぶりな胸をがっしりと捕らえられていた。羽交い絞めに近い状態である。

「先祖返りか何か知らぬが、幾千年の時を生きた化生の速さを舐めるでない。それにしても……ほほ、どうしたことじゃこの乳は。こうして触ると、どれだけ小さいかがよく分かるわい」

「お前と比べるな! っていうか放せ、この馬鹿力!」

「憎まれ口を叩くと本当に引き剥がすぞ。こんな情けない乳でも少しは未練があるじゃろう」

「バカ、やめ、――あ?」細長い十本の指が悪戯に蠢く。「……あ、バカ、変な揉み方……ちょ、やだっ」

「お? 何じゃこの小娘、生意気に妙な声を」

「二人とも何やってるの?」

「へっ」

石楠花は赤くなった顔を上げ、そしてそのままの姿勢で固まる。

 開けっ放しだったドアのところにいつの間にか立っていたのは、無表情の大輝だった。

 シロも凍りついたように硬直していた。

「た、大輝」石楠花の両胸を後ろから掴んだまま。「帰ったか。お……遅かったな」

「もう少し遅かった方が良かったかもしれませんけど」

「待て。誤解じゃ大輝」

「いや俺は嬉しいですよ。二人が、その――意外と仲良くて。安心しました」

「待つのじゃ大輝、話を」

「大輝、これはシロが一方的に!」

「な……おぬしも喜んでおったではないか!」

「よけい誤解される言い方するな!」

石楠花が腕を振り払って掴みかかり、シロがその顔を平手で押し返す。

 大輝は既にいなかった。


 五


 相変わらず夜々と小梅は、夜になると殿山家に風呂を借りに来る。

 大抵は「邪魔になると悪いから」とすぐに帰ってしまうのだが、風呂上りにプリンが用意されていた今晩は、隣り合って居間のソファに落ち着き、それをチビチビとつついていた。

