第十章【夜々 ―よよ―】
薄暗く、恐ろしく広い畳敷きの空間。
夜々自身は覚えているはずもないが、ここは夜々と小梅が初めて出会った間であった。
入神の本家屋敷、その地下にある家長の間――遠見の間である。
音は無い。
正座をした夜々の向かう正面には、薄い簾が下がり、その奥だけが、蝋燭の光で煌々と黄色に揺らめいている。
漏れる光が夜々の顔を照らす。そこには夜々と、簾の奥に横たわる人物のほかには、誰の姿も無かった。
夜々は恭しく頭を下げた。
「――お久しぶりです、遠見様」
「……来ると思っていたわ」
老いた女の落ち着いた声が返ってくる。
夜々はゆっくりと顔を上げる。
「夢見に御座いますか」
「ええ……久しく無かったことだけれど」
そう言って、老女は簾の奥で咳き込んだ。
立ち上がりかけた夜々を、老女は制する。
「いいのよ、大丈夫。それより――あなたは私に何かを訊ねに来たのね」
「……ある男のことについて」
夜々は頷く。
「火高兵蔵という男のことを、遠見様はご存知ですか」
「火高――」老女は穏やかに答える。「もちろん知っているわ。お国に雇われ、あやかしのことを調べた人ね」
「左様に御座います」
夜々はまた静かに頷く。
溜息が聞こえ、老女の言葉は細く続いた。
「あの人は、消えてしまったのよ」
「……消えた……?」
「そう。戦が終わった後、施設で共に暮していた、我ら一族の女をひとり連れてね」
「入神家の女を連れて――逃げ亡せたということですか」
「駆け落ち、というのかしら?」
老女はあどけない少女のような口調で言う。
「ほら、私たちの婚姻は定められているものでしょう……? もし縁の無い人が私たちの誰かと結婚をしようと思ったら、二人で逃げてしまうほかに無いわ」
「……見つかりはしなかったのですね」
「ええ。でも――」
老女は一度黙り、それから再び溜息をついた。
「それから暫くして、火高さんの連れて行った子の魂が、消えてしまったわ」
「女は死んだ――」
「ええ」
老女は簾の奥で、横たわったまま、こちらに顔を向けたようだった。
「けれど、それと一緒に、何か恐ろしいものが生まれたのも分かった。とても空ろなものよ。でも……どんどんと大きくなってゆく」
老女の声が揺れた。
「ああ……夜々……」
発する言葉が歪み、震える。
「見えるわ。見えてしまった――ああ、何ということなの」
蝋燭の炎が激しく揺らめく。老女はうめく様な声で言った。
「それは……それはもうすぐ……あなたを」かすれる。「殺してしまう……」
「遠見様――?」
夜々は立ち上がる。
静かな寝息が始まった。
――眠ったのか。
夜々は簾に伸ばしかけた手を降ろす。
遠見の眠りは長い。このまま半月は目を覚ますまい。
夜々は広い空間に立ち尽くし、自らの両手を見る。
「私が……」
冷たい怖れが足下から這い上がってくる。
「死ぬ……?」
第十章【夜々――よよ――】
一
十一月とは思えぬ暖かさの、あまりにも穏やかな昼下がり。
大輝は左手に食事を乗せた盆を乗せ、石楠花の部屋の前に立っていた。
「……しゃくネエ、入っていい?」
扉越しに声をかける。
返事は無かった。もう三日目になる。
大輝は黙ってノブを回し、部屋の中へ足を踏み入れた。
義姉は昨日と変わらず、ベッドの中にいた。壁を向いているので顔は見えない。
大輝はその姿を横目に、勉強机の前まで歩み寄る。
机の上には、昨日運んだ食事が、全く手のつけられていない状態で残っていた。
「……また食べなかったんだ」
大輝は呟きつつ新しい食事を並べ、代わりに、乾ききった白米や冷めた煮つけを片付ける。
それからもう一度石楠花を見た。
布団の中の石楠花は動かない。
大輝は――考えた挙句、昨日と同じことを言った。
「俺、しゃくネエが元気になるの待ってるから」
返事が返ってこないことは分かっていた。
そして大輝は部屋を後にした。
廊下へ出て階段を下りる途中、下で待っていたシロと目が合う。
シロはもはや強がることもなく、心配をあらわにした顔でこちらを見上げていた。
「石楠花はどうした様子じゃ?」
「昨日と同じです」
大輝は盆を手に階段を下り、シロに昨日の食事を見せる。
「ほら」
「――ふむ」
シロは一瞥して眉をひそめ、二階を仰ぎ見る。
「これで三晩の食うや食わずか。水もろくに飲んでおらぬではないか」
「はい……」
「小梅は腹が万全に治っておらぬゆえ、何も食えぬのは仕方がないが……石楠花はもう、体のほうならば、すっかりと治っておる。やはり心持ちの問題か」
「……色々ありましたから」
「参ったのう」シロはしょんぼりと下を向く。「折角、精のつくものを食いやすいよう料理しておるのじゃが」
肩を落とし、居間のほうへと戻ってゆく。
残された大輝は、シロにかわって二階を見上げた。
「しゃくネエ……」
下唇を噛む。
水の流れる音がして、父が廊下の奥にあるトイレから出てきた。
大輝は振り返る。
「親父――」
「まだ食べないのか、石楠花は」
ファスナーを直しながら父は問う。まだ背を曲げると痛いのであろう、下を向く姿勢が不自然である。
大輝が頷くと、父は小さく「そうか」と言い、シロと同じく居間のほうへと歩いてゆく。
「取り敢えず私たちもシロさんの料理をいただくとしよう。腹の減った状態で物事を考えても、大抵の場合はろくな結論が出てこないものだ」
いつもと変わらぬ平坦な口調でそう言い切り、そのまま居間へと消えて行った。
大輝は溜息をつく。
そう――あれから三日が過ぎていた。
父は仕事を、大輝と石楠花は学校を休み、ろくに外へ出ることも無く、ただ家の中に閉じこもっている。
小梅は相変わらず床についている。まだ腹部の傷が完全には癒えないのだそうだ。シロのような大妖ならばすぐに治ってしまうらしいが、生まれて百年も経たない小梅では、そういうわけにもいかないらしい。誰もいないアパートへ移してしまうわけにもいかないので、今のところはまだ大輝のベッドに寝かせており、そのために大輝はシロと同じく、居間のソファで眠っている。
石之助は、神出鬼没と思われる宮琵の襲撃を警戒してか、この三日間、ろくに横になっていないようだ。時々ソファに座って目を閉じていることもあるが、定期的に小梅のことも看ているので、それすら長い時間ではない。
父は何を考えているのか知れないが、少なくとも外面的には、まるで何事も無い休日を過ごしているかのように、いつもの如く眠たそうな面持ちで家の中をうろついている。異形と化した石楠花の一撃を食らって三日しか経たぬのに、よく飄々としていられるものである。
