第十一章【無題 ―Subject Unknown―】Scene 2
それから後のことも、よく覚えていない。
ただシロに導かれるまま家を後にし、赤子のように抱きかかえられ、夜の空を飛んだ。
シロはあまり速くは飛ばず、夜風をゆっくりと切り分けるように、あても無く、ただ真っ直ぐに遠くを目指した。
互いに何も言わなかった。
大輝はその間、眠りもせず目覚めもせず、ずっと黙って目を閉じていたが、どういうわけか一度だけ瞼を開けた。
ちょうど黄色の満月が見えた。
平面的に空と一体化しているものだとばかり思っていた月が、その時はたまたま雲が無かったせいか、やけに球体然とした形で目に映り、大輝は暫し目を奪われた。
なるほど――やはりあれは球いのだ。
現実から乖離した思考は、静かに月へと届いた。
このまま上へ行けばいつか触ることが出来てしまう。あれは本当に、確かな物体としてあそこにあるらしい。その向こうの星も、小さく瞬くあの星も、全ては本当に浮かんでいる。
無い物など無い。
海中を漂う魚のように、繋がらぬようで交わりあい、一体となり、そして――。
大輝はまた目を閉じた。
Scene 2
一
ぬめった風が森を薙ぎ、ざわざわと夜が鳴いた。
大輝は湿ったような大木に背をあずけ、隣のシロには肩をあずけて、揺らめく焚き火の熱をひりひりと頬に受けながら、自らの両膝を抱き寄せた。
焚き火の向こうには、小さな泉があった。
風に撫ぜられて薄く波打つ水面の上で、月が崩れて、また直る。
ここはどこか森の奥、人里離れた闇の中であった。
どれほどの間、ただ座り続けていただろうか。気付けば月のいる場所が変わっている。
それに気付きながら、大輝は静かに、空虚に呟いた。
「……なんで」
唇を動かすのは久しぶりだった。
「どうしてこんなに、いきなり――」
ぱちり、と焚き火が音を立てる。どこかで鳥が飛び去った。
大輝は頭をかく。
「変な感じが……してますよ。なんか。普通、夢って――悪い夢って、疑うと自覚できるじゃないですか」
何を喋っているのか、何を喋りたいのかが、分からない。もうすぐ気が狂ってしまうのかもしれないし、もう狂っているのかもしれない。
「ずっと前、ちっちゃい頃……家が燃えちゃう夢見たんです。そのときは目が覚めたんです。ひどすぎるから……こんなの夢じゃないか? って……そう思った瞬間に自覚できて。あ、何だ、やっぱり夢じゃん、みたいな。じゃあ早く起きなきゃ――って、それで目を開けたら……やっぱり、布団の中にいたんですけど」
頭をかきむしる。
「でも、今日は全然目が覚めないんですよ。夢じゃないことが分かるんです。どうやっても、これ、夢じゃないんですよ」
「大輝」
シロの手が、大輝の頭を抱き寄せる。
「すまぬ――本当に――」
「……。みんな……死んじゃったんですか?」
今さら分かりきったことを訊いてしまう。
シロは答えない。
答えられるはずがないのだろう。
その場にいながら、むざむざ皆を殺された――シロはきっと、自分のせいだと思っている。
だから大輝も、「――すみません」と、小さく謝った。
「シロさんのせいじゃないですから……そんなこと思ってないですから」
皮肉な話だ。
きっと、心がぼんやりと麻痺しているから、かえって冷静にこんなことを言えている。半狂乱ならばシロを理不尽に責めていたに違いない。
紙一重で自我を狂わせずに保っているものは、多分、今この瞬間、シロの体から伝わっている温かみなのだろう。
シロは生きている。
夜々が、父が、石楠花が、石之助が、小梅が死んだ。
だが、シロだけはこうして生きている。少なくとも今、ここにいる。
もうこの人しかいない。
だから――だから?
