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第十一章【無題 ―Subject Unknown―】Scene 1



 一


 大輝が夜々に連れ出されてから、もう大分長い時間が過ぎている。

 既に夕刻を回り、ガラス戸から見える庭の景色も、段々と暗くなり始めていた。

 礼司が自室へ、石之助が小梅の部屋へ上がっていった今、シロは一人で居間のソファに腰を下ろし、ただ黙したまま大輝と夜々のことを案じていた。

 夜々が何を考えているかなど、シロには皆目分からなかったが、少なくとも、あの二人が宮琵に襲われれば危険だということくらいは分かる。

しかし、この家の者たちを放っておいて後を追うことなど出来るはずもないし、第一、シロがついていたところで、現実問題、宮琵に敵うとも思えない。だから結局は案じても仕方がないことなのだろうが、そんな理屈がシロの心配を落ち着かせるはずも無かった。

 こつり、こつりと鳴る時計。

 シロはガラス戸の外を見つめ、ぽつりと呟く。

「一体全体、何をしておるのじゃ……」

冷めた湯飲みをテーブルに置き、文字盤を見る。

時間はゆっくりと進み続けていた。

 そして視線を正面を戻すと、

「――。な――?」

「待ちくたびれた様子だな」

宮琵が忽然と正面に座っていた。

 シロは立ち上がって炎を繰り出そうとしたが、それはかなわなかった。

 縄で締め付けられたように体が動かず、妖力が全身の毛穴から抜けてゆく。これは――

「ぐ……」

口から血が漏れる。

石落に仕掛けられた術であった。たちどころに、気を失いそうな痛みに体が支配されてゆく。

 宮琵は脚を組み笑った。

「なるほど――本当によく効くんだな、その術は。これならば確かに、お前という大妖を玩具にし続けることも容易かったろう」

舐めるようにシロの顔を鑑賞する。

「さっきこの家に結界を張らせてもらった。ある妖怪から取り込んだ力なんだが、なかなか面白い結界でな。中にいる妖怪の力を奪うだけではなく、この家が壊れようが、どんな音を立てようが、俺が死ぬか結界を解除するまで、外の人間が気づくことはない。だから何でもやりたい放題ということだ」

ゆったりと部屋を見回してから、再びシロと目を合わせる。

「だがその前に、少しお前と話がしたい」

「……畜生めが」

「そう睨むな」

宮琵が、ぱちん、と指を鳴らす。

 シロの頬が裂けた。

真っ白な肌の上を、深紅の血が流れてゆく。

 宮琵は足を組みなおした。

「この間、お前たちに教えたことに嘘はない。俺について詮索するのは結構な暇つぶしになったろう? あの入神夜々は頭が良いようだったし、俺が石落の孫であることはすぐに分かっただろうとして――妖怪を食ってその力と能力を吸収することや、入神家の神血を持っていることも分かったか?」

「……だったらどうした」

「そちらが頭を使ってくれた分だけ、長い説明をする手間が省けるというだけのことだ。それにしても、お前はどう思う」

「何が、じゃ……」

シロが咳き込み、細かな血しぶきが散った。

 宮琵はそれを眺めてから涼しげに言う。

「俺という男についてだ」

ソファに背をもたれ、困ったように眉をひそめてみせた。

「下らない話だとは思わないか? 石落は安っぽい目的のために次々と半妖を作り出し、その一人だった火高は、わざわざ石落を殺し、用の無くなった兄弟たちを食らってまで、同じ目的を受け継いだ。そしてご丁寧に入神家の女を騙して俺を産ませ――女は産後に死んでしまったが、俺の物心がつくと、すぐに石字縛師の術を教え込み、部下として育て上げた。石落が火高自身にしたのと同じように」手のひらを見る。「もちろん、自分が石落を殺してその力を食ったことなど、火高は俺に教えなかったよ。俺がそれを知ったのは、火高を食った時だ。力と共に記憶も手に入るものでな」

語りながら軽く手を握る。

「あれを殺すのは存外に簡単だった。当然火高は俺に与える力――食わせる妖怪の数や質を制限していたが、俺が見神の先祖返りだということには気付いていなかったからな。恐らくは紅猫鬼の血に入神の血が混じり、変異でも起こしたんだろう」