そしてシロは――
シロはつとめて普段どおりに振舞っているようだが、その顔は明らかに憔悴していた。
恐らく彼女は石之助の何倍も……それこそ一秒も休むことなく、ぎりぎりのところまで神経を研ぎ澄ましているのだろう。大輝を心配させまいと、夜は毛布にくるまって横になっているが、それが眠ったふりであることは一目瞭然である。
確かに夜々が不在である今、宮琵という男を相手にして戦いを演じられる可能性があるのは、シロだけだと言える。
それでも、文字通り一睡もせず、精神を削り、懸命に周りの世話を焼くシロを見ていると、大輝は胸が痛くなると同時に、何の力にもなれない自分への情けなさで身が縮む思いがした。
今もシロの作った料理の匂いが廊下に漂っている。
「――畜生」
小さく自分に悪態をつき、大輝は居間へと入って行った。
シロと父、それから口数の少なくなった石之助と昼の食卓を囲みながらも、大輝は悶々と考えていた。
自分に出来ることは何一つ無いのか。
シロのように強くもなく、石之助のように色々な知識があるわけでもなく、夜々のように賢くもなければ、父のような落ち着きがあるわけでもない。
唯一、母から受け継いだ麒麟の力も、あの石落との戦いで発現したきり、全く使いこなせる気配も無い。今にして思えば母が力を引き出してくれたのだろう。
それに、夜々の言うところによれば、あそこが常世の中だったのも幸いといえば幸いだったようだ。麒麟は三次元の歴史や因果に多大な干渉をすることが可能な神獣だが、そのぶん、力の発現には様々な制約が付きまとうという。要するに、この現世でおいそれと能力を開放することは出来ないということだろう。
しかも――これも夜々が言っていたことなのだが、もし何かの間違いで能力が開放されてしまい、暴走が起きた場合、この三次元全体が危険にさらされてしまうらしい。たかが自分ひとりのせいで宇宙がどうにかなるなどと、大輝自身にとっては全く信じられぬことであるが、語る夜々の顔はいたって真剣だったので、どうやら笑い飛ばせる話では無さそうだ。
大輝は閃光の槍で石落を両断した際、同時に、常世の中に構築された三次元空間すら瓦解させ、消滅させてしまった。あそこが現世と隔絶された空間だったから良かったようなものの、この地球上で同じことをしでかした場合、恐らく瓦解は三次元全体に及んでいたという。
どうも因果というものは、その一部に矛盾やほころびを発生させてしまうだけで、連鎖的に全てが消えうせてしまうような、完全で繊細なものであるらしい。麒麟はその因果に「部外者の立場から」アクセスし、改ざんする権限を持った存在なのだそうだ。
夜々の話をまとめれば、麒麟の力は発動が難しい上に恐ろしく危険で、現実的には使用不可能なものだということだ。
使えない力など役にも立たない。
大輝は結局、守られるばかりで役に立たない存在なのだ。
心を折られて部屋に閉じこもった石楠花を思い、憔悴したシロの顔を横目で見つつ、大輝は心中でうなだれた。
静かな食事が終わり、シロが皿や茶碗を片付け終えた頃、インターホンが鳴った。
警戒しつつ一同が玄関へ行くと、来訪者は、入神の本家から帰ってきた夜々であった。
夜々は靴を脱ごうともせずに言った。
「ただいま」それから四人の顔を見比べる。「全員でお出迎えか。慎重で大変良いことだが、そうして並ばれると少し威圧感があるな。石之助君」
「ん――おう」
「母様の容態は?」
「時々起きることもあるが、まだほとんど一日中眠ったままだ。今も寝てるぜ」
「そうか。話もしたかったのだが……」
「それにしてもお前、どんなことを調べてきたんだ?」
「うん。本家で遠見様に会った。例によってお目覚めを待つ時間は長かったが、その甲斐あって興味深いことが分かったよ。火高兵蔵は、施設閉鎖後、我ら一族の女をひとり連れて逃げたそうだ」
「何……?」
「どうもその後に、恐ろしい力を持った子供が生まれたらしい。同時に女は死んだようだが――これで少なくとも、宮琵がどうやって生まれた存在なのかは分かったな。あれは誤算が生んだキメラだ。そして」玄関に華奢な腰を掛ける。「火高は石落の血をひく……いや、石落の息子だったと考えた方が自然だろう」
「やっぱりそうなるか……」
「どういうことじゃ?」
腕組みするシロに夜々は続ける。
「そう考えれば宮琵の能力との辻褄が全て合うのさ。石落の縛術と女怪の妖力、そして入神家の遺伝子がもたらす神気――それら全てを一つの肉体に内在させているのが、あの宮琵という存在だと考えればね。そして、火高が石落に謀反を企てた張本人だと仮定し、宮琵が妖怪を捕食することと併せて考えたとき、一つの流れが見えてくる」
「石落が選んだ女怪の一人……火高の母親になった女は、捕食した妖怪の力を自分のものにする能力を持っていた」父がぽつりと言う。「そういうことですか」
恐らくは、と夜々は頷く。
「それだけでは何の武器にもならない代わりに、他の妖怪を食えば食うほど、際限なく力が増大してゆく。その能力を継承した火高は、石落の与り知らぬところで次々と妖怪たちを食らい、石落以上の力を蓄えた上で、他の半妖たちの腹に仕込まれた枷を解き、謀反を企てた。そしてそれは成功……火高は石落の肉体をも捕食した。その後に思念生命体として復活した石落も眠り石に封印。石落の能力の源も、元はといえば紅猫鬼の妖力だ。天才術師の力を丸ごと受け継いだのなら、もはや難しいことでもなかったろう」
「謀反の理由は?」
壁に寄りかかるシロ。
夜々は、うん――と頷く。
「それはきっとシンプルな理由だろう」
「てんぷる……固めるてんぷるか?」
「それは使い終えた家庭用の油を固める薬品だよ。君はすっかり主婦みたいになっているな。――そうではなく、簡潔な理由ということだ。わざわざ異形の研究家を装って軍部に取り入り、研究所の施設長になって妖怪を集め……その上、戦争が終わった後も、山ノ蛾の娘である母様の身柄を求めていた。それはつまり、彼がまだまだ力を欲していたということになる」
「石落の後釜狙い、か」石之助は舌打ちする。「妖怪を集めて世の中を操ろうなんざ、時代遅れも甚だしいぜ」
