表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/35

第十一章【無題 ―Subject Unknown―】Scene 2


 それから後のことも、よく覚えていない。

 ただシロに導かれるまま家を後にし、赤子のように抱きかかえられ、夜の空を飛んだ。

 シロはあまり速くは飛ばず、夜風をゆっくりと切り分けるように、あても無く、ただ真っ直ぐに遠くを目指した。

 互いに何も言わなかった。

 大輝はその間、眠りもせず目覚めもせず、ずっと黙って目を閉じていたが、どういうわけか一度だけ瞼を開けた。

 ちょうど黄色の満月が見えた。

 平面的に空と一体化しているものだとばかり思っていた月が、その時はたまたま雲が無かったせいか、やけに球体然とした形で目に映り、大輝は暫し目を奪われた。

 なるほど――やはりあれは球いのだ。

現実から乖離した思考は、静かに月へと届いた。

このまま上へ行けばいつか触ることが出来てしまう。あれは本当に、確かな物体としてあそこにあるらしい。その向こうの星も、小さく瞬くあの星も、全ては本当に浮かんでいる。

無い物など無い。

海中を漂う魚のように、繋がらぬようで交わりあい、一体となり、そして――。


 大輝はまた目を閉じた。













 Scene 2




 一


 ぬめった風が森を薙ぎ、ざわざわと夜が鳴いた。

 大輝は湿ったような大木に背をあずけ、隣のシロには肩をあずけて、揺らめく焚き火の熱をひりひりと頬に受けながら、自らの両膝を抱き寄せた。

 焚き火の向こうには、小さな泉があった。

 風に撫ぜられて薄く波打つ水面の上で、月が崩れて、また直る。

 ここはどこか森の奥、人里離れた闇の中であった。

 どれほどの間、ただ座り続けていただろうか。気付けば月のいる場所が変わっている。

 それに気付きながら、大輝は静かに、空虚に呟いた。

「……なんで」

唇を動かすのは久しぶりだった。

「どうしてこんなに、いきなり――」

 ぱちり、と焚き火が音を立てる。どこかで鳥が飛び去った。

 大輝は頭をかく。

「変な感じが……してますよ。なんか。普通、夢って――悪い夢って、疑うと自覚できるじゃないですか」

何を喋っているのか、何を喋りたいのかが、分からない。もうすぐ気が狂ってしまうのかもしれないし、もう狂っているのかもしれない。

「ずっと前、ちっちゃい頃……家が燃えちゃう夢見たんです。そのときは目が覚めたんです。ひどすぎるから……こんなの夢じゃないか? って……そう思った瞬間に自覚できて。あ、何だ、やっぱり夢じゃん、みたいな。じゃあ早く起きなきゃ――って、それで目を開けたら……やっぱり、布団の中にいたんですけど」

頭をかきむしる。

「でも、今日は全然目が覚めないんですよ。夢じゃないことが分かるんです。どうやっても、これ、夢じゃないんですよ」

「大輝」

シロの手が、大輝の頭を抱き寄せる。

「すまぬ――本当に――」

「……。みんな……死んじゃったんですか?」

今さら分かりきったことを訊いてしまう。

 シロは答えない。

答えられるはずがないのだろう。

その場にいながら、むざむざ皆を殺された――シロはきっと、自分のせいだと思っている。

 だから大輝も、「――すみません」と、小さく謝った。

「シロさんのせいじゃないですから……そんなこと思ってないですから」

 皮肉な話だ。

きっと、心がぼんやりと麻痺しているから、かえって冷静にこんなことを言えている。半狂乱ならばシロを理不尽に責めていたに違いない。

 紙一重で自我を狂わせずに保っているものは、多分、今この瞬間、シロの体から伝わっている温かみなのだろう。

 シロは生きている。

夜々が、父が、石楠花が、石之助が、小梅が死んだ。

だが、シロだけはこうして生きている。少なくとも今、ここにいる。

もうこの人しかいない。

だから――だから?