「……俺が」
いや。やはりもう、それだけなのだ。
「俺が守ります」
大輝は俯いたままシロの手を握った。
「これ以上、何があっても……シロさんだけは俺が……絶対に守ります」
それが出来なければ俺は。
しん、と空気が鳴いた。
シロは――
「ふ」
小さく笑った。
「……嘘つきじゃな」
「え」
大輝は顔を上げる。
横を向くと、シロと目が合った。
シロは確かに笑っていた。
「結局のところ、大輝は何も守れはせなんだ。それどころかまだ分かっておらぬ。全てが……おぬしのせいで起きたということすら」
「え……?」
何だ?
いったい何を言っているのだ。
シロは大輝の手をほどき、ゆらりと立ち上がって月を見上げた。
「昔話を語ろうか……。そう――始まりは、しろがまだ、石落の囲い女であった頃のことよ」
薄笑いを浮かべたままシロは語り始める。
「石落の手下として働いておった火高も、しろのことを知っておった。顔を見たのは幾度かに過ぎず、石落から何事か教えられたわけでもないが、火高は、食った相手が生きている間に覚えたことまで、丸のまま取り込む力を持っておったからな。石落を食えば、自然、しろについても知ることになる。言うまでもなく、息子の宮琵も同じように、火高を食らってしろのことを知った。そして宮琵は――しろという化け物に興味を持った。もっとも、それは僅かな興味じゃったが」
シロは泉に目を落とす。泉には、やはり、そこに映った月がある。
「……眠り石に雷を落としたのは、他ならぬ宮琵じゃ」
「――? 宮琵――が――?」
「それも僅かな、曖昧なる思いに動かされてしたことよ。何か……」瞬く。「それで何かが変わるとでも思うたのじゃ……愚かしくもな。牛車を引くだけのために生まれ、ずっとそのように育てられた牛が、牛飼いを殺して逃げたところで、その先には何も無い。野で育った牛と群れることもかなわず、もはや他の牛車を見つけることも出来ぬ。ただうずくまり、呆然とするだけじゃ。自らが車を引きながら何を求めていたわけでもないことに気づき、唖然とすることしか出来ぬのじゃ。その目に生き生きとした牛の群れが如何に遠く映ることか……他の何者にも想像はつくまい」
くっく、とシロは笑う。
「まっこと滑稽な話じゃ。それで堪らなくなった牛がしたことといえば、手ごろな牛小屋を壊し、他の牛どもを解き放っただけだったのじゃからな。その中に気の合う牛がいるとでも思うたのか……。もしそう見える相手がおったとしても――いや、事実そうした相手だったとしても、それが自分と同じく迷い牛になるとも限らぬというに」
ふう、と息をつく。
「……宮琵は、ずっとしろのことを見ておった。しろが大輝に拾われるところも、段々と愛を覚えてゆくさまも……そして大輝や他の者たちが、しろのことを大事に可愛がってくれる姿もな。それを隠れたところから一人眺める宮琵の心持ちは、とても一言であらわせるようなものではなかった。――羨ましくもあり、恨めしくもあり。何ゆえにしろだけが……あの家のような場所を欲しておったのは宮琵も同じであったのに、そしてその思いを語り合うことも出来たはずじゃのに、何ゆえしろだけが全てを手に入れ、宮琵はただ眺めるばかりなのか……。それに腹が立ち、幾度も幾度も壊そうと思い、しかしその度に躊躇い、また眺める。しろと自らを重ねあわせ、惨めに己の心を慰めつつ――だが、結局は馬鹿馬鹿しくなった」
シロは座り込んだ大輝を見下ろす。
「眺め続けた宮琵に分かったことといえば、やはり己の居場所など、どこにも無いということだけじゃった。ならばもう何も要らぬではないか。いずれこの世が己と相容れぬならば……いっそ何もかも無へと帰し、自分も共に消えてしまえばよい」
シロの周りを、ゆらり、ゆらり、狐火が生まれては舞い始める。
「それが出来るのはお前だけじゃ。石落の奴めが常世の内に作り上げし、あの牢獄を壊し果たした力――あれをこの現世にて発現させれば、絹の糸が解れるが如くに、全ては崩れ、無へと帰る。この下らぬ現世が常世へと還元される」
「シロ……さん……?」
「ああ――全く、お主という男は。ここまで話したというのに、まだその名で呼ぶか」
回る狐火たちの中、シロは呆れたように溜息をついてみせる。
「もう分かっておるのであろうが」
「分かってるって――」
何を。
シロはゆっくりと歩む。
焚き火の脇を通り過ぎ、泉の際へと。
「ここはかつて石落と任氏が戦ったところらしい」
声が――歪んで――変わってゆく。
「綺麗な泉だ。任氏の記憶の内容とほとんど変わっていない。もっとも、たかが数百年……俺とお前が今から壊そうとしている全ての時間に比べれば、瞬く間の幻だな」
狐火が膨らんで回る。
紫色に。
シロの体は一瞬だけその炎に包まれ、それが溶けて消えうせたとき、そこに立っていたのは、黒いコートの男だった。
宮琵は振り返り、月を背に笑い、細い何かを投げ放つ。
「さあ、始めようか」
ひらりと夜風に舞ったそれは、赤いリボンだった。
土の上へ落ちるリボン――大木に背をこすらせて、大輝は立ち上がる。
「……。何だ、これ」
足下が崩れてゆく気がする。
どうして宮琵が立っているのだ?
