第十一章【無題 ―Subject Unknown―】last Scene
懐かしい匂いに目を覚ました。
テーブルの上には、鰤の照り焼きと、味噌汁が並んでいた。
いつもの居間。
大輝はいつもの椅子に腰掛けている。
「何だ……?」
キッチンの方から声がする。
「起きた? ちょっと待っていて、今ごはんを持って行くわ」
「え……、ああ」
母の声?
大輝は壁の時計を見る。針は動いていない。
ここはどこだ。
この居間は――もう、無いはずだ。
だって……全て、大輝が壊してしまったのだから。
町も、島も、星も、空も。大輝が自らの手で壊してしまったのだから。
盤古の亡骸で作られた、あの世界全て……盤古?
盤古って何だ?
ガラス戸の外は暗い。
べっとりと暗く、何も見えない。
母がトレイを手に戻ってきた。
「久しぶりだから、電子ジャーの使い方を忘れていたわ。ちょっと手間取っちゃった」
言いながら食卓に白米を加える。
湯気がほかほかと上って消える。
母は大輝の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、食べましょうか」
「……うん」
いただきます。
箸を取り、呟くように大輝は言った。
鰤をつまみ、口に運ぶ。
いつか――いつも食べていた味だった。
「……おいしい」
「ありがとう」
母は微笑む。
大輝は顔を上げ、あらためて母を見る。
そして小さく苦笑う。
「この間も会ったけど……やっぱり若いんだね、母さんは」
「そうね。このイメージしか存在しないのよ。ずっとこのままだったし、これより老いる可能性も存在しなかったから」
母も微笑みながら箸を動かしている。
「今はあなたの構築したイメージを拠り代にしているの」
大輝は一度唇を噛み、それから切り出した。
「……あの」
「何?」
「母さんは、……その……怒ってないの……?」
「怒るって、何を?」
母は首を傾げる。
大輝は箸を止めたまま、悪戯を告白する子供のように言った。
「俺……壊しちゃったから」
「現世のこと?」
「……うん」
大輝はうなずき、そして続ける。
「宇宙とかは……分からないんだ。大きすぎて、よく分からない。だから、自分がどれくらいのことをしたのかも、本当はよく分かってない。でも……少なくとも、人がみんな死んだ。俺――俺が、殺しちゃったんだ。学校の皆も、小学校のときの先生も、テレビに出てる人も、会ったことない外国の人も、みんな、俺が壊しちゃったんだ」
「あの宮琵という人に、大事な人たちを殺されたから?」
「……。もう、どうでもよくなったんだ。自分があの世界で暴れたら、どうなるかってことくらい、俺はどこかで分かってたのに。でも、だからって」
「ねえ大輝、人の死は終わりではないわ」
「え――」
大輝は再び顔を上げる。
母は静かに笑っていた。
「忘れても、変わっても、生命は終わらないのよ。意思は肉体の終わりと共に、盤古の亡骸を通りぬけて常世へと還元され、そして新たな生命となるの」
「……どういうこと?」
「皆、ここにいるということよ」
母はリモコンを取って、テレビの電源を入れた。
画面が光を帯び、黒い背景の前に、青白い靄のようなものが映し出された。
靄はゆらゆらと蠢いている。
大輝は茶碗を持ったまま、その美しい揺らめきに目を奪われた。
「……これは?」
「還元された魂たち――これから始まる可能性の塊……かしら。肉体を失った、あらゆる魂がここにあるわ。最後に宿った肉体の記憶と共にね」
「みんなが……ここに?」
「ええ」
母は頷く。
「誰もがこの中に還元されている」そっと目を細める。「礼司くんもね」
「親父……も」
「新しい世界が始まったら――私は麒麟の力を捨ててでも、彼の隣に寄り添うつもりよ」
「……?」
「これから常世は、また新たな現世を作り上げる。終わりを生み、最後のひとかけらとなった大輝を起源点にして、再び無限の三次元を構築するの」
「俺のいるところから、また別の世界が始まるって事……?」
「ええ。全く別の、ただ魂を同じくした世界が生まれるわ」
時折強くなるテレビ画面の光が、母の頬を青く照らす。
「そこには、あらゆる可能性がある。前の世界では入り込む余地の無かった可能性も、そこには存在し得るのよ。私は、今度はその世界の一部となり、あなたや礼司君の魂に寄り添って生きて行きたい。力も役目も、永遠も捨てて……今度は繰り返しの死を受け入れる、ただの生命として」
