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第九章【紅猫鬼 ―ホンマオグイ―】


 一


 時はさかのぼる。

 父が石楠花の消え失せたことに気付き、部屋の天井に謎の爪跡を発見してすぐのこと。

 大輝からの電話を受けて三分と経たぬうち、寝間着姿の夜々は、道をまたいだ殿山家に駆けつけてくれた。

 シロは入れ替わりに「外を捜す」と出て行き、夜々を含む残された三名は、石楠花の部屋に立ち尽くし、一様に天井を見上げていた。

 細い指で前髪をかき上げ、夜々は爪跡を静かに睨む。

「……ふん」

「どう、ですか?」

大輝は視線を天井から夜々の横顔に落とし、恐る恐る訊いた。

 夜々は静かに目を閉じて首を振る。

「任氏は妖気の残り香を感じないと言っていたが、神気も全く感じられない。……だがこの所業、およそ人間業でもあるまい」

「じゃあ――」

「やはり何らかの異形に連れ去られた可能性が高いのだろう。妖気も神気も隠すことが可能だからな。君たちに心当たりはあるかね」

「……。心当たり……?」

大輝は考えながら親指の爪を噛む。

自覚できるほど動揺していた。思考が上手くまとまらない。

 父も無言でうつむいていた。

 夜々はしばらく大輝の様子を横目で見ていたが、やがて小さく溜息をついた。

「無意味な質問だったか……。元より理由の因子など幾らでも有る。石字縛師は妖怪の怨敵だ。問題は――」

窓を見る。それは大きく開き、部屋の中と夜を繋げていた。

「あの子が今、どこへ連れ去られたかだ。妖気という手がかりが無いのならば、捜すのは任氏ばかりに任せてはいられないな」


 二


 同じ頃、シロは町の上空を飛んでいた。

 冷たい夜の風を切り、月の光を身に受けながら、研ぎ澄ました視線を建物の間にはしらせる。

 そうしながら考えていた。

 なぜ自分はこんなに焦っているのか。

 たかが娘一匹……しかも恋敵の小娘ひとり消えたくらいで。

 人を食い物にしないと決めた今でも、大輝以外の人間の生き死になど、シロにとってはどうでも良かったはずだ。あの映画館の中で、下がり腕が人間を次々に吊り上げていった時も、シロは何一つ感じることはなかった。

 なのに、なぜ。

 大輝があの娘のことを心配していたからだろうか。

見つければ、大輝に喜ばれ、石楠花自身にも貸しを作れるからか。

理屈には合うが……どちらも違う。

 考えるうち、常世の牢獄での光景が、シロの脳裏に蘇った。

 石落の腕にしがみ付き、凄まじい形相で怒鳴る石楠花。

――いくらムカつくバカ狐でも――。

――あんたみたいな奴に泣かされてるの見ちゃったら、黙って見過ごすわけにはいかないんだよ――。

 どくりと、シロの胸が大きく脈打った。

 シロは駅前の空の上でゆっくりと止まり、両の拳を握り締める。

「……馬鹿娘め」

ぼそりと。

「……一体、どこへ失せおった……」

星が幾つか瞬いた。

 風が吹く。

 それに紛れた暗い妖気。

 シロは宙でがばりと身を返し、西へと意識を向ける。

「これは……?」

無数の意識が混ざり合ったような気配。それに含まれる濃厚な血の臭い。

派手に撒き散らされている類の妖気ではないが、感覚を極限まで高めたシロは、それを見逃さなかった。

 夜空を蹴り、その中心へと、落下するように飛び込んだ。

 ――そこは駅近くの居酒屋であった。

 シロは傍にある太い電柱の先端に降り立ち、燃え盛る店と野次馬たちの群れを見下ろす。

 既に、そこには妖気の残り香しか無く、あるのは人間たちの戸惑い染みた喧騒のみであった。

 シロは舌打ちし、再び空へと舞い上がる。

 この街で何かが暴れた。血の臭いがした。石楠花の失踪と無関係ではあるまい。

「ふざけおって。一体、何が起きておる……っ!」

シロは歯軋りして街を睨み下ろす。

 その時ふと、小梅らしき妖気が風に乗って届いた。

あの娘のことである。どうせ酒に酔ったか犬に吼えられたかして、迂闊に妖気を漏らしているのだろうが、シロの視線は自然とそちらへ向いた。

 すると、その方角にあったビルの屋上に、小さな赤い影が見えた。

 異形――?