「そうでもないさ。異形というものに対し、人間社会はあまりに無防備だ。知識も無ければ心構えも無い。君らが退治したという下がり腕や食み虫に、この町の人々はどれだけ殺された? そしてそれを誰と誰が認識している? 大体、例えばだが、そこにいる任氏がこの国の重要人物を皆殺しにして政治機関を麻痺させ、自衛隊の基地や横須賀のベースを全て破壊するのに、いったいどれだけの時間が必要だと思う? 本気を出せば半日でも十分過ぎるだろう。……まあ、任氏ほどの妖怪はそういないが、人に化けられる妖怪をあちらこちらに潜り込ませ、一斉に決起させれば、この国くらいなら一日で乗っ取れるさ。クーデターが目的だったとは限らないがね」
「本来しろたちは人間の作った世などに興味を持たぬゆえ、そのようなことはなさぬがな」
「そうだろうがね」
「待って下さい。じゃあ――今夜々さんが言った考えが正しければ」
黙って聞いていた大輝が口を開く。
「宮琵って奴は、つまり、火高っていう男が入神家の人に生ませた、自分の部下って事ですよね? 石落がそうしてたみたいに……でも……あれ?」
「宮琵は既に父親を殺したと言っている」父が代わりに言葉を続ける。「しかしそれが、火高が石落を殺したのと同じ理由でしたこととは考えづらい。私は宮琵と会ったわけではないが、彼の行動は、まるで我々をいたぶっているかのようだ。単純にシロさんや小梅さんの力が必要ならば、何より先に彼女たちを拉致するか、捕食しようとするのが当然でしょう。余計なことをする必要は無いはずです」
「そう――」夜々は指先で横髪を撫でる。「しかも眠り石はもう消えてしまった。石落や火高の能力をそのまま継承していたとしても、妖怪を閉じ込めておく牢獄はもはや無い。新たな両界のひずみが生まれたという兆しも無かったし……では、宮琵が妖怪を集めた後の使い方は、ただ捕食するのみということになる」
「宮琵という男は、火高と違い、親の立場を乗っ取ろうとしているわけではなく……全く独自の意思で動いている……?」
父の呟きに夜々は頷く。
「そう考えた方がいいだろうな」
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「さて――これ以上の詮索は石之助君に任せるとして、ちょっと大輝くんを借りてもいいかな」
「何じゃ突然に」
「麒麟の血を引く者に、来て欲しいところがあるのさ」
大輝を見て、にやりと笑う。
「何……すぐに済むことだ」
二
階下で、また玄関のドアが開閉する音がした。
石楠花はベッドの上で体を起こし、窓の外を見る。
大輝が夜々に連れられて歩いてゆく後姿が見えた。
――どこへ行くんだろう。
思いながら、また体を横たえる。
静かな部屋の中には、シロの作った食事の匂いが漂っている。
食事の用意……シロが来る前は自分の仕事だったことだ。
いつの間にかそれは二人が交互にする仕事になり、そして今は、シロの役目になっている。
ちくりと胸が痛むのを感じ、石楠花は唇を噛んだ。
――何を考えてるんだよ、あたし。
この胸に刺さっている棘が、役目を取られたことへの不満であるとすれば、あまりにも理不尽な嫉妬ではないか。
自分が勝手に寝込んでいるくせに。
シロはあたしのことを心配してくれてるのに。
頭でいくらそのように考えても、もやもやとした黒い霧のようなものが、胸の中から出て行こうとしない。
なんて醜いんだ。
石楠花は布団の中で膝を抱えた。
「……。最低……」
一人呟く。
そう。石楠花は、こんな状況で自分のことしか考えていないのだ。
「ごめんよ……大輝」
あたし、もう駄目だ。
駄目だって分かった。最初から駄目な奴だったんだ。
もうお前のことも諦めるよ。
あたしにそんな資格無いから。
困らせて悪かった。
気持ち悪かったよね。
もう傍にいられないよね。
でも――
だからってあたし、これからどこへ行けばいいのかも分からないよ。
どうすればいいのか――。
布団が重い。
石楠花はその中に顔を埋め、ただひたすらに眠りを待った。
三
バス停のほうへ向かって歩き出した夜々に、大輝は後ろを歩きながら問う。
「あの、行くってどこへですか?」
「うん――」
夜々は振り返らない。
「そうだね、どこへ行こうか」
「へ?」
「思案のしどころだな。私は男でも女でもあるが、相手の君が男である以上、女という立場にいなければならない。まあ幸いにして見た目も中身もほとんど女であるわけだが、ここは素直に我侭でも言うべきなのか……しかし私はそういう性格でもないしな」
「あの、何言ってるんですか?」
「君はどこへ行きたい?」
「あの……」
「友達――いや、恋人か。そういえば君は、正式に誰かと付き合っていたことがあるのかね」
「いえ、無いですけど」
「ではもし君に恋人がいたとして――それが同い年くらいの人間だったとして、君ならばその子をどこへ連れて行く? 私はどうにも疎くてね」
「はあ……?」
大輝は付いて行けずにただ口を開け、それから、仕方なく答えた。
「まあ、俺もそういうの疎いですから、今いちイメージ湧かないですけど……友達なんかはゲームセンター行ったりカラオケ行ったり、あと買い物したりしてるみたいです。でも、それが今何の」
「ゲームセンターにカラオケか。まあ、君となら楽しいかも知れないな」
夜々は肩にかけたバッグを持ち直す。
「じゃあやっぱり駅前を回ってみるか」
「ちょっと待ってくださいよ。もしかして今から……二人で遊びに行こうっていうんですか?」
「そうだよ」
「んな無茶な!」
大輝は立ち止まる。
「こんな時にどういうつもりですか! こうしている間にも」
「どこにいても同じことさ」夜々も立ち止まって振り返る。「宮琵に手傷を負わせることができた任氏なら、形振り構わなければ勝ち目があるかもしれないが、それだって、私たちを守りながらでは完全に不可能になる。いや――希望的な観測を抜きにして考えてみると、相手の居場所すら分からず先手も打てない以上、そもそも任氏の勝つ可能性自体が完全なゼロか」
「そんな……」
あまりにも突然で、あまりにも悲観的な発言である。もはや今までの言動と矛盾しているともいえる。
絶句する大輝に、夜々は淡白に続けた。
「一つところに固まっていればその場で全滅し、ばらけていれば順に狙われる。結局それだけの話だ」
夜々はまた歩き出す。
「それより――今日だけは何も考えず私に付き合ってくれないか」
「そんなこと言ったって……」
追いかける大輝に、夜々は背中を向けたまま言った。
「頼むよ」
「……」
大輝はなぜかそれ以上の文句を言えなかった。
夜々の小さな背は、どこか捨て鉢な空気を纏っていた。
丈の長いコートが歩みに合わせて揺れる。
それを見つめながら、大輝は夜々の後を黙って歩いた。