駄目だ。意識が思考することを拒否している。
宮琵はわずかに肩をすくめてみせた。
「夜々を消滅させたときに言っただろう? 今度は少し趣向を凝らす、と。まあ要するに、任氏だけは生きていると見せかけて、とっくに全滅だったといううオチだ。絶望的なバッドエンドだよ」
「何言ってるんだ」
「見せてやろうか?」
宮琵の目から、紫の光が放たれる。
その光は真っ直ぐに、大輝の瞳へと飛び込んだ。
「あ……?」
視界が乱れる。
そして否応無く展開するノイズ混じりのビジョン。
克明な音。これは――無理矢理に注ぎ込まれるこの情報は、宮琵の記憶の断片か。
「あ……あ」
喉を切り裂かれ、倒れる父。
胸に穴を開けられて絶命する石楠花。
ベッドの上で弄ばれながら体を引き裂かれてゆく小梅。赤黒い血に染まってゆくシーツ。石之助の叫び。
「ああ」
大輝は頭を抱える。
膝が――地面に落ちた。
ビジョンから逃れられない。目を閉じても血の色が、耳を塞いでも生々しい音が流れ込んでくる。石之助の首が切り落とされた。そして。
階段を下り、再び宮琵が居間へと入ってゆく。
「……やめろ」
倒れているシロ。
全員殺してやった。そう告げる宮琵の声。
狂ったように泣き喚くシロの頭を、しゃがんだ宮琵の手が押さえつける。
「やめろよ……」
言い残す言葉はあるか。
宮琵は楽しげに問う。
睨み付けるシロ。
沈黙が。
「やめろ……やめろ……」
シロは――
何か言おうとして――
その前に、鼻に拳を叩き込まれた。
シロは短く呻く。後頭部が床にぶつかり、頭が弾んだ。
続けざまに、笑う宮琵の拳がシロの顔面に振り下ろされる。
楽しげに、手加減無く、何度も、何度も。力なく抵抗する手を丁寧に押しのけ、馬乗りになり、両拳を使って続けざまに殴る。
「どうだ、見えるか? 面白い映像だろう」
頭の中に流れ込んでくる殴打の音と悲鳴に混じり、遠くで宮琵の声が聞こえる。
「石落が気に入っていた理由も分かるというものだな。どれだけ殴っても死なず、なかなか気を失うこともなく、人間では到底耐えられぬほど長い間、新鮮に反応してくれる、本当に頑丈な玩具だった。もっとも、石落はああして遊びながら体の味も楽しんだのだろうが……俺は使い古したお下がりには興味が無くてな」
――延々と続く殴打で、とうとうシロの反応が鈍くなり始める。
宮琵はやがて手を止めた。
もういいか。
馬乗りのまま、真っ赤に染まった顔を見下ろし、飽きた口調で呟いた。
止めは、心臓への呆気ない一撃だった。
たいき。
シロの唇が、それだけ紡いで止まった。
ビジョンが終わり――
今、目の前で宮琵は笑っていた。
「……ふ」
反芻するように。
「食ってやったよ。任氏の体は生のまま、ちゃんと骨まで食ってやった。さすが有名な大妖怪だ。今さら何匹食っても大して変わらないと思っていた妖力が、あれ一体で飛躍的に跳ね上がったからな。もっとも、そうして得た力の使い道など、もはや一つも残ってはいないんだが……それにしても美味かった」
舌先で唇を舐めてみせ、そうそう、と思い出したように続ける。
「そういえばさっきお前は何か言っていたな。忘れてしまったからもう一度言って欲しいんだが」