シロは目を見開いた。

「そこか!」

夜を裂き、隼のように急降下する。

 彗星の如くシロは屋上に降り立った。いや、直撃したと言うべきか。撃ち込まれた右足の裏がコンクリートに放射線状の亀裂を産み、鈍い音が響き渡った。

 シロはゆらりと立ちなおす。

 月明かりの元、対峙する異形と異形。

 シロは相手の姿を間近に見て――息を呑んだ。

「な……?」

それは驚きであった。

明らかに正体を現している相手に妖気が無いことにではない。

シロは目の前の相手を知っていた。

「貴様は――」

猫のような顔とうるわしい黒髪、そして全身にやわらかな赤毛を生やした、不気味になまめかしい細身の女怪。

 予想だにしなかった幾百年ぶりの再会に、シロは思わず隙を生じさせた。

「ホンマォグェ……」何をしているのだ。「ニィズォシェンマ……?」

「――」

紅猫鬼は無言で飛び掛ってきた。

 我に返ってシロは拳を繰り出す。

 真っ直ぐに放たれた二つの拳がぶつかった。

 ぎりぎりと拳で押し合いながら、シロと紅猫鬼は睨みあう。

「……何じゃ、正気では無いのか」

シロの頬を汗が伝う。

 途端、紅猫鬼は視線と拳を外した。

「グ」

短く唸って膝をつく。

 シロはなぜかその虚を突けず、立ち尽くした。

「紅猫鬼……?」

景色から音が消えた。

 しかし沈黙は一瞬であった。下方から石之助の叫びが聞こえたのである。同時に小梅の妖気が激しく瞬いた。

 シロは思わず目を下に向ける。

 同時に紅猫鬼は月夜に向け、遥かな跳躍を遂げていた。

 建造物の屋上を飛び石のようにして消えてゆく紅猫鬼。

 舞い上がってくる石之助の叫び。

 ――迷いは刹那。

 シロは自らの落下で半壊した屋上を蹴り、翻した長身をビルの上から落下させた。

 重力に任せて落ちてゆくにつれ、近づいてくる歩道の光景。

 倒れた小梅。

 ビルの壁にもたれた石之助。

 黒いコートの何者か――恐らくは敵。

 もどかしい!

 シロは加速し、真っ直ぐにアスファルトへ突入した。

 そのまま張り付くように着地。コートの男が気付くより早く、伸ばした爪を繰り出す。

 男は飛び退いたが手ごたえは有った。舞い散る鮮血――シロは続けざま、右腕に灼熱の白い炎を生み、それを振り下ろした。

 熱き暴風と共に地がえぐれ、めくれ上がる。

 かわした男は、こちらを見て笑う。

「任氏かっ!」

暗い瞳。

 シロは真っ直ぐに睨み返し、怒声を放った。

「貴様は何者じゃ!」


 三


 シロと宮琵が対峙した頃、大輝は一人、夜の川原を走っていた。

 夜々やシロと違って超人ではないので既に息は切れていたが、まさか、疲れたからといって立ち止まるわけにはいかない。一刻も早く石楠花を見つけなければならなかった。

 食み虫、下がり腕、そして身近なところではシロ。暗闇から忍び寄り、人間を驚くほど簡単に殺してしまう「妖怪」という存在を、大輝はもう十分に理解している。それと対する上で一手の遅れが何を意味するか、それも理解している。石楠花を奪われ、こちらが相手の正体や手口を知らないだけで、既にもう何手も遅れているのだ。大輝は油断すれば震えだしそうなほど焦り切っていた。

 スニーカーの靴底が薄いせいで、時々転がっている尖った石が食い込み、足が痛い。

「くそっ……」

息づかいの中で悪態をつく。

 なんて無力なんだ。

空も飛べない。速く走ることも出来ない。麒麟の力だか何だか知らないが、使いこなす方法も分からない。何より、戦うだけの力量も無いのだ。もし石楠花を見つけられたとしても、傍に攫った張本人がいたら、大輝は手を出すこともできないのではないか。

 石落にシロと石楠花が連れ去られたときは、戦いの場が常世だったお陰で、母が力を貸してくれた。

だが今は――?

ここは現世だ。たかが食み虫にすら敵わなかった自分に、いったい何が出来るというのだ。

 肩を寄せ合って座り込んだカップルの後ろを走り抜ける。

 大輝は舌打ちした。

「……、知るかよっ」

何なんだ。どうしていきなり、しゃくネエがさらわれるんだ。あの部屋で何があったんだ。誰がやったんだ。どこにいるんだ。どこに。

 風が冷たい。

 暗い、橋の下へ差し掛かる。

 そこで大輝は駆ける足を躊躇わせた。

 広く黒い川に掛かった、コンクリートの大橋。その下の暗がり、橋台の脇に、座り込んだ肌色の影を見つけたのである。

 大輝は深い暗がりの中に足を踏み入れ、ゆっくりとそれに近づいた。

 低い天井――橋の上を、トラックの通り過ぎる振動が伝わってくる。

 置き捨てられた自転車。砂利と雑草の地面。

 そこに、全裸の少女が膝を抱えてうずくまっていた。

 大輝は思わず声を上げた。

「しゃくネエ!」

「――っ」

石楠花は顔を上げた。

 そして跳ねるように立ち上がり、大輝の小さな胸に飛び込んできた。

 大輝は思わずよろけたが、何とか立ちなおし、そこに石楠花がいることを確認するように、強くその身を抱きしめた。

「あ……」何を言えば。「しゃくネエ、大丈夫だった?」

「――ん」

耳元で石楠花が小さく返事する。

 大輝は溜息のように言った。

「良かった……」

それはほとんど独り言に近かった。

 大輝は石楠花の体がひどく冷えていることに気づき、上着を貸すためにいったん体を離そうとしたが、石楠花の腕がそれを許さなかった。

 胸を押し付けるように大輝を抱き寄せ、石楠花は言った。

「……探しに来てくれたんだ」

「え――? ああ、うん」

大輝は戸惑いつつ、一度離した手を石楠花の肩に置きなおす。

 橋の下の暗闇には、妙な空気が満ちていた。

 これは川の湿気か、砂埃か……。大輝は視線を泳がせ、石楠花に問う。

「ねえ、しゃくネエ――誰に連れてこられたの? どうしてその……」

訊いていいのか? 分からないが。

「服を……着てないの?」

「……。このまま聞いてくれる?」

「え?」

「あたしのこと、こうやって抱いたまま――」

「あ……」あごの下に石楠花の肩があるので頷けない。「うん……」

何だろう。

妙な違和感がある。胸がざわざわと騒いでいる。

 石楠花は少し沈黙してから、ゆっくりと語り始めた。

「あたし、あれから部屋に戻って……それで、鏡の前に立ってたんだ。あの時のあたし、すごく嫌な顔してた。何だかイライラして……自分でそれが、すごく嫌だった」

深呼吸のように息をつく。

「――その時ね……どこかで猫の声がしたんだ。あたし動物嫌いだから、すごく驚いた。窓を見たけど、真っ暗で何も見えなかった。それで、もう一度鳴き声がして……今度は、はっきり分かった。声は部屋の中からだった」