 食べながら、小梅は感心した様子で唸る。

「すごいなあシロさん。このプリン、私の作るのより上品で美味しいもん」

それから少し肩を落とす。

「……教えたの、私なんだけどなあ」

「私は母様の作るプリンの方が味わい深くて好きだよ」

「夜々ちゃん――」小梅の顔が歓喜に緩む。「嬉しい! かわいい!」

「抱きつくのは後にして、母様。こぼれてしまう」

「それにしても俺の誤解で良かったよ」

テーブルについて風呂の順番待ちをする大輝は、ゆらゆらと椅子を漕ぎながら、飲み終えたコーラの缶を玩んでいた。父の風呂は長いので、しばらくこの姿勢が続いている。

「帰った途端、あんな危ない光景見せられて……。これからどういう態度で二人に接したらいいのか、本気で悩んだよ、俺」

自分の態度がはっきりしなかったからそんな関係が生まれてしまったのか――とすら考えたのだが、それは敢えて口に出さない。

 向かいの石楠花は、単語帳から目を離さぬまま呟く。

「安心しな。あたしがもし本当にレズだったとしても、あんな奴とだけは絶対付き合わないから」

「聞こえておるぞ」

洗い物を終えたらしいシロが、エプロンで手を拭きながら居間へ戻ってきた。

「しろもおぬしのような娘は御免じゃ」

「ああそうですかい」

べえ、と石楠花は舌を出す。

 夜々が不意にスプーンを止めた。

「そういえば、石楠花」

「なーに?」

「君は学校の行き帰りに、歩道をはみ出したり、余所見をして歩いてはいないだろうね」

「……あのね。あたしそこまで子供じゃないんだけど」石楠花は単語帳を閉じて脚を組む。「大体、いきなり何でそんなこと訊くのさ」

「君は年齢より落ち着きが無さそうに見えるからだ」

「な――こいつ」

石楠花は単語帳を握りしめる。

 それが夜々めがけて飛ぶ前に、大輝は横から訂正した。

「今日、国道のところで子供が車に撥ねられたんだよ」

「へ? うそ、何、交通事故?」

「まあ何とか無傷で助けたんだけど」

「撥ねられたのに無傷で済んだんですか?」

小梅が不思議そうに首を傾げる。

 しまった――。大輝は焦る。まだ夜々以外の者には何も話していないのだった。

 いずれ自分の口から皆に話すべきなのだろうが、ここは取り合えず、無理矢理訂正しておく。

「いや、その、今のはただの言い間違い」

「大輝や」シロが背後から覆いかぶさってくる。「助けたと言うたが、何か身が危うくなるようなことをしたのでは無かろうな」

「し、シロさん」

「そのようなどうでもよい子を助けるために、大輝が怪我をするようなことをしてはならぬ。あまり心配させんでおくれ」

「いや、どうでもいいって……それはちょっと」

甘い香りと、背中に当たる胸の弾力が大輝をしどろもどろにする。これに慣れることは永遠に無さそうだ。

 石楠花が単語帳を投げる。

「バカ」

「あいた」シロの頭に命中した。「何じゃ小娘」

「そういうこと言わないの。そりゃ大輝が怪我したら、あたしだって嫌だけどさ」

「では何が言いたい」

「子供の命をどうでもいいなんて言うんじゃないよ。お義父さんにも言われたろ? 人を見殺しにするのは良くないって」

「しろはただ大輝の身を案じておるまでじゃ。言いつけはちゃんと覚えておるわ」

「言いつけは、ね……」

含みのある面持ちで腕組みをする。

 シロは大輝を後ろから抱きしめたまま、ぶうたれた声で突っかかる。

「なんじゃ、まだ何か文句があるか」

「あんたって前と比べると色々変わったような気がするけど、そういうところはあまり変わんないんだね」

「そればかりは変われというのが無理な話じゃな。人を食らって化けたしろにとっては、人の命など肉のついでとしか思えぬ」

言いながらシロは大輝の頭を撫でる。

「大事に思う者は別じゃが」

「そんなんじゃいつまでたっても人間社会に溶け込めないだろ。――ねえ、小梅さんも同じ妖怪の立場から何とか言ってやってよ」

「……んーと」

プリンを食べ終えてスプーンをくわえていた小梅は、困ったような顔で呟いた。

「昔のことがあるから、人命の話は私も耳が痛いんだけどなあ」

「何の話だい母様」

「あ、何でもない何でもない」

小梅はぎこちなく笑い、石楠花のほうを向いて座りなおす。

「えっとね、なんて言ったらいいのかなあ。そのギャップって、けっこう仕方ないことなんですよ。かなり根本的なとこで違ってるから、埋まらなくて当然っていうか」

「仕方ないって――まさか小梅さんも、知らない人の命ならどうでもいいと思ってるの?」石楠花は面食らった顔をする。「ちょっとショックだな」

「そんな、私は違いますよ。シロさんと私もまた全然別で」

「どういうこと?」

「ええとですね」小梅は石楠花のように腕を組む。「妖怪っていう括り方、けっこう大雑把なんですよね。ひと口に妖怪といっても、共通点らしい共通点といったら、妖力がある――とかその程度で、生き方や理念はそれぞれ全く違いますから。例えば私はただの蟲怪なんですけど」

「なんじゃ、おぬしは蟲の類であったか」

「ムシ? ムシってあのムシですか? ムカデとかそういう」

「例がひどいですよ大輝坊ちゃん! せめてチョウチョとかミツバチとか」

「蛾だけどね」

夜々がぽつりと訂正した。

 小梅は、ううう、と悲しそうに唸ってから続ける。

「と、とにかく……私は単純に妖怪として生まれて、しかも元々人間を食べないんですよ。そういう生き物なんです。でもシロさんは、さっきご自身も言っておられましたけど、ただの狐として生まれたのが、人を食べているうちに妖力が育まれて化生になったわけで――そのへんが全然違ってて」

