第十章二幕【宮琵 ―みやび―】
一
繰り出された大輝の拳を宮琵が受け止めると、砂袋を叩きつけたような音が空気を揺るがした。
「……お前、何をした?」
その手がめりめりと黒腕のものへと変じてゆく。
「雷よりも速く動いたのか? そんなわけが……」
「知るかよッ!」
大輝の左目が光り、力任せの前蹴りが宮琵を打ち飛ばす。
踏みとどまる宮琵の靴底がざりりと鳴った。
「貴――様あっ!」
食らいざまに腕を振るい、生じさせた青い風。
それは鎌鼬だった。
風は足下を、そしてフェンスを切り裂いたが、
「消えた?」
大輝の姿を見失い、宮琵は身構える。
その真上から大輝が舞い降りる。
「おォっ!」
叫びと共に後頭部へと打ち込まれる肘の一撃。
宮琵は膝をつく。
「な……に?」
意識が揺らぐ。
その隙を大輝は逃さなかった。
正面から頭を抱え込まれ、容赦無く続けざまに叩き込まれる膝、膝、膝。宮琵の鼻が砕かれ、鎖骨が、頬骨が、歯が折れてゆく。
そして、振り回すように投げ放たれ――真っ直ぐな蹴りの追撃。腹部に直撃した。
致命的だった。
何かが破れる感覚と、あまりにも鈍すぎる激痛。
「し……まっ、た……ッ!」
宮琵の口から赤い霧が吐き出される。
――どういうことだ。
脳髄に肉体の危機を知らせる苦痛の中で、宮琵は冷静に混乱していた。
大輝のいる座標が、瞬時に変更されている。
座標転移? しかもこの殺傷力は……たった数動作で宮琵の肉体を内部まで破壊した。馬鹿な。それでは、まるで。
「……お前は――、くっ!」
無理矢理立ち返らせた意識を集中し、何とか拳を受け止める。手首の骨が恐ろしげな音を立てる。
折れた前歯を吐き捨てて問う。
「お前は……この現世で、麒麟の力を完全に制御しているのか……?」
そんなことは有り得ない。殿山大輝は完全な麒麟ではない。麟と人との間に生まれた不安定なハーフだ。――いや、まさか。
「まさか……」目を見開く。「常世で何かを食らったのか!」
「離せこの野郎!」
大輝は宮琵の手を振り払い、距離をとる。
「ああ、母さんの作ったメシを食ったよ! それがどうした!」
「黄泉戸喫か……ッ」
宮琵は瞬時に全ての妖力を、神気を解放させた。
足場がひび割れ、コンクリートの破片が舞い上がる。
「麟め――まさかその手があったとはな!」
肩が盛り上がり、服を内側から引き裂いてゆく。
あらわれた肌は黒い毛皮に覆われている。
目が血走り、口が裂けてゆく。
「だがいずれ制御しきれまい!」
異形と化した宮琵は両腕を振り上げる。
「限定的に解除させた力で、俺の全力を防ぐことはかなわないはずだ!」
そして、その両腕を振り下ろし、胸の前で交差させる。
黒炎の激流が生まれた。
おびただしい炎は大輝ではなく、夜々を襲った。
夜々は片腕を変じさせ――間に合わない。
いや、
「させるかよ!」
大輝が立ちふさがっていた。
突き出された両掌が障壁を生み、黒炎と衝撃を正面から受け止める。屋上が音を立ててひずんだ。
めきめきと額に角を現させ、大輝が叫ぶ。
「もう誰も殺させるか!」
左目に続き――右目が金色の光を帯びる。
「俺はもう、完全に死ぬ覚悟でやってんだよ!」
「ならばこれはどうだ!」
ぱりり、と青白い火花が散る。
二
夜々は大輝の背に隠されたまま、ただ状況に目を白黒とさせていた。
「大輝……くん?」
「来る!」
大輝が振り返り、かばうように夜々の体を抱き寄せる。
次の瞬間、周囲が再び白く染まった。眩しさに目が痛む。
轟音が屋上を支配し、凄まじい衝撃が夜々の体を揺さぶった。
「あ――ああっ!」
大輝の叫び。
容赦なく連続する閃光と衝撃。立て続けの落雷。
その度に強く抱きしめられてゆく体。
伝わる痛み。
永遠のような長い時間。
――落雷が止み、暫し時が止まる。
「大輝くん……」
正面から抱きすくめられ、夜々の体は動かない。
ぜえぜえと耳元で大輝の息の音がする。
大輝の肩越しに宮琵が見える。
宮琵は人間の姿に戻っていた。
「ふ……」
額に汗を滲ませ、宮琵は血にまみれた口で笑う。
「どうした……座標転移はもう品切れか?」