大輝を抱きしめる力が強くなる。

「びっくりして振り返ったら、そこに化け物が立ってた。髪の長い――猫の顔をした化け物で……。あたし怖かった。すごく怖かったよ。だって――だってね!」

声が突然大きくなる。

 大輝の体は突然振り回された。

 コンクリートの柱に背中から叩きつけられる。

 正面から体を押し付けながら、石楠花は言った。

 大輝の耳元へ、熱い声で。

「だって、その化け物……鏡の中に立っていたんだもん……!」

「え――」

何だって。

 聞く前に再び振り回され、そのまま地に突き倒された。

 仰向けに倒れた大輝の体をまたぐように、石楠花が座り込む。

 その瞬間、石楠花と初めて目が合った。

 ぎらぎらと輝く目。

 大輝は言葉を失った。

 両手を大輝の首にかけ、石楠花ははあはあと荒い息を吐く。

「誰かの声が聞こえた……。あたしに流れる血の名前は紅猫鬼。あたしは先祖返り……枷を外せば全てが目覚める。――確かに目が覚めた気がした。体が目覚めたんだよ。分かる? すごい力なんだ。熱くて、速くて、強い流れが……あたしの体の中で暴れ始めたんだ。それでもう、何も考えられなくなってさ」

笑う。牙が見える。

「黒いコートの人が、いつの間にか隣に立ってた。それで、その人の目が光って――あとはもう、夢の中みたいだった。ぐるぐる回って気持ちがいいんだ。気付いたら駅前にいて、小梅さんとお爺ちゃんがボロボロになってた。小梅さんなんか、ホントにボロボロでさ。おなかに穴が開いてるんだよ。あたしがやったのかな? ねえ、どう思う?」

「しゃくネエ……」息が出来ない。「苦し……」

「あっ、ごめん!」

石楠花の指が首から離れた。

 大輝は仰向けのまま咳き込む。なぜか石楠花の体が石のように重く、体を返すこともできない。

 しかし次の瞬間、石楠花はぶわりと飛び退き、大輝の傍らに両膝をついた。そして大輝の上半身を抱き上げ、ごめんね、ごめんねと媚びるように繰り返しながら、さっき自らの絞めた首を何度もさすった。

「ごめんよ……苦しかっただろう? ああ、あたし馬鹿だ。こんなこと言うために来たんじゃないんだ。こんなことするために来たんじゃない。あたし大輝に会うために戻ってきたんだよ。あの男の人にも、もう行っていいって言われて――そうだ」思い出したように。「ねえ大輝、キスしていい? いいよね?」

「え――」

胸に抱えられた大輝は、なぜか抵抗できなかった。

単純に困惑していたのかもしれない。それとも、石楠花の放つ只ならぬ気配に、体がすくみ上がっていたのかもしれない。

 とにかく気付いたときには、石楠花の唇に、唇を塞がれていた。

 痛いほどザラザラした舌が口の中に進入してくる。前歯どうしが何度もぶつかり合った。

 凶暴な口づけは長かった。

 後ろ髪を掴まれ、大輝は呻く。

「う……ぐっ」

「――ぷは」

石楠花はやがて唇を放した。口元から顎にかけて涎が滴っていた。

「はあ……。ごめんよ――あたしよく知らないからさ。ちゃんと出来てなかったよね」

涎を拭きもせず、熱っぽく笑う。ぬらぬらと牙が光る。

「でもすごいね。口と口をくっ付けるだけなのに、どうしてこんなに変な気分になるんだろう……ほら」

大輝の手を掴み、胸のふくらみに押し付ける。

「怖いくらいドキドキしてるだろ。それだけじゃないよ。ほら、触ってみて――」

その手が、ぐいと下に押し下げられる。

 指先がざらざらした繁みに触れた瞬間、大輝は思わず振りほどいた。

 石楠花の形相が変わる。

「……。なんだよ」

片手で大輝の襟首を掴む。恐ろしい力で。

「イヤなのかよ! あたしの体に触るのがっ!」

襟を掴んだまま立ち上がる。

 大輝は石楠花の手に吊り上げられるようにぶら下がった。両爪先が地面をこする。

 空中でぐいと引き寄せられる。

 牙をむき出しにした石楠花の顔は、すぐそこにあった。

「いいじゃないか……最初のキスはシロが横取りしただろ? じゃあ最初のセックスは、あたしとしてくれてもいいじゃないか」

石楠花の短い髪が蠢き始めた。

ざわざわと――増殖するように伸びてゆく。

「大輝は……お前はさ、あたしの、たった一つの宝物なんだ。お父さんがいなくなって……お母さんが死んで!」

大輝を柱に押し付け、髪をざわめかせながら、石楠花は下を向いて唸るように語る。

「お義父さんは優しい人だけど、あたしはあの人にとって、結局は余所の子だから……もし嫌われちゃったら終わりだろ? 終わりなんだよ。だから勉強して、家事もやって、一生懸命全部やってさ――そうやってなきゃ終わりだからさ!」

「しゃくネ……」

「でもね――」

顔を上げる。引きつった笑顔。

「大輝はね、違うんだよ。大輝はいつだってあたしの手の中にいた。お義父さんが仕事に行ってる間、ごはんを作るのもあたし。勉強を教えるのもあたし。洗濯するのもあたし。お前のことは何だって分かってた。お前はあたしの物だった。今でもそうだよ。だってあたし、お前のためにあんなに頑張ったんだから……あたしにはお前だけだったんだから」