「母様の話し方は器用さに欠けている」

夜々もプリンを食べ終えた。

「厳密に同じではないが分かりやすい例えがあるよ。ほら、サーカスの調教師は、肉食獣が人を襲わないように色々と工夫して調教するだろう? しかし調教される動物は、どうやら人間を食べてはいけないらしいと覚えることはできても、その理由まで理解するのは不可能だ。それは知能の程度とは関係なく、彼らが肉食動物としてこの世に存在しているから――いや、もっと言うならば違う種族だからだ」

空になったカップを置く。

「ましてや、そこの任氏は食人行為によって妖怪としての存在を成立させたのだから、人間という生物に対する考え方は更に極端だろう。人を食す行為を悪として理解するということは、この世における自らの立場を否定することと同義にあたる」穏やかに瞬く。「姿形が同じだから実感が湧かないかもしれないけれど、君たちは……本来相容れぬ肉食動物と同居しているのだよ」

夜々の口調は静かだった。

 見れば隣の小梅も困った顔で頷いており、それを受けた石楠花は、腕組みをしたまま黙ってしまう。

 何となく微妙な沈黙が訪れた。

 シロは皆の顔をきょろきょろと見比べ、どこか焦った声で大輝に助けを求める。

「た……大輝」二本の腕が大輝の体をきつく抱きしめる。「よう分からんが、この者たちは手前勝手な理屈でしろのことを語っておる。何やら悪しきもののように」

「別にそういうわけではないがね」

「しろはそのように感じたのじゃ」

いじけた声と共に、抱きしめる力が更に強くなった。

「さっきから聞いておれば、やれ相容れぬだの違うだのと――石楠花とて、夜々とて……この場にただの人間などおらんではないか。なぜにしろだけが妙な扱いを受けねばならぬ。しろは大輝の言いつけを守って人を食うのを我慢しておるし、誰も見殺しにせぬとも言うておる。その上いったい何の文句があるのじゃ」

「だからそういう話じゃなくてさ」

「しゃくネエ」

大輝は石楠花を視線で諌める。

 石楠花はそれでも何か言いかけたが、結局――小さく溜息をついた。

「ま……いっか。あたしが突っかかったのが悪かったよ。ごめん」

「おぬしらの話はわけが分からぬ」シロの腕がほどける。「もうよい。しろは大輝の部屋で書でも読んでおる」

顔を背けて歩き出しつつ、ぼそりと言う。

「……。ウォタオヤンニィメン。……ジィシーファンダァフイ」

「へ?」

大輝が聞き直そうとする前に、シロは居間を出て行ってしまった。

 小梅は首を傾げる。

「夜々ちゃん、シロさんなんて言ったの?」

「お前たちなんて嫌いだ、私は大輝くんだけを愛してる、とさ。完全に怒らせてしまったね」

「ええっ」小梅は青い顔をする。「そんなに怒らせるようなことだったかなあ」

「怒ったっていうより、たぶん淋しかったんですよ」

大輝はひしゃげたコーラの缶を置き、半開きのドアを見る。

「シロさん、あれでけっこう皆のこと好きですから。今まで親しい相手なんていなかったっていうし……自覚はないんでしょうけど、疎外感っていうんですか? そういうの、必要以上に敏感なんだと思います」

「石楠花が謝る必要は無かったな」夜々は煙草に火をつける。「私の言い方に思慮が足りなかった。どちらかといえば、今の状態でも上出来だと弁護したつもりだったのだが」

ふう――と煙を吐き、テーブルの上に置かれた、プリンのカップに目を落とす。

「伝わるわけもなかったか」

「あとで俺がフォローしときます」

「お願いします」小梅の顔はまだ青い。「あと、あの……プリンごちそうさまって、伝えてもらえると嬉しいかもです」

「あ、はい」

「ねえ。やっぱり――違うのかな。あたしたちとシロって」

石楠花は足を組みなおし、背もたれを軋ませる。目はガラス戸の外を見ていた。

「褒めてやりたかないけどさ……けっこう優しかったりするんだよ、あいつ。プリンの作り方だって、多分……あいつは絶対違うって言うだろうけど、あたしのために小梅さんから習ってくれたんだろうし」