「貴様は……何故に父親を食らった? その力を手に入れたのは、何を……」

「食ったのはついでだ」顔を上げる「俺にとって重要だったのは、火高を殺してしまうことだった」

「……どうした意味じゃ」

「この世に生きていながら、火高という男の一部に過ぎない自分に、不意に嫌気が差したのさ。火高の目的のために生み出され、火高のために異形どもを探しては届ける。いつまでも、どんなことでも、火高のために行い続ける。それで独立した生き物といえるか? 俺はただ、俺の意思で、俺の目的のために行動してみたくなっただけだ。――こうして語ってみれば短い話になってしまうな。一応、小さなきっかけもあるにはあったんだが」

「貴様の……貴様自信の目的とは、何じゃ」

「俺の目的?」

「答えよ」

シロは青ざめた顔をしかめ、宮琵を睨む。

「何故に小梅らを襲い、石楠花の血を揺り起こした……? 火高とやらの手を離れ、そして貴様が成そうとしておることの正体は、いったい何じゃ」

「そうだな――」

宮琵は、ふむ、と腕を組む。

「それを説明するのが一番難しい。しかし、お前にならば分かるかも知れない」

濁った視線でシロの目を見据える。

「お前は今、幸福か?」

「……」

シロは睨んだままで答えない。

 宮琵は苦笑いして続ける。

「さぞ幸せだろう。眠り石が破壊され、あの少年と出会い、恋を覚え、家族にも愛され、友人も出来た。お前は今、封印される前には想像もしなかった幸福の中にいるはずだ」

「貴様は……封が解けてからずっと、しろのことを見ておったのか?」

「そもそも眠り石に雷を落としたのは俺だからな」

「何――?」

「俺には分かるんだよ、任氏。伝承の中に残されている、封印される前にお前が行っていた所業の理由がな。お前は自覚もしなかっただろうし、もう自覚する必要も無くなったのだろうが」瞬く。「親の前で赤子を食ってみせた。男に女房の死体を抱かせた。子供たちを脅して相撲をとらせ、負けた順に殺した……。全て、お前の中にあった、ある感情がさせたことだ。ただ食いたいのなら、そんな悪戯をする必要は無かったはずだろう」

「何が言いたい……?」

「今のこの世界は、お前が羨望し、また切望していた世界だということだ。この小さな家の中が、お前が長く潜在させていた望みの具現だということだよ」

ゆっくりと部屋を見回し、部屋の隅に積まれたドッグフードの缶に目をとめる。

「お前は望まれるようになった。結局のところ、それだけが、俺の戯れの結果だった」

そしてシロを静かに睨んだ。

「こんなものを与えてやるはずじゃなかった」

「しろを――また一人にするためか……そのために……?」

「馬鹿馬鹿しい」宮琵は吐き捨てる。「それでは単なる戯れのリセットに過ぎない。俺の目的は、俺という存在もろとも、全てをゼロに帰すことだ。そのために麒麟の子を現世で揺り起こす」

