プロローグ【石落 ―しゃくらく―】
ぬめった風が森を薙ぎ、ざわざわと夜が鳴いた。
闇の中、泉に落ちた三日月が散る。
風が過ぎ、その月がまた形を取り戻すまで、異形と若者は泉をはさみ、睨みあうでもなくただ見つめあい、地蟲や眠る鳥すら脅かさず、ひっそりと対峙していた。
黒い袖長の衣に身を包んだ、鋭い目の若い大男――石落は、にぃやりと唇を開いた。
「やはりここへおったか、人食い」
「森の静けさは故郷もこの国も変わらぬ。外は狩場にこそ都合がいいが、眠ると歌うには少々喧し過ぎるでな。何かと行灯をともすのも好かん」
異形はしっとりと煌く銀の髪を、たおやかな白い手で撫ぜた。
「それにしても、おぬしのような無粋の者が、時も弁えずに現れるとは思わなんだが。文でも寄越せば日のある内に出向いてやったものを」
「戯言を。狐変化が昼に歩むを嫌わぬか」
「もう長いこと生きたでな。漢の頃、ただの狐だった時分の生きかたなど、とうに忘れてしもうたわ。それに――たかが人など、こそこそと狩らずともよい。見つけようが囲もうが、おぬしらにわらわは滅ぼせぬ」
「確かに……お前は四日ほど前にも、陽明かりのもと堂々と、街道で一人の子供を攫ったな。若い奥方の連れた童だ。覚えているか」
「覚えておるとも。強く賢しい子であった」
睫毛の長い細い目を、殊更に、それこそ糸のように細め、白衣の袖でしとやかに口を隠して、ころころと狐は笑った。
「なに――はじめはな、育った女の方が肉付きがよかったで、そちらを食おうとしたのじゃが、歩み寄りもしと声をかけるや、女に手を引かれていたあの子供、わらわが人でないことに気づきおった。砂利道を歩むになぜ足音がせぬかと怪しんだらしいが、どうして見所のある童ではないか。まあ、ここのところ、あの街道ではよく人を狩ったでな。子供なりに気を配っていたのじゃろうが」
異形は美しい面に手を添えて、愉快そうに語る。
「何にせよ感心なことよ。母をかばう姿が気に入ったので、攫ってやった。勇敢な子供は大好きじゃ」
大男の石落よりもまだ背の高い、清廉な白衣に身を包んだ、銀髪の女。
それが化生の姿であった。
目が細く吊り上がってはいるが、眼差しは優しく、薄桃の唇の先から紡ぎ出される言葉は、しとやかで歌うが如く。雅でたおやかなる仕草がひとつ、またひとつと、対する者をまどろみの心地へと誘う。纏うは甘き香のかおり。笑えば動く、左の泣きぼくろまでが美しい――そう――まことに美しい女である。
だが石落は知っていた。
この化生の力も、所業も。
時に男を色香で惑わし、その胸に抱きながら殺し、血をすする。
時に赤子を生きたまま囲炉裏にくべて、縛った親たちの見る前で、丁寧に塩までかけて箸で食う。
そして時に、ただ襲い掛かり、ばらばらに引き裂いてむさぼり食らう。
好き放題に、思いつくがまま。
「その童はどうした」
「ここへおるぞ。もうこればかりしか残っておらぬが」
女は振袖の内より白い紙包みを取り出した。
細い紐をほどき、ぱりぱりと包みを開けてゆくと、中から紫の物が現れた。
小さな、子供の手であった。
ところどころが赤黒く染まった包み紙を、女はぽとり、草履の足元に捨てる。
「こう風が冷えてくると、用ごとでもない限り、いちいち木のうろを出るも億劫でな。捕り帰り、少しずつ食むのが楽で良い。本当ならば生かしたまま木に縛っておいて要るだけ切り取るやり方が一番良いのじゃが、二晩前、かあさま痛い、かあさま痛いと夜中に五月蝿かったもので、つい首を折ってしもうた。わらわも寝ぼけていたわ」
むしゃり、と女はその手を食む。
石落は鼻を鳴らす。
「なるほど、話に聞くとおりの化け物だ」
死肉をひと噛み咀嚼し、飲み下した女は顔をしかめる。
「もうこわくなっておる。おぬしにやるから食うがよい。丁寧に火を通せば人の身でも腹は壊すまいて」
ぽいと放られた手首は、小さな泉を越え、石落の足元に落ちた。
石落はそれを瞥せずに言う。
「この子の母はさる武家の奥方だ」
「それがどうした」
「俺に金子を山と積んでな。子供が生きていれば連れ帰れ。もし殺されていれば、お前を調伏……いや」
胸元より竹の札を抜き、とん、と地を蹴る。
蟋蟀の如く、高く高く、石落の巨体は浮いた。
月を背に。
「殺せとよ」
女めがけて文字の書かれた札が投げられ、きゅんと闇が鳴る。
刹那に女は目を見開いた。
「しゃくじばくし、とやらか」
舞うように横へ退く。
地に突き刺さった札が、ひと呼吸のち、紫の光を八方に放った。
女は、おうと声を上げて飛び上がり、くるり回って、せり出した大樹の枝のひとつに降り立つ。
「この島国にもそう呼ばれる、我らを狩る者どもがいるという話は聞いていたが――」
「我ら石字縛師を大陸の術師と一緒にするなよ」
さっきまで女のいたところへ降り立った石落は、二の札を投げる。
その札は、女のいる樹の根元に刺さり、紫の稲妻を生んだ。
ばりばりと森を割らんばかりの音を立て、稲妻は生き物のように木の幹を、枝々を撫ぜ回る。あるいは事実、生き物なのやも知れぬ。
巻き込まれた女は吼えるような声を上げ、落下した。
続けざま投げられた、三枚目。
それは縛符であった。
火がつき燃え始めた樹の元で、紫の暗き光の縄が、地に転げた女怪の長い脚に、細い腕に、ふくよかな胸に巻きつき、ぎりぎりと食い込む。
「ぐ――」
背を反らしのたうつ女の姿が変わってゆく。
絹のような柔肌が銀の毛皮へと変わり、耳が横へ伸び、長く太い、毛のかたまりのような、一本の尾があらわれた。
突き出した鼻の下、牙だらけの口がばっくりと開く。
「……ぬかったか……」
それは紛う事なき狐の顔であった。
しかし全身が銀毛に覆われ、指先から鋭い爪が生えたとはいえ、体かたちは艶かしい女のままで、つややかな長い髪も元のまま変わらない。爛々と輝く朱い目も、この化け物が畜生ならぬ知恵を宿していることを物語っている。
正体をあらわした妖魔は石落を睨む。
「たかが人と油断したわ……千年に一度のしくじりじゃ……」
銀の毛皮の所々に、鮮やかな赤い血が滲む。
石落は人食いの妖魔を見下ろし、呟く。
「化けの皮がはがれてなお、こうも美しいとは――妖魔であればこそか」
重き眼差しが、地に縛られた妖魔を射抜く。
また風が吹いた。
夜が鳴いた。
水鏡の月が散り、
――は。
石落は笑った。
は、は、は、は、は――。