「しゃくネエのために?」

「昔お母さんによく作ってもらったって、なんかの時にポロッと言ったことがあるんだ。多分それ覚えてたんだよ」

「ふん?」夜々は指先で濡れた前髪を分ける。「意外だね、それは」

「でも怖いくらい残酷なことも平気で言うんだよ。さっきもそうだし――この間とか、テレビで大家族の特集やっててさ。小さい子や赤ちゃんなんかも映ってたんだ。それ見ながらニコニコ笑ってるから、案外子供好きだったりするのかなって思ってたら、こやつらは味噌で煮込んだら美味そうじゃ――って」

溜息をつく。

「……。会った頃は違和感なかったんだ。化け物だから、悪い奴だから……残酷なのも当たり前だって、普通に思ってた。でも最近は、シロの良いところみたいなものが、ちょっとずつ分かってきて――だからあいつのそういう感覚が、だんだん納得できなくなってきちゃって」

「本能は良し悪しで語れるようなものでもないさ」

夜々は煙草を消し、さてと、とソファから腰を持ち上げる。

「――今日は色々と邪魔をしてしまったな。もう戻るとしよう」

「あ、私も」

小梅も立ち上がる。


 六


 シロは大輝のベッドの上へ寝転び、静かにふて腐れていた。

「……ふん」

ごろり、寝返りをうつ。

 誰も彼も文句ばかり垂れて――。

ただ思ったことを言ったまでではないか。それすらもならないのか。

こう思え、ああ思えと好き勝手に命じられて、一々その通りにするような、器用な真似を出来るわけがあるものか。

 静まり返った小さな部屋の中で、かっち、こっち、と時計の針が鳴っている。

 枕元には、さっき本棚の隅から抜いた文庫本が一冊。夏目漱石とかいう、人の世では名の通った男が書いた物語らしいが、今は読む気がしなかった。

 また寝返り――どうにも気が紛れない。

 他に何か、手っ取り早く楽しくなるような書物はないか。

 体を起こし、本棚に並ぶ背表紙を、つら、と視線で撫ぜる。

 大輝の本棚は漫画ばかりだ。漫画は簡単に楽しめるが読み終えてしまうのが早い。この部屋にあるものは、もうほとんど読破していた。

 さて、まだ読んだことのないものは、と視線を泳がせると、本棚の上に一冊、雑誌のようなものが乗っているのが目にとまった。

「む?」

何だあれは。

本棚に余裕がないわけでもないし、大輝の背では取りづらいようなところへ、わざわざ。

 シロはふわりと浮かんで本棚のところまで飛び、それを手に取ってみた。


 七


 風呂を出た大輝は、居間の石楠花に「空いたよ」と声を掛けてから、バスタオルで乱暴に髪を拭きつつ、ふらふらと階段を上る。

 少々湯船に長く浸かりすぎたせいか、気がぼんやりしている。一度台所へ寄って冷たい飲み物でも飲めばよかったかもしれない。

 などと考えている間に、もう二階の廊下にいた。

「……ん」咳払いしてから。「――シロさん、入りますよ」

部屋の前に立ってノックする。

 返事は無かった。

「? 寝てんのかな」

ドアを開けてみる。

 シロはこちらに背中を向けた状態で、部屋の真ん中に座り込んでいた。

 うつむいて黙ったままこちらを振り向きもしない。何となくドンヨリした空気が部屋にたち込めている。これは――大輝が思ったよりも深刻にへそを曲げているのだろうか。

 どうしたものだろう。

「シロさん」ともかく声をかけてみるしかあるまい。「さっき帰り際に、小梅さんがプリンごちそうさまって言ってましたよ。それに夜々さんも」

「――どこが良い」

「へ」

「このような女どものどこが良い」

「……はい?」

「何じゃ、この女の白々しい面持ちは。内心嫌々咥えておるのが見え透いておる。しろがこの口で大輝の世話をいたすときは、決してかような面にはならぬ」振り返らぬまま。「この女もそうじゃ。見るに耐えかねる派手な化粧をしおって……だいたい、このような誰が見るとも知れぬ書物に裸をさらすような、あばずれた真似を」