やがてバスに乗り込んだ二人は、最後部の座席へ腰を下ろした。
発車すると共に大輝は呟く。
「……補導とかされませんかね」
「今日は土曜日だからね。午前中で授業が終わったと言えば大丈夫だろう」
ガラス窓を見る。
「それにしても、少し緊張するな――。大輝くん、私の見た目はどうだ。変に目立ったりはしていないかい」
「いや、別に変じゃないですけど」
「ならばいいんだが」
「あの」
「ん」こちらを向く。「何だい」
「俺一円も無いですけど」
「私が持っているから心配しなくて良いよ」
「……でも」
「ああ――」
夜々はなるほどと頷く。
「見た目にして同じ年頃の女にいちいち金を出されるのは、君にしてみれば、見てくれの良い話ではなかろうね。あらかじめ幾らか渡しておこう。二十万くらいでいいかな」
「……いや、いいです。なんでもないです」
大輝は財布を出しかけた夜々を止め、それから下を向く。靴紐を結びなおそうにも、きっちりと結ばれていてほどける気配も無い。
いきなり何だこの状況は。
大輝は黙って考える。
命が危ないっていうのに、二人で遊びに行くなんて……。これじゃまるでデートじゃないか。
この人のズレた感覚は分かってたけど、常識的な判断力だけはある人だと思ってたのに。
ちらりと夜々を見る。
夜々は黙って前方の座席を見ている。
……何考えてるんだろう。
大輝が項垂れると、その腕に、夜々の腕が絡みついてきた。
驚いて顔を上げる。
「え――?」
「こうかな……いや、こうか」
そのまま寄りかかってくる。
大輝は硬直した。
「あの――」
「ん」
「何してるんですか?」
「アベック……いや、カップルというのか。それらしい姿勢になろうと思ってね。これで合っているだろう?」
「……たぶん」
「よし。では駅に着くまでこのままの姿勢でいようか」
「はあ」
返事のような溜息のような曖昧な声を返し、大輝は目を泳がせた。
数少ない他の乗客たちのうち、特に誰も、こちらを見ているような様子は無い。当然だろう。最近では中学生のカップルが腕を組んでいる光景など、さして珍しいものでもないのだから。
しかし――
夜々は大輝の肩に横顔を寄せながら口を開いた。
「……なるほど。心地がいいな」
「え」
「幼い時分の私は甘えん坊で、暇があれば母様にくっ付いていた。だからこうして人の体温を感じると安心するよ」目を閉じる。「任氏もよく無意味に君の肩へ寄りかかっているが、彼女の気持ちも分からないでは無いな。長い時を孤独に生きてきた化生にとって、君のやわらかな温かみは、さぞかし気の休まるものだろう。彼女がよく男を床へ引き込んでから殺したというのも、知らず知らず、そうした欲求を満たそうとしていたのかもしれない。まあ……そのように空虚な性交渉では、いずれ本質的に満たされはしなかったろうがね」
「はあ……」
「君は彼女のことが好きかね」
「え? ――と」
大輝は再び目を泳がせ、一呼吸おいてから、観念して首を縦に振った。
「……はい」
「それは恋愛感情かい? それともただの家族愛に過ぎないのかな」
「……。分かりません」
今度は横に振る。
「でも……もしかしたら両方なのかもしれないです」どうして今こんな話をしているのだろう。「……あの人が俺にとってどういう人なのか、まだ俺自身、よく分かってないんですよ。姉ちゃんがもう一人できたみたいな感じもするし、母さんみたいな感じもしたりして。もちろん一人の女の人としても、俺は確かに魅力を感じてます……けど、それは」
頭をかく。
「俺がその気持ちのまま動いちゃったら、何か大事なものが無くなっちゃう気もするんです」
「彼女はいい女だ」夜々は言う。「器量も体も申し分ないし――まあ頭と性格には若干の問題があるが、何をおいても君に尽くすという点では、伴侶として最高の気質を持っていると言える。君の言いつけを素直に聞いて、その凶暴性や血を好む性質も今は形を潜めているようだし、それどころか家事洗濯まで感心にこなしている。そんな女が、健気に君の振り向くのを待っているというのに、まだ手を出すのを躊躇っているのかい」
「……。はい」
「あの狐変化とて、移り気な女という生き物の一人だ。君が躊躇っている間に、他のいい男に目が行ってしまうとも限らないぞ。なにせあのような上級の妖怪が人間に懐いていること自体、ほとんど奇跡のような状態なのだから」
「……待ってもらってるんです」
「待つ?」
「……、俺……あの人を泣かせたことがあるんです」
大輝は夜の浜辺でシロの流した涙を思い出しつつ、小さく語る。
「馬鹿だから――俺が馬鹿だから、ある日、とうとうあの人を泣かせちゃったんです。そのあと、シロさんどこかへ行っちゃって……俺、すごい必死で探して」
宿の周り。遠くの浜。誰もいない駅。
「それで、さんざん走り回った後に会えたんですけど……その時に」
「何か約束を?」
「約束っていうか」また頭をかく。「シロさん、言ってくれたんです。ゆっくり大人になりながら考えろって。その言葉に俺」
「甘えているのか」
「……」返す言葉も無い。「はい」
「なるほどね――」
夜々は目を開け、腕を組みなおす。
「意外だな。任氏は一方的に稚拙な愛情をぶつけるばかりだと決め付けていたが、君の心情を察して優先するだけの思慮も持ち合わせていたか。思ったよりも彼女の愛情は本格的なものらしい――しかし、それならば尚のこと、君の振る舞いは残酷で勝手だ」
ちらりと横目で見てくる。
「私は初めてあの妖怪を可哀想だと思ったぞ」
「……はい」
「まあ、君には君の思いというものがあるのだろうがね。君たちの関係は複雑怪奇だよ」
夜々は軽く溜息をつき、そしてまた目を閉じた。
「それで――君の義姉は?」
「しゃくネエ、ですか」
「彼女も君に熱を上げているようだが……君が彼女をどう思っているのか、今ひとつ私には分からない。ひょっとして――任氏が現れなければ、とっくにくっ付いていてもおかしくない関係だったのではないか」
「……そんな、こと」
「無いのかな」
「いえ――」
「任氏は何だかんだと言っても大人だ。しかし石楠花は……あの子は違う」薄目を開ける。「石字縛師の術を知っていようが紅猫鬼の先祖返りだろうが、あの子の本質はただの中学三年生に過ぎない。思春期の精神はとても脆いものだ。それが何を意味するかは分かるね」
「……」
大輝は唇を結ぶ。
夜々は――目を伏せた。
「すまない。今あの子の話をするのは、君にとって酷だったか」
「……あの時、いつからいたんですか?」