足下にコートを捨てる。
「この雷は常世からのエネルギーで生まれている。妖怪からコピーした力とは違い、お前の肉体にも干渉が可能だ。まあ……さすが上位神獣というべきか、よく入神の娘までダメージを通さなかったものだが……もう動けまい」
「……く、そ」
大輝の体が、ゆっくりと夜々から離れる。
額の角はそのままだが、両眼の輝きは消え失せていた。
そして大輝は、宮琵のほうへ向き直った。
「やってくれるじゃないかよ……」
「――、!」
夜々はその背中を見て息を呑んだ。
あまりにも残酷な傷跡が、そこに出来上がっていた。焼けた皮膚と肉がぶすぶすと燻ぶり、煙が夜々の鼻を刺す。
「大輝くん、背中が――」
「心配……要らないです」
振り向かずに言う。
「俺から離れないで下さい」
「強がるな。これで確信が持てた」宮琵は荒い息で笑う。「死ぬ覚悟とはよく言ったものだ。実際、お前の神気は殆ど残っていない。そもそも、ここに立っているのがやっとだったはずだ。この三次元全てを逆流させたのだから無理も無いが……先の連続した無時間座標転移で、とうとう最後の力も使い果たしたというところだろう」
「そりゃお前も同じだろ……内臓破けてるくせに虚勢張りやがって。さっきメチャクチャ手応えあったぞ」
がくがくと大輝の膝が震える。
「って言うか……こっちが弱ってるのが分かってるなら、なんで雷落とすの止めたんだよ……? しかも元の姿に戻ってるじゃないか」引きつる顔でわずかに笑う。「さっきの雷、イチかバチかで限界まで連発したろ?」
「どうかな。お前が死んでしまっては俺の目的が果たせないからな」
「それもハッタリだよな。もうお前の目的なんて無くなってるよ。俺がもうあんなことしないって事くらい――実は分かってるだろ、お前」
「ふん……?」
「お前はヤケになってるだけだ。今ここで俺と夜々さんのこと殺して、それからシロさんや親父を殺す。みんな殺す。それだけだ。後のことなんか考えてない」
「見透かされたものだな」
「感じるんだ」
よろけながらも、大輝の声は静かだった。
「何の意味も無い。だけど、もう……止まれないんだな」
「――」
宮琵は答えない。
大輝は、ずるりと足を引きずり、一歩、前に出る。
「もうすぐ、多分……あと何秒かで、シロさんが来る。お前の気配に気付かないはず無いし」
「ああ」横目で遠くの空を見る。「あの女の妖気が近づいている。ここを探しているらしい。――馬鹿な女だ。勝ち目などないというのに、お前が心配でたまらないんだろう」
「じゃあ、着く前に片を付けないと。お前、弱ってるけど……シロさんのことなら簡単に殺せるんだろ」
「……。ああ、石落の仕掛けた術を発動させるだけで、あの女は死ぬ」
「一応訊くけどさ、やっぱり、来たらシロさんを殺すか?」
「殺すだろうな」
「どうしてこんな事になったと思う?」
「さて……」宮琵は首を振る。「それが分かれば、今頃は――どこかで大人しく寿司でも食っていたさ」
「寿司?」
「好きなんだよ」
口元からどくどくと血が滴る。内臓に大きな損傷を受けた状態で、回復に使うべき神気まで発散し尽くしたのだ。そして宮琵は賭けに負けた。もう、どちらにせよ時間は残されていない。
「特にシメ鯖がな。酒によく合うんだ」
「……。バカ野郎」
呟きと共に大輝が立ち止まる。
もう、互いの手が届いてしまう距離にいた。
見つめる夜々は動けなかった。
溜息が交差し、
大輝が、宮琵が、同時に踏み込む。
そして二人の体が消え――
肉を叩く音と鮮血とコンクリートの破片が飛び散り――
男たちが再び現れたとき――
殺し合いは、呆気なく終わっていた。
三
風がこうこうと鳴いていた。
シロが到着した時、もう、駅ビルの屋上には誰もいなかった。
コンクリートの所々にある焦げ後、放射線状のヒビ、切り裂かれたフェンス、砕け散ったベンチ、妖気の残り香。
それから――おびただしい血痕。戦いの残骸だ。
シロは、くん、と鼻をひくつかせる。
この血は大輝の匂いだ。
しかし、宮琵の血も混じっている。
「どちらが……」
死んだのだ?