「ちょっと、あの、シロさん?」

大輝は血の気の引く感覚をおぼえながら、そろそろと歩み寄る。

「まさか――、うわ!」

瞬時に立ち上がり振り返ったシロの手が、大輝の両肩を掴んでいた。まさに電光石火の動きである。

 大輝が何を言うより先に、シロは泣くような声で吠え掛かってくる。

「おぬしという子は! 何ゆえこのような書物をこそこそと見ておった!」

その足下には、本棚の上へ隠しておいたはずの、本来ならば大輝の年では買えない類の雑誌が落ちていた。

 がくがくと肩を揺さぶられ、大輝は声を上げる。

「ご、ごめんなさい! ごめんなさいシロさん! 違うんです!」

「何が違うというのじゃ!」

「いや、あの、その本は――と、友達から無理矢理押し付けられて! 俺はいらないって言ったんですけど!」

「要らぬのならば捨ててしまえばよかろう!」

「……あ」目をそらす。「いや、だから……明日捨てるつもりで」

「まことか?」

シロの目がぎらりと光る。

 その目を、大輝は真っ直ぐに見られなかった。

「……」下を向く。「……。すみません」

「――くっ!」

シロの指先が肩に食い込む。

 大輝は跳ね上がった。

「あ! いや、でもですね! これは」

「しろが……しろが大輝のことだけを思って指を濡らしておる間、大輝は……石楠花や夜々相手ならばまだしも」シロは俯いてぶるぶると震えていた。「あのような、どこの馬の骨とも知れぬ女どもに浮気を……」