「立ち聞きをしていたわけではないが、妖気の奔流に心のたがを外された彼女が、勢いに任せて何を口走ったかは、大方の想像がつく。あの子は――君に対して抱いていた、幼い独占欲を言葉にしてしまった。違うかな」
「……。よく分かりますね」
「正直に言うと、最後の言葉だけは聞こえてしまったからな。――それで君はどう感じた?」
「どうって……」
「あの子の心を醜いと感じたかい」涼やかな声。「あの子を見る目は変わってしまったかい」
「変わりません」
それだけは即答できた。
「結局、俺のことを好きだって言ってくれただけですから」
「その好意が自分勝手な支配欲と同じものだとしても?」
「そんな小さなことくらいじゃ」苦笑する。「その程度じゃ、俺はしゃくネエのことを嫌いになれないんですよ」
「……そうか」
夜々は微笑んだ。
「君は――なるほど――そういうことか」
くっく、と喉を鳴らす。
「だからあの子も、任氏も……」
「夜々さん……?」
「参ったな――」
腕がゆっくりとほどけてゆく。
夜々は、今度は窓側に寄りかかり、ガラスの外に視線を流した。
「私は何をしているんだろうな……敢えて未練を作る必要もないというのに」
ぽつりと呟く。
「それでも――」
続く言葉は聞こえなかった。
アナウンスと共に、バスが終点の駅前停留所に到着したのである。
停車と共に夜々は立ち上がった。
「さあ、行こうか。これから日の沈むまで、何もかも忘れて付き合ってもらうよ」
「……はあ」
大輝も生返事で腰を上げた。
そしてバスを降りた二人は、まず西口のゲームセンターに向かった。
中途半端な時間であるだけに店内は比較的空いており、そのおかげで、夜々のいくつかの目立った行動――例えば他人がプレイしている格闘ゲームの画面を真横からのぞき込んだり、難度の高いガンシューティングを次々にワンコインクリアしてゆく光景などを目撃した者の数も、最少限で済んだ。夜々は興味を示していたが、パンチングゲームにだけは最後まで決して近づかせなかった。
大輝が唯一得意とするクレーンゲームの景品を胸に抱え、夜々が「次へ行こうか」と言ったのは、一時間半が過ぎた頃だった。
「今度はカラオケだな。しかし何だろうか、この縫いぐるみは……アニメーションのキャラクターかい」
「えっ……それ知らないんですか」
大輝があげたその縫いぐるみは、世界で最も有名なネズミの友人、世界一よく喋るアヒルだった。
夜々は「見たことがあるような気はするけれど」と首を傾げたが、やがて微かに笑った。
「まあいい。ありがとう」
「いや――そんな」
夜々からもらった百円玉で取った景品なのに、律儀に礼を言われるのも気まずい。大輝は半笑いで首を横に振った。
次に向かったカラオケボックスも空いていた。
店員に通された薄暗い個室で、ソファに腰掛けた夜々が開口一番に言ったのは、「しかし歌えといわれても困るな」という、至極消極的な文句だった。
向かいに腰を下ろした大輝は肩を落とした。
「じゃあどうしてカラオケに来たんですか?」
「そうするのが普通だと君が言ったからだ」
夜々はアヒルとバッグをテーブルに置いて、コートを脱ぎながら涼しい声で答える。
「カラオケボックスには、流行り始めのころ、母様に連れられて何度か来たことがあるが……君を相手に歌うのは恥ずかしいよ」
「恥ずかしいですか」
「私はあまり上手くなくてね。まずは君が歌ってくれないか」
大輝が返事をする前に、夜々はリモコンを手に取り、歌本を開く。
「誰のどの曲がいい?」
「えっ……」
こっちだって恥ずかしいのに。
ろくに考える時間も与えられず、大輝が苦し紛れに選んだ曲は、よりにもよって洋楽だった。レディオヘッドの「クリープ」である。単純に好きな曲のタイトルを口走ってしまったのだが、大輝はそもそもカラオケによく来る人間ではなく、英語の曲など歌ったことがあるはずもない。
マイクを握り、歌い出した声は完全に裏返った。
夜々は大輝が必死に歌う姿と画面とを交互に見比べていたが、やがて立ち上がり、大輝の左隣へ移動してきた。
大輝が手汗に濡れたマイクを置いたころには、バスの中でしていたのと同じように、夜々の腕が大輝の左腕に絡み付いていた。
歌い終えた大輝は、自覚できるほど沈んだ声で言った。
「感想は言わなくていいです」
「うん」
夜々はこっくりと頷く。
大輝が、「じゃあ……歌いたい曲言ってください」と片手で歌本を開くと、夜々は首を振った。
「私はやっぱりいい」
「えっ」
そんな。
夜々は目線を合わせずに言った。
「次も君が歌ってくれ。私は聞いている方が向いている」
「いや……せっかく来たんだから歌ってくださいよ。俺ばっかりマイク握ってたらバカみたいじゃないですか」
「しかし――」
夜々は歌本に目を落とし、それから小さな声で言った。
「……じゃあ、ピーター・ポール&マリーのパフを」
「ぱふ?」
「あ、いい。私が探す」
「いや――大丈夫です。ええと……ピーターポール……」
大輝はぱらぱらと本をめくり、夜々の言った曲の番号を見つけると、それをリモコンに打ち込んだ。
「……これ、どんな曲です?」
「昔のフォークソングだよ」
「ふうん……」
ボタンを押して送信する。
曲はすぐに始まった。
静かなイントロの後、歌い出した夜々の声がマイクを通じ、スピーカーを震わせ始める。
大輝は――思わず夜々の横顔を見た。
「う……」
――上手い。
口元を引きつらせる。
どこが苦手なんだ。下手なフォークシンガーよりよっぽど達者じゃないか。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだのは、マイクを握る夜々の顔が、段々と紅潮してゆくのに気付いたからである。
大輝は横顔から目を反らし、背を深くソファにあずけて、画面と歌声に集中した。
落ち着いた曲と、澄んだ歌声。
心地よい音の波に目を閉じかけたその時、不意に歌が止まった。
再び隣を見ると、夜々はマイクを口から離して下を向いていた。
「あれ」
大輝は顔を覗き込む。
「夜々さん?」
「……駄目だ」大輝の腕を強く抱く。「無理だ」
「どっか苦しいんですか?」
「……いや」首を振る。「そうではなく、どうしても……身内以外の前で歌うというのは……やはり」
「そんなに上手いのに」
「上手くなんてないよ」
うつむいたままマイクを差し出す。
大輝は首を傾げる。
「え? 何ですか」
「……続きを」
「いや無理ですよ。俺この歌知らないし」
「頼む」