「大輝を……?」

「おや」

宮琵の視線がシロの肩を通りぬける。

 シロは首を半ばまで振り向かせ、後ろを見た。

 ドアが開き、礼司が入ってくるところだった。

「あ――」

シロは目を見開く。

 礼司は入るなり初対面の男に気づき、身構えた。

「何だ君は……? いや、君が、まさか」

「逃げ――」

シロが言い終わらぬうちに。

 宮琵が風のようにシロの頭上を飛び越えた。

 次の瞬間、シロの眼に映ったのは、長く伸びた宮琵の爪が礼司の首をえぐる、実に淡白な光景だった。

 礼司は踊るようにくるりと一回転し、そのまま床に崩れ落ちた。

 そして痙攣する。

 うつ伏せた礼司の首を中心に、赤黒い水溜りがどくどくと広がってゆく。

 シロは、「あ……」と間抜けな声を上げるしかなかった。

 宮琵は指を振るって血液を散らし、シロの顔を見てにやりと笑う。

「守れなかったな」

わずかな返り血が額を流れる。

 礼司の痙攣は段々と小さくなり、そして、完全に動かなくなった。

 死体を見下ろして宮琵は呟いた。

「これが麟と契った男か。まあ、ただの人間ならばこの程度だろう」

そして廊下へと出て行こうとする。

 シロは全身の痛みに気を失いそうになりながら、ソファから立ち上がり、それを呼び止める。

「待……て……っ」

「ほう、よく立ったな?」

「殺してやる……貴様……」

「だがしばらくは寝ていてもらおうか」

指を鳴らす。

 脳髄に電流がはしり、シロの意識は闇に落ちた。


 二


 コンコン、とノックの音がしても、石楠花はベッドの中で丸まったまま動かなかった。

 ドアは勝手に開いた。

「邪魔するぞ」

どこかで聞いた声がした。

 石楠花は、がばりと起き上がる。

「あ……?」

コートを羽織った金髪の男と目が合った。

 この顔は。そうだ――この男だ。

「あんた……」

「覚えていたか、紅猫鬼の先祖返り」

男は笑んだ。

「そろそろ遊びは終わりだ。今日はお前のことを殺しに来た」

「な――」

「大人しくしていればすぐに済むぞ」

一歩近づく。

 石楠花は悲鳴を上げようと唇を開いたが、その刹那には口を塞がれていた。宮琵の動作は、石楠花の動体視力では、瞬間移動したようにしか見えなかった。

「う……」

「大人しくしていろと言っただろう」

「……っ!」

石楠花は目を見開き、宮琵の腕を掴む。

 しかし、抵抗空しくベッドに押し倒された。

 馬乗りになった宮琵は、石楠花の口から手を離す。

 それでも――石楠花は悲鳴を上げられなかった。

声が出ない。

 宮琵はにやりと笑った。

「言葉を奪わせてもらった」

「……っ、っ」

石楠花は宮琵の下で体をくねらせ、ただ口をぱくぱくとさせる。

 面白そうに宮琵はその顔を眺めて、それから石楠花の胸をパジャマの上から鷲掴みにし、乱暴に揉み始める。

「なるほど……今日びの娘はよく育っている。食ってしまう前に、遠い親戚の味見でもしてみるかな」

指先が胸に食い込む。

「こういう陰険な趣向を見せるのもいいだろう」

「――っ!」

石楠花は腕をばたつかせた。

 その爪が宮琵の手の甲を引っかく。

「ち」

ほとんど反射的に宮琵の腕が振るわれ、石楠花の頬に固い拳が叩きつけられる。

 石楠花の頭と視界が揺れた。

 宮琵は薄い傷口を舐めて、それから石楠花の目を見据えた。

 深く暗い瞳だった。

「……。もういい」

 そして、宮琵の手が変じるのを石楠花は見た。

 黒い毛に覆われた異形の手。

 その指先が揃えられ、石楠花の胸部に没入する。それはまるでスローモーションだった。

 ぼきぼきとあばら骨の折れる音、筋肉の切れる音、そして心臓の潰れる音が――

 石楠花の聞いた、最期の音になった。


 三


 ドアが突然に開き、孫娘の無残な死骸が放り込まれただけで、老人が我を失うには十分だった。

 小梅が足を伸ばして座っているベッドに寄りかかり、床に胡坐をかいたまま、石之助は、呆然と眼前の骸を見下ろしていた。

「……石楠花?」

「ああそうだ」

宮琵はもはや石楠花の骸には一瞥もくれず、石之助に手をかざす。

 それだけで石之助は浮き上がり、宮琵が腕を横に振ると、そのまま本棚に叩きつけられた。

「くあ……っ!」

うめきながら床に落ちる。

 宮琵は小梅に視線を向けた。

「起きていたようだな」

「お前――っ」

小梅はベッドから跳ね上がり、空中で両腕を振りかぶったが、宮琵の目から放たれた緑光の波に吹き飛ばされ、天井の隅に激突して落下した。