「――。大輝――」
駄目だ。
恐ろしすぎて何も考えることが出来ない。大輝はどこだ。
「どこに……」
シロは目を閉じて爪先で地を蹴り、ふわりと空に舞った。
四
どさり、と夜々は二つの体を足下に落とした。
そのまま自分も両膝をつく。
「――っ、はあ……――はあッ」
胸を押さえ、呼吸を落ち着ける。
建物から建物への連続した跳躍で、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
ここがどのマンションの屋上かは分からない。
ただ、あの場所から出来るだけ遠く離れなくてはならなかった。大輝も夜々も、あのような状況で人に顔を見られるわけにはいかない。
段々と落ち着いてきた呼吸に合わせ、意識もまた、落ち着いてくる。
そう――大輝の手当てをしなければ。
「大輝くん」
大輝の頬を軽く叩く。
ゆっくりとまぶたが開く。
「……あ」
「気が付いたかい」
「宮琵は」
「そこに――」
大輝の傍らに倒れた宮琵を、静かに視線で指す。
大輝も、眼だけを動かした。そして瞬いて問う。
「……死んでるんですか」
「ああ、死んでいる。残しておくわけにもいかないので運んだんだ。後で処理をしなければならない。――それより君は」
「よ……い、しょ」
大輝はむっくりと体を起こした。
夜々は焦って肩を抱く。
「大輝くん、動いては……、?」背中からの出血が止まっている。「回復が始まっている……のか」
神気が使い果たされていたはずなのに。
大輝は首を振る。
「いや、中身はまだボロボロって感じですかね。立つのは辛いです」
「凄い……」
「すごくないですよ。立派に死にかけましたから」
大輝は溜息をつく。それから、またうつ伏せの宮琵を見た。
「もう、こいつは動かないんですね。喋らないし、考えない。でも、さっきまで俺と戦ってた。こいつなりに何かを思いながら」
「ああ――」
「だけど俺が殴り殺したんだ」ぽつりと言う。「最後まで、……ことは出来なかったのに」
「何だって?」
「そうだ、夜々さん」
「え……」
夜々は不意をつかれて惑う。
すぐ間近、自分に寄りかかったまま顔を上げた大輝の瞳が、夜々の目を真っ直ぐに見ていた。
「俺、迷惑じゃなかったですよ」
「ちょっと待――何が」戸惑う。「いったい何の話だい」
「今日、夜々さんとデートしたの、迷惑なんかじゃなかったです」
「へ……?」
思わず半笑いで首を傾げる。
大輝は月の浮かんだ薄暗い空を見上げ、遠くの何かに気付いて、わずかに目を細めた。
「……あ、シロさんだ」
「任氏?」
夜々は視線の先を見る。
白い影が一直線に飛んでくるところだった。
「大輝! 大輝か!」
泣きそうな声と共に急接近し、大輝の正面に膝を揃えて着地する。
「ようやく見つけた! 何じゃ、今まで何をして――何があって――この怪我は? 顔が血だらけじゃ。宮琵めにやられ……そこに伏しておるのが宮琵か? 死んでおるのか? 何じゃこれは、一体どうして」
「シロさん」
「ど――どうした大輝、痛むのか?」
「はは……返事してくれた」動転しきったシロの頬を、柔らかく撫ぜる。「生きてるんだ……夜々さんも、シロさんも」
大輝の目から、ぽろりと雫が落ちた。
「また、話ができる」
夜々に肩を抱かれ、シロの頬に触れながら、大輝はうつむいて声を潤ませた。
「体……二人とも、あったかいですね」
五
どこだ――ここは。
何も見えず、何も聞こえない。
体が無い? いや、全てに溶けている。
どろどと心地の良い流れの中、宮琵は既に存在しない目を閉じる。
ここは盤古の亡骸の中か。
俺は終わってしまったのか。
――そうよ。
誰だ。お前が麟か? 余計な小細工をしやがって。
――ねえ、あなたが望んでいたものは何?