「たのまれても――」
「じゃあ、音楽を止め……」
マイクを置いてリモコンを取ろうとする夜々。
しかし、不自然な姿勢から不自然な方向に腕を伸ばしたもので、夜々は大輝の膝の上へ倒れこみ、そのまま足下へ崩れ落ちそうになる。
大輝は焦てて抱きとめた。
「ちょっ――」
「あ」
夜々が短く声を上げる。
大輝の手が、薄い胸を鷲掴みにしていた。
暫し時が止まった。
夜々は――大輝の肩に手を置いて、ゆっくりと体を起こした。
「……。すまない」
「いえ」
こちらこそ。
音楽は止まらずに流れ続けていた。
夜々はぽつりと言った。
「出ようか」
「え……あ、はい」
大輝が頷くが早いか、夜々は立ち上がり、最初に自分が座っていた場所へ戻ると、コートを着てバッグを持ち、アヒルの縫いぐるみを小脇にかかえて、何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
大輝はリモコンとマイクを片付け、急いでそれに続いた。
体を触ってしまったことで夜々の機嫌を損ねたのかとも思ったが、そういうわけでもなかったらしく、会計を終えた後の夜々は、すっかり元のとおりであった。
「さて。次は買い物にでも行こうか」
言いながら大輝の手を引き、無表情ながら意気揚々とカラオケボックスを出る。
途端、二人は立ち止まった。
というよりは大輝が立ち止まった。
もう、いつの間にか学校も終わる時刻だったのか――隣の席の大野良恵が、店の前を通り過ぎようとしていたところへ、ちょうど鉢合わせてしまったのである。
無論のこと、良恵もこちらに気付いて歩みを止めた。その視線は露骨にも、さも親しげに繋がれた二人の手に注がれた。
「あ……れ?」
そして大輝の顔と夜々の顔を見比べる。
「ええと」
半笑いの良恵は混乱しているようだった。人差し指を泳がせる。
「取り敢えず――二人とも病気じゃなかったの?」
「あ……その……」
大輝の頭が考えたところで、上手い嘘など出てくるわけもない。
夜々が静かに言った。
「大野さん。すまないが、何も聞かないでくれないか」
「え?」
「そして誰にも何も言わないでほしい」
「入神さん……」
良恵は黙って夜々の瞳を見つめていたが、やがて重たく頷いた。
「……うん、そっか。何だか分かんないけど二人はいつの間にかそんな感じなんだね」
「ちょっと待った」
「いいの! 殿山くんは何も言わないでいいの! 入神さん」夜々の肩に手を置く。「あたし二人を応援するよ。顔はつり合ってないけど、何となくお似合いだよ、二人とも」
「そうかい」
「じゃあね」手を離して歩き出す。「また学校でね」
「おう……」
「あたし絶対秘密にするからね!」
手を振りながら力強くそう言い、大野良恵は去っていった。
残された二人。
夜々は感嘆の息をついた。
「勢いのある子だね……」
「女子ってああいうもん――ってのは言いすぎですけど、まあ、中学生ですから。俺もだけど」
大輝は苦笑う。
そして二人はようやく歩き出した。さすがに夜々も手を繋ぐのはあきらめたらしく、お供のアヒルは両腕で抱えられる待遇になった。
それから駅ビルの中にある本屋、CDショップ、アクセサリーショップを立て続けに回り、少々歩きつかれたところで、二人はやはり駅ビル内のカフェテリアに寄って、ホットドッグと飲み物を買った。
しかし軽食を取るにしても、主婦や子供が右を左を行き来する店内では何となく落ち着かず、どちらが言い出すともなく、屋上で食べることになった。
やはり夕方過ぎで、しかも季節が季節であるだけに空気はそれなりに冷えていたが、ここ最近にしては暖かいほうである。
二人は屋上隅のベンチに並んで腰掛け、同時に息をついた。
昔はよくヒーローショーなどを催していたこの屋上だが、最近ではそうしたこともあまり無く、今日も子供の姿一つ見えず、ただ中央の時計台だけが、黙々と時を刻んでいた。
大輝はホットドッグの一口目をサイダーで流し込み、横目で夜々を見る。
夜々はまだ食べ物には手をつけず、先ほど買った文庫本を袋から取り出して、開いているところだった。
食べながら訊いてみる。
「……何の本ですか、それ」
「枕中記だよ」
片手で、ぱらら、とめくる。
「昔、中国で書かれた小説さ。ある男の枕元に仙人があらわれ、男の望む全てを叶えるんだ。何不自由ない生活――富と女と栄誉に満ち足りた人生を一方的に与えてくれる」
本を閉じる。
「男はその人生の中で全てを手に入れ、そして完全な満足を迎えて天寿を全うする。しかし、そこで男は目を覚ます」
「目を覚ます?」
「全ては一夜の夢だったのさ。男は寝床にいて、枕元にはやはり仙人が立っている」
「はあ……」
「夢の中とはいえ、一度全てを手に入れる経験をした男は、それからの人生を無欲に、勤勉に過ごしたという話だよ」
「へえ……」
「興味が無さそうな顔だね」
「そういうわけじゃないですけど」
パンから飛び出したソーセージをかじる。
「内容を知ってるなら、どうして買ったのかなと思って」
「読んだことがないからだよ」
夜々は本をしまってホットドッグの包みを開ける。
「どこかで内容は知ったが、ちゃんと読んだことはないからだ」
「なるほど」
「それにしても、もう夕刻も過ぎてしまったな」
暮れた空を見上げ、目を細める。
「今日は……無理矢理つき合わせて悪かったね」
「そんな今さら――」
大輝は笑い、サイダーのストローに口を付けてから問う。
「でも、どうしていきなり遊びに来ようなんて言い出したんです? もうそろそろ教えてくれてもいいですよね」
「うん……」
夜々は両手でホットドッグを持ったまま、口を付けようとしない。
「そうだね……」
下を向く。
大輝は首を傾げる。
鴉が鳴いた。
風が吹き――夜々はぽつりと呟いた。
「私は君のために生きてきた」
「え……?」
「君のためというよりは入神家の未来のためか。知っての通り、私の体は成長抑制を施され、元々あった女性器の他に、粗末ながら男性器も持っている。目的のための肉体だ」
また暗くなった空を見上げる。
「それに疑問を持ったことはないし、今だって疑問など持っていない。望まれて生まれた命なのだから、その望みに沿って生きることが当然だと思っている」
「そんな……」
「大輝くん。私と周りの者の名誉のためにも言っておくが、私の人生はさして不幸ではなかったんだよ」
月の隣を流れ行く雲。
「母様も本家の者たちも、私のことをとても大事にしてくれたし……それに私は、いつか来る出会いという、ささやかな楽しみも持っていた。君との出会いのことだ」