母は静かに目を伏せる。
「永遠なんて、もう要らない。生まれ変わったあなたや礼司くんが全く違う姿になり、前世の記憶を忘れていても……例え何もかもが私の自己満足に過ぎなくても――ほんのひと時でも、もう一度愛する人の魂に寄り添えれば、私は、それだけで……」
「母さん――?」
「ごめんなさい」
箸を握りしめ、母は涙を拭いた。
「私、自分のことばかり……」
「……母さん」
「大丈夫よ、あなたの望むものも手に入るわ」母はこすったばかりの目で微笑む。「――今まであなたの生きた世界は、均整の取れた破壊と増殖のみを真理に形作られていたけれど、今度はあなたが決める番だから。望むならば……もう悲しいことも起こらない、争いも憎しみも無い、あなただけのための世界も作れるのよ」
「俺のための世界――」
「どうする、大輝?」
母の目が覗き込む。
「あなたは、ゼロから始まる世界に、何を思い描くの?」
「……」大輝は母の瞳を見つめる。「俺は……」
視線を下にそらして口ごもる。
どう言えばいいのか。
何を言えばいいのか。
だって――俺は。
「俺は……その」
「――なんて、ね」
「えっ?」
顔を上げると、母は悪戯っぽく笑っていた。
リモコンの電源ボタンを押し、ぷつりとテレビを切る。
「いいの、分かっているわよ、大輝。顔に書いてあるもの。困らせてしまってごめんね」
「え……」
「あの世界に、まだやり残したことがあるんでしょう?」
「あ――」
頷く。
「――、……うん」
母は呆れたような笑顔で溜息をつく。
「やっぱりね。まあ、当たり前のことよね」
「……ごめん」
「全くもう。私に気を使って断り方を選ぶなんて、ずいぶん大人になっちゃったのねえ。母さんちょっと淋しいわ」
大輝は困って笑い顔を作るしかなかった。
「ごめん。俺……みんなに言ってない言葉が、たくさんあって」
「うん」
「夜々さんに、迷惑じゃなかったって……あのデート、変だったけど、俺も楽しかったって、言わなきゃいけないんだ」
「うん」
「しゃくネエに、俺は全然気にしてないって――元気になってほしいって、言わなきゃいけないんだ」
「うん」
「シロさんにも……あの人にも、言わなきゃいけないことが……」
「大輝」
「……え」
「始めるなら、ごはん食べてからにしなさいね」
「へ?」
「腹が減っては戦は出来ぬ、ってね。小さい頃教えたでしょ?」
「あ……うん」
そうか、そういえば母に習った言葉だった。
また箸を持ち直した大輝を、母は静かに見つめる。
「残さず食べるのよ。いつもご飯が余っちゃうんだから」
「もう残さないようになったよ」
「本当に?」
「うん」
「あらそう。――でも……あーあ。母さんちょっと残念」
母は魚を口に運びつつ、うらめしそうに大輝を見る。
「せっかく現世で生きられるチャンスだと思ったのに」
「う……」
「まあ、新しい世界で礼司くんや大輝の魂に再会できても、忘れられてたらやっぱり悲しいっていうのが、本音といえば本音だけどね。でもねえ……それでもいいと思ったんだけどなあ」
「……そんなにいじめないでくれよ」
「だって大輝ったら、母さんがいなくても平気って感じなんですもの。もう普段は完全に忘れているように見えるわよ」
「んなこと無いって」
「本当に?」
「ホント、ホント。――あ、そうだ」
大輝は味噌汁をすすって言う。
「俺たちで頑張って、何とか母さんをこっちに呼ぶよ」
「あら、大きく出たわね」
「だって夜々さんたちが言うにはさ、母さんが現世にいたのって、石落が世界の境界を乱したのが原因なんだろ? 俺たちに似たようなことが出来てもおかしくないんじゃないかな」
「さあ、それはどうかしら」
「多分出来るような気がするんだよね。シロさんもいるし、夜々さんもいるし、しゃくネエもいるし、石之助さんも、小梅さんもいるし……。みんなにも協力してもらえば、何とかなるような気がする。っていうか、絶対出来るような気がしてきた」
「頼もしいわね」
母は笑う。
「期待してるわ、本当に」
「任せてくれよ。でも、その前に――」
とん、と茶碗を置く。
「絶対にやらなきゃいけないことがあるんだよな。それが出来なきゃ元も子もないんだ」
「当然、やり遂げられるでしょう? 自分で選んだ壁ですものね」
「ああ。選んだからには……」
重く瞬く。
「命がけで戦るよ」