石楠花の髪は、今や地面近くまで伸びていた。

「だからさ、あたしがお前のことを好きなら、お前だってあたしのことを好きにならなきゃ駄目じゃないか。自分で考えるなよ。余計なものを見るなよ。あたしの言う通りにしろよ!」

 またトラックが橋を揺らす。

 何者かに後ろから肩を叩かれ、石楠花は大輝から手を離して振り返る。

 ぴしゃり。

 ――頬を叩く音が、埃臭い暗闇に響いた。

「え……?」

石楠花はよろけた。

 柱に背をもたれたまま、大輝は叩いた者を見た。

「……親父……」

 そこに立っていたのは父だった。

 石楠花の頬を叩いた自らの掌を見つめ、父は静かに言った。

「初めて手を上げてしまったな」

そして石楠花を見る。

「その髪や牙のことは後で聞こう。それより先に、答えて欲しいことがある。私にとっては自分の生き死により重要なことだ」

低い声で。

「今話していたことは、お前の本心なのか」

睨む。

「お前はずっとそう思って私たちと暮していたのか」

父の声はわずかに震えていた。

 石楠花は頬に手をあて、一歩下がって肩を揺らした。――笑っていた。

「盗み聞きしてたんだ」

「答えなさい」

「そうだよ。ずっとそう思ってたに決まってるじゃないか」

「大輝はお前の所有物で、私は……信用できない他人だと?」

「ああ、そうだよ!」

石楠花は忌々しそうに再び牙をむいた。

「あんたが好きだったのはお母さんじゃないか! 本当はあたしなんて最初から邪魔だったくせに! なんだよ――母さんが死んだ後も、わざとらしくあたしに優しくしてさ! そんなの上っ面だけに決まってる! 本当は実の子の方が大事で、あたしなんて」