耳に手を添え、宮琵は問う。
「これ以上何があっても……誰だけは――絶対に守ってみせるって?」
口元をつり上げて答えを待つ宮琵。
大輝の中で何かが終わった。
二
静かな寝床で、遠見はゆっくりと瞼を開けた。
聞こえる。何かが――これは歌か。
声無き歌。音階無き歌。常世の歌。
体を起こす。
「……誰か」
簾の向こうに声をかける。
「誰か……そこにいないの?」
答えは無い。
誰もいないのか。
いや――誰がどこにいても同じことか。
遠見はまた、静かに床へと倒れた。
見神の血を引きながら、この力に気付かぬ者はおるまい。今頃誰もが戦慄しているはずだ。
「麒麟の子……。そうなの……壊してしまうのね」
ぽつりと呟く。
麒麟――あれは現世の因果に外部の立場から干渉する存在である。その行動は、遠見といえど、到底予知できるはずがなかった。
これで全てが終わるのか。随分と唐突で呆気ないものだが、それもまた仕方のないことかもしれない。
そう。
こうなってしまっては、もう――誰にも止められはしないのだから。
三
宮琵は笑い続けていた。
襟首を掴まれ、獣のような力で大木に押し付けられ、圧迫された鎖骨がめりめりと音を立てても、真っ直ぐに大輝の目を見据えて笑っていた。
「そうだ――そう、それでいい……、っ!」
「……殺してやる」
大輝の左目は金色に光っていた。
額には角――肉に包まれた一本の角がせり出している。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
ぶつぶつと、うわ言のように呟きながら、大輝はその髪をざわめかせる。
静かに風が回り始めた。
始めは二人を包み、そして大樹を包み、少しずつ、少しずつ膨らむ旋風はやがて、景色を食らうように包み込んでゆく。
葉が舞い散る。地が揺らぐ。
どこからか歌が――
「……聞こえるぞ」
宮琵は空を見上げた。
「常世の歌か……侵食が始まった。お前の絶望が……」
星々が、月が、夜が、まるで悲鳴のように歌っている。再び大輝の目を覗く。
「全てを失ったお前の、その完全な絶望が……、つっ!」
大輝の手が宮琵の襟首を持ち上げ、凄まじい勢いで、その背を木に叩きつける。
「――、くっ――はは」
笑う宮琵の口元から、とくとくと血が流れる。
「さあ、殺せ……! 石落をそうしたように、この三次元ごと……俺を切り裂いてみろ、殿山大輝!」
「あ――あ――あ、あああっ!」
大輝が手を離して叫ぶと共に、二人と巨木を中心にして金色の波が巻き起こり、熱い奔流と化して空へ立ち上ってゆく。
光は灰色の雲を裂き、黒塗りの空を震わせ、やがて収束する。
大輝の片手には、いつかと同じ、ほとばしる光の大槍が握られていた。
地が震え、常世が歌い、風が巻き、星空が悲鳴を上げる景色の中心で、ゆっくりと槍が振り上げられる。――その瞬間、
景色から音だけが消失した。
轟風の中、微笑む宮琵。
大輝の頬を伝う、赤い、赤い、血の涙。
槍は真上から振り下ろされ、目を閉じた宮琵の肉体を、大木と、その後ろに広がる夜空ごと、切り裂くように両断した。
びしり――。割られた空が鳴る。
糸は断ち切られ、そして――
世界の瓦解が始まった。