大輝を見る。
「私は意図的に世間知らずに育てられたが、そうして育った以上、それなりの喜びを見つけられるもので……他人の目からは滑稽に見えるかも知れないけれど、いつか現れるかもしれない伴侶のことを心待ちにしていたんだ。どのような相手だろうか。優しい人だろうか。男だろうか。女だろうか。私を愛してくれるだろうか。……そんなことを静かに、ずっと長い間考え、思い描いて生きてきた。それは私の楽しみだった。本当に――人から見れば、ずいぶん惨めで滑稽なのだろうけど」
冷めてゆくホットドッグを手に、苦く笑う。
「そして君が私の前に現れた。まだ幼い頃の君がね」
「えっ――?」
「実は君や淋さんとは、以前に会ったことがあって……あれは真夏の浜辺だった。私は本家から外出の許可を得て、行楽地の海を一人で見に行ったんだ。理由は忘れたが、どうしても海が見たくなってね。もしかしたら君との出会いを予感していたのかもしれない」
靴のかかとで軽く地面を叩く。
「君は赤い海水パンツをはいていて、淋さんはパラソルの下で君の姿を見守っていた。礼司くんは宿で寝ていたらしく、その場にはいなかった。私は神気を隠していたが、淋さんにしてみれば丸分かりだったようだ。すぐに声をかけられた」
懐かしそうに語る夜々の声は、いつもとは別人のようだった。
大輝は黙って話に聞き入った。
夜々は続けた。
「私が淋さんと話していると、気になったらしく、君がこちらへ駆け寄ってきた。そして私の顔を見上げて、挨拶をした。可愛かったよ」
思い出したらしく、くすりと笑う。
「それから私に、遊んであげるからこっちへ来いと言うんだ」
「げ……俺って……」
大輝は顔を赤くした。
「すみません……そんなこと」
肩を縮めて謝る大輝の横顔を見て、夜々はくすくすと笑った。
それは大人の笑顔だった。
ますます大輝は体を縮めた。
続ける夜々の面持ちは穏やかだった。
「それから二人で砂山を作って遊んだね。全く覚えていないかい」
「はあ……すみません」
「そうか。まあ、ずいぶん小さかったからね」
少し残念そうに夜々は頷く。
「一緒に歌も歌ったのだけれど」
「歌……?」大輝は首を傾げる。「パフですか?」
「違うよ」
夜々は笑い、そして小さく、柔らかな声で口ずさんだ。
「海は広いな、大きいな――」
「ああ。月は……上る……し……?」
大輝はつい続けて歌いながら、はっとした。
「あ――」
君の名前は?
たいき。おかあさんはそそぎ。おとうさんはれいじ。
そうか、ご両親の名前までよく言えたね。
おねえちゃんは?
私かい? 私は――
「夜々……」
私は夜々だよ。
よよ? へんななまえ。
そうだね。変な名前だね。
大輝は思わず夜々の顔を見つめた。
「あの時のお姉ちゃん――?」
「思い出したのかい?」
目を丸くする夜々。
大輝はしばらく硬直し――そして笑った。
「……、は」
笑ってしまった。
「ははっ……」
なぜ笑っているのだろう。
「ははは……。なんだよ……そっか……はは」
なぜ目頭が熱くなるのだろう。
夜々は感心した顔で言う。
「思い出してくれるとは思わなかった。よく覚えていたね、あんな小さい頃に、たった一度会ったきりなのに」
「いや……だって」
大輝はおかしさに手を痺れさせ、サイダーの紙コップを落としそうになる。
だって、あなたが原因だったなんて。
小学校の高学年に上がるころ、友達や女の子に「初恋はいつだった?」と聞かれて答えるたびに、早熟すぎると笑われた――その原因が、まさかあなただったなんて。
穏やかな人だったということ以外、何も思い出せず。ただ一緒に遊んだという思い出だけが……それすら、もう忘れてしまうほど時が経ってしまった今となって。
大輝は目じりを拳でぬぐい、それから大きく溜息をついた。
「はあ……。また会えてたなんて……全然気付かなかったなあ」
「私の見た目はほとんど変わっていないのにね」
「ほんとですよね……」
自分に呆れてしまう。
夜々はどこか満足そうな顔でホットドッグに目を落とし、そしてやっと一口目を食べた。
大輝は両足を投げ出し、さっき夜々がしていたように空を見上げる。
暗い空の中を雲が流れてゆく。
無言の時はとても長く、夜々が次に口を開いたのは、時計台の刻む時が六時をまわった時だった。
「――そうだ。そして――君に出会った時、帰り際に、淋さんは私に言ったんだ」
「……母さんが?」
「これから先、麒麟の血を継ぐ君の存在が見神の知るところとなり、今度は役目を果たすために、私が君の前に現れるようなことがあっても……決して無理強いはするなと」
サイダーを傍らに置く。
「それが例え定められた婚姻であれ、互いの思いが本物ならば、そこにはちゃんと本当の幸せが生まれる。だから結ばれるならば、君が私を愛してくれるように――そして私自身も君のことを愛し、望んで共にあるように努めろと……それが彼女と私の間に交わされた約束だった」
顔を上げ、大輝の目を見る。
「私の望みも同じだ。私は君と本当の恋がしたかった。そして君の伴侶となりたかった」
「夜々さん……」
「そうすれば、ようやく私の空虚な人生に意味が生まれる」
「……え?」
「君といつか愛し合うことが出来れば、私はようやく意味のある存在になる。そうでなければ――」
「ちょ」
大輝は食べ終えたホットドッグの包み紙を握りしめる。
「ちょっと待ってくださいよ、何てこと言ってるんですか」
「……ん?」
きょとんとした夜々の顔。
大輝は思わず引きつった笑みを浮かべた。
「落ち着いた後で何を言い出すかと思ったら……なんで結局そういう淋しい話になっちゃうんですか?」
「怒らせたかね」
「じゃなくて」
大輝は頭を振る。
「そりゃ……お互いの気持ちが大切ってのは、その通りですよ。夜々さんが俺と会うのを楽しみにしてくれてたのも嬉しいですよ。でも……俺と結婚しなかったら、夜々さんは無意味な人なんですか?」
「私と結ばれるのは、やはり君にとって不満だということか」
「違……やはりって……ああもう」袋を持った手で頭をかきむしる。「そうじゃなくて、それはおかしいってことですよ。だって……俺たち、うちでよく一緒にメシ食ってますよね? 鍋とかしゃぶしゃぶとか」
「いただいているが――」
「どうして親父や俺がいちいち呼んでると思います? 夜々さんよく分かってないでしょ? それって何となくなんですよ。何となく、夜々さんたちがいたほうが良いからなんですよ。分かります?」
