第二部エピローグ【涼風 ―すずやかなかぜ―】
一
ゆっくりと何日もかけて迷った末、大輝は、取り合えず夜々にだけ真実を語ることに決めた。もっとも、悪夢のような運命が消滅した以上、あれを真実と呼んで良いのかは分からないが、少なくとも大輝の記憶には残っているあの出来事を、大輝は夜々にだけ、ひっそりと語ったのである。
それは勿体無いほど清々しく晴れた昼休み、校舎の屋上だった。ちょうど、宮琵と殺し合った場所と同じような、景色のよい屋上だ。
ただしここは本来ならば出入り禁止で、ベンチも無い。
二人は鍵の壊れた扉の前にある、薄っぺらな段差に並んで腰掛け、つまらぬ雲たちに視線をあずけていた。
澄んだ空気に、夜々の唇から吐き出された紫煙が溶ける。
「……なるほど」
つまんだハイライトの先から、長い灰がぽろりと落ちた。
「この三次元は、君を残して全て瓦解、消滅した」
「はい」
大輝は飲み終えたコーヒー牛乳のパックを弄ぶ。
夜々はまた煙を味わい、やれやれと首を振った。
「現世で君の力を暴走させ、この世を消滅させる……。それが宮琵の目的だったとはね。しかもそれは一度成功した……私たち全員の死をもって」
「そうです」
「そう、か……」表情無く雲を見つめる。「そういうことだったのか」
「そういうことって?」
「いや、私は本来なら死ぬ予定だったんだ。入神家の長は遠見様という方なんだが、その方が予知能力者でね。――私は、死ぬと予言されていた。その死が、それか」
「そうだと思います」
「君は何故早く言ってくれなかったのかな」
「え」
横を向くと、夜々が恨めしそうに見ていた。
「私はこの数日間、不安で眠れなかったんだぞ。宮琵という敵は消えたはずなのに、なぜか私は生きている。いずれ何か、別の理由で死んでしまうのではないかと、ずっと怯えていた」
「……」う。「すみません」
「少しの間、あちらを向いていてくれるかい」
「え?」
「早く」
「は、はい」
大輝は言われたとおり、視線を遠くの空に戻した。
夜々は何も言わなかった。
怒っているのだろうか。
不可思議な沈黙の中、か細く引きつった呼吸と鼻をすする音が、少しずつ聞こえ始めた。
大輝は――夜々を見た。
「……泣いてるんですか」
「……。うん」
夜々は膝の間に顔を埋め、頷くように体を揺すった。
「もう、死んでしまうと思っていたから。助けてくれてありがとう」
「いえ……」
「悪いけれど、もうしばらく泣いていてもいいかな」
「……はい」
「すまない、ね」
夜々はそのまま、再び黙った。
煙草が全て燃え尽きるまでの間、夜々は顔を上げず、無言ですすり泣いていた。
大輝はその間、思考の処遇に困って、夜々と空とを見比べてみたり、無意味に靴紐をいじったりしていたが、やがて泣き終えて顔を上げた夜々は、実にさっぱりとしたものだった。
「よし」
「よしって――」呆れる。「もう平気なんですか?」
「まあね。君は最後まで肩を抱いてくれなかったけれど」
「……抱いた方がよかったですか」
「さあ?」
夜々は指先で目尻の涙を拭き、くすりと笑った。
「次の機会にでもお願いするよ」
「はあ……」
「ところで」夜々は大輝の顔を覗き込む。「君は突然強くなったな。どうやら常世で何かを食したようだが」
「あ――それ、宮琵にも訊かれましたよね。……宮琵は、ヨモツヘグイとか何とか言って、納得してたみたいですけど」
「ふむ」
夜々は二本目の煙草に火をつける。
「では君は、もうハーフの立場ではないわけか」
「はい?」
首を傾げる大輝に、煙を吐き出した夜々は語る。
「黄泉戸喫というのはね、黄泉の国の物を食することさ」
「黄泉の国って常世のことですか?」
「そうだ。極楽、地獄、あの世、魔界、天界、冥界……どれも皆、常世を別の視点から認識し、付けられた名称に過ぎない。黄泉もまた然り――君はイザナミを知っているかい」
「いえ」
「イザナギの妹にして妻、神世七代の最後の神……まあ簡単に言えば、女神様だ。イザナミは黄泉の国で煮炊きされた物を食べ――すなわち黄泉戸喫を行ったため、現世へと帰ることが出来なくなったという。まあ恐らく、黄泉戸喫という儀式は、常世から遣わされた霊性が、役目を終えて帰還する際、再び自らを完全な常世の住人に戻すために必要な、通過儀式なんだろう。常世の力によって現世から引き戻されても、中途半端な肉体のままでは上位世界の法則に適合しきれないからね」