「……俺が」

いや。やはりもう、それだけなのだ。

「俺が守ります」

大輝は俯いたままシロの手を握った。

「これ以上、何があっても……シロさんだけは俺が……絶対に守ります」

それが出来なければ俺は。

 しん、と空気が鳴いた。

 シロは――

「ふ」

小さく笑った。

「……嘘つきじゃな」

「え」

大輝は顔を上げる。

 横を向くと、シロと目が合った。

 シロは確かに笑っていた。

「結局のところ、大輝は何も守れはせなんだ。それどころかまだ分かっておらぬ。全てが……おぬしのせいで起きたということすら」

「え……?」

何だ?

いったい何を言っているのだ。

 シロは大輝の手をほどき、ゆらりと立ち上がって月を見上げた。

「昔話を語ろうか……。そう――始まりは、しろがまだ、石落の囲い女であった頃のことよ」

薄笑いを浮かべたままシロは語り始める。

「石落の手下として働いておった火高も、しろのことを知っておった。顔を見たのは幾度かに過ぎず、石落から何事か教えられたわけでもないが、火高は、食った相手が生きている間に覚えたことまで、丸のまま取り込む力を持っておったからな。石落を食えば、自然、しろについても知ることになる。言うまでもなく、息子の宮琵も同じように、火高を食らってしろのことを知った。そして宮琵は――しろという化け物に興味を持った。もっとも、それは僅かな興味じゃったが」

シロは泉に目を落とす。泉には、やはり、そこに映った月がある。

「……眠り石に雷を落としたのは、他ならぬ宮琵じゃ」

「――? 宮琵――が――?」

「それも僅かな、曖昧なる思いに動かされてしたことよ。何か……」瞬く。「それで何かが変わるとでも思うたのじゃ……愚かしくもな。牛車を引くだけのために生まれ、ずっとそのように育てられた牛が、牛飼いを殺して逃げたところで、その先には何も無い。野で育った牛と群れることもかなわず、もはや他の牛車を見つけることも出来ぬ。ただうずくまり、呆然とするだけじゃ。自らが車を引きながら何を求めていたわけでもないことに気づき、唖然とすることしか出来ぬのじゃ。その目に生き生きとした牛の群れが如何に遠く映ることか……他の何者にも想像はつくまい」

くっく、とシロは笑う。

「まっこと滑稽な話じゃ。それで堪らなくなった牛がしたことといえば、手ごろな牛小屋を壊し、他の牛どもを解き放っただけだったのじゃからな。その中に気の合う牛がいるとでも思うたのか……。もしそう見える相手がおったとしても――いや、事実そうした相手だったとしても、それが自分と同じく迷い牛になるとも限らぬというに」

ふう、と息をつく。

「……宮琵は、ずっとしろのことを見ておった。しろが大輝に拾われるところも、段々と愛を覚えてゆくさまも……そして大輝や他の者たちが、しろのことを大事に可愛がってくれる姿もな。それを隠れたところから一人眺める宮琵の心持ちは、とても一言であらわせるようなものではなかった。――羨ましくもあり、恨めしくもあり。何ゆえにしろだけが……あの家のような場所を欲しておったのは宮琵も同じであったのに、そしてその思いを語り合うことも出来たはずじゃのに、何ゆえしろだけが全てを手に入れ、宮琵はただ眺めるばかりなのか……。それに腹が立ち、幾度も幾度も壊そうと思い、しかしその度に躊躇い、また眺める。しろと自らを重ねあわせ、惨めに己の心を慰めつつ――だが、結局は馬鹿馬鹿しくなった」

シロは座り込んだ大輝を見下ろす。

「眺め続けた宮琵に分かったことといえば、やはり己の居場所など、どこにも無いということだけじゃった。ならばもう何も要らぬではないか。いずれこの世が己と相容れぬならば……いっそ何もかも無へと帰し、自分も共に消えてしまえばよい」

シロの周りを、ゆらり、ゆらり、狐火が生まれては舞い始める。

「それが出来るのはお前だけじゃ。石落の奴めが常世の内に作り上げし、あの牢獄を壊し果たした力――あれをこの現世にて発現させれば、絹の糸が解れるが如くに、全ては崩れ、無へと帰る。この下らぬ現世が常世へと還元される」