「勝手なこと言ってんじゃねえぞこのクソガキ!」

雷のような怒声が響き渡った。

 大輝も、石楠花までもが言葉を失った。

 怒声が父のものであると大輝が理解するまで、ゆうに二秒はかかった。

 父の肩は大きく上下していた。

「誰がテメェ……上っ面だ? 何分かった上でベラベラ喋くってんだ!」

そこにあった自転車を蹴り上げる。

自転車は宙を舞って大輝のすぐ横に落ちた。

 父は一度大きく息を吐き、そして疲れたように笑った。

「……。全く……そんな風に思われていたとはな……」

「な、何だよ」

「まあいい。帰ってゆっくりと話し合おう」手を差し伸べる。「来るんだ」

「や……やだ――帰らないよ!」

石楠花は我に返ったように身構える。

「もう嫌だ! あたしもう、あの家に帰りたくない!」

「ふん……?」父は首を傾げる。「どうも話にならないな……無理矢理にでも捕まえて、頭を冷やしてもらうしかないか」

左足を前に踏み出し、低く腰を落とす。左手は前に。右手は左腕の肘に。

「行くぞ」

ぞっとするほど冷めた声。

 空気が凍った。

 沈黙を置き、石楠花が静かに口を開く。こらえ切れない何かの縛を解いてゆくように。

「何……? あたしと……やる気……?」

石楠花の髪がゆらめく。瞳が怪しく光った。

「死ぬよあんた。――あたし今、変なんだ」

「見れば分かる」

「手加減できないよ。ホントに殺しちゃうと思うけど」

きりきりと尖った爪が伸びてゆく。

 父は笑った。

「それならばそれでいいさ」

そして――

 先に踏み込んだ。

 疾風の如く。

 しかし石楠花の反応は速かった。飛び出した父の顔に、電光のように爪を振り下ろす。

 その腕を、父の腕がいなす。

 体勢を崩した石楠花に、すぐさまもう一歩踏み込んだ父が体当たりを食らわせた。

 石楠花が吹っ飛び、地に転がる。

「う、あっ――?」

「どうした、速く強いだけでは私に勝てないぞ」

「畜生!」

石楠花は両拳で地を叩いて跳び上がり、空中で前転して蹴りを繰り出す。

 その蹴りも捌かれた。

 カウンターで打ち込まれたのは、腋の下への掌打だった。

 鈍い叫びを上げて石楠花は座り込む。

「げ……っ」

嘔吐するように口を大きく開け、脇を押さえる。

「何……これ……」

地面に手をつく。

「どうしてこんなに……、効く……ん、だよ」

石楠花の目から涙が流れた。

 父は構えを解いて舌打ちした。

「最低な感触だな。お前の痛みでこちらまで吐き気がする――子供を叩くとはこういうことか」

石楠花を見下ろす。

「しかし、お前は一体どうしてしまったんだ。何がお前をそこまで錯乱させている?」

「うるさい――」砂利を掴む。「うるさい……うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」

夜空に吊られるように石楠花は立ち上がる。

両目が見開かれた。

「もう、あたしに構うなよっ!」

叫んで大きく身を反らす。

その身が変じた。

みずみずしい少女の肌が、血のように赤い毛皮に変わる。

顔が獣――猫のものへと変化してゆく。

 大輝は呆然とその姿を眺めていた。

 父もまた黙って見つめていた。

 完全に異形と化した石楠花は、再び父のほうへ顔を向ける。

「……ひひ」

猫の鼻で笑う。

「笑っちゃうよねえ。あんなに嫌いな猫だったのに、これがあたしの本当の姿なんだって」

しゃらしゃらと爪を鳴らす。

「でもまあ、いいんだ。すごく気持ちいいし……目が覚めたから、もう我慢しなくていいんだ。つまんないことも、みんなさ。何も我慢しなくていいんだよ――」

石楠花の姿が消えた。

 父の後ろに立っていた。

「だーれだ」

背後から手を回し、両目を隠す。

 父が反応して動くより早く、石楠花はその背中を蹴り飛ばした。

 恐ろしげな音がした。

 真正面に吹っ飛んだ父の体は、転がるように二度弾んでから遠くの地面に落ちた。

そのまま――動かなくなる。

 石楠花は笑っていた。

「ひゃひゃ」

腹を抱えて指をさす。

「こっちが本気出したら、一発で終わりじゃないか。ねえ見た、大輝?」

「親父っ!」

駆け寄ろうとする大輝の手首を、石楠花の生暖かな手が掴んだ。

「いいじゃん、そんなことよりさ――」

「離せよしゃくネエ!」

「怒るなよ、殺したわけじゃないから。気絶してるだけだよ」

「そういう問題じゃないだろ!」

「いいからあたしを見てよ!」

大輝は肩を掴まれ、向きなおされた。

上着の上から爪が食い込む。

 赤い猫の顔は獣そのもので、もとの石楠花の面影など微塵も無いのに、不思議と眼の奥から伝わるものがあった。

「ねえ、大輝……二人でどこか行こう?」

滲むような悲哀。

「大輝だってあたしのこと嫌いじゃないだろ? だってあんなに優しくしたもんね? あたし今までずっと、あんたのこと大事にしてたもんね?」肩を揺さぶる。「シロより、夜々より、あたしの方が長い時間一緒にいたじゃないか。だから――だからさ……」

ゆっくりと俯く。

「お願いだから……あたしのものになってよ……」

「しゃくネエ――」

大輝は何も言えなかった。

 鈍い音がして、石楠花がずるずると崩れ落ちた。

 小さな足音と静かな声。

「――予感というのも馬鹿に出来ないものだな。これも私に流れる黒腕の血か」

暗がりの入り口で立ち止まったのは夜々だった。

「無事かね」

「夜々さん……」

「石を当てただけだ。これは――石楠花なのだろう」

言いながら変じていた右腕を戻し、歩み寄る。

 二人の足下で、石楠花は元の姿に戻っていった。

 仰向けの裸体。

 大輝はそれを見つめ、ただ拳を握り締めた。

 ゆっくりと倒れた父の傍らへ歩み、片膝をついた夜々は、その首筋に指先をあてる。

「……別状は無いようだな。強い衝撃を受けたようだが?」

「あ――」大輝は我に返って頷く。「はい……」

「背中かね」

「はい……」

「ふむ」

夜々は父の背を撫ぜる。

「打撲だな。しばらくしたら目を覚ますだろう」

大輝のほうへ顔を向ける。

「とにかく二人を運ぼう」

そう言って立ち上がった。

 橋の上を大型車が連続して通りすぎる。

 月も映さぬ墨のような川面に、魚が一尾、驚いて跳ねた。


 四


 ――石楠花が目を開けると、そこは自分のベッドの上だった。

 明かりは点いていた。

 天井に不気味な爪跡がある。自分のつけた傷だ。

 瞬き、顔を横へ向ける。

「……あ」

「目が覚めたかね」

夜々が勉強机の椅子に腰掛け、こちらを眺めていた。

 石楠花は目を反らし、また天井に顔を向けて呟いた。

「夢じゃ――なかったんだ」

「残念ながら」

「……。そっか……」

深く息を吐く。

 静かだった。

 夜々は言った。

「石之助君から聞いた話だが、石字縛師の起源は、我ら見神と同じく、人間と異形の血が混じったことであるという。君たちの遠い先祖は、大陸から来た紅猫鬼という女怪だった。面白いことに任氏の知り合いらしい。消息は知れないが」微かに笑う。「任氏曰く、変わった女だったそうだ」

「……」

「君も私のような先祖返りらしくてね。そのために、君のスペックは石之助君を遥かに上回るそうだよ」

「……」石楠花は背を向けて寝返りを打つ。「それで……?」

「スペックに関わらず、君たち一族の能力には、遺伝子レベルでのプロテクトが掛けられている。紅猫鬼の施したプロテクトだ。そのため、文字を媒介にしなければ。いくら優れた血の力を持って生まれようとも、妖怪としての力がそのまま覚醒してしまうことはない」

夜々は机の上の参考書を、見もせずにぱらぱらと捲る。

「しかし、何者かが君の肉体に掛けられたプロテクトを解いた。何らかの理由でね」

「……」

石楠花は布団の中で膝をたたむ。

 夜々は参考書を閉じて続けた。

「私は半妖の類では無いので、完全に同じかどうかは分からないが、神気を発動する際は少なからず気分が高揚する。いや……混乱するというべきか。強力な血の力に意識が掻き乱されるような感覚だ。ともすれば理性を失ってしまいそうで、制御出来るようになるまでには時間がかかった。君もそうだったようだな。もっとも――君には何かそれ以上の暗示がかけられていたようだが」

「……小梅さんは……」

「? 何だい」

「小梅さんは、大丈夫ですか」

「ああ」

夜々は細い脚を組む。

「大丈夫といえば嘘になるな。首の損傷もひどいが、腹部の大穴が厄介だ。石之助君の呪符で出血は止めているものの、回復にはかなりの時間がかかる。今は大輝くんの部屋で寝ているよ。石之助君がついている」

「お義父さんは……」

「彼は気を失っているだけだ。背中を強く打ちつけたショックで失神したようだな」

「――、……っ」

石楠花は体を縮めた。

 何てことを。

 あたし、何てことをしたんだ。

「ごめんなさい……」

涙が溢れた。

「ごめ……な……さい……」

「――。君が母様を殺さなくて良かった」

夜々は慰めずに立ち上がる。

「もしそうなっていれば――私は理性を保つことができず、君を許せなかったと思う」

そして、静かに溜息をついた。

「……しかし、そうならなかったお陰で、私は今、何とか冷静に物を考えることが出来ている。敵は君のプロテクトを解いて暗示をかけ、そして母様たちを襲わせた宮琵という男だ。目的は分からないが殺さねばなるまい」