「はあ」
「君は元々麒麟のハーフだ。常世がその存在を、帰還した神獣と誤認してもおかしくない。……まさに盲点をついた手段だな。淋さんには感心するよ」
「すみません、サッパリ分かりませんが」
「君は黄泉戸喫を行い、完全な神獣として常世に補完された。本来なら、そんなことをすれば、淋さんと同じように常世から戻れなくなるはずなんだが、君の話を聞く限り、現世が再製される際には、その最後の一かけらを、新たな世界の起源点にする必要がある。常世にとっては、あくまで現世の存在である君が必要不可欠だった。――結果として君は、完全な神獣の力を手に入れた上で、現世の一部となれたわけだ」
「なるほど。分かりません」
「……まあいいか」
夜々は煙を吐く。
「どうやら君は変わっていないようだ。そこに安心するよ、私としては」
雲が流れる。
「……。これから授業参観だね」
「そうですね」
「母様は、石之助くんと一緒に来ると言っていた。君のところの――年寄り狐は?」
「ああ、シロさんは……」
二
ガラス戸から差し込む日差しで、明かりの要らぬ広い居間。
テレビをつけることもなく、ただソファに腰を掛けて料理の本をめくりながら、シロはそこで、穏やかな昼間の時間を過ごしていた。
石楠花は半ばまで開けたドアのノブを握ったまま、無言で立ちすくむほかに何をすることも出来なかった。
こつり、こつりと時計が鳴っていた。
いつものように、ジーンズのパンツに白いトレーナーを身に付け、化粧のひとつもしていないシロは、石楠花のほうには顔を向けず、ただ本の文字を細い目でなぞりながら、静かな声で沈黙を溶かした。
「……風呂に入れ。若い娘のさせる匂いにしては、少しばかりきつすぎる」
「あ――」
石楠花はぱくぱくと唇を動かす。
上手く喋れない。声を出すのも久しぶりだった。
「あの、あたし……」
「幾日も閉じこもったまま、飯もろくに食わぬ。便所へ出ても顔を合わさぬ。声を掛けども応じることをせぬ。大輝が怪我をして帰った日も、夜な夜なこっそり現れて、あの子の寝顔だけを長いこと眺め、また部屋の中へと引っ込んでいく――」ページをめくる。「今日はよう下りてきたな」
「あ……」
石楠花は出ぬ声を絞り出す。
「あの……今日は誰も……いない、と、思ったから……髪くらい、洗おうかと……思って」
「ほう、暦くらいは見ておったか」
シロは感心したように笑う。
ガラス戸の外、庭の草が風になびき、鳥が鳴く。
石楠花はうつむいて、指先でパジャマの裾をいじった。
「なんで……行かなかったの」
「授業参観か? 義父上は仕事じゃが、石之助や小梅が行っておるからな。しろはまた今度で良い」
きしり、とソファに背を埋め、ようやく石楠花を見る。
「ひどい面じゃな」
「……うん」
「何ゆえ閉じこもっておった」
「え……」顔を上げる。「聞いてないの?」
「知らぬ」
「そっか……」
また下を向く。
シロも――再び本に目を落とす。
「石楠花の授業参観は、此度で終いであったそうじゃな」
「……うん」
「全く」溜息。「それではもう、おぬしのくらすを見る機会は無いではないか」
「……あんた……あたしのクラスも見に来てくれるつもりだったの?」
「当たり前じゃろうが」
シロは本を置いて立ち上がり、台所へと入ってゆく。
「まあ良い。寝汗臭くてかなわんから、さっさと風呂に入って来い。その間に雑炊でもこしらえてやる」
「あ――」
石楠花は焦って口を開いた。
「あの、さ」
「何じゃ」
キッチンの中から声が返ってくる。
石楠花はパジャマの裾を握り締め、隔てた壁を相手に、たどたどしく言葉を続けた。
「あの……でも、高校入ったら、多分、またあるんだ……授業参観」
返事は無い。
「それに……これから、卒業式とか……色々あって」
返事は無い。
「だから……」
「分かった、分かった」
シロが万能ネギの束を片手に、キッチンから顔を出した。
「よう分からんが、何でも行ってやるから、兎に角体を流せ。大輝や義父上が帰って来たときに、そのような脂ぎった髪では満足に頭も下げられまい」
「……、うん」
石楠花が頷くと、シロの顔はまた引っ込んだ。
立ち尽くす石楠花。
やがて聞こえる、ネギを切る音。
わずかに開いたガラス戸の隙間から、涼しい風が吹き込んだ。