「きゃあっ!」

「手、前ッ――」

「動くんじゃない!」

宮琵は苛ついた怒声とともに、立ち上がりかけた石之助に片手で術を放つ。

 それは三本の、赤い光の杭だった。

 石之助の右肩に、脇腹に、左足に、杭は同時に突き刺さり、部屋の隅へと縫い止める。

「――っ! ぐ、あ、ああ――ッ!」

石之助の悲鳴に構わず、刺さった杭は爛々と光を放っている。

 宮琵は小梅に歩み寄り、髪を掴んで体を高々と持ち上げる。

「どうだ、抵抗できるか?」

「う……」

「何も出来まい。ここは俺の結界の中だし、今の光は妖怪の体の動きを奪う。お前など、ただの弱った小娘に過ぎんさ」

にやりと笑みを戻す。

 石之助は食いしばった歯の奥から、くぐもった声を絞り出す。

「手前――何、を」

「冥土の土産に面白いショーを見せてやる。孫娘でやっても良かったかも知れないが」

小梅を片手で持ち上げたまま、石之助に顔を向ける。

「火高の代で調べはついていたんだ。この、山ノ蛾の娘を保護したのはお前だそうだな? ご丁寧に実家へ連れ帰り、入神へ入家する手引きまでしたとか」口元を吊り上げる。「そうとう大切なのだろう」

「手前……その手を……」

「確かにこれはいい女だ」

空いた手を小梅の寝間着の襟にかけ、そのまま勢いよく引き下ろす。

 ボタンが次々に弾け飛び、包帯を巻いた胸があらわになった。

「や――っ」

「ふは。おい、この顔を見ろ。お前に見られて恥ずかしいらしい。ますます面白いじゃないか」

笑いながら、指先で小梅の腹をくすぐるように触り、そしてその指をへそに這わせる。

 小梅はその腕を掴んで身をよじる。

「や……めて……っ!」

「心配するな、十分に満足させてから殺してやるさ。そこの老いぼれがちゃんと喜べるよう、お前もせいぜい声を上げてみせろ。艶っぽく、哀れっぽくだ」

宮琵は小梅をベッドに投げ捨てる。

 石之助は叫んだ。

「宮――琵――ッ!」

「大人しく見物しているがいい」

宮琵は石之助を横目で見つつ、悲鳴を上げる小梅の上に圧し掛かった。

 石楠花の骸が血の匂いを放つ部屋の中、石之助の叫びと小梅の悲鳴、そして宮琵の笑い声が交じり合い、やがて――小さなベッドがぎしぎしと軋みはじめた。


 四


 バスにも乗れず、ひとり歩いて家に帰る途中、何を考えていたかはよく覚えていない。

もしかしたら何かを呟いていたかも知れないし、涙を流していたかもしれない。

ただ、耳に残った夜々の歌声だけを、反芻していたかもしれない。

鴉がやけに鳴いている気がした。

 大輝が家に着いたのはすっかり暗くなってからだった。

 皆にどう言おうか――それすら考えもせず、大輝は玄関の鍵を開け、ノブを回した。

 ドアをゆっくりと引き開けると、階段の下に腰掛け、黙って下を向いたシロの姿が目に入った。

「……? シロさん」

靴を履いたまま玄関から上がり、廊下を歩いて、その肩に手を置いて揺する。

「シロさん――」

もう一度揺する。

 シロはようやく顔を上げた。目が赤く腫れている。

「大輝……」

「……どうしたんですか」

「う――」

シロの目から涙が溢れる。よく見れば口元には乾いた血がこびり付いていた。

 再び下を向いて膝を抱えたシロを見下ろし、大輝は立ち尽くした。

 ……。

他の皆は?

父は。

石之助は。

小梅は。

石楠花は。

 大輝は居間の中を覗き見る。

 誰もいない。

 二階だろうか。

 階段に足をかけた大輝の袖を、シロの手がつかんだ。

「……駄目じゃ」

「え――?」

「行ってはならぬ」シロは顔を上げない。「行っては……見てはならぬ」

「シロさん……何言って」

大輝は笑う。

「何言って……だって、それ、どういう……」

大輝はただ笑う。

 シロの手が、大輝の腕を思い切り引いた。

 大輝はバランスを崩して倒れこむ。

 シロの胸に抱きしめられていた。

「……。ちょっと……シロさん?」

「どこか、どこかへ、行こう」シロの声は狂ったように震えていた。「どこかへ逃げよう。遠く……宮琵の手の届かぬところまで……二人でどこか、遠いところへ……どこか、誰も知らぬ、遠くの地へ……」

がくがくとシロの体が揺れている。

 大輝は黙っていた。ただ、シロの胸の中で、静かに思考を止めた。

 どうやら皆、死んでしまったらしい。

それだけが分かった。


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