呟くように言いながら歩き、ドアを開ける。

「君はもういつでも起き上がれると思うが――この部屋を出るかどうかは、君の心しだいだ。落ち着くまで休んでいるといい」

穏やかに言い残し、夜々は部屋を出て行った。

 そして沈黙だけが残った。

 石楠花は布団の中で泣き続けた。

「う……」

耐え切れなかった。

 小梅の腹部を貫いた感触が、まだ手に残っている。祖父を殴った手ごたえも、義父を蹴り飛ばした感触も。そして――

「うう……っ」

身悶える。

 大輝にすがりたかった。

 だが、もう、それもできない。

 全て話してしまったのだ。自分の捻じ曲がった醜い感情を。

――最初のキスはシロが横取りしただろ? じゃあ最初のセックスは、あたしとしてくれてもいいじゃないか。

――お前はあたしの物だった。

――今でもそうだよ。だってあたし、お前のためにあんなに頑張ったんだから。

 どれも本心だった。

石楠花はずっと、あのとき発した言葉通りのことを考えていたのだ。

 義父に言った言葉も全て本当だった。

石楠花はずっと、義父のことを信じていなかった。

「この人は仕方なく自分を育てている」――「自分はこの家に情けで住まわせてもらっている」。心の奥底では、そう思い込んで暮してきた。家事をするのも、優等生でいるのも、「邪魔にならない役に立つ子」でいるためだった。

 そう、全て本当のことだった。

 石楠花は身をよじった。腕の中で枕が潰れてゆく。

「……あた、し……」

死んでしまいたい。

「もう……お終いだ……」

消えてしまいたい。

「もう、駄目だよ……」

誰の顔を見るのも怖かった。

 柔らかな部屋の明かりすら辛かった。


 五


 居間のソファに体を横たえ、裸の上半身に包帯を巻いたシロは舌打ちした。

「つ――」

「痛みますか……?」

大輝は何をすることも出来ず、傍らに立ち尽くしていた。

 シロは一息ついてからゆっくりと体を起こし、汗ばんだ顔で笑ってみせる。

「いや、そろそろ平気じゃ。――水をくれるか」

「はい」

大輝は持っていたコップを手渡す。

 シロはそれに少し口を付け、溜息をつく。

「……ふう」

それから、うつむく大輝を見て首を傾げる。

「どうした大輝?」

「いえ――」

大輝は向かいのソファに腰を下ろした。

「俺、信じられないです。しゃくネエが小梅さんや石之助さんに、あんな……」

「大丈夫じゃ。石楠花は悪い子ではない」シロは静かに言う。「小梅や石之助を襲ったのは宮琵とやらに操られたせいじゃろうし、義父上を傷つけたのも、ただ我を失っておっただけに決まっておる。それにしてもあの男――」

シロは細いあごに手をやる。

 ドアが開き、石之助が戻ってきた。

「あの野郎は宮琵と名乗ったな……」

頬に絆創膏を貼っている。

「気味の悪い妖気だった。しかも俺たちと同じ、石字縛師の術を使いやがる」

言いながら大輝の隣に腰掛ける。

 シロが付け加える。

「それだけではない。あやつは夜々と同じく黒腕の力も持っておった。見神の眷属でもあるということじゃ」

「妖怪で――石字縛師で――見神の力も持っていて――しかも……」大輝は宙を睨む。「小梅さんを殺して食べようとした……?」

「既に食われた者もいるようだな」

いつの間にか、夜々が入り口に立っていた。

「さっき任氏が見つけた火事の現場を見てきたが、焼け跡から妙な動物の腕や足が見つかったと騒いでいた。恐らくは宮琵の食い残しだろう」

「あの居酒屋の大将が……」

石之助は拳で膝を叩く。

「畜生め、良い親父だったのによ」

「ところで石之助君」夜々はドアにもたれる。「母様の容態は?」

「ああ――」

石之助は顔を上げる。

「まだ意識は戻らねえが、もう大丈夫だ。今は呪符で回復を早めてる。腕もくっ付きかけてるし、じきに喋れるようにもなるだろうぜ」

「それは安心した」

夜々は笑みもせずに頷いた。

 大輝は夜々に問う。

「あの……しゃくネエは」

「彼女の怪我は、私が石を投げつけた後頭部だけだ。変化している間に受けた傷だから、すぐに治ってしまったよ。ただ――」腕を組む。「内面的な部分をそうとうやられている。当分は立ち直れまい」

「そう――ですか……」

「今は誰が何を言っても無駄だろう。この結果は目的に至るまでの副産物なのか、それとも目的の一部なのか……宮琵という男は一体何を望んでいるのだろうな」

「石落のミスが自分を産んだ」石之助は頬をかく。「あいつはそう言ってやがった。そして自分は火高の息子だともな」

「ひだか?」

大輝の知らぬ名である。

 夜々は指先で前髪を分ける。

「火高――火高兵蔵か。大戦中、軍部から異形の研究を任されていた施設長の名だな。君が母様と出会い保護したのも、その男が捜索を依頼したのがきっかけだとか」

「ああ、そうだ」石之助は頷く。「気味の悪い男だったぜ。小梅をわしに捜させたのだって、内心じゃあどういう目的があったのか分からねえ。小梅が見神の一員になった後も、何だか妙な手を使って接触しようとした形跡があったしな」