「いや……」
「夜々さんはアレじゃないですか」声が大きくなる。「結局、役目を果たせなければ自分に価値が無いって思い込んだままじゃないですか。母さんの言葉とかで役目の内容が変わっても、結局それじゃ淋しいことに変わりないじゃないですか。そんなんじゃ、何がどうなっても、結局夜々さんっていう人に価値なんて――夜々さんじゃなくてもいいってことになっちゃいますよ。価値ってそういうもんじゃないでしょう? 代わりなんて――」
そんな当たり前のことを。
「夜々さんが役目なんて持ってなくても、最初から、夜々さんの代わりなんて……いないのに」
どうしてこの人は分からないのだろう。
夜々は当惑の面持ちで大輝の顔を見つめている。
我に返り、大輝は目をそらして俯いた。
「あ……すみません」
落ちた包み紙が、かさかさと地を転がる。
「何熱くなってんですかね、俺。ガキのくせして、夜々さん相手に説教みたいなこと言って……。っていうか、あの……本当に、夜々さんと結婚するのが嫌だとか、そういう話じゃないんですよ。だからその……ホントすみません」
「いや――」
夜々は首を横に振る。
「ありがとう」
それから、静かに問うた。
「私の人生には最初から価値があったと……君は言ってくれるわけか」
「……。と――思います。単なるガキの意見としては。少なくとも俺にとっては、もう夜々さんは大事な人の一人ですから。小梅さんとか石之助さんにとっても、そうに決まってます」
「そうか……」
夜々はもう一度言った。
「ありがとう」
そして下を向く。
その顔を覗き見ると、夜々は微かに笑っていた。
「……。良かった」
「え?」
「ずっと待っていた相手が君でよかった。もうひと月――いや、あと一週間でも時間があれば、私にも恋の意味が分かったかもしれない。もしかして、そんなことを思っている時点で、既に理解しかけているのかもしれないけれどね」
大輝の手を握る。
「今日は楽しかった。君は迷惑だっただろうが、私はとても楽しかったよ。君との恋愛は経験できなかったが、デートの真似事が出来ただけで、私は満足することにしよう。最後の最後に、思いがけない優しい言葉と、不思議な気持ちも貰うことができたしね。今日一日は私の宝物になった」
「夜々さん……? 何言って」
「時が来たようだ」
手を離し、夜々は立ち上がる。
「母様には会えなかったな」
「え――?」
大輝は夜々の視線の先を見る。
誰もいなかったはずの時計台の前に、いつの間にか――本当にいつの間にか、黒いコートの男が立っていた。
金髪の男。
「まさか……」
心臓がどくりと鳴る。
「宮……琵? あいつが?」
大輝も腰を浮かせる。
コートの男はゆっくりと片手を上げた。
夜々は低い声で言った。
「……逃げるんだ」
「えっ――」
「逃げるんだ、できるだけ遠くへ!」
吼えるように叫び、大輝を恐ろしい力で押し退ける。
驚く間も無く大輝はふっ飛ばされ、遠いフェンスの近くまで転がった。
「つっ――」
頭をおさえて立ち上がった瞬間。
閃光と雷鳴が轟いた。
爆風が体に叩きつけられ、眼前が真っ白に染まる。
大輝は目を塞いで身を縮め――
そして目を開けたとき、
「あ……?」
無かった。
さっきまで座っていたベンチが消えていた。
折れ曲がって倒れたパイプの骨組みと、火のついた木片がいくつかあるだけだった。
ころころと、アヒルの縫いぐるみが転がってくる。
それも燃えていた。
夜々がいない。
「夜々さん……?」
大輝は間抜けにもその名を呼んだ。
たった今――この世から消えてしまった者の名を。
「夜々さん」
「今死んだぞ」宮琵が歩いてくる。「俺が消滅させた。再生は不可能だ」
「え……」
「残念だったな」
座り込んだ大輝の前で立ち止まる。
大輝は呆然とその顔を見上げた。
「死んだ……?」
「見ろ」
宮琵は飛び散ったベンチの残骸を指す。
大輝はそれを見た。
破片に混じって落ちている、小さな指。
宮琵は言った。
「それがただ一つの残り物だ。持って帰るか?」
「夜々さん……」
「ふ」
可笑しそうに肩を揺らす。
「おいおい、なんて顔をしている? まるで玩具を捨てられた犬のようだぞ」
大輝の頭に手をのせる。
「もう死んでしまったんだ。あきらめなさい」
「死んだ――」
「最初から俺はあいつだけを狙ったというのに、わざわざお前のことを突き飛ばすとは、ご苦労な死に様だよ。……それにしても哀れな人生だったな」
そっと手を離して残骸を眺める。
「道具のように作られ、箱庭のような場所で育ち、まま事のような恋人ごっこを最後の思い出にして、この世から消えてしまった。両性具有でありながら、男とも女とも交わることが無いまま……ああ、そうか」宮琵は舌打ちする。「一度犯してみてから殺せばよかったか。惜しいことをしたな……あんな体は珍しかったのだが」
それから大輝の顔を覗き込む。
「何だ、依然として茫然自失か」
ふんと笑い、足下を蹴る。
宮琵は空中に浮かび上がった。
「つまらないな。いささか淡白にやりすぎたようだから、次はもっと趣向を凝らすとしよう」あごに手をやる。「さて、どうしてくれようか……?」
呟きながら宮琵は消えてゆく。
呆気なく、何の余韻も残すことなく、襲撃者は姿を消した。
穏やかな夜風が、誰もいなくなった屋上を薙いだ。
大輝はゆっくりと立ち上がった。
「――、夜々さん」
辺りを見回し、何らかの手段で雷撃から逃れたはずの夜々を探す。
危ないところだったと言いながら、どこかから姿をあらわしてくれるはずの夜々を探す。
「どこですか」
どこだろう。見当たらない。
一体どこに。
宮琵はもう去っていったのに、どうしてまだ出てきてくれないのだ。
爪先にあたる物があった。
見下ろしてみると、それはさっき転がってきた縫いぐるみだった。
ぱちぱちと静かに燃えている。
「あ……」
大輝の耳に、聞いたばかりの声が蘇る。
――今日は楽しかった。
君は迷惑だっただろうが、私はとても楽しかったよ――。
大輝は一人で首を振りながら、両膝をつく。
「……迷惑なんかじゃ」
死んでしまった。
「どうして……」地面に問う。「どうして……夜々さ……こんな……」
その行為の無意味さを自覚させてくれたのは、十秒程度の単純な時間経過だった。
冷たいコンクリートを指で掻き毟り、大輝は絶叫した。
叫びは声にならず、涙すら流れなかった。
夜の空気が急激に冷えてゆく。
時計台の示す時刻は、十一月×日、午後六時九分。
それが地獄の始まった時だった。