「シロ……さん……?」

「ああ――全く、お主という男は。ここまで話したというのに、まだその名で呼ぶか」

回る狐火たちの中、シロは呆れたように溜息をついてみせる。

「もう分かっておるのであろうが」

「分かってるって――」

何を。

 シロはゆっくりと歩む。

 焚き火の脇を通り過ぎ、泉の際へと。

「ここはかつて石落と任氏が戦ったところらしい」

声が――歪んで――変わってゆく。

「綺麗な泉だ。任氏の記憶の内容とほとんど変わっていない。もっとも、たかが数百年……俺とお前が今から壊そうとしている全ての時間に比べれば、瞬く間の幻だな」

狐火が膨らんで回る。

紫色に。

シロの体は一瞬だけその炎に包まれ、それが溶けて消えうせたとき、そこに立っていたのは、黒いコートの男だった。

 宮琵は振り返り、月を背に笑い、細い何かを投げ放つ。

「さあ、始めようか」

ひらりと夜風に舞ったそれは、赤いリボンだった。

 土の上へ落ちるリボン――大木に背をこすらせて、大輝は立ち上がる。

「……。何だ、これ」

足下が崩れてゆく気がする。

 どうして宮琵が立っているのだ?

 駄目だ。意識が思考することを拒否している。

 宮琵はわずかに肩をすくめてみせた。

「夜々を消滅させたときに言っただろう? 今度は少し趣向を凝らす、と。まあ要するに、任氏だけは生きていると見せかけて、とっくに全滅だったといううオチだ。絶望的なバッドエンドだよ」

「何言ってるんだ」

「見せてやろうか?」

宮琵の目から、紫の光が放たれる。

 その光は真っ直ぐに、大輝の瞳へと飛び込んだ。

「あ……?」

視界が乱れる。

 そして否応無く展開するノイズ混じりのビジョン。

克明な音。これは――無理矢理に注ぎ込まれるこの情報は、宮琵の記憶の断片か。

「あ……あ」

喉を切り裂かれ、倒れる父。

胸に穴を開けられて絶命する石楠花。

ベッドの上で弄ばれながら体を引き裂かれてゆく小梅。赤黒い血に染まってゆくシーツ。石之助の叫び。

「ああ」

大輝は頭を抱える。

膝が――地面に落ちた。

ビジョンから逃れられない。目を閉じても血の色が、耳を塞いでも生々しい音が流れ込んでくる。石之助の首が切り落とされた。そして。

 階段を下り、再び宮琵が居間へと入ってゆく。

「……やめろ」

 倒れているシロ。

 全員殺してやった。そう告げる宮琵の声。

 狂ったように泣き喚くシロの頭を、しゃがんだ宮琵の手が押さえつける。

「やめろよ……」

 言い残す言葉はあるか。

 宮琵は楽しげに問う。

 睨み付けるシロ。

 沈黙が。

「やめろ……やめろ……」

 シロは――

 何か言おうとして――

 その前に、鼻に拳を叩き込まれた。

 シロは短く呻く。後頭部が床にぶつかり、頭が弾んだ。

 続けざまに、笑う宮琵の拳がシロの顔面に振り下ろされる。

楽しげに、手加減無く、何度も、何度も。力なく抵抗する手を丁寧に押しのけ、馬乗りになり、両拳を使って続けざまに殴る。

「どうだ、見えるか? 面白い映像だろう」

頭の中に流れ込んでくる殴打の音と悲鳴に混じり、遠くで宮琵の声が聞こえる。

「石落が気に入っていた理由も分かるというものだな。どれだけ殴っても死なず、なかなか気を失うこともなく、人間では到底耐えられぬほど長い間、新鮮に反応してくれる、本当に頑丈な玩具だった。もっとも、石落はああして遊びながら体の味も楽しんだのだろうが……俺は使い古したお下がりには興味が無くてな」