「母様がその男に狙われていたと?」

「かもな」

石之助は鼻の頭をかいた。

 シロが座りなおす。

「しかし何故にその男と石落に関係がある。どうにも話が見えぬ」

「うむ……それなんだけどよ」石之助は言いづらそうに語る。「はっきりとした話はわしにも見えねえんだが、あいつはこう言ってたんだ。その――石落はお前さんの力を恐れて最後まで子を産ませることはなかったが、結局ひとつのミスを犯していた。それがやがて石落を殺し、眠り石に魂を封じ込める理由になった、と――」

「む……」

シロの表情がこわばる。

 石之助は腕を組みなおす。

「勿論、お前さんにとっちゃ、欠片も思い出したくねえ話だろうがよ……何かその頃のことで心当たりは無ぇかい」

「石之助さん」

大輝は立ち上がりかけた。

幾年にも渡る石落の強姦を受け、そして幾度もの中絶を強制された――それがシロにとって、嘔吐するほどの心的外傷となっていることを、大輝は知っている。

あの牢獄にいた頃の出来事を、シロに思い出させるようなことはしたくなかった。

 しかしシロは静かに言った。

「良いのじゃ大輝」

横髪を除け、胸元の包帯を直す。

「それはまあ、思い起こして全く平気といえば嘘になるが……あの時ほどは怖ろしうない」

照れた目で大輝を見る。

「今のしろには、大輝という守り神がおると分かったからな」

「シロさん――」

「そうじゃな、あの時分の事か」

シロはこほんと咳払いして真顔に戻る。

「確かにしろは幾度となく石落の子を孕まされたが、全てあやつの手で堕ろされて、赤子を産むことは一度もなかった。無論あやつの子など産みたくもなかったが――石落がそうしていたのは、確かにしろの力を継いだ子が生まれるのを恐れてのことだったようじゃ」

「なるほど」夜々は頷く。「しかし、それはつまり」

「石落は、他の女怪には度々子供を生ませておったらしい」

シロはソファに背をもたれる。

「自らの手足となる半妖をな。もちろん、逆らっても手打ちに出来るような、中途半端な子供しか作ろうとはしなかったようじゃが。何せどの子にも、化け物を捕らえるための縛術を教え込んでおったのじゃ。しろにしたように、腹の中へ枷となる術を仕込んだところで、術の心得があれば解かれる恐れもある。かといって、強い女怪に子を産ませて縛術を教えねば、ただ強いだけの半妖になり、思うようには役に立たぬ」

「待ってくれ。するってえと、こういうことか。石落は女怪に生ませた子供らを使い、妖怪を集めさせていたと――」

「そういうことじゃ」

シロはコップの水を飲む。

 夜々はドアへ寄りかかったまま、頬に手をやった。

「そうした行いの中で石落は失策を犯し、眠り石に封印された……そしてそれが、火高と関係しているというわけか」

「分からねえな。結局さっぱりだ」

石之助は舌打ちするが、「そうでもないさ」と夜々は言った。

「つまり石落は、自分にとって生まれてはいけない存在を誕生させてしまったということだろう」

「ああ――成る程」

石之助はソファの上で胡坐をかく。

「そういえば石落は自分の息子たちに封印されたんだったな。そこでいう息子たちってのは、人間との間に生まれた子じゃなく、女怪に生ませた半妖だったわけか」

「もしその造反が、石落の生してしまったイレギュラーな存在が扇動したものだと仮定すれば、宮琵が残した言葉との辻褄は合う」

夜々は腕組みして足下を睨む。

「しかし石落が、子を産ませる女怪のスペックを単純に見誤ったとも思えない。何らかの意外な見落としがあったのだろう」

「見落とし――ですか?」

「ああ。妖力や身体能力以外の何か……つまりは特殊能力だ」

夜々はシロを見る。

「例えばだが、君は空を自由に飛び、強力な炎を操るね?」

「そうじゃな」

「他にどんな力を持った妖怪がいる?」

「馬鹿馬鹿しい問い方をするのう。それは様々に決まっておる。影に溶けるものもおれば、雨を降らすものもおる」

「その通りだ」

夜々は頷き、大輝と石之助のほうへ顔を向けた。

「異形の強さは、妖力や腕力、再生力などという単純なスペックのほかに、個体の有する様々な能力によって決定する。石落は、女怪の一人が潜在させていた危険な能力を見落として、部下にする半妖の母親として選んでしまい、その女怪の力を受け継いで生まれた子供に足下をすくわれた――そう考えることは出来ないかね」