「う、浮気って――そんな」

大げさな。

 そう言い終える前に、シロの両手が大輝を突き飛ばした。

「そこへなおれ大輝!」

「わ、わわ、あ」

足がもつれ、背中からベッドに倒れる。

 慌てて体を起こそうとしたところで、顔に布のようなものを叩き付けられた。

「わぶっ?」

前が見えない。何だこのいい匂いは――ああ、そうか。これってシロさんの着てたシャツだな。って、まさか。

 身を起こしながらそれを払いのけ、眼前の光景を目にした大輝は仰け反った。

「うお――ちょ、ちょっと!」

「言え。大輝はどのような格好が好みなのじゃ」

シロは既に、胸を包んでいた下着すら放り投げ、厚手のスウェットパンツを膝まで下ろしているところだった。

「四つん這いでも逆立ちでも、この明かりの元で好きなだけ見せてやるわ」

「や、やめ……っていうか!」仰け反ったままシロの顔を指差す。「顔真っ赤じゃないですか! 変なことで無理しないでください!」

「無理も道理もありはせぬ!」

牙をむいてわめきながら、シロはとうとう最後の一枚に指をかけていた。

「写真の女どもには負けられぬのじゃ!」

ずるり。

止める間もなかった。

 大輝の視界の中心――銀色の茂みが蛍光灯の光をきらきらと反射し、

「……あ」

大輝の鼻から、熱いものが流れ出していた。


 八


 ――ちり紙はどこじゃ――。

 壁の向こうからシロの悲鳴が聞こえてくる。

「……。もう夜遅いのに元気だな」

礼司は感心しながら煙草の煙を吐き出す。

 それまでの騒ぎ声から察するに、また大輝が鼻血でも出したのだろう。この程度ならば近所迷惑にもならないだろうし、放っておくのが一番である。

 あくびをしながら脚を組み、肘掛け椅子に背をあずける。

 わずかに開けた窓から、ひっそりと夜の空気が忍び込んだ。

 それはひどく冷たい風だった。


 九


 あくる日の正午過ぎ、シロはいつものように、ハルの家の呼び鈴を押していた。

片手にはおじやの入ったタッパーと、その上に、プリンのカップが二つほど。

 空はよく晴れている。

 昨晩は冷え込んだものの、今日はむしろ、いつもより幾分か暖かい。これならばハルの食欲も少しは戻っているかもしれない。

 シロは淡くそんな期待を抱きつつ、右足の爪先で敷石を突付きながら、ハルが玄関の戸を開けるのを待っていた。

 しかし、今日はなかなか出てこない。

 シロは年経ているだけあって気の長いほうだが、あまりに出てくる気配が感じられないので、ためしに少し、耳を澄ましてみた。

 家の中から物音はしなかった。

「……ふむ」

寝ているのだろうか。

 食べ物を持参した身としては少々拍子抜けだ。

 まあ、落ち着いて眠っているのならばそれはそれで良いかとも思い、シロは大人しく玄関に背を向け、立ち去ろうとした。

 一歩、二歩、三歩。

 ――立ち止まって振り返る。

 何故だろうか。不意に胸がざわめいたのだ。

「……はる?」

 物言わぬ寂れた家。

 シロは少し考え、裏口から中を覗いてみることにした。


 十


 学校へ行く習慣ができてから、世に言う「休日」というものの有難みが、夜々にも段々と分かってきた。

幼き学友たちに会えぬのは少々寂しくもあるが、こうして昼間から小梅と買い物をできるのは素直に嬉しい。そんなことを思う瞬間、夜々は自分がまだ母親っ子だということを自覚して、ちょっと恥ずかしいような気になる。

 買い物といっても、揃って物欲の無い母子がまわる店などたかが知れており、今日も大通りの書店と日用品店を軽くのぞいてから、商店街に立ち寄って今晩の食材を集めた程度であった。

 帰り道、小梅はいつも通りよく喋った。

「だからね、今度は私たちの部屋にみんなを呼んだらいいと思うの。いつも呼ばれてばっかりじゃ悪いでしょ? お風呂を借りてる分の光熱費だって受け取ってもらえないし、せめて、パーッとしたお食事でもね」

「あんな狭い部屋に六人も入ったらパンクしてしまうよ」

「あー……そっかあ」

「おや」

夜々は前方に見慣れた人影を見つけた。

 やたらと高い背に長い脚、白銀色の巨大なポニーテール。電柱に寄りかかっているあの姿は人違いでもあるまい。

「任氏だ」

「あ、ほんとだ」

「あんなところで何をしているんだろうね」

「シロさあん」

小梅が声をかける。

 シロは電柱に背をもたれて下を向いたまま、反応しなかった。

 夜々は首を傾げる。

「聞こえていないのか?」

買い物袋を揺らしながら歩み寄る。

 二人が目の前まで近寄っても、まだシロは顔を上げない。

 夜々は片手を腰にあてる。

「おい、何をぼんやりしているかは知らないが、母様がああして声をかけているのだから、返事くらいしてあげてほしいものだ。もしや昨晩のことをまだ怒っているのかね」

「――、」

「? お、おい」

無言で正面から抱きすくめられ、夜々は動揺した。

「ちょっと待て、私は大輝くんではないぞ」

胸の谷間に顔が埋まって息苦しいが、押しのけようにも、片手では上手いようにいかない。

「こら、悪い冗談はよしたまえ。まさか本当に妙な趣味に目覚めたのではあるまいね」

「し、シロさん? 夜々ちゃんの体には男の子な部分もあるんですよ?」

小梅は小梅で何かがずれている。

 ぼそりと、シロが何かを呟いた。

「――が、――」

「ん?」夜々は任氏の腕の中で聞き返す。「何だって?」

「はるが――動かぬ」

「……え?」

「はるが死んだ」

シロは夜々をきつく抱きしめ、静かに声を震わせた。

「はるが……はるが、死んでしもうた」

 青空に鳥が鳴いていた。



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