 ――延々と続く殴打で、とうとうシロの反応が鈍くなり始める。

 宮琵はやがて手を止めた。

 もういいか。

馬乗りのまま、真っ赤に染まった顔を見下ろし、飽きた口調で呟いた。

 止めは、心臓への呆気ない一撃だった。

 たいき。

 シロの唇が、それだけ紡いで止まった。

 ビジョンが終わり――

 今、目の前で宮琵は笑っていた。

「……ふ」

反芻するように。

「食ってやったよ。任氏の体は生のまま、ちゃんと骨まで食ってやった。さすが有名な大妖怪だ。今さら何匹食っても大して変わらないと思っていた妖力が、あれ一体で飛躍的に跳ね上がったからな。もっとも、そうして得た力の使い道など、もはや一つも残ってはいないんだが……それにしても美味かった」

舌先で唇を舐めてみせ、そうそう、と思い出したように続ける。

「そういえばさっきお前は何か言っていたな。忘れてしまったからもう一度言って欲しいんだが」

耳に手を添え、宮琵は問う。

「これ以上何があっても……誰だけは――絶対に守ってみせるって?」

口元をつり上げて答えを待つ宮琵。

 大輝の中で何かが終わった。


 二


 静かな寝床で、遠見はゆっくりと瞼を開けた。

 聞こえる。何かが――これは歌か。

声無き歌。音階無き歌。常世の歌。

 体を起こす。

「……誰か」

簾の向こうに声をかける。

「誰か……そこにいないの?」

 答えは無い。

誰もいないのか。

 いや――誰がどこにいても同じことか。

 遠見はまた、静かに床へと倒れた。

 見神の血を引きながら、この力に気付かぬ者はおるまい。今頃誰もが戦慄しているはずだ。

「麒麟の子……。そうなの……壊してしまうのね」

ぽつりと呟く。

 麒麟――あれは現世の因果に外部の立場から干渉する存在である。その行動は、遠見といえど、到底予知できるはずがなかった。

 これで全てが終わるのか。随分と唐突で呆気ないものだが、それもまた仕方のないことかもしれない。

 そう。

 こうなってしまっては、もう――誰にも止められはしないのだから。


 三


 宮琵は笑い続けていた。

 襟首を掴まれ、獣のような力で大木に押し付けられ、圧迫された鎖骨がめりめりと音を立てても、真っ直ぐに大輝の目を見据えて笑っていた。

「そうだ――そう、それでいい……、っ!」

「……殺してやる」

大輝の左目は金色に光っていた。

額には角――肉に包まれた一本の角がせり出している。

殺してやる。殺してやる。殺してやる。

ぶつぶつと、うわ言のように呟きながら、大輝はその髪をざわめかせる。

 静かに風が回り始めた。

 始めは二人を包み、そして大樹を包み、少しずつ、少しずつ膨らむ旋風はやがて、景色を食らうように包み込んでゆく。

 葉が舞い散る。地が揺らぐ。

 どこからか歌が――

「……聞こえるぞ」

宮琵は空を見上げた。

「常世の歌か……侵食が始まった。お前の絶望が……」

星々が、月が、夜が、まるで悲鳴のように歌っている。再び大輝の目を覗く。

「全てを失ったお前の、その完全な絶望が……、つっ!」

大輝の手が宮琵の襟首を持ち上げ、凄まじい勢いで、その背を木に叩きつける。

「――、くっ――はは」

笑う宮琵の口元から、とくとくと血が流れる。

「さあ、殺せ……! 石落をそうしたように、この三次元ごと……俺を切り裂いてみろ、殿山大輝!」

「あ――あ――あ、あああっ!」

 大輝が手を離して叫ぶと共に、二人と巨木を中心にして金色の波が巻き起こり、熱い奔流と化して空へ立ち上ってゆく。

 光は灰色の雲を裂き、黒塗りの空を震わせ、やがて収束する。

 大輝の片手には、いつかと同じ、ほとばしる光の大槍が握られていた。

 地が震え、常世が歌い、風が巻き、星空が悲鳴を上げる景色の中心で、ゆっくりと槍が振り上げられる。――その瞬間、


 景色から音だけが消失した。


 轟風の中、微笑む宮琵。


 大輝の頬を伝う、赤い、赤い、血の涙。


 槍は真上から振り下ろされ、目を閉じた宮琵の肉体を、大木と、その後ろに広がる夜空ごと、切り裂くように両断した。


 びしり――。割られた空が鳴る。


 糸は断ち切られ、そして――


 世界の瓦解が始まった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