「特有の能力……?」

石之助は考え込んだが、すぐに顔を上げた。

「待てよ……それがひょっとして、宮琵が妖怪を食らうことと関係してる――と、したら」

「ふむ」夜々はドアから背を離す。「その考えが正しければ、大まかな流れは見えてくるな」

「どういうことじゃ?」

両手でグラスを持って首を傾げるシロに、夜々は言う。

「君、さっきから気になっていたんだが、包帯に乳首が浮いているぞ」

「な――そんなことは関係ないじゃろうが!」

シロは肘を寄せて胸を隠し、真っ赤な顔で牙をむく。

 夜々は結局シロの問いに答えず、上着のジッパーを閉めなおした。

「取り敢えず、私は見神のほうへ当たってみよう。大戦中の異形研究部門には見神も深く関わっていた。何らかの記録が残っているはずだし――当時から生きている人もいる」

「一人で行くんですか?」

「ああ」夜々は頷いて微笑む。「大丈夫だ。自分の身くらい自分で守るさ。それより君たちこそ気を付けたまえ」

言いながら、大輝たちの顔を順番に見る。

「宮琵の最終的な目的は分からないが、少なくとも我々の命は狙われているようだ。――任氏」

「何じゃ」

「私がいない間、お前に任せるぞ。次に宮琵と接触したら、目が合う前に消滅させろ」

「分かっておる」

「それと石之助君」

「……おう」

「母様を頼む。あの人は――」少し言うのを躊躇った後に。「どうやら、君にずっと好意を抱いている」

「……」

石之助は黙った。

 大輝とシロは同時に石之助を見る。

 老人の返事は短かった。

「分かったよ」

「――。では失礼する」

夜々は一礼して廊下へと出て行った。

 足音が玄関へと遠ざかり、やがて、ドアの開閉する重い音がした。

 その間、三人はうつむいて黙っていた。

 掛け時計が重い時を刻む。

 口を開いたのは石之助だった。

「……畜生め」

小さな声だった。この部屋が静かでなかったら聞こえなかったかも知れない。

「下らねえジジイだ、わしは……」拳で口元を押さえる。「傍にいた女一人守れねえ……」

「無理も無いことじゃった。宮琵と名乗ったあの男、一介の石字縛師が相手に出来るような力量ではない」

シロが穏やかに言う。

 石之助は下を向いたまま苦笑った。

「何だ、わしを慰めてくれてんのか」

「そうかも知れぬ」

「――ありがとよ」溜息のように。「助けてくれた礼も今言っておくぜ」

「いらぬ。しろが勝手にしたことじゃ」

「……すまねえな」

石之助は立ち上がり、それ以上何も言わずに居間を後にし、階段を上って行った。

 残された大輝とシロ。

 大輝は、グラスに唇をあてたまま何か思案している様子のシロに、おずおずと声をかける。

「あの……シロさん」

「ん、何じゃ?」

我に返ったように目を合わせるシロ。

 大輝は――こんな時だというのに――シロの美しい瞳に動揺してわずかに視線を反らしつつ、小さく問う。

「宮琵って奴は……本当に、何が目的なんでしょう」

意味もなく膝の前で手を泳がせる。

「だって、俺たちの命を狙ってるにしても、そんなに強いなら、いきなり俺たちのことをまとめて殺そうとするのが普通ですよね」

言いながら、自分の言葉があまりに非日常的なことに、不気味なおかしさを覚える。

「それを、わざわざしゃくネエの力を目覚めさせたりして……」

「あやつの成さんとしておること――か」

シロはグラスを口から離す。

「それを今しろも考えておったところじゃ。確かにあやつの行いは滅裂で、求めておるものが皆目見えてこぬ」

グラスを揺らし、波打つ小さな水面を見つめる。

そして不意にそれを止め、ぽつりと、シロは呟いた。

「もしかすれば……あやつには、元より求めるものなど無いのやも知れん」

「え――?」

首を傾げる大輝に、シロは考え考えの様子で語る。

「あやつの眼差しからは何かが欠けておった。それがどうしたものなのか、しろには上手く言い表すことが出来んが、大輝や他の人間たちが眼に宿しておる当たり前のものが、全く抜け落ちておったような気がする。あれは――」

シロは顔を横を向け、外が暗いせいで鏡のようになっているガラス戸に視線を移す。

「あれはひょっとすると、大輝と出会う前のしろと、似たような瞳かも知れぬ」


 六


 階段を上り、ゆっくりと大輝の部屋のドアを開けると、ベッドに寝ていた小梅が目を開けた。

 石之助は驚いて歩み寄る。

「お前、気が付いたのか?」

「……」

小梅は視線だけを石之助に向けた。

 布団に隠れたその肉体は、目もあてられぬほどひどい状態である。外れた片腕を呪符で継ぎ、穴の開いた腹部と折れた首にも、石字文句を書き込んだ包帯が、まるで簀巻きのように巻きつけられている。

 小梅は傍らに膝をついた石之助に、かすれた声で問う。

「……ここ、どこ?」

「大輝の部屋だ。――回復はどうだ? まだ随分痛むか?」

「うん……」小梅は天井を見る。「首はそろそろ平気みたい……でも、お腹がまだ痛い」

「穴が開いてるんだ。血は止めてるが、治るには時間がかかる。ゆっくり寝てねえと――」

「……石之助、無事だったんだね」

「ああ。任氏が助けてくれた。大した怪我はしてねえよ」

「……。よかった……」

小梅は目を閉じる。

 石之助は思わず布団の上から肩を掴む。

「おい――おいこら、小梅!」

「……平気だよお」

小梅は薄目をあけて力なく微笑む。

「あたし化け物だもん。このくらいで死んだりしないってば……」

小さな鼻から息を吐き、それから、ほんのわずかに体を揺すった。

「ありゃ……でも、あたしグルグル巻きなんだね。……石之助が手当てしてくれたの?」

「お、おう」

「薬も塗ってくれた……? いつも持ち歩いてるやつ」

「おう、一応な」

「……。そのとき、あたしのおっぱい触ったりした?」

「はあ?」石之助は声を裏返す。「何言ってんだお前、こんな時に」

「あそこも見たでしょ」

「お前なあ――」

石之助は呆れて口を開ける。

 小梅は深く溜息をついた。

「……意識があればよかったかも」

「何か言ったか」

「別にい」

小梅は再び目を閉じる。

そして、ぽつりと言う。

「ねえ……石之助?」

「何だ」

「すっごいワガママ言っていいかな」

布団のわきから、無事だった左腕を出す。

「……手、握っててくれる?」

 それは相変わらずの小さな手だった。

 石之助はベッドの端に腰をかけ、黙ってその手を取って、皴だらけの両手で挟みこむように握った。

 小梅は目を閉じたまま微笑った。

「ありがと……」

そしてすぐ、寝息をたて始めた。

 石之助は静かに泣いた。



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