何だと?
――あなたは何を手に入れたかったの?
分からない。そんなことは分からない。それが分からなくて、俺は。
――あなたは何が憎かったの?
俺の欲しいものを……ずっと欲しかったものを……当たり前のように持っている奴が。
――それが欲しかった?
ああ。それが欲しかった。でも遠かったんだ。どうやって手を伸ばせばいいのか分からなかった。眩しすぎて真っ直ぐに見ることも出来なかった。俺には似合わないと思った。
――悲しいわ。
分からない。
――後悔している?
何のことだ。
――お父さんを食べてしまったこと。
……。
――お父さんの記憶を取り込んで、自分への思いを知ってしまったこと。
あいつは……俺のことを、少しも好きじゃなかった。
――心のどこかでは、好かれていると思っていた?
そう思っていなかったから、俺は躊躇いなく奴を殺して食った。そうすれば自由になれると思った。奴の手足として奴隷のように使われ続けるのは……もう、耐えられなかった。全て奴のせいだと思った。だけど。
――だけど?
だけど……奴を食って記憶を取り込み、俺がただの食い物に過ぎないと……奴がいずれ俺を糧にするつもりだったと分かったときは……とても。
――淋しかったのね。
ああ。勝手な話だと思うか?
――誰も皆、そんなものよ。矛盾の無い、美しい心なんて存在しないから。
殿山大輝は俺を恨んでいるかな。
――恨んでほしかった?
そうすれば、少なくとも覚えていてもらえるからな。
――シロさんのことが好きだった?
分からない。ただ、俺に似ていると思った。
――あの人と友達になりたかったの?
向こうはそうじゃなかっただろう。仕方ないさ。
――……。あなたは、これで良かったと思う?
どうだろうな。悪い奴がいなくなって、あいつらは助かったし……良いんじゃないか、これで。映画でも何でも、幸せに終わるのが一番だからな。
――それがあなたのいない世界でも?
俺はただの邪魔者だった。生まれてきたのが間違いだったんだろうな……おい、このまま俺は消えるのか?
――魂に刻まれた心の記憶だけをそのままにして、全てを忘れるの。あなたたちの感覚では、消えることと変わらないかもしれないわね。
最後に少しだけ時間をくれないか。
――何をするの?
ほんの何秒かでいいんだ。
それで終わるさ。
このままじゃ、やっぱり少し気持ちが悪くてな。
六
不意に傍らで音がした。
大輝は、シロは、夜々は――同時にその光景を見た。
やわらかな月明かりの下、うつ伏せに倒れていた宮琵が、冷えたコンクリートに片手をついて、ゆっくりと顔を上げていた。
大輝は息を呑んだ。
「……宮琵」
「馬鹿な、蘇生しただと?」
「こやつ!」
夜々とシロが立ち上がる。
凍る空気の中で宮琵は笑っていた。
血にまみれた顔を大輝に向け、嘲るように笑っていた。
「覚悟しておけ……殿山大輝」
荒く静かな声。
「俺は何度でも繰り返す……。これから、そこの入神夜々を消し飛ばし……お前の父親と義姉を殺し……山ノ蛾の娘を爺の目の前で犯し、殺し、爺の首も切り落とし……それから……」
シロを見る。
「任氏、お前を殺してやる。たっぷりとその綺麗な顔をぶん殴ってからな……」
地に這いつくばったまま、ぎろりと目を見開く。
「お前……よく恥ずかしげもなく生きているじゃないか……? 大した神経だぜ。人間を何千とブッ殺しては食らった、その臓物臭い口で……何も知らないガキに、キスをねだってみせる……。で、この次はどうする。石落にさんざん使ってもらった体で、筆下ろしでもしてやるのか。……その時はまず、どの穴でさせてやるんだ?」
赤い唾を吐き、げらげらと笑う。
「経験豊富でよかったな? もう、突っ込まれ慣れてないところは無いだろうが? ああ?」
「貴――様ァッ!」
シロが悲鳴のように吼える。
握り締められた両手に灼熱が集まってゆく。
大輝は言葉を失っていた。
夜々も何も言わなかった。
シロの業火が、宮琵の肉体を一瞬にして焼き尽くす、その光景を――
二人は、無言で見つめることしか出来なかった。